モラビア派

 

1.モラビア派

2.ツィンツェンドルフ

 

 

 

 

 

1.モラビア派

 

続 最後の審判13章

霊界のモラビア派

 

続 最後の審判86

 

 ヘルンフーターともまた呼ばれているモラビア派の者と私は多く語り合った。彼らはユダヤ人から程遠くない谷間に最初現れたが、しかし点検され、摘発された後で、無人境に移された。彼らは点検されていた時、巧みに心を捉える方法を知っていて、以下のように言った。私たちは使徒教会の残りの者である、それで互に兄弟として挨拶している、私たちの内的な秘義を受け入れる者には母として挨拶している、また私たちは他の者よりも良く信仰を教えており、主は十字架にかかられたので、主を愛し、主を小羊、また恵みの御座と呼んでいる、と。彼らはこのようなことを他に語って、それにより、基督教会そのものは彼らのもとに在るという信念を起こさせる。彼らのなめらかな言葉に捉えられて、彼らに近づく者たちは、彼らから思い切ってその秘義を明らかにされてよい者がどうかを調べられるために点検され、もしそれを明らかにされては良くない者であれば、明らかにされないが、明らかにされても良いものであるなら、明らかにされる。こうしてその主についての秘義を他に洩らす者は警告されたり、威嚇されたりする。

 

 

続 最後の審判87

 

 彼らは霊界でも〔前世と〕同じことを行ったため―内的に彼らはその〔言葉の〕ようには考えてはいなかったことが認められたのではあるが―その内部が明らかにされるため、彼らは最低の天界へ入れられた。が、そこの天使たちの仁慈と信仰とのスフィアに堪えないで、逃げ去った。その後、彼らは世で自分たちのみが生きて、第三の天に入るであろうと信じていたので、またこの天界へも上げられたが、しかしそこの主に対する愛のスフィアを認めると、内的な苦悶に襲われ、死の苦しみに在る者のように、のたうちまわり始め、それで自らを真逆様にそこから下へ投げ付けた。かくて内的には彼らは隣人に対する愛と主への愛とを些かも抱いていないことが先ず明らかにされた。その後彼らは思考の内部を点検することを務めとしている者たちへ送られたが、これらの者は彼らについて、彼らは主を殆ど尊んでおらず、仁慈の生活を嫌忌する程にもそれを斥け、旧約聖書の聖言を無用なものとし、福音書の聖言を軽蔑し、ただ好き勝手に、パウロから信仰のみについて何かが言われている所を選び出しており、それが彼らの世から隠している秘義である、と語ったのである。

 

 

続 最後の審判88

 

 後に、彼らは主をアリウス派の者が承認するようにしか承認していないこと、彼らは「予言者の書」と「福音書」の聖言を軽蔑し、仁慈の生活を憎んでいることが明らかにされた―が、この三つのものを支柱のようにして全天界は依存しているのである。その後かの秘義を知っていると同時にまたそれを信じていた者は、基督教会の三つの本質的なもの、即ち、主の神性、聖言、仁慈を斥ける反キリストとして裁定され、基督教世界の外側で、クエーカー派の者に近い南方の端に在る荒野へ追放された。

 

 

続 最後の審判89

 

 ツィンツェンドルフが死後霊界に来て、前の世にいた時のように話すことを許された時、私は彼が以下のように主張しているのを聞いた、自分は天界の諸々の秘義を知っている、自分の教義を奉じていない者は何人も天界には入らない、また、救いのために善い業を為す者は全く呪われた者であり、自分はこのような者よりはむしろ無神論者を自分の集会に入れるであろう、と。主は十字架の苦しみに耐えられた故、父なる神によりその子として採用されたのであるが、依然ただの人間に過ぎないと、彼は言った。主は父なる神により身篭られ給うたと彼は言われると、自分はそのことは自分の好きなように考えていると答えたが、ユダヤ人にように思い切ってその考えを明らかにしなかった。更に、私は「福音書」を読んでいると、彼の追随者から多くの中傷を認めたのである。

 

 

続 最後の審判90

 

彼らは、自分たちには知覚があり、そこから自分たちの教義を内的に確認すると言っている。しかし彼らの知覚は幻想的な霊らから来ていて、その霊は人間にその宗教的な信条を凡て確認させ、またモラビア派のように己が宗教的な信条を愛して、それについて大いに思索する者のもとには更に密接に入って来ることが彼らに示された。これらの霊もまた彼らと話し、彼らは相互に他を認め合ったのである。

 

 

 

最後の審判と霊界の諸相 遺稿294−302

 

 

 

霊界日記4785

 

 

霊界日記4791−4810

 

 

霊界日記4813−4817

 

 

 

 

 

 

 

2.ツィンツェンドルフ

 

霊界日記5993

 

霊界日記5995

 

霊界日記6060

 

 

霊界日記6061

 

 

霊界日記6062

 

ツィンツェンドルフは抽象的な観念の中にいたが〔抽象的に考えていたが〕、それは彼がたれかに話しかけているようではなくて、自分自身の中で考えているか、または何一つ他に洩らしはしない友と話しているかのようであった。彼は、自分は主については他の人間について考えるようにしか考えることは出来ないし、主は神であるとは考えることは出来ない、と言ったものの、神的なものが主の中に在る、とは言ったが、それは他の人間のもとに在るような神的なものであるという意味であった。彼はまた、主は非常に単純な方法で話し、賢明には話さなかったが、パウロは更に賢明に話した、とも言った。しかし彼は以下のことを示された、即ち、主は、まさしく予言者たちにより話されたように、幾多の相応したものにより、神的な知恵そのものから話されたのであり、従って、主御自身の神的なもの〔神性〕から話されたのであり、パウロはインスピレーション[霊感]を受けて話したことは事実ではあるが、予言者たちと同じようには話さなかったのであり、予言者たちは一つ一つの言葉もことごとく口授されたのである、しかしパウロのインスピレーション[霊感]は、彼が己がもとにある幾多のものに従って、流入してくるものを受けたということであって、それは全く異なったインスピレーションであり、相応したものによる天界との連結を全く持っていないものである、と。

 

 

 

霊界日記6068

 

霊界日記6074

 

 ツィンツェンドルフらは、旧約聖書の聖言を斥け、福音書を一種の軽蔑をもって読み、パウロ書簡のみを尊重したのである。