太陽

 

 

 

 

1.太陽

2.陽は暗くなった

3.陽が昇る・・・再生

4.主は天界で陽としても、月としても現れておられる

5.天的な人間の意志の部分は小さな太陽

6.父なる神は太陽であり、これに近づけば人間は焼き尽くされてしまう

7.太陽の性質を持っていない限り、太陽の火の中へ入れられても、死滅しないものが在り得ようか

8.太陽は登り、太陽は沈む・・・真理の外観

9.太陽礼拝

10.聖霊が発出する

11.日光消毒

12.陽は沈みつつあった

13.太陽を浴びる

14.ルイザ・ピッカレータ

15.アグレダのマリア

16.光は太陽の中には無くて、太陽から発している

17.神的善それ自体〔神そのもの〕

18.主は単に霊的なもののみでなく自然的なものにも影響を与えるために、自然界に太陽を創造し、これを地が母に似る如く、父に似させ給うた

19.霊界の太陽は神自身であると考えないように警戒されよ。神自体は人間である

 

 

 

 

1.太陽

 

 

天界の秘義32

 

愛。

 

 

 

天界の秘義1053

 

主。

 

天界には天的な光も霊的な光も存在している。天的な光は―たとえて言うなら―太陽の光のようなものであり、霊的な光は月の光のようなものであるが、しかしその光を受ける天使の状態に応じた変化を帯びている。色彩もそれが光から発しているため、同様である。主御自身は天的な天使たちの天界には太陽であられ、霊的な天界には月であられる。これらのことは霊魂が死後送る生活について何らの概念[考え]も持たない者たちには信じられないであろうが、しかし極めて真実である。

 

 

 

天界の秘義3704

 

主の神的善は「父」と呼ばれ、その神的真理は「子」と呼ばれているが、しかし、主の神的なものは善以外の何ものでもなく、実に善それ自体であり、神的真理は天界に、即ち、天使たちの前に、そのように[神的真理として]現れている主の神的善である。この間の実情は太陽の場合と同一である。即ち、太陽それ自体はその本質では火以外の何ものでもなく、そこから見られる光は太陽の中には存在しないで、太陽から発しているのである。(主は神的善の方面では太陽により表象され、また他生では主は天界全体に対しては太陽であられることは、前の1053、1521、1529−1531、2495、3636、3643番に見ることが出来よう、主は神的真理の方面では光により表象され、また他生では天界全体に対しては光であられることについては、1053、1521、1529、1530、2776、3138、3195、3222、3223、3339、3341、3636、3643番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義3704〔2〕

 

 かくて主はその本質では神的善以外の何ものでもなく、しかもそれは神的なものそれ自身にも神的な人間的なものにも言われるが、しかし神的真理は神的善には存在しないで、神的善から発しているのである。なぜなら前に言ったように神的善は天界にはそのように現れているからである。そして神的善は神的真理として現れているため、それで人間に把握されるために、主の神的なものは神的善と神的真理とに区別されており、神的善は「父」と呼ばれるものであり、神的真理は「子」と呼ばれるものである。このことが主御自身がその父について自分とは明確に区別されるものとして恰も御自身とは別のものであるかのように再三語られつつも、他の所では父は御自身と一つのものであると主張されているという事実に隠れているアルカナである。(内意では『父』は善を意味し、その最高の意義では神的善の方面の主を意味していることは、前の3703番に示されたところであり、また『子』は真理を意味し、『神の子』と『人の子』は神的真理の方面の主を意味しているのである、1729、1730、2159、2803、2813番)。そしてそのことは主がその『父』のことを言われて、御自身を、『子』と呼ばれている凡ての記事からも明白である。

 

 

 

天界の秘義5704[2]

 

 諸真理を秩序づけるものは善であることは諸天界における秩序から明白である。そこでは凡ゆる社会は主から発しているところの善の下に諸真理に従って秩序づけられているのである、なぜなら主は神的な善以外の何ものでもなく、神的な真理は主の中にはなくて、主から発しており、神的な善の下のこの神的真理に従って諸天界の凡ての社会は秩序づけられているからである。主は神的な善以外の何ものでもなく、神的な真理は主の中にはなくて、主から発出しており、神的な善の下のこの神的真理に従って諸天界の凡ての社会は秩序づけられているからである。主は神的な善以外の何ものでもなく、神的な真理は主の中にはなくて、主から発出していることは世の太陽と比較することにより説明することができよう。太陽は火以外の何ものでもなく、光はその中にはなうて、そこから発しており、同じく植物の形のような、世の光のものであるいくたの物は、春と夏の時に明白であるように、太陽の火から発出して、その光の中に在る熱により秩序づけられているのである。自然全体は主の王国を表象している劇場であるように、この普遍的なものもまたそれを表象しているのである。太陽は主を表象し、その火は主の神的な愛を、そこから発する熱はそこから流れ出る善を、光は信仰のものである諸真理を表象しており、それらは表象的なものであるため、それで聖言ではその霊的意義では『太陽』により主が意味され(1053、1521、1529−1531、3636、3643、4321、5097、5377番を参照)、『火』により愛が意味され(934、4906、5071、5215番)、かくて太陽の火は表象的には神的な愛であり、そこから発している熱は神的な愛から発している善である。(光は真理を表象していることは前に見ることができよう、2776、3138、3190、3195、3222、3339、3636、3643、3862、3993、4302、4409、4413、4415、4526、5219、5400番)。

 

 

 

真の基督教365(2)

 

上述したように、太陽としての主から放射する神的愛は、天使には熱として感ぜられ、神的智恵は光として見られる。浅薄に考える者は、この熱と光とはこの世の熱と光との含有する以上のものを何等含有しないと想像するかもしれないが、しかし、太陽としての主から発する熱と光とは、主の凡ゆる無限を含有している。熱は彼の愛の凡ゆる無限を、光は彼の智恵の凡ゆる無限を含有し、かくてまた、仁慈の凡ゆる善と信仰の凡ゆる真理とを無限に含有している。これは霊的太陽がその熱と光とをもって至る所に臨在する故である。それは主の最も近い所を囲繞(いじょう、いにょう)し、主の神的愛と智恵とから発出するスフィアである。なぜなら、繰り返し上述したように、主はこの太陽の最中に在し給うからである。今や人間をしてこの遍在の主から仁慈の凡ゆる善と、信仰の凡ゆる真理とを受け入れさせる物が一つとして欠けていないことが明白である。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国2.P10

 

それにしても私は口ごもって、何も言うことができません。それでもなんとか人間の言語を用いてもう少しよく説明するならば、この天地に私たちが目にするものはすべて、神の影なのです。なぜなら神は宇宙にご自身の美しさの影を映されたからです。香しさ、または太陽のような光を。太陽には特に神の特別な影があります。太陽はこの自然界の中の他のすべての惑星の王なのです。太陽とは何かしら? それは一つの炎の球なのでしょう。球は一つなのに光線は無数にあります。球が王様なら、その光線はすべて神様のものなのです。

 

 太陽は炎で、同時に光と熱なのです。聖三位一体は、太陽に例えられます。炎は父、光は子、熱は聖霊。太陽は一つなのに。炎から光と熱を切り離せないように、父と子と聖霊の力は一体で、分けられません。(中略)ああ、神の本質はなんと巧みに太陽になぞらえられるのでしょう。

 

 

 

天界の秘義4060

 

「陽は暗くなり、月はその光を放たないであろう」(マタイ24・29)

 

は、『陽(太陽)』であるところの主への愛と、『月』であるところの隣人に対する仁慈を意味している。

 

『暗くなって、その光を放たないこと』は、それらが現れないで、かくて消え去ってしまうであろうということを意味している。

 

「星は天から落ちるであろう」(マタイ同)

 

は、善と真理の幾多の知識は死滅するであろうということを意味している。

 

 

 

真の基督教691

 

若し、その太陽の最中に在す神が天使達に近づき給うならば、ちょうど我々の太陽が我々の近くに来ると我々は死滅するように、彼らも死滅するであろう。この理由からその愛の燃える熱により、天使達は焼き尽くされないように、それは絶えず和らげられ、調節されている。

 

 

 

アタナシウス信条についてP74

 

なぜなら天使は、人間が太陽の火が間近に現存することに堪えることができないように、神的愛[神の愛]の現存に堪えることができないからである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P14

 

 土ぼこり、すなわち汚れた人間性、太陽すなわち傲慢。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P41

 

罪を犯してからのアダムのように、ひたすら恐れおののいて神から逃げてはいけない。むしろ神は愛であると思い出しなさい。神は人間を見渡しておられるが、それは破滅させるためではない。太陽の光が自然界を慰めるように、神は絶えず愛をもって人間を眺めておられる。それは人間を照らすものであって矢を射るように刺し通すものではありません。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P67

 

熱心者のシモン:「もちろんです。これからも深く考えていきたい。私は自分がいかに愚かであるかを強く自覚して卑下しています。神は私たちを子供と見なすために、ご自分に似た者となるように望まれている。神がいかに偉大か、少しは分かったつもりです。私の心に注がれるあなたのすべての光によって、神の完璧な多彩さが次第に浮き彫りにされてきます。私は知らない土地を一歩一歩進んでいく人のように、私たちを“子”と呼びたい偉大なかの完全さの認識を深めていって、空翔ける鷲のようにまた深海を泳ぐ魚のように自由にかけめぐったのに、その境に触れることがありません。神とは、何なのでしょうか」

 

主:「神とは、決して届かない完全、完璧な美、限りない力、理解を超えるもの! 神とは、決して超えられない善、壊せないあわれみ、はかり知れない上智。神は神となった愛、神は愛、愛そのもの。神の完全を知れば知るほど曇りない空を翔け上り、限りない深淵に身を投じたようと言うが・・・。神となった愛とは何かを知れば、おまえは空や海でなく、炎の渦巻に巻き込まれ、死と命とからなる幸福に吸い寄せられます。神を全く所有するとは、自分の意志で理解するに値する恵みを与えられるということです。その時に、神の完全さで全き一致をすることができます」

 

「主よ!」

 

シモンは完全に圧倒されて沈黙が続く。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P67

 

 天国では、信徳と望徳とはなくなります。天国では、私共の理性に暗くたれこめている霧は消え去るからです。知恵は、この世で隠されていた事柄を知るでしょう。すべてがあるのですから、もう何も希望しなくなります。宝を持てばそれ以外のものを獲得しようと、望みません・・・だから愛徳は、ああ、私共は愛に酔いしれるでしょう。神様の愛の太陽の中に、溺れ沈み、イエス様のこの広大な愛の中に溶け込んでしまうでしょう・・愛は、この世ながらの天国の味わいです。もし、愛を悟り、感じ、味わうことができるならば、どんなに幸福になることでしょう。それなのに、人々は神様を愛しないのです。

 

 

 

ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」P75

 

 ある日、主のみ前に座っていたときにいただいた教えについて分かち合いたいと思います。私は、ただ御聖体を見つめて、イエスを崇め、愛していますと申し上げる以外、特にお話しすることはないと言っていました。

 私は主が、「わたしに何も言う必要がないことを知らなかったのですか? ただ一緒に居てくれればいいのです。わたしの現存の中に入ってください。あなたがわたしのために何をするかではなく、わたしがあなたにしてあげたいのです」とおっしゃったかのように感じました。

そのとき私は、ある人が家から外に出て、太陽のあたる所に座っているイメージを見ました。日光にあたりながら、彼は何もしませんでしたが、皮膚の色が変わり始めました。彼を見る人は、皮膚の色を見ただけで、彼が太陽にあたっていたことがわかります。その人も太陽の効果である暖かさと光を感じるので、そのことが分かるのです。

 主が、「あなたがわたしの所に来るとそうなります。わたしと共に過ごした時間の効果を体験するでしょう。人はあなたの活動でそれがわかるでしょう」とおっしゃるのを聞きました。

 それは私にとって素晴らしい教えでした。いつも何かを話している必要はなく、ただそこにイエスと共にいればいいのです。

 

 

 

 

2.陽は暗くなった

 

 

天界の秘義2441

 

自己への愛と世への愛のいくたの悪の中にいる者らには、すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈のあらゆるものに対する憎悪の中にいる者らには、天界の光は実際暗闇として現れており、それで聖言には陽は暗くなったと言われていて、そのことにより彼らは愛と仁慈のあらゆるものを斥けて、それに反したものをことごとく受けたことが意味されているのである。

 

 

 

 

3.陽が登る

 

 

天界の秘義4300

 

「陽は彼に登った」(創世記32・32)。これは善が連結することを意味していることは、『陽が登ること』の意義から明白であり、それは善が連結することである。『夜明けが近づくこと』により連結が切迫している、または始まりつつある時が意味されている(4283番を参照))。このことから『陽が登った』は連結そのものを意味していることが生まれている、なぜなら内意では『陽』は天的な愛を意味しており(1529、1530、2441、2495、3636、3643、4060番)、従ってそれは善を意味しているからである。なぜなら善はこの愛のものであるからである。天的な愛が人間のもとにそれ自身を明らかに示すとき(即ち、それが認められるとき)、陽は彼の上に『登る』と言われるのである。なぜならこの愛の諸善がそのとき彼と連結するからである。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国4巻P42

 

さて、太陽が昇ったということを確認させてくれるものは、夜の闇を追い払う光と、この光によって伝え広がる暖か味である。もし太陽が昇ったと言いながら、夜の濃い暗闇がるのを見、なんの暖かさも感じないとしたら、あなたはどう言うか?それは本当の太陽ではなく、偽の太陽である。なぜなら、太陽が施す効果が見られないからだ。それでは、私の姿を見るときに、暗黒があなたから逃げ失せ、真理の光が示され、私の恵みの温度を感じさせるというのに、どうしてあなたの中で働いているのが私ではないのではなどと、頭を振り絞るのか?

 

 

 

 

4.主は天界で陽としても、月としても現れておられる

 

 

天界の秘義1529

 

主は第三の天界の中では太陽として天的な天使たちに現れておられ、霊的な天使たちには月として現れておられることは顕著な事実である。

 

 

 

天界の秘義1531(天界の秘義/スウェーデンボルグ・1749年〜1756年執筆/61歳〜68歳)

 

 私は主が太陽として天的な天使たちに現れ、霊的な天使たちには月として現れ給うという真理を確認するため、私の内的な視覚は、主の神的な慈悲の下に私がその月が輝いているのをはっきりと見るほどにも開かれたのであるが、その月は多くの小さな星に囲まれていて、その光はイザヤ書の以下の言葉に応じて、殆ど太陽の光のように輝いていたのである―

 

 月の光は陽の光のようになるであろう(イザヤ30・26)。

 

 しかし太陽を見ることは私には許されなかった。月は前方の右手に現れたのである。

 

 

 

天界の秘義7173

 

水星の霊たちにかつて、その霊たちが主を見るに違いないという約束が為されたことを、或る霊たちは天界から知らされていたため、それで彼らは、あなたらはその約束を覚えているか、と私の周りにいる霊たちから尋ねられた。彼らは私たちはそれを覚えてはいるが、しかしその約束はそれについては些かの疑念をも抱いてはならぬほどの性質のものであるか、ないかは知らない、と言った。彼らがこのように話し合っていると、天界の太陽が彼らに現れた。(主である天界の太陽は最も内なる、または第三の天界の中にいる者たちによってのみ見られ、他の者たちは凡てそこから発している光を、また月を見るのである、1529−1531、4060番)。その太陽が見えると、彼らは、それは主なる神ではない、なぜなら私たちには顔は見えないから、と言った。その間その霊たちは共に話し合っていたが、しかしその言ったことは私には分からない。すると不意に太陽が再び現れ、その最中に主が太陽の環に囲まれて現れ給うた。これを見ると、水星の霊たちは深く自らを卑しうして、身をかがめた。その時またその太陽から主がこの地球の霊たちから見られたが、その霊たちは人間であった時、世で主を眺めた者たちであったのである、彼らは凡て次から次と、それで多くの者が順々に、それは主御自身であると告白し、しかもそのことをその場にいる者一同の前に告白したのである。その時またその太陽から主は木星の霊たちからも見られ給うたが、彼らは明白に以下のように言ったのである、宇宙の神が私たちの地球で私たちに現れ給うた時、私たちの見た方はその方御自身である、と。

 

 

神の愛と知恵131(神の愛と知恵/スウェーデンボルグ・1763年執筆/75歳)

 

 天使が主に向くのは、その身体を向ける度毎にその前に在る太陽としての主の方に向くというふうになっている。天使は自分自身をぐるぐる回して、周囲の色々な物を見ても、依然主は太陽として絶えず彼の顔の前に現れておられる、これは驚くべきことのように見えるが、しかもそれは真理である。主をこのように太陽として見まつることが私にもまた許されたのである。私は今や主を私の顔の前に見まつっており、数ヶ年世の如何ような方位に向いても、主をこのように見まつっている。

 

 

 

黙示録講解527

 

(主は天使たちには陽としても、月としても現れておられることについては「天界と地獄」116−125番を参照されたい)。

真理に対する霊的な情愛の中にいる諸天界は、即ち、真理をそれが真理であるために愛する諸天界は主を陽として見まつるのである。これは霊的なものであるため、それで陽としての主から発している光は霊的なものである。しかし真理に対する自然的な情愛の中にいる諸天界は、即ち、自分らが学問のある者となって、他の者に教えるために、真理を愛する諸天界は主を月として見まつるのである。これらの者は真理が自分たち自身に役立つために真理を愛して、真理それ自身のために愛しはしないのである、それで彼らは月として主から発出している光の中にいるのである。この光は陽として主から発出する光とは、太陽から発する昼の光が私たちの世界で月と星から発する夜の光から異なっているようにも異なっており、彼らのもとでは光が異なっていると同様に真理も異なっているのは、主から発出している神的真理は諸天界における凡ゆる光を生み出しているためである(「天界と地獄」、126−140番を参照)。

 

 

 

黙示録講解527 []

 

それゆえ、霊的な光の中にいる者たちは純粋な真理の中におり、また彼らは前に知ったこともなかった諸真理を聞くとき、すぐにもそれらを承認して、それらが真理であることを承認するのである。自然的な光の中にいる者たちは異なっている。そうした者たちは諸真理を聞くとき、それらを受け入れはするが、それは彼らがそれらを見るためではなく、または認めるためではなくて、彼らが信頼している有名な人によりそれらが話されるためであり、それゆえ、そうした者たちの大半の者たちの信仰は他の者たちから発してはいるものの、それでも彼らは信仰に従った生命の中にいるのである。この諸天界の中へ、良く生きはした者たちが凡て、たとえ彼らは教義の誤謬の中にいるにしても、入ってくるのであるが、それでも誤謬は絶えずそこで清められ、遂にはその誤謬は真理として現れるのである。

 

 

 

天界と地獄119

 

主は天界では太陽として見られたもうことはまた主がペテロ、ヤコブ、ヨハネの前で御形を変えられたさいのその御姿からも明白である。すなわち、「その御顔は陽のように輝いた」のである(マタイ17・2)。主は、弟子たちがその身体から引き出されて、天界の光りの中におかれたとき、その弟子たちからそのように見られたもうたのである。表象的な教会が存在していた古代人が神を礼拝したとき、顔を東の太陽に向けたのはこの理由からであり、神殿が東向きに建てられたのもこのためであった。

 

 

 

天界と地獄118(天界と地獄/スウェーデンボルグ・1758年執筆/70歳)

 

 主は実際天界に太陽として見られ給うことは、天使から私は話されたのみでなく、また時折見ることも許されたのである。それで私が太陽としての主につき聞いたり、見たりしたことをここに簡単に記してみよう。主は太陽として見られ給うが、それは天界の中ではなくて、諸天界の上であり、頭の真上、または天頂ではなくて、天使たちの顔の前の、中程の高さの所であって、明確に区別される二つの所であり、即ち、一つは右の眼の前の、他は左の眼の前の、非常に遠方の所である。右の眼の前には主は全く太陽のように、世の太陽のような光輝と大きさをもって現れておられる。しかし左の眼の前では主は、太陽としてではなく、月として、我々の地球の月のような大きさと白さをもって、しかしそれよりはさらに輝きつつ、また同じように白くて輝いた、幾多の小さな月のようなものに囲まれて現れておられる。主はこうした相違をもって二つの所に見られ給うのは、主は各々の者に受け入れられるままに、その者により見られるからであって、かくて主を愛の善をもって受ける者たちにより、主は太陽として見られ、それはその受け入れ方に従って火のように、焔のように燃えている。これらの者は主の天的王国にいる。しかし主を信仰の善をもって受ける者によっては、主は月として見られ、それはその受け入れ方に従って、白く、照っている。これらの者は主の霊的王国にいる。その理由は愛の善は火に相応し、ここから火は霊的意義では愛であり、信仰の善は光に相応し、光りもまた霊的意義では信仰であるということである。主は眼の前に現れられるのは、心に属する内部は眼を通して見、愛の善からは右の目を通して見、信仰の善からは左の目を通して見るからである。なぜなら天使、また人間における右の物は凡て真理を生む善に相応し、左の凡ては善から発する真理に相応するからである。信仰の善はその本質では善から発する真理である。

 

 

 

 

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P138

 

この星のように、霊魂は愛の犠牲の秘跡から受けた光につつまれて、ヨザファトの谷間(ヨエル4−2、12)での公審判の日には、正義の永遠の太陽イエス・キリストがお現れになる前に各々の霊魂は他の全ての霊魂の観察者となり、他の人びとが有するあの聖なる犠牲と愛の秘跡から受けた光がどのくらいかを見ることができるでしょう。正義の永遠の太陽である審判官としてイエスがその限りない光につつまれてお現れになる時、主に応える霊魂を星のようにご自分のうちに吸収なさり、彼らを神の完全性という広大な海の中に浮遊させることによって、常にご自身の中に存在することをお許しになることでしょう。

 

 

 

 

5.天的な人間の意志の部分は小さな太陽

 

 

天界の秘義1043

 

天的な人間の意志の部分は小さな太陽に似ており・・・

 

 

 

天界と地獄348

 

 彼らが陽のように輝くのは、彼らは主から主に対する愛にいるためであり、その愛が、前に見ることが出来るように(116−125)、陽により意味されているのである。彼らの光もまた焔の光であり、その思考の諸観念もまた焔のようなものを帯びているのは、彼らは天界の太陽としての主から直接に愛の善を受けているためである。

 

 

 

 

6.父なる神は太陽であり、これに近づけば人間は焼き尽くされてしまう

 

 

真の基督教135

 

父なる神には何人も近づく事は出来ず、また彼は無限であり、エホバなる彼自身の中に住み給う故、自ら如何なる人間の許にも来り給うことは出来ません、もし彼が自らの存在のまま人間に近付き給うならば、丁度火が木を焼き尽くしてこれを灰とするように、人間を焼き尽くしてしまうでしょう。

(中略)

 

さて、父なる神は彼自らにおいてはこの様な性質をもち給う故、人間性を取り、この人間性によって人間を彼自らに受け入れ、かくして人間と語ることを欲し給いました。神の子と呼ばれ、調停し、執成し、宥め、償う所のものはこの人間性であります。

 

 

 

天界の秘義6849

 

神的なものそれ自身は純粋な愛であり、純粋な愛はこの世界の太陽の火よりも更に熾烈なものである、それでもし神的愛が仮にもその純粋なままに天使、霊、または人間に流れ入るとするなら、彼は全く死滅してしまうのである。そこからエホバまたは主は聖言では『焼き尽くす火』と呼ばれ給うているのである。それで天界の諸天使は太陽としての主から発している熱の流入により害されないように、その各々の者はある希薄な、適当な雲により覆われており、その雲によりかの太陽から流れ入る熱は緩和されているのである。

 

 

 

 

7.太陽の性質を持っていない限り、太陽の火の中へ入れられても、死滅しないものが在り得ようか

 

 

天界の秘義6849〔5〕

 

 神的なものそのものの臨在〔現存〕は、いかような天使も雲により守られない限り、それに堪えることの出来ない性質を持っており、その雲がその太陽の光線と熱とを和らげ、調節しているという事実から、主の人間的なものは神的なものであるということが極めて明白である、なぜならもしそれが神的なものでない限り、ヨハネ伝14・10、その他の主の御言葉に従って、それは『父』と呼ばれている神的なものそれ自身と結合して、二つのものは一つのものとなることは決してありえないからである。なぜなら神的なものをそのように受けるものは必然的に全く神的なものでなくてはならず、神的なものでないものはそうした結合によっては全く消滅してしまうからである。譬えて言うなら、太陽の性質を持っていない限り、太陽の火の中へ入れられても、死滅しないものが在り得ようか。同じように、無限の愛の灼熱の中に入れられる者は、そのような愛の灼熱の中にいる者以外にありえようか。従って主以外にはありえようか。父は主の中におられ、また父は主の神的な人間的なものの中に現れ給わなくては(何処にも)現れ給わないことはヨハネ伝の主の御言葉から明白である―

 

これまでたれ一人神を見ていない、父の胸の中におられる独り児の御子、かれのみがかれを示された(ヨハネ1・18)。

 

あなたらはかれの御声をこれまで聞いたこともなく、またその御形を見たこともない(ヨハネ5・37)。

 

 

 

 

8.太陽は登り、太陽は沈む・・・真理の外観

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教257

 

聖言の文字的な意義における他の多くの物は、中に純粋な真理を隠しているところの真理の外観である。このような外観に従って単純に語りまた考えることは有害ではないが、その外観を確認することは有害である。何故ならその中に隠されている神的真理がこの確認によって破壊されるからである。これは自然から取られた例によって説明することが出来よう。我々がこれを引用するのは自然的な説明は霊的な説明よりも更に心を照示し、且つ教えるからである。

太陽は眼で見ただけでは、地球の周囲を日毎に年毎に回転しており、それ故、太陽は登り没する、これによって朝、昼、夕、夜が生じ、また春、夏、秋、冬の四季が生じ、従って日と年が生まれると、我々は語っている。(中略)太陽が動くというのは外面的な真理であるが、それは動かないということが純粋な真理である。にも拘らず、凡ゆる者は外面的な真理に従い、太陽は登り、没すると語るのである。そして彼はかく語ることを殆ど避けることが出来ず、頑固にこのような表現の仕方に従って考えることは理性を鈍らせ、暗ませるのである。

 

 

 

 

9.太陽礼拝

 

 

神の愛と知恵157

 

太陽礼拝は、あらゆる種類の神礼拝の中でも最低のもの

 

 

 

 

10.聖霊が発出する

 

 

神の愛と知恵146

 

主が太陽として現れておられるのが分かれば、聖霊と呼ばれている「発出する神性」について、正しい考えをもつことができる。

 

 

 

 

11.日光消毒

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・9・1

 

 わたしの子よ、あなたがもしほんとうに幸福でありたいとねがうならば、わたしをあなたの最高最終の目的としなければならぬ。

 あなたの心はしばしば自分と被造物とに傾き、それによって汚れがちであるが、その心も、かようにわたしに向けることによって、浄められるだろう。

 なんとなれば、なにごとかについて、自分のためを計ると、たちまち[善を行うのが]大儀になり、おもしろくなくなってしまうからである。

 ゆえにあなたはいっさいをその本源なるわたしに帰するがよい、わたしこそはいっさいの与えぬしだからである。

 万物はことごとく最高の善から流れ出たものであると思い、それゆえに万物をその本源なるわたしに帰せよ。

 

 

 

 

12.陽は沈みつつあった

 

 

天界の秘義1837

 

 「陽は沈みつつあった」。これは終結[完結、終末]以前の時と状態とを意味していることは『陽』の意義から明白である。内意では『陽』は主を意味し、そこからそれは愛と仁慈とに属している天的なものを意味し、したがって(前の30−38番と1053番に語った)愛そのものと仁慈とを意味している。ここから『陽が沈むこと』はそのときもはやいかような仁慈も存在していないところの終結[終末、完結]と呼ばれている教会の最後のときを意味していることは明白である。主の教会もまた一日の時間に譬えられており、その最初の期間は陽が登ることに、または暁と朝に、その最後の期間は陽が沈むことに、または夕暮とそのとき立ち込めてくる暗がりとに譬えられている、なぜならその二つのものは同じような情況におかれているからである。教会はまた一年の時に譬えられ、その最初の期間は凡ゆるものが花開く春に、最後の期間以前の期間は凡ゆるものが活動しなくなりはじめる秋に譬えられている。それは金属にすら譬えられており、その最初の期間は黄金時代と呼ばれ、その最後は鉄と泥の時代と呼ばれていて、ダニエル書にはそのように呼ばれている(2・31−33)。このすべてから『陽が沈むこと』により意味されていることが明白であり、即ち、それは太陽が未だ沈んで了っていないからには、終末以前の時と状態とを意味していることが明白である。以下の記事には陽の沈んでしまったときの教会の状態が取り扱われているのである、即ち、そのとき、暗闇と炉の煙りが立ち込めて、火の松明がその裂かれた片の間を過ぎたことが取り扱われているのである。

 

 

 

 

13.太陽を浴びる

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P150

 

ちょうど私たちが昼間の明るい太陽にさらされる時、その光線を浴びるだけでなく、またそれによって暖められます。神という永遠の御前にいる天国の天使や聖人がたは、ちょうどこのような状態にあるのです。彼らは永遠の光にこのような方法で照らされるわけですが、ただ次ぎのような違いがあります。神がご自分のうちに有するもの全ては、生来本質的にご自身のものであり、本質的に永遠です。ところが天使的な霊や至福者たちは、それぞれの能力に従って限られた量のものを、神の恩恵にあずかることによって有しているという点です。神は無限で、被造物ではない御方、永遠の太陽でいらっしゃるので、ご自分はなにも失うことなくご自身の全てを与えることがおできになります。いっぽう被造物はその全てにあずかることを許されてこの永遠の太陽に似たものとなりますが、太陽の大きさと分量のほんのごく少量の分のみが与えられるのです。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P100

‘94・5・20

 

あなたに平安。 私なしには この世と同じ生き方をしてしまう、私がともにいるなら 天国にいるかのように生きる。 私なしには あなたの特徴はこの世的になるが、ともにいるなら 私の特徴をおびる。 私のうちにとどまっていなさい。 私に根をおろし、受けた賜は 決しておろそかにしなように、私を第一におき あなたの時間を与えてほしい。 花は 育て主の水を拒むだろうか? あなたとて 同じ。 そのいのちを保たせている、うちなる生ける水 我が霊を 拒んだりおろそかにはしないように。 あなたは祝福を得ている それ故祝福があると感じなさい。 二人(*)を祝福する。

 *この黙想会でご一緒のマイケル・オーキャロル神父のこと。

 

 

 

 

14.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P138

 

この星のように、霊魂は愛の犠牲の秘跡から受けた光につつまれて、ヨザファトの谷間(ヨエル4−2、12)での公審判の日には、正義の永遠の太陽イエス・キリストがお現れになる前に各々の霊魂は他の全ての霊魂の観察者となり、他の人びとが有するあの聖なる犠牲と愛の秘跡から受けた光がどのくらいかを見ることができるでしょう。正義の永遠の太陽である審判官としてイエスがその限りない光につつまれてお現れになる時、主に応える霊魂を星のようにご自分のうちに吸収なさり、彼らを神の完全性という広大な海の中に浮遊させることによって、常にご自身の中に存在することをお許しになることでしょう。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P150

 

ちょうど私たちが昼間の明るい太陽にさらされる時、その光線を浴びるだけでなく、またそれによって暖められます。神という永遠の御前にいる天国の天使や聖人がたは、ちょうどこのような状態にあるのです。彼らは永遠の光にこのような方法で照らされるわけですが、ただ次ぎのような違いがあります。神がご自分のうちに有するもの全ては、生来本質的にご自身のものであり、本質的に永遠です。ところが天使的な霊や至福者たちは、それぞれの能力に従って限られた量のものを、神の恩恵にあずかることによって有しているという点です。神は無限で、被造物ではない御方、永遠の太陽でいらっしゃるので、ご自分はなにも失うことなくご自身の全てを与えることがおできになります。いっぽう被造物はその全てにあずかることを許されてこの永遠の太陽に似たものとなりますが、太陽の大きさと分量のほんのごく少量の分のみが与えられるのです。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P10

 

それにしても私は口ごもって、何も言うことができません。それでもなんとか人間の言語を用いてもう少しよく説明するならば、この天地に私たちが目にするものはすべて、神の影なのです。なぜなら神は宇宙にご自身の美しさの影を映されたからです。香しさ、または太陽のような光を。太陽には特に神の特別な影があります。太陽はこの自然界の中の他のすべての惑星の王なのです。太陽とは何かしら? それは一つの炎の球なのでしょう。球は一つなのに光線は無数にあります。球が王様なら、その光線はすべて神様のものなのです。

 

 太陽は炎で、同時に光と熱なのです。聖三位一体は、太陽に例えられます。炎は父、光は子、熱は聖霊。太陽は一つなのに。炎から光と熱を切り離せないように、父と子と聖霊の力は一体で、分けられません。(中略)

ああ、神の本質はなんと巧みに太陽になぞらえられるのでしょう。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P73

 

「いかに人々が恩知らずであるかを見てみなさい! 太陽の光は地上を満たし、その光の恩恵を満喫しない場所はなく、その影響による恵みがない、と言って嘆くことができる人もいない。太陽は、全ての人々に光を与えることができるように宇宙全体を照らし、一人ひとりの人間を、あたかもその手の中にいるように世話する。光を楽しむことができないと嘆くことができるのは、その手から逃げて、暗黒の中に自分を隠す人のみである。しかしその場合でも、太陽はその愛の役割を果たし続け、その指の間から光の一筋を送る。私の恵みは、貧しい人、金持ち、無知な人、博識な人、キリスト信者そして異邦人たちなど、あらゆる人々を照らす太陽のイメージにたとえることができる。真理の光と私の恵みの作用は、日中の太陽と同じように地上を満たしているので、誰もそれに欠けると言うことはできない。しかしこの光に目を閉じたまま行き過ぎ、私の恩恵にたいして自分の邪悪性という有害な流れによって対抗する人々を見て感じる私の苦痛は大きい。ゆえに人々はこの光から出て、意識的に、冷酷な敵の真中で、闇につつまれた場所で生きてゆくことになるのだ。彼らは何千という危険にさらされているが、光を有していないので、はたして友達の中か、それとも敵の中にいるのかをはっきりと理解することができず、自分たちを取りかこんでいる意見から逃げることもできないでいる。

 それは、知恵を有した太陽が、あたかも人間から、その光にたいする侮辱を受けるようなものである。ある人々は、太陽の光に苛立ち、その明るさを見ないため、または暗闇の中で生きることに確信を持つあまりに、自分の目をくりぬくほどの忘恩にまで到達する。この場合太陽は、光を放つかわりに、嘆きと苦痛の涙を送り、自然界全体を転倒させることもできるだろう。人間は、もし自然の光明に関することなら戦慄するようなことでも、私の恵みに抵抗するためならば、どんな過剰なことさえやり遂げるのである。

 いつも善意にあふれた私の恵みは、暗闇においても、人間の狂気の中にも存在し、絶え間なく微かな光のほのめきを送りつづける。なぜなら、私の恩恵は決して、誰一人放棄することはないからである。しかし意識的に恩恵から出る人は、たとえ恩恵がそのかすかな光をもって彼を追跡はしても、自分自身の中に恩恵を保つことにはならない。」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P214

 

我が娘よ、私は世界を光で満たす太陽である。ある霊魂のうちに私が存在するとき、その霊魂の中にもう一つの太陽が再生産される。そしてその光線を通して、生まれた太陽同士お互いに絶え間ない矢を送り合う。するとこの光の間に犠牲、卑しめ、反対、苦しみ、その他の雲が産み出される。もしこれらの光が本当のものであるならば、それは多くの力を有して、絶えず矢を送って、これらの雲の上に勝利をおさめ、雲を光に変える。ところがもしそれが見かけだおしの偽物であると、光の間に生み出される雲は、この光を闇に変える力を獲得することになる。

 これが、私であるか、それとも悪魔であるかを理解するためのもっとも確かなしるしである。人がこのしるしを受けた後その人は、闇ではなく光である真理を宣言するために、その生活を捧げることができる。

 

 

 

 

15.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P173

元后の御言葉

 

 いと高き神は、光をあらゆる人々に与えます。人々が自由意志を濫用し、この光を罪により遮らない限り、光は神を知り、天国に入るよう私たちを導きます。主の教会に入る者は、神をもっと良く知ります。洗礼の恩寵は必然的諸徳や自分の努力によって達成できない諸徳だけでなく、この世的な諸徳や修練により獲得できる諸徳も与えます。これらの諸徳は、神の聖なる律法を熱心に私たちが守るためです。信仰の光の他に、福音の神秘をより良く理解し、善業に励むための知識と徳も、主は他の人々に与えます。汝は他の多くの世代の人たちよりももっと恵まれていますから、主に対する愛と、塵にまで自分をへりくだらすことに於て、人一倍の努力をしなさい。

 

 

 

 

16.光は太陽の中には無くて、太陽から発している

 

 

天界の秘義8241

 

「エホバとその僕モーセ」。これは神的な善の方面の主と主から発出して仕える神的真理の方面との主を意味していることは以下の事実から明白である、即ち、聖言の『エホバ』により主が意味され(1343、1736、2921、3023、3035、5663、6281、6303、6945、6956番を参照)、実に神的な善〔神の善〕の方面の主が意味され(2586、2769、2807、2822、4402、6905番を参照)、モーセの表象は主から発出している神的な真理〔神の真理〕である(6752、7010、7014、7089、7382番)。『神的な善の方面と神的な真理の方面の』と言われているのは、神的な善は主の中に在り、神的な真理は主から発しているからであり、神的な善が神的な真理に対する関係は太陽の火がそこから発している光に対する関係に似ており、光は太陽の中には無くて、太陽から発しているのである。『僕』の意義は仕える者である。かれが奉仕するところの、かくて仕えるところの『僕』と呼ばれていることについては、7143番を参照されたい、そのため主は世におられた時は、その神的な人間性〔神の人間性〕の方面では、聖言に『僕』と呼ばれ給うているのである、3441番、なぜなら主御自身もまた以下のように言われているように、主はその時仕えられたからである、『たれでもあなたたちの間で偉大なものになりたい者はあなたらに仕える者とならなくてはならない。たれでも最初のものとなりたい者はあなたらの僕とならなくてはならない、まことに人の子も仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのであり、そのようにならなくてはならない』(マタイ20・26−28、マルコ10・43−45)。

 

 

 

 

17.神的善それ自体〔神そのもの〕

 

 

天界の秘義8328

 

「あなたが住まわれる場所」。これは主がおられる所を意味していることは以下から明白である、即ち『場所』の意義は状態であり(そのことについては、すぐ前の8325番を参照)、ここでは天界が意味されているため、神的なものから発している善の状態であり、『エホバの住居』または『あなたが住まわれる場所』の意義は、主がおられる所である(『住むこと』が善について述べられることについては、2712、3613番を参照、『エホバの住居』は善を意味し、従って天界を意味していることについては、8269、8309番を参照、主は聖言の『エホバ』であることについては、前の8261番を参照)。『天にいます御父』と再三言われているが、そのときには天界における神的なものが意味されており、かくて天界の存在の源泉である善が意味しているのである。神的なものはそれ自体において観察されるなら、諸天界の上に存在されているが、しかし諸天界における神的なものは神的なものから発出している真理の中に存在している善である。それが『諸天界における御父』により意味されているのである、例えばマタイ伝には―

 

 あなたたちが天にいます御父の子となるためである、天にいますあなたらの御父が完全であられるように、あなたたちも完全になるためである(マタイ5・45、48、6・1)。

 天にいますわたしたちの御父よ、あなたの御名が崇められますように(マタイ6・9)

 天にいます御父の意志を行う者(マタイ7・21)(またマタイ10・32、16・17、18・10、14、19)

 

諸天界の中に存在する神的なものは主から発出している神的真理の中に存在している善であるが、諸天界の上に存在する神的なものは神的善それ自体〔神そのもの〕である。『あなたが住まわれる場所』により主から発出している神的真理が存在している天界が意味されているのである。なぜならそれが天界を作っているからである。主から発出している神的真理の実情のいかようなものであるか、それは天界の中では善であることは、太陽と太陽から発している光とに比較することにより説明することが出来よう。太陽の中には火が在るが、しかし太陽からは光が発出しており、その光はそれ自身の中に熱を持っており、その熱から庭園は芽を出し、楽園のようになるのである。太陽の熱そのものが地球に到達しているのではなく(なぜならそうした時はそれは凡ゆる物を燃え上がらせ、焼き尽くしてしまうからである)、太陽の火から発している熱を内に持った光が到達しているのである。霊的な意義ではこの光が神的真理であり、熱は神的善から発した真理における善であり、そこから生まれてくる楽園が天界である。

 

 

 

18.主は単に霊的なもののみでなく自然的なものにも影響を与えるために、自然界に太陽を創造し、これを地が母に似る如く、父に似させ給うた

 

真の基督教308

 

主の教義をかき抱き、子供達がその両親に対するように、主に従い、自らを主に捧げ、主によって養われることを、すなわち教えられることを欲する凡ての者たちには、愛の神的な天界的なスフィアが絶えず主から発することが認められなくてはならない。この天界的なスフィアから、嬰児と小児達に対する愛のスフィアである自然的なスフィアが生まれ、これは普遍的なスフィアであって、単に人間のみでなく、鳥、獣、爬虫類も動かし、単に生物のみでなく無生物をも動かしている。しかし主は単に霊的なもののみでなく自然的なものにも影響を与えるために、自然界に太陽を創造し、これを地が母に似る如く、父に似させ給うた。何故なら、太陽は普遍的な父に、地は普遍的な母に似、両者の婚姻から地の面を飾る凡ゆる草木が発生するからである。自然界に注ぐかの天界的なスフィアの流入により、種子から果実に至り、かくて再び新しい種子に至る植物の驚嘆すべき成長が生じている。この理由から、多くの花は日が沈むまで日に向かって向きを変え、ある花は日が昇ると開き、日が沈むと再び閉じ、かくして、また朝、鳥は美しく囀り、さらに母なる大地から食物を得るとき囀り、このようにこれら凡てのものは、その父と母を敬っている。凡てこの事は、主は自然界の太陽と地とによって生物と無生物に必要な凡ゆるものを供え給うことを示している。

 

 

 

 

19.霊界の太陽は神自身であると考えないように警戒されよ。神自体は人間である

 

 

神の愛と知恵86

 

その太陽は主御自身ではなくて、主から発している。かの世界に太陽として現れるものは主から発する神的愛と神的知恵である。そして(第一部に示されたように)主の愛と知恵とは一つのものであるため、その太陽は神的愛であると言われる、なぜなら神的知恵は神的愛に属し、従って愛であるから。

 

 

 

神の愛と知恵97

 

 人各々霊界の太陽は神自身であると考えないように警戒されよ。神自体は人間である。神の愛と知恵から最初に発するものは、天使たちの前に太陽として現れるところのかの火のような霊的な[原質]である。それ故主が御自身を親しく(インパースン)天使に明示されるときは、御自身を人間として示され、これは時としてはその太陽の中に、また時としてはその太陽の外側に示されるのである。

 

 

 

20.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P201

 

わたしと父と聖霊は一つである。太陽には光と熱とがあるが、光は熱ではなく、熱は光ではない。別々の形をとって現われている。それでもこの二つが一つであるように、父からくるわたしも聖霊も、世に光と熱を与えている。洗礼の火である聖霊は、信じる者の胸の中であらゆる罪と汚れを焼き尽くして灰とし、彼らを導く聖なる者に変える。真の光であるわたしは、あらゆる闇と邪悪なる思いをかき消し、人々を義の道に引き入れ、ついには永遠の家に招き入れる。だが、太陽がただ一つであるように、われわれもまた三人ではなく一つである。