教義

1.教義

2.二つの主要な教義

3.最高の真理

4.教義は彼らを引き離しはしない

5.教義の目的はいかように生きなくてはならないかを教えること

6.教義が教会を作るのではなく、仁慈がそれを作る

7.十戒・・・教会の教義の最初のもの

8.『道』は教義を意味している

9.あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており

10.合理的なものからは信仰の教義は存在しない

11.霊的善に到達した者は他のものから来ている教義をもはや必要とはしない

12.教義は人間の思考と情愛に属している[人間の思考と情愛から生まれている]ような外観を着けなくてはならない

13.教義的なものの方面では色々と異なったものでないわけにはいかない

14.教義的な事柄がなくては教会は在り得ない

15.それが聖言の文字の意義から発している限り、否定されてはならない

16.主は教義そのもの

17.教義はいわば真理の具体化したようなもの

18.現今教会を構成しているものは教義であって、生命[生活]ではなく

19.教義的な事柄に信仰の名を与えているが、信仰の教義的な事柄またはその教義的な事柄の知識は何人も救うことはできない

20.仁慈の教義を斥けて信仰の教義をかき抱く理由

21.先ず教会の教義的な事柄が学ばれて、次にその教義的なものが真であるか否かを見るために、聖言を調べなくてはならない。

22.その教会を乱さないように注意しなくてはならない

23.信仰は記憶知により強められる

24.聖言は教義がなくては理解されない

25.教会の中にいる者はことごとく先ず教義的なものから信仰のものである諸真理を得る

26.新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何事も意味していない

27.純粋な真理の教義は主から天界を通して私たちのもとへ来るのであって、他のいかような源泉からも来ない

28.諸々の教義は主によって聖言から啓示された諸々の真理の連鎖

29.教会が再び設立されつつある時には、善と真理との教義的なものは一つに集められねばならない、なぜならそれらのものの上に教会は建てられるからである

30.霊的な善と真理とは何であるかは、聖言からのみ知ることが出来る

 

 

 

 

ペトロ2・1・20−21

 

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

 

 

 

 

1.教義

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P153

‘90・5・12

 

あなた方の世代は私の目に不快な 我が思いとは異なるさまざまな像を造り出した、そしてこの造り上げてしまったバビロンに私は降り 殆どの被造物が囚われているのを見い出した、そう、悪魔から神不在の精神、合理主義と非道を養われ、虜になっている、私にこのすべてが見えないだろうか? 諸聖人の嘆願が我が耳に届いて、今や私は火がついたようになり もはや長くは待たないと言っておく、この暗やみにあなた方を長くは置いておかない、戻って来る、もうしばらくすると世は 私を再び見るであろう、そう、愛が降って来て あなた方のさ中に住まう。 しかしあなた方の木々が立派に枝をひろげ、葉が生い茂り 幹が太くなる前に、空の鳥たちが枝に巣をつくり始める前に、そして乾いた土を灌漑する川を私が張り巡らす前に、天から我が清める火の柱を送り、皆を清めるつもりでいる。 死者が死者を喜ぶ日は死にたえ・・・この清めの後には一つの言葉:  と呼ばれる、私自身の言葉を あなた方は話しているであろう。 神の愛 ♡ 

私はあらゆる悪と邪悪さを取り除くつもりです。 それゆえにこの時代には、太陽、月と星に我が覆いがかけられる。 太陽は暗い雲でおおわれ 月は光を放たなくなるであろう。 私は天空に与えられているあらゆる明りを暗くし 国々を暗やみで覆う、こうしてバビロンは罪との親密さを断つであろう。彼女はその後 我が愛の掟を採り入れよう、その背教者たちを私が炎のうちに焼き尽くすからです。 あなたの時代が 私の大いなる愛を認めないで聖なる名を汚したとすれば、それは我が聖櫃の中心にまで浸透した 大背教によるのです。

 

 

 

天界の秘義1285

 

「全地は一つの唇をもっていた。」

これは至る所に全般的には一つの教義があったことを意味していることは、聖言における『唇』の意義から明白であり、そのことについてはまもなく述べよう。この節には、またこの僅かな言葉によって、古代教会の状態がそのあったままに記されているのである、すなわち、それは全般的には一つの教義を持っていたのである。しかし以下の節にはそれが如何ようにして誤謬化され、不善化され始めたかが記されており、その節から第九節にいたるまでは、如何ようにしてそれが全く歪められ、かくてもはや内なる礼拝を何ら持たなくなってしまったかに記されているのである。次に、さらに少しすすむと、取扱われている主題はエベルにより始められた第二の古代教会であり、最後にユダヤ教会の始まりである第三の古代教会がとり扱われている。

 

 

 

[2]第一の古代教会については、すなわち、それは地に広くひろがってはいたけれど、それでも唇と言葉は一つであった、すなわち、全般的にもまた個別的にも教義においては一つであったが、その礼拝は内なるものも外なるものも凡ゆる所で異なっていたということについては、―そのことは前章に示されたところであって、そこではそこに名をあげられている各々の国民により異なった教義的なものと祭儀とが意味されたのであるが―実情は以下のようである。天界には無数の社会が存在しており、凡てが異なっているが、しかもそれらは一つのものである、なぜならそれらは凡て一つのものとして主により導かれているからである、そのことについては前に言われたことを参照されたい(457、551、684、685、690番)。この点では人間の場合と同一である、すなわち、人間には極めて多くの内臓があり、内臓の中には極めて多くの小さな内臓があり、器官があり、肢体があって、その各々は異なった方法をもって、活動はしているものの、その凡てはまたその各々は一つの霊魂により一つのものとして治められているのである、またはそれは身体の場合とも同一であり、身体の内ではいくたの力の活動と運動とは異なってはいるが、しかも凡てのものは心臓の一つの運動と肺臓の一つの運動により治められていて、一つのものとなっているのである。これらのものがこのように一つのものとして活動することができることは以下の事実から発している、すなわち、天界にはただ一つの流入のみが存在していて、その流入が各個人によりその者自身の資質に従って受け入れられており、その流入は主から主の慈悲から、また主の生命から発しているいくたの情愛の流入であり、ただ一つの流入しか存在しないにも拘らず、凡てのものは一つのものとしてそれに服従し、従っているのである。これは天界にいる者たちがその中にいる相互愛の結果である。

 

 

[]第一古代教会の場合もこれと同一であったのである、なぜなら全般的には諸国民と同数の種類の礼拝があり―そのあるものは内なるものであり、またあるものは外なるものであったけれど―また特殊的には諸国民の中に存在した氏族と同数の礼拝があり、また個別的には教会の人間と同数の種類の礼拝があったけれども、しかもかれらは凡て一つの唇を持ち、言葉は一つであったのである、すなわち、かれらは凡て全般的にもまた個別的にも一つの教義を持っていたのである。教義は凡ての者が相互愛の中に、または仁慈の中にいるときは一つである。たとえそれらは多様ではあるものの、相互愛と仁慈により、それらはすべて一つのものとなるのである、なぜなら相互愛と仁慈とは多様なものから一つのものを作るからである。凡ての人間は、たとえ如何に数多くいようとも、巨万の数にさえたっしようとも、もし、仁慈の中に、すなわち相互愛の中にいるならば、一つの目的を、すなわち、共通の善を、主の王国を、主御自身を持っているのである。教義と礼拝における多様なものは、すでに言ったように、人間における感覚と内臓の多様なものに似ており、それらは全体の完全性に貢献しているのである。なぜならそのときは、主は仁慈を通し、各々の者の資質に応じて、多様な方法で流入したまい、また活動したまい、かくして全般的にもまた個別的にも、天界のみでなく地上の凡てのものを処理されて秩序づけられるからである。そしてそのとき、主御自身教えられているように、主の意志が天界に行われるように、地にもまた行われるのである。

 

 

 

天界の秘義1798[]

 

信仰は、全般的な意義では教会の教義上の教えのすべてのものである。しかし愛または仁慈から分離した教義は決して教会の内なるものを作ってはいない、なぜなら教義は記憶に属している知識にすぎないのであって、これは最悪の人間のもとにも、実に奈落の者のもとにさえも存在しているからである。しかし仁慈から発している教義は、または仁慈に属している教義は教会の内なるものを実際作っている、なぜならこれは生命に属しているからである。生命それ自身が凡ゆる教会の内なるものであり、仁慈の生命から流れ出ている教義もことごとくそうしたものであり、ここに意味されているものは信仰に属しているこうした教義である。教会の内なるものはこの信仰であることは以下のことを考察するのみからでも認めることが出来よう、すなわち、仁慈の生命を持っている者は信仰の凡ゆる事柄を熟知しているのである。もし願われるなら、教義的なものをことごとく検討されて、それらがいかようなものであり、またいかような性質を持っているかを見られよ、それらはすべて仁慈に関わっており、従って仁慈から発している信仰に関わってはいないか。

 

 

 

天界の秘義1798[]

 

十戒の教えを単に考えてみられよ。これらのものの最初のものは主なる神を拝することである。愛の生命をまたは仁慈の生命を持っている者は主なる神を拝しているのである、なぜならそのことが彼の生命となっているからである。他の教えは安息日を守ることである。愛の生命の中に、または仁慈の中にいる者は安息日を聖く守っているのである、なぜなら日々主を拝して、主を崇めることにまさって甘美なものは何一つ彼にはないからである。『あなたは殺してはならない』という教えは全く仁慈のものである。自分自身のように自分の隣人を愛している者は、何であれ、その者を害うことを行うことには身震いするのであり、ましてや彼を殺すことには身震いするのである。『あなたは盗んではならない』という教えもまた同じである、なぜなら仁慈の生命を持っている者はその隣人から何かを奪い去るよりはむしろ彼に自分自身のものを与えようとするからである。『あなたは姦淫してはならない』という教えもまた同じである、仁慈の生命の中にいる者はむしろ隣人の妻を、たれかがこれに危害を加えないように守り、姦淫を良心に反した犯罪として、婚姻愛とその義務を破壊するものとして認めているからである。隣人のものを貪ることもまた仁慈の生命の中にいる者たちには反している、なぜなら自己からまた自分自身のものから善いことを他の者に欲することは仁慈に属しており、それでこうした者は他人のものを決して貪りはしないからである。

 

 

 

天界の秘義1798[]

 

こうしたものは信仰のさらに外なる教義的なものである十戒の教えであって、これらは仁慈とその生命の中にいる者により記憶の中に知られているのみでなく、その心の中にも存在しており、彼はそれらのものを、それらのものが彼の仁慈の中にあり、かくて彼の生命の中に存在しているため、彼自身の中に刻みつけているのであり、その他彼が同じように仁慈のみから知っている教義的な性質の事柄も彼自身の中に刻みつけられているのである、なぜなら彼は正しいものの良心に従って生きているからである。彼は、彼がそのように理解して、検討することの出来ない正しいことと真理とは、主がそのように言われたという理由から、単純にまたは心の単純さからそのようなものであると信じており、そのように信じている者は、たとえその者がそのようにして受け入れているものはそれ自身において真のものではなくて、外観的な真理であるとしても悪は行わないのである。

 

 

 

天界の秘義1798[]

 

たとえば、たれかが主は怒られ、罰しられ、試みられるなどと信じるとするなら、あるいは聖餐のパンとぶどう酒とが表意的なものであると信じるなら、または肉と血とは彼らから説明される何らかの方法で現存していると信じるならば―こうした事柄について考える者は僅かしかいないけれど、またはそのことについて実際考えるにしても、それが単純な心から為されさえしているなら、彼らの言うことはそれぞれ異なっているにしても、それはたいしたことではない、なぜなら彼らはそのように教えられてきてはいるものの、それでも仁慈の中に生きているからである。これらのものはパンとぶどう酒とはその内意では全人類に対する主の愛を、この愛に属した事柄を、またその愛に反応した主と隣人とに対する人間の愛を意味していることを聞くと、すぐさまそれがそうであることを信じ、またそのことを喜びもするのである。教義的な事柄の中にはいるが、仁慈の中にいない者はそうではない、これらの者はあらゆることについて論争し、自分らの言っているように言わない者を(彼らはその言うことを『信じる』ことだと言ってはいるが)その者はたれであろうと罪に定めるのである。このすべてからたれでも主に対する愛と隣人に対する仁慈とは教会の内なるものであることを認めることができよう。

 

 

 

天界の秘義1799 []

 

教会の外なるものとは何であるかは前に述べたところである(1083、1098、1100、1151、1153番参照)。前に言ったように、教義に関わるものがそれ自身では外なるものを作るのではない、ましてや内なるものを作るのではない、また主にあってもそれが諸教会を相互に他から区別するのではなく、それを行うものは教義的なものにしたがった生活であり、その教義的なものはすべて、それが真のものでありさえするなら、その根元的なものとしては仁慈を目標としているのである。教義は人間が如何ように生きねばならぬかを教えるものでなくて何であろう。

 

 

 

天界の秘義1799 []

 

基督教界では教会を区別しているものは教義的なものであり、その教義的なものから人間は自分自身をロマ・カトリック教会、ルーテル派、カルビン派または改革派、福音派などと呼んでいるのである。彼らがそのように呼ばれているのは教義的なもののみによっているのであって、こうしたことはもし彼らが主に対する愛と隣人に対する仁慈とを信仰の第一義的なもの[主要なもの]とするなら、決して存在はしないであろう。そうした場合教義的な事柄は信仰の諸々の秘義に関わる種々の見解であるに過ぎなくなり、真に基督教的な人間ならそれらをたれでもその者の良心に従って抱くままにさせて、その心の中に、人間が基督教徒として、即ち、主が教えられているように、生活するときは、真に基督教徒であると言うであろう。かくて互に異なっている諸教会のすべてから一つの教会が形作られ、教義のみから生まれているあらゆる分離は消滅してしまうであろう、実に相互に他に抱き合っている憎悪もことごとくたちまち消散して、主の王国は地上に臨むであろう。

 

 

 

天界の秘義1799 []

 

洪水直後の古代教会は多くの王国に拡まっていたけれど、それでもこうした性格を持っていたのである、即ち、人々は教義的な事柄については彼らの間では非常に異なっていたのであるが、それでも仁慈を第一義的なものとしたのであり、礼拝を、信仰にかかわりをもった教義的なものから眺めないで、生命[生活]にかかわりをもった仁慈から眺めたのである。このことが彼らはすべて一つの唇を持っており、その言葉も一つであったと言われているところに(創世記11・1)意味されているのであり、そのことについては前に言ったことを参照されたい(1285番)。

 

 

 

天界の秘義2231

 

「彼はその息子たちに、また彼の後の彼の家に命じ、そして彼らはエホバの道を守って、義と公道[審判]とを行うからである」(創世記18・19)。これは仁慈と信仰との教義はことごとく主から発していることを意味していることは、『息子』と『家』と『道』と『義』と『公道[審判]』との意義から明白であって、それらが一つにまとめられると、または一つの意義に集められると、仁慈と信仰との教義のすべてを意味するのである。なぜなら『息子』により真理の中にいる者たちがすべて意味され、『家』により善の中にいる者たちがすべて意味され、『道』により彼らが教えを受ける手段である教義が意味されていて、その教義は善の方面では『義』により、真理の方面では『公道[審判]』により意味されているのである。善にかかわる教義は仁慈の教義であり、真理にかかわる教義は信仰の教義である。

 

 

 

天界の秘義2231 []

 

全般的には、ただ一つの教義しかないのである、即ち、仁慈の教理しかないのである、なぜなら(前に言ったように、2228番)信仰の事柄はことごとく仁慈を目指しているからである。仁慈と信仰との間には善いことを意志する[欲する]ことと善いことを考えることとの間の相違以外の相違はないのであり(なぜなら善いことを意志する者はまた善いことを考えるからである)、かくて意志と理解との間の相違以外の相違はないのである。意志と理解とは相違したものであることはたれでも反省してみるなら知るのである。このことはまた学界にも知られており、それは悪を意志しつつも[欲しつつも]、思考[考え]からは善いことを語っている者のもとには明らかに現れており、そのすべてから意志と理解とは異なったものであり、かくて人間の心は二つの部分に分かれていて、その二つの部分は一つの心を構成するように創造られたのであり、また(たとえて言うなら)焔と焔から発している光の間にあるような区別以外の区別がその二つの部分の間に存在しないように創造られたのであり(主に対する愛と隣人に対する仁慈は焔のようなものであり、認識と思考とはことごとくその焔から発した光のようなものである)かくて愛と仁慈とが認識と思考との凡てのものとなるように、即ち、それらの各々のものまた凡ゆるものの中に存在するように人間は創造られたのである。愛と仁慈との性質にかかわる認識または思考が信仰と呼ばれるものである。

 

 

 

天界の秘義2231 []

 

しかし人類は悪いことを意志し[欲し]、隣人を憎み、復讐と残酷とを行い始めて、意志と呼ばれた心のかの部分が全く破壊されるほどにもなるにつれて、人間は仁慈と信仰との区別を設けはじめ、彼らの宗教に属した教義的な事柄をすべて信仰に帰して、それらを信仰という只一つの名称で呼び始め、遂には自分らは信仰のみで救われることが出来る―この信仰により彼らはその教義的なものを意味したのであるが―即ち、自分らは如何ような生活をしていても、単にこれらの教義的なものを信じさえしているなら、信仰のみで救われることが出来ると言うほどにもなったのである。このようにして仁慈は信仰から分離してしまったが、そうした場合信仰は(たとえて言うなら)焔のない一種の光以外のいかようなものでもないのであり、即ち、それは植物が麻痺し、死滅するほどにも、冷たく、また凍てついてしまう冬の時の陽の光のようなものになるが、それに反し仁慈から発した信仰は、凡ゆるものがそれによって芽生えて、花を開く春と夏の時の光のようなものになるのである。

 

 

 

天界の秘義2231 []

 

このことはまた、愛と仁慈とは天的な焔であり、信仰はそこから発している光であるという事実からも知ることが出来よう。そのようにまたそれらは他生で認識されもし、見られもしているのである、なぜならそこでは主の天的なものは太陽の焔となって燃えている輝きのようなものによりそれ自身を天使たちの前に明らかにしており、主の霊的なものはその輝きから発している光によりそれ自らを明らかにしていて、それによりまた天使たちと霊たちはその者たちに属した愛と仁慈との生命に順応して、その内部に感動を受けているのである。これがそのあらゆる多様性を持った喜びと幸福との他生における源泉である。そしてこのすべては信仰のみが救うという見解はいかなるものであるかを示しているのである。

 

 

 

天界の秘義2538[2]

 

教義については実際は以下のようになっている、すなわち信仰の基礎として人間的なものが、すなわち、感覚に、記憶知に、合理的なものにぞくしたものが存在しているに比例して教義は益々無力なものに、また空虚なものになるのである。しかし感覚に、記憶知に、合理的なものにぞくしたものが遠ざけられているに比例して、すなわち、教義がこれらのものなしに信じられるに比例して、益々教義は生きてくるのである、なぜならそれに比例して益々神的なものが流入してくるからである。その流入と受容とを妨害するものこそ人間的なものに固有のものである。

 

 

天界の秘義4724

 

しかしひざまずいて、謙遜な心から信仰の生活を送っている者たちは主を救い主なる神として崇めており、そのときは神的な性質と人間的な性質とが区別される教義からは些かも考えはしないのである。ここから彼らのもとでは主の神的な人間的なものが彼らの心の中に在ることが明らかである。

 

 

真の基督教377

 

諸々の教義は仁慈を明らかにし、これにその特別の性格を与え、これを養い、それ故、仁慈を持つが、何等教義を持たない者は、夜庭を歩いて木から果実を、それが良いか悪いかも知らずにもぎ取る者に似ている。教義は仁慈にその特別の性格を与える故、教義の無い仁慈は乾せ上がった果実、干乾びた無花果、圧し潰された葡萄のようなものである。教義はまた仁慈を養い育てる故、教義の無い仁慈は黒焦げになったパンを食べ、溜まり水を飲んで得る以上の滋養は得ないことが推論される。

 

 

2.二つの主要な教義

 

天界の秘義2859

 

聖言における教義のすべてのものは人間については主を拝し、主を愛することである。

 

 

天界の秘義4723

 

教会を構成している二つの本質的なものがあり、そこから教義には二つの主要なものがあり、その一つは主の人間的なものは神的なものであり、他の一つは主に対する愛と隣人に対する仁慈が教会を作るものであって、それは愛と仁慈とから分離した信仰ではないということである。

 

 

3.最高の教義、最高の真理

 

 

天界の秘義4687

 

『ご覧、私の束は起き上がり、またまっすぐに立ちました』。これは主の神的な人間的なものにかかわる教義的なものを意味していることは以下から明白である、即ち、『束』の意義は教義であり(直ぐ前を参照)、『起き上がって、まっすぐに立つこと』の意義は統べ治めなくてはならない、また彼らが崇拝しようとする最高のもの[最高の教義]である。これは主の神的な人間的なものであることは以下の記事から明白である、即ち、十一の束がその束に身をかがめたのであり、第二の夢では、陽と月と十一の星とがヨセフに身をかがめたのであり、そのことにより、統べ治めなくてはならない、また彼らが崇拝しようとする最高のものが意味されており、それでまたヤコブは、『私とおまえの母とおまえの兄弟たちはほんとにおまえのもとへ来て身をかがめ地に平伏するのであろうか』と言っているのである。前に言ったように、主の神的な真理がヨセフにより表象されるものであり、その真理の最高のものは主御自身であり、幾多の教義的な事柄の中でも最高のものは主の人間的なものが神的なものであるということである。

 

 

 

天界の秘義4692

 

この主題そのものについては、これが凡ての中でも、仁慈から信仰を分離した教会がとくに軽蔑し、また反感を抱くところの最高の真理であり、すなわちそれは主の人間的なものは神的なものであるということである。

 

 

 

天界の秘義4733

 

主の神的な人間的なものを承認し、崇拝することが宗教の生命

 

 

 

天界の秘義4731

 

主の人間的なものは神的なものであるという真理が残っていないなら、教会でなくなる、なぜならそれは教会の最高のまたは最も内なる真理であるから。

 

ヨセフはこの真理を表象

 

信仰の生命の中に、または仁慈の中にいる者たちは、主を己が神、救い主として崇めており、そして崇めているときは主の神的なものを人間的なものから分離しないで考えており、かくて心の中で主における凡てのものが神的なものであることを承認しているのである。

 

 

 

天界の秘義4738

 

この真理については古代教会はそれを承認し、また原始基督教会もそれを承認したことを知らなくてはならない、

 

 

しかし法皇権が全人類の霊魂を治める主権にさえ至るまで昂進し、またそれ自身を高めてしまった後では、主の人間的なものからは神的なものは取り去られてしまったのであり、すなわち主の神的なものと主の人間的なものとが区別されたのである、

 

そのときの会議について

 

 

 

天界と地獄227

 

凡ゆる教義の本質的なものは、主の神的な人間的なものを承認することである。

 

 

 

 

4.教義は彼らを引き離しはしない

 

天界の秘義4468

 

もし生命が教会の人間を連結しているなら、教義はかれらを引きはなしはしない。すなわち、生命の善の中にいる人間は、意見を異にしている他の者を非難はしないで、その事柄をかれの信仰と良心とにまかせ、しかもそのことは教会の外側にいる者に対してすら行っているのである。なぜならかれらはその心の中でもしかれらが年のいかない子供たちのように無垢と相互愛に生きているなら、無知だからといって罪に定めされはしない、子供たちもまた死ぬときは無知の中にいるからであると言うからである。

 

 

天界の秘義8152

 

主の教会は全世界に散在してはいるものの、しかも一つのものである。なぜなら生命[生活]が教会を作り、生命から分離した教義がそれを作らないときは、教会は一つのものではあるが、教義が教会を作るときは多くのものが在るからである。

 

 

5.教義の目的はいかように生きなくてはならないかを教えること

 

天界の秘義916[2]

 

教会はそれが仁慈からまたは仁慈の善から行動する時霊的なものと呼ばれ、それはそれが仁慈の無い信仰を持っているという時は決して霊的なものと呼ばれはしないのである。なぜならその時それは教会でさえもないからである。なぜなら信仰の教義は仁慈の教義でなくて何であろう。そして信仰の教義は人間はその教えることを為さなくてはならないということを除いては何を目的とするであろうか。それはその教えることを単に知りまた考えることでありうるはずはなく、その教えることは為さなくてはならないということのみであるはずである。それ故霊的教会はそれが信仰の教義そのものである仁慈から行動する時始めて教会と呼ばれるのである。または、それと同一事ではあるが、教会の人間はそのとき始めて教会となるのである。丁度それと同じように、戒めは何のためにあるのであるか、それは人間がそれを知るためではなく、その戒めに従って生きるためではないか。なぜならそのとき彼は、主の王国はもっぱら相互愛とその幸福とに在るからには、かれ自身の中に主の王国を持つからである。

 

 

天界の秘義1844

 

現今人々は教会を信仰の単なる教義的なものから存在するものとして語り、そのことによって主の諸教会を区別してはいるが、人間が如何ような生活を送っているかは意に介しないのである。

 

 

天界の秘義2982

 

教義的な事柄の目的はいかように考えなくてはならないかをそれらに教えることではなくて、いかように生きなくてはならないかを教えることであった。

(中略)

 

教義的なものはそれが目的のためのものでなくては何であろう。そしてその目的とは生命[生活]以外の何であろう。または人間がその教義的なものが教えているようなものになるということ以外の何であろう。

 

 

6.教義が教会を作るのではなく、仁慈がそれを作る

 

天界の秘義3451

 

教義的なものであるものが教会を作るのではなく、仁慈がそれを作る。(809、916、1798、1799、1834、1844)

 

 

天界の秘義2455

 

教会の人間を作るものは教義に従った生活であって、生活から分離した教義ではない。

 

 

天界の秘義769

 

 教義的な事柄がなくては教会は在り得ない

 

 

7.十戒・・・教会の教義の最初のもの

 

仁慈の教義27(5)

 

「人間が行う善が仁慈の善となる以前に、悪は先ず、それが仁慈に反しているため、遠ざけられねばならない(そのことは悔改めにより行われる)」悪は、それが遠ざけられるためには、先ず知られねばならないからには、そのため十戒が聖言の最初のものであったのであり、全基督教世界においてもまた教会の教義の最初のものである。凡ての者は悪を知って、それを行わないことにより教会へ入れられるのである、なぜなら悪は神に反しているからである。

 

 

8.『道』は教義を意味している

 

天界の秘義2234

 

『道』は教義を意味していることは『道』の意義から明白である。聖言では『道』は真理について述べられているが、それは真理は善に導き、また善から発出しているためであり(このことは第一部627番に引用された記事から明白である)、そして『道』は真理について述べられているため、それは教義を意味している、なぜなら教義は、善に、すなわち、仁慈に導くあらゆるものを一つの総合体の中に包含しているからである。

 

 

9.あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており

 

霊界日記4775

 

 次いでわたしはそこから右の方へ導かれたが、そこでまた人々が啓示を話し、期待しているのを聞いた。これらの者たちと、天使たちは話して、主について教え、また以下のことを教えもした、すなわち、あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう、と。わたしはかれらが以下のように言うのを聞いた、宇宙の創造者は世に人間の前に現れたまわないわけにはいかないのである。なぜならその方は人間を創造られ、愛されておられ、死後の生命が在り、かくて人間を永遠に救おうと望まれているからであり、またその方は、人間の目にさえも、人間の形をとって現れたもうたにちがいないのである、と。するとその霊たちは以下の事実について共に話した。すなわち、現今、基督教世界にいる者らは、とくに、学者らは、全く他の見解をもっている、すなわち、主は人間として生まれられて、人間として現われられたからには、その者は、その人間的なものの方面では、宇宙の神であるはずはなく、ましてや、凡ゆる物の創造者でありうるはずはない(と考えているのであり)そのことがかれらの性質が歪められているというしるしとなっているのである。なぜならその知的な部分の中には腐敗してはいない何らかのものが在り、ましてやその意志の部分の中に腐敗してはいない何らかのものが在る者たちの中には、宇宙の神は全く人間として現れたまわないわけにはいかないということが生来植えつけられているからである。そこから、古代人は、神が地に現れたもうたさい、その方を、宇宙の創造者、神と呼んだのである、例えば、アブラハムとその他の者は(そのように呼んだのであり)、同じく、ギリシャのその時代の異邦人たちも―かれらは他の者たちにもまさって賢明であったが―その神々を凡て人間としたのである。例えば、サターン、ヂュピタ、ネプチューン、ジュノー、ミネルヴァ、その他多くの者を人間としたのである。同じく諸国民も、偶像を作る所ではことごとく、同様に振舞ったのである。なぜならかれらの中に、かれらがその神を見、かくして神を承認することが生来具わっているからである。このことは、主から発している神的真理[神の真理]は、天界全体のみでなく、そこにいる天使各々の中にも人間の形を着けているという理由から起っているのである。なぜなら神的真理は、その形では、人間であるからである。ここから天界の凡ゆるものは人間と相応していることが生まれており、そのことについては、「天界の秘義」の3624―3649番を参照されたい。かれらはこうした事柄を互に話し合い、以下のことを怪しんだのである。すなわち、教会が在る地域の中では学者の僅かな者しか主を神としては承認しようとはしていないが、そのことは単に主が人間であられたという理由にすぎないのであり、人間的なものを神的なものとするものは何であるかを、かれらは全く把握していないからである、と。しかしわたしはまた或る者たちが以下のように言っているのを聞いたのである、すなわち、教会内で或る者たちが聖者を神として拝していることは許しから発しており、そのことは目に見える神の考えが死滅しないことを目的としており、かれらはかくして、神的なものが人間の形をとっており、すなわち、主から発出している神的なものが凡ゆる形において人間であるという何らかの考えを、自然から、保有するためである、と。

 

 

10.合理的なものからは信仰の教義は存在しない

 

天界の秘義2516

 

「見よ、あなたはその女のために死ぬであろう」。 これは信仰の教義は、もしその内容について合理的なものに諮るならば、無力な、空虚なものになってしまうであろうということを意味していることは以下から明白である、すなわち、ここに話しかけられている『アビメレク』の意義は信仰の教義であり、『死ぬこと』の意義は無力な、空虚なものになることであり、ここに『女』と呼ばれている『妹』の意義は合理的なものである(2508番を参照)。ここから今『アビメレクが女のために死ぬこと』により信仰の教義はもし合理的なものに諮るなら無力なまた空虚なものになるであろうということが意味されているのである。

 

天界の秘義2516[]

 

 合理的なものからは信仰の教義は存在しない理由は(前の2053、2196、2203、2209番に示されたように)合理的なものは善と真理の外観の中に在って、その外観はそれ自身では真理ではないということである。さらに合理的なものはその下に記憶知により確認される外なる感覚的なものから発した迷妄[妄想]を持っていて、それが真理のこうした外観の中に明確でないもの[あいまいなもの]を生み出しているのである。合理的なものはその大半はたんに人間的なものであり、そのこともまたその発生から明白であるが、このことが信仰の教義的なものは一つとしてそこからは[合理的なものからは]始まることはできないし、ましてやそこから構成されることはできないのであって、主の神的なものそれ自身と神的な人間的なものから存在しなくてはならない理由となっている。それがその起源であり、実に主が教義自体であられるほどにも全くその起源であり、そうした理由からまた聖言には主は聖言、真理、光、道、戸と呼ばれたもうており(そしてこれはアルカナではあるが)教義はことごとく神的善と神的真理から発していて、それ自身の中に天界的結婚を持っているのである。それを[この結婚を]内に持っていない教義は信仰の純粋な教義ではない。ここから(教義の源泉である)聖言のあらゆる個々の事項の中には結婚の映像が存在している(683、793、801番参照)。

 

天界の秘義2516[]

 

 聖言の文字的なまたは外なる意義の中には信仰の教義は多くのものを合理的なものから、実に自然的なものからさえも持っているかのように実際見えはするが、しかしそれは聖言は人間のために存在していて、そのようにして人間に適応しているためであるが、しかしそれでもそれはそれ自身では天的な起源から発した、すなわち、神的善に連結した神的真理から発した霊的なものである。教義はもしその内容について合理的なものに諮るなら、無力な空虚なものになってしまうことは以下の記事に例により示すことにしよう。

 

 

天界の秘義2519

 

いかような点でも合理的なものに諮りはしなかった理由は前に述べられたものであり、すなわち、信仰の教義的なものは、人間の合理的なものを無限に超絶している神的なものからことごとく発しているということである。合理的なものがその善とその真理とを受ける源泉は神的なものである。神的なものは合理的なものの中へ入ることはできるが、しかし合理的なものは神的なものの中へ入ることはできないのである、それは霊魂は身体へ入り、それを形成することはできるが、しかし身体は霊魂へ入ってそれを形成することができないのと同じであり、または光が蔭へ入って、それを種々に色々な色に変えることはできるが、しかし蔭は光の中へ入ってそれを色々な色に変えることができないのと同じである。しかし合理的なものは教義を受けるものそのものであるため、合理的なものが現存しているのが当然であるかにょうに最初は思われるため、ここに、合理的なものにもまた同時に諮らなくてはならないのか、諮ってはいけないのか、ということが思考の最初の主題になったことが示されているのである。しかし主は教義がそのようなことをするならそれは無力な空虚なものになることを御自身に啓示され、また答えられもして、それで合理的なものには諮られはしなかったのだる。そのことがここにアビメレクは彼女に近づかなかったことにより意味されているのである。

 

 

天界の秘義2533[2]

 

信仰の教義はそれ自身では神的なものであって、それであらゆる人間の把握を、実に天使の把握をすら超絶しているけれど、それにも拘らずそれは合理的な方法で、人間に把握されるように聖言の中に口授されてきたのである。その間の実情は、小さな少年少女に物事を教える親の場合と同じである、すなわち、かれは教えるとき、かれ自身は更に内的な、またはさらに高いものから考えてはいるものの、子供たちの資質に応じて、あらゆるものを差し出すのである、もしそうしないなら、教えても彼らは習いはしないし、またはそれは岩の上に種子を投げつけるようなものとなるであろう。それはまた他生で心の単純な者に教えている天使の場合と同じである、これらの天使は天的な霊的な知恵の中にいはするものの、それでも彼らはその教えている者たちが理解できないような高いところに自分を置かないで、単純に彼らと話してはいるが、それでもこれらの者が教えを受けるにつれて徐々に上に昇って行くのである、なぜならもし彼らがかりにも天使的な知恵から話すとなると、単純の者たちは何事も些かも理解しなくなって、かくて信仰の諸々の真理と善とに導かれはしなくなるからである。それはもし主が聖言の中で合理的な方法で人間の理解に応じて教えられなかったなら、同じようになるであろう。それでも聖言はその内意では天使の理解までも高揚されているが、それでもその意義は、それが最高に高揚されて、その天使たちにより認められているときでさえも、神的なものに対しては無限にその下にあるのである。ここから、聖言はその起原では、かくてそれ自身ではいかようなものであるかが明白であり、またそれは文字では極めてとるに足らない、極めて粗雑なもののように見えはするものの、小さな部分においてさえも、天界全体からも把握されることができないようなものを至るところで含んでいることが明白である。

 

 

11.霊的善に到達した者は他のものから来ている教義をもはや必要とはしない

 

天界の秘義5997

 

霊的な善は教義以上のものであって、教義はこの善から発しており、それで霊的善に到達した者は他のものから来ている教義をもはや必要とはしないのである。なぜならかれはその目指していた目的の中にいて、もはやそれに到達する手段の中にはおらず、そして教義的なものは目的としての善に到達する手段以外の何ものでもないからである。

 

 

12.教義は人間の思考と情愛に属している[人間の思考と情愛から生まれている]ような外観を着けなくてはならない

 

天界の秘義2719

 

 この章の中には主の合理的なものが、神的なものになされたものとしてまずとり扱われ―その合理的なものが『イサク』であるが―次に単に人間的な合理的なものが分離されつつあるものとしてとり扱われ―それが『エジプト人ハガルの息子』であるが―その後主の神的な人間的なものにより救われた霊的教会がとり扱われており、その教会が『ハガル』であり、また彼女の『子供』なのである。今やその教会に役立つことができる信仰の教義がとり扱われており、すなわち、記憶知から発した人間の理論がそれに接合されたのであり、それが『アビメレク』と『ピコル』である。この連結はアブラハムがかれらと結んだ『契約』により意味されている。これらの理論が外観であって、神的なものから発してはいないで、人間的なものから発しているが、それはそれがなくては霊的な教会は教義を把握しないし、かくてそれを受け入れはしないという理由から接合されるのである。なぜなら前に示したように(2715番)、霊的な教の人間は比較的明確でない状態の中にあり、それで教義は人間の思考と情愛に属している[人間の思考と情愛から生まれている]ような外観を着けなくてはならないのであって、その外観は神的善がその外観の中に何かの種類の受容体を持つことができないほどにも矛盾したものであってはならないからである。

 

 

天界の秘義3364

 

内意ではここにとり扱われている主題は主であり、主の神的なものから信仰の教義的な事柄がことごとく発しているということである、なぜなら主は教義それ自体であられるため、主から発していない教義的なものはなく、その最小の部分さえもないからである。ここから主は、『聖言』は教義であるため聖言と呼ばれたもうているが、しかし主の中に在る物はすべて神的なものであり、そして神的なものは創造されたいかような存在によっても把握されることができないため、主から発している教義的なものは創造された存在の前に現われるかぎり、それらは純粋に神的な真理ではなくて、真理の外観である、それにも拘らずこのような外観の中に真理の神的なもの[神的なものから発出している真理]が在るのであり、その外観はその外観の中にこうした真理をもっているため、その外観もまた真理と呼ばれており、これらのものが今や本章にとり扱われているのである。

 

 

天界の秘義3365

 

教義にぞくしているものは凡て教義的なものと呼ばれ、それが天界で天使により、また地上では人間により受け入れられ、承認されるかぎり、それは合理的なものであるからである。しかし合理的なものは神的な事柄を到底把握することができない底のものである、なぜならそれは有限であって、有限なものは無限なものにぞくしているものを把握することができず、従って、主から発している真理の神的なものは合理的なものの前に外観の中に[外観の下に]示されている。ここから教義的な事柄は真理の神的なものの外観以外の何ものでもなく、すなわち神的なものであるものを内に宿している天的なまた霊的な容器以外の何ものでもないのであり、そして神的なものが、すなわち、主が球技的な事柄の中におられるため、教義的な事柄は私たちを感動させるのであって、そこから主が天使と人間と連結されることが生まれているのである。

 

 

13.教義的なものの方面では色々と異なったものでないわけにはいかない

 

天界の秘義3451[2]

 

 しかし地上の主の王国、すなわち、主の教会については、それはその教義的な事柄を聖言の文字の意義から得ているからには、それはこれらの教義的なものの方面では色々と異なったものでないわけにはいかないのであり、すなわち、或る団体は一つの事柄を、それが聖言にそのように言われているため、信仰の真理であると告白し、他の団体は他の事柄を、それがまたそのように言われているため、真理として告白しており、そうしたことがくり返されているといったことが現実となっているのである。従って主の教会は聖言の文字の意義からその教義的な物を得ているため、それは凡ゆる所で相違しており、しかもそのことはいくたの団体のみでなく、時としては一つの団体の中の個人各々についてさえも言われるのである。にも拘らず信仰の教義的な事柄における相違は、善を欲し、善を為すことについては一致が在りさえするなら、教会が一つのものとなる妨げとはならないのである。

 

 

14.教義的な事柄がなくては教会は在り得ない

 

 

天界の秘義769

 

 教義的な事柄がなくては教会は在り得ない

 

 

15.それが聖言の文字の意義から発している限り、否定されてはならない

 

天界の秘義3452

 

「私たちは言いました、今私たちの間に、私たちとあなたとの間に、誓いを立てよう、私たちはあなたと契約を結びましょう、と」。これはかれらの信仰の教義的な事柄はそれがそれ自身において観察されるなら、否定されてはならない、すなわち、それが聖言の文字の意義から発している限り、否定されてはならないことを意味していることは以下から明白である、(中略)

 

ここから生まれてくる意義は、実情はこうしたものであるため、彼らの信仰の教義的なものは、もしそれがそれ自身において観察されるなら、否定されてはならないということである、なぜなら前に言ったように教義的なものは一つとしてそれが如何ようなものであっても、それが聖言から発してさえいるなら、主により受け入れられるからである、それはこの生命に聖言の凡ゆる物は連結されることができるためである、しかし聖言の内的な事柄は仁慈の内的な善の中にいる生命に連結されるのである。前に述べもし、また引用もしたことを参照されたい(3224番)。

 

 

16.主は教義そのもの

 

天界の秘義2531[3]

 

主の聖言の中には真理そのものが存在しているが、しかしその文字の意義の中には外なる礼拝の中にいる者たちの把握に適応した真理が存在しているに反し、その内意の中には内なる人である者たちに、すなわち、教義の方面と同時に生活の方面でも天使的な者である者たちに適応した真理が存在しているのである。その者たちの合理的なものはそこから明るくされて、その明るくされることが星と陽との輝きにたとえられているほどにもなっている(ダニエル12・3、マタイ13・43)。ここから、内的な諸真理が知られて、受け入れられることがいかに重要なことであるかが明らかである。これらの真理は実さい知られはするが、しかし主に対する愛をまたは主に対する信仰を持っている者たちを除いては、何人からも決して受け入れられはしない、なぜなら主は神的善であられるように、神的真理であられ、従って主は教義そのものであられるからである、なぜなら真の信仰の教義の内にあるものはことごとく主を目指しており、また天界の王国と教会とを目指しており、また天界と教会とのあらゆるものを目指しているからである。しかしこれらのものはことごとく主のものであって、媒介的な目的であり、それらを通して最後の目的が、すなわち、主が顧慮されている[目的とされている]のである。

 

 

17.教義はいわば真理の具体化したようなもの

 

天界の秘義4642

 

エドムの表象は真理の教義的な事柄が接合しているところの、主の神的な人間的なものの自然的な善の方面であり(3302、3322、4241番を参照)、かくて自然的なものと形体的なものの方面である。なぜなら教義的なものは真理に対しては身体のようなものであり、または霊的な意味では自然的な真理の身体のようなものであるからである。ここからエドムにより主の神的な人間的なものの自然的なものと形体的なものの方面が表象されている。教義それ自身では真理ではなく、真理は教義の中に霊魂がその身体の中に存在しているように存在しているため、教義はいわば真理の具体化したようなものである。

 

 

天界の秘義7291

 

モーセが表象しているところの律法の神的なものがアロンが表象している教義へ流れ入ったことは、律法の神的なものは内なる真理であり、教義は外なる真理であるためであり、内なるものが外なるものの中へ流れ入りはするが、その逆に、外なるものが内なるものの中へは流れ入りはしないということが全般的な定則であり、それは内なるものは相対的には純粋なものではあるが、外なるものは粗悪なものであるためである、なぜなら外なるものは内なるものの全般的なものであるからである。

 

 

 

18.現今教会を構成しているものは教義であって、生命[生活]ではなく

 

天界の秘義4689[3]

 

 信仰は現今仁慈から分離していることは明白である、なぜなら教会はその教理に従って互に他から分離しており、たれであれかれらの教理が教えることと異なったことを信じている者はかれらの交わりから追放され、また非難もされるからである。しかし盗み、情け容赦もなく他人の所有品を奪っても、それを公然と為さないかぎり、隣人を害そうとして巧妙に陰謀をはかり、仁慈の業をこき下ろし、姦淫を犯しても、もし聖い行事に再三列席して、教義に叶ったことを語りさえするなら、それでもその者は基督教徒と呼ばれるのである。このことから現今教会を構成しているものは教義であって、生命[生活]ではなく、信仰に接合している果はかれらの教義の中にのみあり、全くかれらの心の中にはないことが明白である。

 

 

19.教義的な事柄に信仰の名を与えているが、信仰の教義的な事柄またはその教義的な事柄の知識は何人も救うことはできない

 

天界の秘義4690[2]

 

 かれらは真理の内部を知らなかったのであり、またそれを知ろうともしなかったのである。しかしながら基督教会は、教会の内的な事柄であって、信じなくてはならないものと言われているかの教義的な事柄に信仰の名を与えているのである、なぜなら信仰により普通の人々はは信条の信仰または信条の書物に数えられているもの以外のものは理解しないからであるが、しかし信仰の教義的な事柄は、またはその教義的な事柄の知識は何人も救うことはできないし、また僅かな者しか信仰の生命をもってはいないと考えている者たちは信頼を信仰と呼んでいるのである。しかしこれらの者は普通の人々以上のものであって、他の者よりも学問のある者たちである。

 

 

20.仁慈の教義を斥けて信仰の教義をかき抱く理由

 

天界の秘義4730[2]

 

今日たれが隣人に対する愛とは自分の持っているものを貧しい者に与えることであり、自分の富をもって凡ゆる人を助けることであるという考え以外の考えを持っているであろうか。そしてそうしたことをするなら自分は自分の富を剥ぎ取られて、自分自身が貧しくなり、またみじめにもなるため、それで彼は仁慈の教義を斥けて信仰の教義をかき抱くのであり、それで彼は仁慈に反抗する考えを、多くのことにより、例えば、自分は罪の中に生まれている、それで自分では善は何一つ為すことはできない、もし自分が仁慈または敬虔の業を為すなら、自分はその業に功績をおかないわけにはいかないと考えることにより、確認するのである。そして彼が一方でこのように考え、また他方では欲念の生命から考えるとき、彼は信仰のみが救うと言う者の側に立つのである。そして彼はそこに立つと、その考えをさらに確認して、ついには、仁慈の業は救いには必要でないと信じるようになり、そしてこの業が除外されると、彼はまた以下の新しい考えに陥るのである、すなわち、人間の性質はこのようなものであるため、信仰と呼ばれる救いの手段が主により供えられているのであるという考えに陥るのであり、かくてついには以下の考えに、すなわち、自分はたとえ死ぬ間際でも、信頼または信任をもって、神が御子を自分の罪のために苦しまれたのであるとして見上げることを通して自分を憐れんでくださると言いさえすれば、救われるのであるという考えに陥って、主がヨハネ伝(1・12,13)やその他多くのところに言われたことを些かもかえりみはしないのである。信仰のみが諸教会の中に本質的なものとして承認されているのはこうした理由からであるが、しかしそれがこのように至る所で承認されているわけではないのは、牧師連は信仰のみを宣べ伝えただけでは三文の得にもならないからであり、それはただ業を宣べ伝えるに限るからである。

 

 

天界の秘義4730[3]

 

 しかしもしこれらの人々が隣人に対する仁慈の何であるかを知ったなら、かれらは決してこうした教義の誤謬に陥りはしなかったであろう。仁慈の根本的なものとは自己の義務または職業にぞくしている凡ゆる事柄において正しくまた公正に行動することである―例えば、裁判官である者が悪を行った者を法律に従って罰し、しかもそれを熱意から行うなら、かれはそのときは隣人愛に生きているのである、なぜならかれはその者が矯正されることを欲しており、かくてその者の善を欲しており、また社会と国家とがその悪を行った者からさらに危害を受けないようにと、その社会と国家とに良かれと願っているのである、かくてかれは、父がそのこらしめる息子を愛しているように、その者をもしその者が矯正されるなら愛し、かくしてかれは社会とその国家とを愛しているのである、なぜならその社会と国家とはかれにとっては全般的な隣人であるからである。しかし主の神的慈悲の下にこのことは他の所でさらに充分に示すことにしよう。

 

 

21.先ず教会の教義的な事柄が学ばれて、次にその教義的なものが真であるか否かを見るために、聖言を調べなくてはならない。

 

天界の秘義6047[3]

 

 教会の諸真理がその記憶知と連結することがここに取り扱われているが、しかしそれらがいかようにして連結されることができるかを知ることが必要である。なぜなら実際記憶知から出発し、記憶知を通して信仰の諸真理へ入ってはならないからである、それは人間の記憶知は感覚の事物から発し、かくて世から発しており、その事物からは無数の迷妄[妄想]が発生しているためである。しかし出発は以下のように信仰の諸真理からなされなくてはならないのである。先ず教会の教義的な事柄が学ばれて、次にその教義的なものが真であるか否かを見るために、聖言を調べなくてはならないのである、なぜならその教義的な事柄は教会の主だった者らがそのように言っており、その信奉者連がそれを確認しているからといって真ではないからである、なぜならその場合凡ゆる教会と宗教との教義的な事柄は、たんにそれらがその国に在って、人々は生まれ落ちた時からそれらを信奉しているといった理由のみから、真理であると呼ばれねばならなくなり、教皇派のみでなく、クエーカ派の教義的なものも、またユダヤ教徒の、実にマホメット教徒の教義的なものさえも、その指導者たちがそう言っており、その信奉者らがそれを確認しているために、真のものとなってしまうからである。このことが聖言を調べて、そこにその教義的なものが真であるか否かを見なくてはならぬことを示しているのである。このことが真理を求める情愛から為されると、そのときはその人は主から明るくされ、何が真であるかを、何処からかは知らないが、認めることができ、その人の中に宿っている善に応じてその真のものを確認するのである。もしこれらの真理がその教義的な事柄と一致していないなら、彼はその教会を乱さないように注意しなくてはならない。

 

 

22.その教会を乱さないように注意しなくてはならない

 

天界の秘義6047[3]

同上

 

 

23.信仰は記憶知により強められる

 

天界の秘義6047[4]

 

 その後、かれが確認し、かくてその教義的な事柄が信仰の真理であることを聖言から肯定するとき、そのときはかれがその得ている凡ゆる記憶知によって―それがいかような名前のものであれ、またいかような性質のものであれ―その教義的な事柄を確認することが許されるのである、なぜならそのときは、肯定的なものが遍く支配しているため、かれは一致している記憶知は受け入れはするが、そこに含まれている妄想のために一致してはいない記憶知は斥けてしまうからである、なぜなら信仰は記憶知により強められるからであり、それでたれ一人自分がその中に生まれた教会の教義的な事柄が真であるか否かを知ろうとする情愛から聖書を調べることを禁じられてはならないのである。なぜならかれはそれ以外の方法では明るくされることはできないからである。そのように行った後は何人も記憶知によって自分自身を強めることを禁じられてはいないが、しかしそれ以前ではそうしたことを為してはならないのである。これが信仰の諸真理を記憶知に、たんに教会の記憶知のみでなく、またいかような記憶知にも連結する方法であり、またその唯一の方法である。しかも現今ではこのように進む者は極めて少数である、なぜなら聖言を読んでいる大半の者は、それを真理の情愛[真理を求める情愛]から読みはしないで、かれらがその中で生まれた教義的な事柄を、それがいかようなものであろうと、聖言から確認しようとする情愛からそれを読んでいるからである。

 

 

24.聖言は教義がなくては理解されない

 

最後の審判とバビロンの滅亡14注C

 

教会の教義は聖言から発しなくてはならない(天界の秘義3464、5402、6832、10763、10765)。聖言は教義がなくては理解されない(9021、9409、9424、9430、10324、10431、10582)。真の教義は聖言を読む者たちの燈である(10401)。純粋な教義は主から明らかにされている者たちから発しなくてはならない(2510、2516、2519、9424、10105)。教義なしに聖言の文字の意義の中に止まる者は神的真理を理解することはできない(9409、9410、10582)。彼らは多くの誤謬へ導かれる(10431)。聖言から発した教会の教義から教え学ぶ者と、たんに聖言の文字の意義からのみ教え学ぶ者との相違(9025)。

 

 

25.教会の中にいる者はことごとく先ず教義的なものから信仰のものである諸真理を得る

 

天界の秘義5402[2]

 

 信仰のものである真理を得るには二つの方法があり、一つは教義的なものにより、他は聖言によって得るのである。人間がただそれを教義的なものによってのみ得るときは、彼はその真理を聖言から引き出した者たちを信じ、他の者がそのように言っているという理由からそれが真であると自分自身の中に確認するのであり、かくて彼はそれを彼自身の信仰から信じるのではなくて、他の者の信仰から信じるのである。しかし彼が聖言から自らその真理を得、それゆえそれが真理であることを自分自身の中に確認するときは、それをそれが神的なものから発しているために信じるのであり、かくてそれを神的なものから与えられた信仰から信じるのである。教会の中にいる者はことごとく先ず教義的なものから信仰のものである諸真理を得るのであり、またそのようにしてそれを得なくてはならないのである、なぜなら彼は未だ彼自身がその諸真理を聖言から認めることができるだけの充分な判断力を持っていないからである、しかしこの場合これらの諸真理は彼には記憶知以外の何ものでもないのである。しかし彼がその諸真理を彼自身の判断から観察することができるときになっても、それが真であるか否かを聖言から認めるために聖言に訊ねないなら、それは彼の中に記憶知として止まるのであるが、もし彼が真理を知ろうとする情愛と目的から聖言に訊ねるなら、そのときは、彼がそれを見出したときは、信仰のいくたの事柄を純粋な源泉から自ら得るのであり、またそれらは神的なものから彼のものとされるのである。こうした、またそれに似た事柄がここに内意にとり扱われているものである、なぜなら『エジプト』はこれらの記憶知を意味し、『ヨセフ』は神的なものから発した真理であり、かくて聖言から発した真理であるからである。

 

 

26.新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何事も意味していない

 

主イエス・キリスト65

 

黙示録には新しい天と新しい地という語が記され、後に見よ、わたしは凡ての物を新しくするという語が記されているが、それは今や主により新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何事も意味していない。

 

 

27.純粋な真理の教義は主から天界を通して私たちのもとへ来るのであって、他のいかような源泉からも来ない

 

主イエス・キリスト63

 

『聖い都エルサレム』により教義の方面のこの新しい教会[新しい教会の教義]が意味されており、それでそれは神から出て天界から降ってくるのが見られたのである、なぜなら純粋な真理の教義は主から天界を通して私たちのもとへ来るのであって、他のいかような源泉からも来ないからである。

 

 

28.諸々の教義は主によって聖言から啓示された諸々の真理の連鎖

 

真の基督教508

 

 然し新しき教会ではそれは全く相違している、そこにはその凡ゆる秘義に透徹し、それらを明白に理解し、かつそれらを聖言によって確認することが許されている。その理由は、その諸々の教義は主によって聖言から啓示された諸々の真理の連鎖であり、それらのものに対する合理的な証明は理解を益々発展させ、これを高揚して天界の光の中へ入れるからである。

 

 

 

 

29.教会が再び設立されつつある時には、善と真理との教義的なものは一つに集められねばならない、なぜならそれらのものの上に教会は建てられるからである

 

 

天界の秘義4197[7]

 

真理はことごとく二人または三人の証人の言葉の上に立って、一人の者の言葉に立ってはならないという表象的な教会に与えられている命令は一つの真理は善を確認しないが、多くの真理がそれを確認するという神の律法に基礎付けられているのである。なぜなら他の真理との関連性を持っていない一つの真理は確認を与えはしないが、幾多のものが共になると、一つのものから他のものが認められることが出来るため、確認を与えることが出来るからである。一つのものはいかような形も生み出しはしないし、かくていかような性質も見出しはしないが、連続して関連付けられている幾多のもののみがそれを生み出すのである。なぜなら一つの調子ではいかような旋律も生まれないし、ましてやハーモニーは生まれはしないように、一つの真理でもまた生まれはしないからである。

 

 

 

 

天界の秘義3436

 

彼が途方に暮れる所では、他の記事から理解を与えられる。

 

 

 

天界の秘義6222

 

一つの記事を他の記事と入念に比較する時、何を為さねばならないかを認識する。

 

 

 

天界の秘義3786

 

「家畜が共に集められる時ではありません」(創世記29・7)

これは教会の、また教義的なものの幾多の善と真理とが未だ一つに集められることが出来なかったことを意味している。

 

 

 

天界の秘義3786[2]

 

このことは教会が再び設立されつつある時には、全般的に教会にも言われるのである、即ち善と真理との教義的なものは一つに集められねばならないのである、なぜならそれらのものの上に教会は建てられるからである。更に教義的なものは互いに関連し、また互いに相互的な関係を持っており、それでそれらのものが先ず一つに集められない限り、欠陥があり、欠けているものは人間の合理的なものにより補われねばならないのである。そしてこの人間の合理的なものは、霊的な神的な事柄においては、その合理的なものの結論がそれ自身から発している時は、いかに盲目であり、またいかに誤ったものであるかは前に充分に示したところである。こうした理由から、善と真理との教義的なものをすべて含んでいる聖言が教会に与えられているのである。この点では、再生しつつある人間の場合では、全般的な教会の場合も個別的な教会の場合も同一である、なぜならこのような人間は個別的な教会であるからである。教会に属している善と真理との教義的な事柄は、人間が再生する以前にその人間の中に先ず共に存在しなければならないことは前に示したところである。それでこのことが『見なさい、日はまだ大分あります、家畜が共に集められる時ではありません』によりその内意に示されているところである。

 

 

 

天界の秘義679

 

それ故『自分自身のもとに集めること』が諸真理を意味していることは明らかである、なぜなら『集めること』は幾多の物が集められている記憶の中の幾多の物について述べられているからである。そしてこの表現はさらに諸善と諸真理は人間が再生する以前に人間の中に集められなくてはならないことを意味しているのである、なぜなら主は諸善と諸真理とを手段としてそれらを通して働き給うのであり、その諸善と諸真理とが共に集められなくては、すでに述べたように人間は決して再生することが出来ないからである。それでこのことから『それをあなたと彼らの食物としなくてはならない』が諸善と諸真理を意味していることが生まれて来る。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/2巻上P124

 

カリスマを受けた人々の一致によって、人類が長い間待ち受けた善い果実を与えることになるでしょう。アヴェ、マリア!

 

 

 

霊界日記4775

 

 次いで私はそこから右の方へ導かれたが、そこでまた人々が啓示を話し、期待しているのを聞いた。これらの者たちと、天使たちは話して、主について教え、また以下のことを教えもした、即ち、あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう、と。

 

 

 

 

30.霊的な善と真理とは何であるかは、聖言からのみ知ることが出来る

 

 

天界の秘義3768

 

それでここに取り扱われている主題は聖言とそこから派生してくる教義である、なぜなら導入と再生とは聖言から発している教義により遂行されるからである。これらの事柄が『井戸』によりまた『羊の三つの群れ』により意味されているため、それでこれらは歴史的に記されているが、それらにこのような事柄が意味されていなかったなら、それらは神的聖言[神の聖言]に記されるには余りにもたあいのない内容のものとなったであろう。それらに包含されているものは明白である、即ち、善と真理との記憶値と教義の凡ては聖言から発しているということである。

 

 

天界の秘義3768[2]

 

自然的な人は善と真理とはいかようなものであるかを実に知り、また認めることもできるが、しかしそれは単に自然的な民法的な善と真理に過ぎないのであって、霊的な善と真理とは知ることが出来ないのである、なぜならこれは啓示から、かくて聖言から発しなくてはならからである。例えば、人間は、自分の隣人を愛さなくてはならない、神を拝さなくてはならないということを、たれもが持っている合理的なものから知ることが出来ようが、しかしいかようにして隣人を愛さなくてはならないか、またいかようにして神を拝さなくてはならないかは、かくて霊的な善と真理とは何であるかは、聖言からのみ知ることが出来るのである、例えば善そのものが隣人であり、従って善の中にいる者たちが隣人であり、しかもそれはその者たちがその中にいる善に応じているのであり、主は善の中におられるため、善が隣人であり、それで善の愛の中に主は愛されるということは聖言からのみ知られることが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義3768[3]

 

 同じように聖言を持たない者は、善はことごとく主から発しており、それは人間のもとへ流れ入って、善の情愛[善に対する情愛]を生み、この情愛が仁慈と呼ばれていることを知ることはできないし、また聖言を持っていない者は宇宙の神は誰であるかを知ることもできないのであり、神が主であられることはかれらから隠れているが、それでも情愛の、または仁慈の最も内なるものは、従って善の最も内なるものは主を注視していなくてはならないのである。このことから霊的な善とは何であるかが明白であり、またそれは聖言から知られなくては知られることができないことも明白である。異邦人については、かれらは世にいる限り、実際このことを知りはしないが、それでもかれらが互に相互的な仁慈に生きている間に、そのことから、他生でこのような事柄について教えられることができるような能力を取得し、また容易にそれらを受け入れてそれらに浸透されるのである(2589‐2604番参照)。