ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか
ヨハネ21・16
ペトロ/
ヨハネ21・15−19
食事が終ると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの子羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ぺトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ぺトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ぺトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP80
ペテロに言われた主の御言葉を提出しよう、そこには主は三度『シモン ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか』と言われたものの、彼は主に従わないで、ヨハネが主に従ったのである。これらの事柄が言われたのは、『ペテロ』によりここでは信仰のみの中にいる者らが意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味されているためである。ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らかである。(中略)
キリスト教徒は神的な人間的なもの[神の人間性]を殆ど考えることは出来ないし、認めることも出来ない(このことは多くの者の経験から示されることが出来よう)、なぜなら彼らは普通の人間を考えて、愛であるところの人間の本質については考えないからである。しかし他方、天使たちはそれ以外の方法で考えることは出来ないのであり、実に、理知的である異教徒もそれ以外の方法では考えることは出来ないのである。
黙示録講解820ロ[6]
主はペテロに向かって、ペテロが自分は主を愛していますと答えたとき、『あなたはわたしの子羊と羊とを飼わなくてはならない』と言われたことは、ペテロが主に対する愛の善から真理の中におり、または諸真理から教義の中にいる者たちを表象し、そうした者たちは他の者たちに教える者らであるためであったのであり、そのことについてはヨハネ伝に以下のように記されている―
彼らが朝食をとったとき、イエスはシモン ペテロに言われる、ヨナの子、シモンよ、あなたはこれらの者にまさってわたしを愛しますか。彼はイエスに言う、そうです、主よ、あなたはわたしがあなたを愛していることを知っておられます。イエスは彼に言われる、わたしの小羊を飼いなさい。イエスは再び彼に言われる、ヨナの子シモンよ、あなたはわたしを愛しますか。彼はイエスに言う、そうです、主よ、わたしがあなたを愛していることをあなたは知っておられます。イエスは彼に言われる、わたしの羊を飼いなさい。イエスは三度彼に言われる、ヨナの子シモンよ、あなたはわたしを愛しますか。ペテロはイエスがかれに三度も、あなたはわたしを愛しますか、と言われたために悲しんだ。彼はイエスに言う、主よ、あなたは凡ゆることを知っておられます、あなたはわたしがあなたを愛していることを知っておられます。イエスは彼に言われる、わたしの羊を飼いなさい(ヨハネ21・15−17)。
このことからペテロは主に対する愛の善から発した真理を表象したことは明白であり、このことがかれが今ヨナの子シモンと呼ばれた理由である、なぜなら『ヨナの子シモン』は仁慈から発した信仰を意味するからである、『シモン』は傾聴することと服従とを意味し、『ヨナ』は仁慈を意味する鳩を意味している。主に対する愛から真理の教義の中にいる者たちは、主の教会に属するであろう者たちに教えなくてはならないことは『あなたはわたしを愛しますか』と主が尋ねられたことにより、後に『わたしの子羊を飼いなさい』と『わたしの羊を飼いなさい』と尋ねられたこととにより意味されている。ペテロのみが教えるのではなく、ペテロにより表象された者が凡て、すでに言ったように、主に対する愛の中におり、そこから主から諸真理の中にいる者が凡て教えるのである。ペテロが三度尋ねられたのは教会の十分な時を、すなわち、その初まりからその終りに至る時を意味するためである、なぜならそのことが『三』の意義であるからであり、それで彼は三度尋ねられたとき、『ペテロは悲しんだ』と言われている。
黙示録講解820ロ[7]
そして第三のたずねたことは教会の終わりを意味したため、それでヨハネ伝にはペテロに対する主の以下の御言葉はすぐ後についている―
まことに、まことにわたしはあなたに言います、あなたは今よりは若かったときは、自分自身に帯をしめ、自分が欲した所を歩きました、しかしあなたが老いるとき、あなたはあなたの手をのばし、他の者があなたに帯をしめ、あなたが欲しない所にあなたを連れて行くでしょう。そしてイエスはこのように話されたとき、かれに言われる、わたしに従って来なさい、と。するとペテロは向きを変えて、イエスが愛された弟子が後についているのを見る、その弟子はまた夕食のさいイエスの御胸によりかかったのである。ペテロはかれを見て、イエスに言う、主よ、ですが、この人についてはいかがでしょう。イエスはかれに言われる、もしわたしがわたしの来るまで彼がとどまることを望むにしても、それはあなたには何ですか。あなたはわたしに従いなさい。それでかの弟子は死にはしないと、この言われたことが兄弟たちの間にひろまった。それでもイエスは彼は死にはしないと彼に言われたのではなく、もしわたしが来るまで彼がとどまることを欲するにしても、それはあなたには何ですか、と言われたのである(ヨハネ21・18−23)。
この凡てのことが意味していることをたれ一人、『ペテロ』は仁慈から発している信仰を意味しており、また仁慈を欠いた信仰を意味しており、教会の初期における教会内の仁慈から発している信仰を、教会がその終わりに至るときの仁慈を欠いた信仰を知らない限り、知ることは出来ないのであり、かくて『さらに若かったときのペテロ』は教会の初期におけるその信仰を意味し、『年とったときのペテロ』は終わりに至った教会の信仰を意味し、『自分自身が帯をしめて歩くこと』は諸真理を学んで、それに従って生きることを意味している。このことから以下のことが明白である、すなわち、『わたしはあなたに言います、あなたはさらに若かったときは自分自身が帯をしめ、あなたが欲した所を歩きました』は、教会はその初期においては善から発している諸真理を教えられ、それらにより主により導かれるであろう、を意味し、『あなたが老いるときはあなたはあなたの手をのばし、他の者があなたの帯をしめ、あなたの欲しない所にあなたを連れて行くでしょう』は、教会のその終わりにあっては諸真理を知ろうとはしないで、仁慈を欠いた信仰に属している誤謬を知ろうと欲し、その誤謬により導かれるであろう、を意味し、『自分自身が帯をしめること』は『着物を着ること』と同じく諸真理を教えられることを意味しているのは、『着物[上着]』は善の上着となる真理を意味しているためであり(前の195、395、637番)、『歩くこと』は真理に従って生きることを意味し(前の97番を参照)、従って『自分自身が帯をしめ、自分が欲する所を歩むこと』は自由に考察し、諸真理を認めそれらを行うことを意味するに反し、『手をのばすこと』はそうした自由の中にいないことを意味している、なぜなら『手』は真理を理解し、認識することから発する真理の力を意味し、『手をのばすこと』はそうした力を持たないことを意味し、かくて真理を考え、認める自由も持たないことを意味するからである。『他の者があなたに帯をしめ、あなたが欲しない所にあなたを連れて行く』は、現今信仰のみの宗教のもとで行われているように、他の者が指示するものを、自分自身では認めないものを真理として承認することを意味している。この信仰が今『ペテロ』により意味されているものであり、それ故ペテロは振返って、イエスが愛された弟子が後から来るのを見て、その者について『この人はについては何と言われますか』と言っており、同じくペテロに対し、『それがあなたにとって何ですか』と言われたと言われている。『イエスの後からついて行く弟子』は、善い業である生命の善を意味し、これらの善は生命の終わりに至るまで死滅しないことはここに以下に言われている言葉によって意味されている。
黙示録講解820ロ[7]
このことから今や、『ペテロ』はまた仁慈から分離した信仰を意味していることが認め得られよう、そのことはまた以下の時と同じでる―
ペテロは三度主を否定したのである(マタイ26・69−75、マルコ14・29−31、54、66−72、ルカ22・33、34、50、51、55−62、ヨハネ13・36−38、18・16−18、25−27)。
また主は、ペテロから身をそむけられて、かれに言われた、シモンよ、わたしの後にさがりなさい、あなたはわたしにとりつまづきの石である[わたしをつまづかせるものである]、あなたは神に属している事柄を考えないで、人間に属している事柄を考えている(マタイ16・21−23)。
また主はかれに言われた、シモン、シモン、見よ、悪鬼はあなたを小麦のようにふるいにかけるように要求した(ルカ22・31)。
凡てこれらの事柄を引用したのは、『ペテロ』はその表象的な意味においては福音書においては主から発している善から発した真理を意味し、またその反対の意味においては、それ自身においては誤謬であるところの、善から分離した真理を意味していることを知らせるためである。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P174
デボラ:「覚えています。福音書の中で、あなたは何回もペトロに、あなたを非常に愛しているかどうかとお聞きになったことを読んだと思います。彼はそれで悲しくなりました」
イエズス:「私の憐れみの中で、私は彼を、昔の彼の否定から自由にしてやりたかったのだ!
三回否定したので、私は愛されることを三回望んだのだった。」