『スヴェーデンボリ叙事詩
その生涯と著作』
シリエル・オドナー・シグステッド著
鈴木泰之訳
スヴェーデンボリ出版
2012年12月25日初版発行
表紙裏面より
「本書は第一部『自然界の研究』第二部『霊魂の探求』第三部『神の国』から成り、スヴェーデンボリが自然界の探求から始めて、霊魂の存在を身体の中に求めながら、ついに神の国の“しもべ”となったその一生が、その広範な活動や業績、生活背景とともに、くわしく描かれています。スヴェーデンボリの真の姿を知るための決定版ともいえる伝記です。」(スヴェーデンボリ出版)
本書はシグステッドにより1952年に書かれた(著者まえがきより)スウェーデンボルグの伝記。原典は1981年ロンドンのスウェーデンボルグ協会発行となっています。非常に詳しく書かれており、日本語で800ページの大著です。
インターネット記事でスウェーデンボルグが「排水溝へ走っていき、服を脱いで泥の中を転げ回り、群集に金銭を投げた」と書かれている件について、それは事実無根であることをこの本にもとづいて反論することができました。心より感謝申し上げます。下記はそれに関する部分からの抜粋メモの一部です。
2.マセシウス牧師
3.当時から反論されている
4.ウェスレー
5.スウェーデンボルグの最期
6.許されたなら、もっと多くのことも言えました。
1.モラビア派との関わり
スヴェーデンボリ出版/シグステッド著/『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P314
この全期間、スヴェーデンボリはオランダに滞在していた。『霊魂の王国』の出版に精力を注ぎ、その最初の二巻が印刷された。1744年の春、船の夢を見るが、これは著述をイギリスで続けたほうがよいとの象徴であり、それで三巻目はイギリスで出版しようと決めた。出発の前に、友人のプレイス大使をもう一度訪ね、最初の二巻の著作を贈呈している。アムステルダムの銀行グリル社からクレジット(信用貸し)を取り付け、五月十三日の月曜日、アムステルダムの下宿を引き払い、イギリスへ出発した。ハリッジに到着するのは五月十五日―これはイギリスの暦では五月四日であった。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P315
到着した夜、スヴェーデンボリは数枚の非常に綺麗なデザインが描かれた銅板の夢を見た。これは彼が非常に美しいものを生み出そうとしていたことを意味した―次の作品『神の崇拝と神の愛』の前兆である。
別の夢では敬虔な靴職人について、「旅で一緒になり、そのときその人のもとに下宿した」と言っている。旅行中に出会った「敬虔な靴職人」とは、オランダにいる子たちを訪ねた後、ロンドンに帰る途中のモラビア派信徒ジョン・セニフであった。スヴェーデンボリは自分が静かに暮らすことのできる家族を推薦してくれるよう頼み、ロンドンのドイツ人信徒協会の幹事であったセニフ氏は、まず自分の家に連れて来て、その後、フリート街の金時計の彫刻師であるジョン・ポール・ブロックマーを紹介した。四日後、スヴェーデンボリは彼のところに下宿した。ブロックマーもまたモラビア派信徒であり、彼の家で兄弟団の集会がもたれていた。一時、スヴェーデンボリはこの人たちとフェタ通りにあるモラビア派の礼拝堂へ同行したが、その団体には加わらなかった。彼はスウェーデン教会に出席し、そこで聖餐に与り、献金している。
モラビア派信徒たちについて彼は次のように言及している―
いろいろな摂理によって、私はモラビア兄弟団に所属する礼拝堂に導かれた。自分たちは真のルター派である、また彼らが互に語るところでは聖霊の働きを感じる・・・と主張している。私はまだ彼らの兄弟団に加わるのは許されていないのであろう。彼らの礼拝堂は三か月前に私に示されていた、これをあとになってちょうどそのままに見たのである。また、全員が聖職者のような服装であった(五月十九〜二十日)。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P316
スヴェーデンボリは隠遁生活を送っていたが、ブロックマーとは友好的な関係を持ち、しばしば談話している。ブロックマーは疑いもなく強烈に霊的なものを持ったこの下宿人に好奇心をそそられた。われわれは容易に、スヴェーデンボリの高められた状態がその家族に何か強烈なものを伝達したであろう、と推測できる。ある時、女中がベッドや部屋の掃除をしようと入ってくるのを拒んで、部屋の扉を開けなかったことがあった。荘重な大著に携わっているときには一人にしておいてほしい、と彼は言った。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P316
モラヴィア派の信徒たちにとって、彼が自分たちの教派に加わらなかったことは期待外れだったであろう。彼の経験している驚くべきことは、彼らの活動範囲外であり、彼らはそのことに憤慨したのかもしれない。七月にブロックマーの家を去り、ほかの下宿に移るが、ブロックマーとそこの女中が彼の研究を妨げ、彼の論文をいじる癖があったのがその理由の一つとされている。
スヴェーデンボリの去る前、悩ましい事件が起こり、このことはだいぶ時が経ってから、また大きく間違えられ、スヴェーデンボリはそのとき狂気であった、とのうわさを引き起こした。(エピローグ参照)
時計彫刻師であったブロックマーは宝石商人たちとも商売をしていたが、彼らの中に不正直者がいたのかもしれない。
話によれば、二人のユダヤ人が、スヴェーデンボリが部屋でぐっすり寝込んでいるのを見て、それをよいことに彼の金時計を盗んだ。スヴェーデンボリはあとになって枕元に時計が見当たらないのを知って、その人たちに返すよう要求した。
「あなたがエクスタシーの状態にあるとき、自分で時計を引っつかみ、通りに出て、どぶに投げ込んだのを覚えていないのですか?」とその人たちは言った。
「私の友たちよ、あなたがたはその言葉が間違いだと知っている」がスウェーデンボリの返事であった。その後、二人の悪党を裁判に訴えたら、との助言を受けたが、彼は、「手間取る価値はありません」と言った。「彼らの行動によって、私以上に彼ら自身が傷ついている。主が彼らに哀れみを持たれますように」。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』P524
ロンドンでは『月評』はその新しい著作を辛辣にあざ笑った。「我々の読者は、劇場の作品が、陛下の命令で、また上流階級のある方々の特別な願いで上演されたことは聞かれたかもしれないが、しかし“主の明らかな命令”によって出版された本のことは以前には決して聞いたことがないであろうと思う・・・」。その記事は、「ミドルセックスの陪審員にこの著作の中味を審理させるなら、『偉大な才人は狂喜にあまりに近い同類である』ので、彼らは全員一致で、気違い沙汰である、との評決をもたらすことを疑わない」と推測して終っている。
この書評は恐ろしい結果を生んだ。このことは大衆に『続 最後の審判』を注目させることになったが、その中では、当時のモラヴィア教徒たちの霊的な状態が描かれていた。著者は、霊界でモラヴィア兄弟団の者、ヘルンフート派の信者と多くの会話をした、と述べた。彼らは自分たちが使徒教会の残りの者であること、そして兄弟としてお互いに挨拶し、他の者たちよりもさらによく主を愛していると主張し、自分たちはそれゆえ、真のキリスト教徒である、などと口達者に話した。しかし、その間ずっと、彼らの内なる思考は反対方向に走っていた。彼らは隣人への仁愛を、また主への愛も、少しも抱いておらず、旧約聖書を福音記者にわずかしか用いられなかった価値のないものとした。スヴェーデンボリは、あの世で彼らの秘密の教義が暴かれると、モラヴィア教徒たちはキリスト教世界から追放され、荒れ地へ送られた、と言明した。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P525
その著作の著者としてスヴェーデンボリの名前は述べられていない、しかし、彼の以前のモラヴィア教徒の知人は、それがだれの著作であるか非常によく知っていた。ロンドンでのスヴェーデンボリの親友の一人、クリストファー・スプリンガーは以下の事情をわれわれに教えてくれる。スヴェーデンボリの以前の下宿の主人であるブロックマーは「彼が『霊界に関する続編』の記事で、モラヴィア兄弟団に反抗的なことを書いたことを忘れることができなかった」、そこで自分の宗派の者に、傷つけられたことに対する復讐を誓った。「宗教心の強い人は、暴露されることを好まない」とはスプリンガーの寸評である。激怒したモラヴィア教徒たちは、スヴェーデンボリの死後にその恨みを晴らした。(エピローグ参照)。
2.マセシウス牧師
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P644
フェレリウスは言っている―
ある者はスウェーデンボリ監査官を風変わりで気まぐれな者と思うかもしれないが、しかしこれとまったく正反対である。人前では非常に気さくな愉快な人物であり、持ち上がったあらゆる話題について、仲間の考えに自分を合わせて語り、尋ねられないかぎり、決して自分の見解を述べない。しかし、誰かが自分をからかおうとして、無礼な質問をしていると認めるとき、直ちに、質問者が、それについてもっと賢くないなら、黙ることを余儀なくさせられるような返答をした。
アーヴィド・フェレリウス師は、ヴェストロゴティア出身で、スカラのギムナジウム〔高等学校〕に通ってから、1761年以来、プリンセズスクエアにあるスウェーデン教会の牧師である四十三歳の人物であった。前記の報告は、同師の手紙の中に書かれたスウェーデンボリについての証言から得ている。師は神学著作の肯定的な読者であった。それと比べて、師の補助牧師アーロン・マセシウス師は、同じくその著作を贈られたが、決して読もうとしなかった。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P645
フィンランド生れで、二十五人の子の最も年下であり、フェレリウスより十歳ほど若かったマセシウスは、その先輩の見解に強く敵対し、後にロンドンの礼拝堂を乗っ取り、受け継いだが、最後には発狂し、会衆によりその職を解かれた。マセシウスは、スウェーデンボリに対する中傷的な非難の発起人であり、これをその死後に広めたのであった。
スヴェーデンボリ出版/シグステッド著/『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』P748
(エピローグ)
それから、ウェズレーは自分の『アルミニウス信徒誌』の1781年1月号で、また1783年にも、「偉大な人物の実話」を公表するようになるが、その話題はスヴェーデンボリの同国人から与えられたものである―その人とは他でもない〔スヴェーデンボリに〕敵意を持つ牧師マセシウスであった! この中傷的な記事は、スヴェーデンボリが「1743年に」(もちろん、1744年である)モラヴィア兄弟団のブロックマーのところに滞在している間、彼が狂喜の攻撃にさらされていたかのように描いている。マセシウスの言うには、ある晩、スヴェーデンボリが自分をメシアだと宣言し、裸で泥の中を転げ回り、ポケットにつめ込んだ金を群集に投げ与えるといったことやそれに類することをして、狂っているのに違いないことがわかった、とのことである。そのすぐ後に調査した人によって、このすべては、ここで深入りする必要のないまったくばかげたものであり、かの有名な著者への不信とその信奉者の落胆を目的とした中傷的な非難であったとして、その誤りは完全に証明されている。(316、317、525ページ〔第二十三章「転換期」、第三十三章「竜に似た者」参照〕)。
3.当時から反論されている
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P749
このことはちょうどスヴェーデンボリがロンドンに住んでいた間の、彼が『夢日記』の中で注目すべき心霊現象の変化を記録していた1744年のことであった。そしてこれは疑いもなく普通でない行動を伴っていたのかもしれない。しかし、彼の心は、錯乱とはほど遠く、澄んでいて天上の高みに上げられていた。このことは問題となるまさにこの時期に、その輝かしい解剖学上の著作や崇高な『神の崇拝と神の愛』を著述していたことから明らかである。
スヴェーデンボリに対する誤った非難の結果、オランダで「スヴェーデンボリは、その死の二、三時間前、自分の書いたものすべてを取り消した」とのうわさが持ち上がったとしても驚くことではない。この悪意あるうわさを滅ぼすために、ロバート・ハインドマーシュは、シアースミス氏を呼び、問題となって報じられていることに何か根拠があるかどうか遠慮なく述べてくれるよう求めた。
リチャード・シアースミスとその後妻―以前、スヴェーデンボリが最後の病にあったとき仕えたエリザベス・レイノルズ―は、その紳士たちに、断固たる言葉で、報じられていることはまったくの虚構で、悪意のある人物によって創作されたに違いないことを請け合った。それゆえ、シアースミスはロンドン市長の目の前で、オランダからの誤った根拠のないうわさを論破して、自分たちの下宿人の最後の日々についての宣誓供述書に進んで署名した。ウェズレーは、最初の記事から十五年後の1796年に、自分の誤った非難を、さらにもっとはっきりと極端な形で報じた。明らかに、マセシウスの記憶は時間の経過とともに鋭くなったのである! そのとき、トマス・ハートリ、ベネディクト・シャスタニエ、それと他の二人は、その非難を調査してみた。彼らの報告は、スヴェーデンボリを取り巻く人々によって、その振る舞いや行ないに異常なものは何も認められなかった、というスヴェーデンボリ自身の主張の正しさを完全に証明した。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』P750
その調査人たちは、スヴェーデンボリが実際に一度だけ、ロンドン滞在中に病気になったかもしれないことを見いだしたが、しかしこれは『天界の秘義』第一巻を終了した後の1749年のことであり、こうして問題となっている年よりも五年後のことであった。彼がその冬をドイツの有名な温泉場であるアーヘン(エクスラシャベル)で過ごしたことは、ロンドンの医者の助言による可能性が非常に高い(393ページ〔第二十七章「天界の秘義」末尾参照〕)。しかし、アーヘンにいる間、スヴェーデンボリは『秘儀』の第二巻を書いており、それらの原稿がたまるとロンドンの出版社に送っていた。彼自身が述べているように、この時期に、彼を取り巻く人々に、その心の錯乱は一度も認められなかった。異常な照らしを経験して(1745年)から二年後、彼は、鉱山局でそこの仲間に自分の振る舞いにいささかの変化も観察されずに、自分の仕事を再開している。スウェーデンの説教者マセシウスが、監査官スヴェーデンボリは当時狂っていた、とあえて宣言したこと―三十六年後に―これは、その不幸な牧師自身が実際に1783年、ロンドンのスウェーデン教会で司式中に、まさに説教を始めようとしているときに、精神異常に襲われた事実を考慮するとき、信じられないことに思えてしまう。このことは、ベリストローム氏とスプリンガー氏によって確かめられている。これに関連して、彼らはヒッポクラテースがある哲学者について述べた古典的な例を引用している(放埓なアテナイ人たちはその哲学者の教えを恨んで、彼は狂っていると宣言した)―「狂っていたのは、その哲学者でなく、アテナイ人たちであった!」
4.ウェスレー
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P734
フランシス・オーケリ師はモラヴィア教会の執事であり、メソジスト教会の創設者ジョン・ウェズレーの友人であった。
オーケリは、1678年(1768年が正当との訂正あり)の早い時期にスヴェーデンボリの著作を知るようになり、その教えの多くは重要な真理であると認め、非常な感銘を受けた。しかし『真のキリスト教』は理解不可能であることを告白した。
スヴェーデンボリは、冷静かつ慎重に、「神の照らしがなければこの著作を理解することはできません」と彼に語った。訪問の後、オーケリはジョン・ウェズレーに、スヴェーデンボリについて疑いを表明する手紙を書いた。その疑いに触発され、ウェズレーは自分自身でも真剣に考察するため、神学著作のいくつかを取り上げ、その後、自分の日記に書いている―「彼(スヴェーデンボリ)は、かつて紙の上にペンを滑らせ、活発に、人を楽しませた最も独創的な狂人の一人である。しかしその覚醒した夢は、聖書と常識からは非常にかけ離れており、人は、容易に『親指トム』や『巨人殺しのジャック』の物語りのように受け取るであろう(11)」。
スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作 P735
二月のある時、ジョン・ウェズレーはスウェーデンの見神者から驚くべき手紙を受け取った―
「前略、私は霊たちの世界で、あなたが私と話し合いたいと強く願っていることを知らされました。あなたにお会いできれば、よろしかったらあなたが私を訪問してくだされば、嬉しく思います。早々。
あなたの卑しいしもべ、エマ・スヴェーデンボリ」。
この手紙が届いた時、ウェズレーは国中を巡る信仰復興運動の旅に出かける前であり、何人かの聖職者たちと会議中であった。 彼らの間にサミュエル・スミス牧師があり、彼の報告が(手紙を含めて)この物語の唯一の根拠である。ウェズレーはスヴェーデンボリの手紙に非常に驚いた、とスミスは言っている。ウェズレー師はこれを集まった聖職者たちの前で読み、自分がスヴェーデンボリと話したいと強い望みを持っていたことを正直に認めた。しかし、「どうやって、それを知ったのだろう、私にはわからない、そうした願いをだれにも語ったことが一度もないのだから」と言ったと報じられている。
スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作 P736
ウェズレーは、スヴェーデンボリの手紙に対し、ちょうどその時は、六か月間の旅行の準備で大わらわであると説明し、ロンドンに帰ったすぐ後で、スヴェーデンボリ氏を訪問する喜びにあずかりたい、との返事を書いた。
これにスヴェーデンボリは、ウェズレー師の申し出た訪問について、「私は翌月の二十九日に霊たちの世界に入らなければなりません、もう決して戻りませんので、その時は遅すぎるでしょう」と返事をした。
エリザベス・レイノルズもまた、スヴェーデンボリは亡くなる三週間前、自分の死の正確な日付を予言した、と報じている。彼女は、「あたかも休日を得て、どこかのお祭りに出かけるかのように、喜んでいました」と述べた。
シグステッド/スヴェーデンボリ叙事詩P746
スヴェーデンボリの死の知らせは、メソジスト教会の指導者ジョン・ウェズレーに届いた。そのとき彼は、友人のリチャード・ホートン郷士を訪問してリヴァプールの近隣にいた。ホートンはスヴェーデンボリの教えに好意的な印象を持ち、この問題についてトマス・ハートリ師と手紙のやり取りをしていた敬虔な紳士である。そのときのウェズレーの心は明らかに、むしろスヴェーデンボリの熱意に強力に影響されたものであって。なぜなら、ホートンは、ウェズレーがそのときになした重要なコメントを繰り返し述べているからである―「今や、われわれは、神学に関するわれわれのすべての著作を燃やそうではないか。神はわれわれに天から教師を送られた。われわれは、スヴェーデンボリの教えの中に、われわれが知るべきに必要なものすべてを学ぶであろう」。
シグステッド/スヴェーデンボリ叙事詩P746
リヴァプールの事件は1772年4月初旬に、こうして、ウェズレーがスヴェーデンボリから彼の死の日を知らせる異常な知らせを受けたと言われる六週間以内に起こったに違いない。もちろん、予告された日に実際にその人間が死んだことは、超自然的な知識を主張する彼を支持する者には驚くべき証明となった。しかし、少し後で、同じくスヴェーデンボリの他の主張、すなわち、“奇跡はだれも確信させない”との主張が明らかに証明されることともなった。なぜなら、われわれが知るように、ウェズレー氏は、スヴェーデンボリの教えが自分の内なる確信を妨げることを見いだすとすぐさま、そこからの好ましい影響をすべて捨てることができたからである。
シグステッド/スヴェーデンボリ叙事詩P748
このことから、ウェズレーはスヴェーデンボリの著作をもっと注意深く調べることになり、その時、『天界と地獄』に、例えば「神は唯一の位格である」といったことを主張する本質的に誤っている危険な数多くの見解が含まれていることを見いだした。ウェズレーは、天界についてのスヴェーデンボリの考えは、「低級で卑しく、ちょうどイスラム教の楽園にぴったりである」と認めた。一方、地獄についての概念の中には恐ろしいものは何も残っていなかった。「最初に彼は、燃え尽きることのない火を消し、そこに[地獄の]火はないことをわれわれに保証した・・・次に彼がわれわれに教えることは、断罪された者すべてが彼らの好きなように楽しみを享受していることであり・・・」。こうした教えは、悲惨な結果をもたらすに違いない! 彼は、「クルーズ氏やクックワーズィといった敬虔な者たちに、この狂人の夢の世界の案内役をする前に、これらの事柄を心静かに熟慮するよう」望んだ。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P737
スヴェーデンボリの死の二日前、別の友が見舞いに訪れた。居酒屋キングズアームズの主人エーリク・ベリストレームである。ベリストレームは、「神は麻痺で私の腕の働きを取り去ることをよしとされた。私の身体は何の役にも立たない、地に埋められるしかない」と言われた。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P738
ベリストレームが、「秘跡を受けますか」と尋ねたところ、だれかが、スウェーデン教会の司式牧師のアーロン・マセシウスを呼ぼうと申し出た。しかし、スヴェーデンボリは秘跡をこの人物から受けることを断った、マセシウス牧師は、この監査官は狂っているとのうわさを広めたからである。
ベリストレーム、「他の聖職者、フェレリウス牧師を連れてきましょうか」と尋ねた。彼は病気の間に何度も訪ねてきてくれていた。
「そうしてください」。
ベリストレームがそのスウェーデン人の牧師と一緒に戻ると、スヴェーデンボリは微笑みをもって迎えた。
「ようこそ、牧師さま! 神は今、この数日間戦わなければならなかった悪霊たちから私を救ってくださいました。今では、善良な霊たちがまた戻ってきました!」
「あなたは、ご自分が死んでゆく、と思いますか?」と問い掛けたフェレリウスに、スヴェーデンボリは答えた、
「そうです」。
それで、聖餐式の準備をしながら、フェレリウスはハートリ氏が前の機会にしたのと同じ、しかし少し違った形の質問を発した。フェレリウスは、「多くの人々が、あなたが新しい神学体系を発表した唯一の目的は名声を得るため、と考えています、もしそうなら、あなたの発表されたことの全部、または一部を取り消すなら、それはよいことです」と述べた。
これらの言葉を聞くと、床から半分起き上がり、健やかなほうの手を胸に置き、非常に真剣になって言った―
「あなたが目の前に私を見るように、そのように私の書いたすべてのものは真実です。許されたなら、もっと多くのことも言えました。あなたが永遠の世界に入られたなら、あらゆるものを見るでしょう、その世界で、あなたと私は多くのことを語り合うでしょう」。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P735
そのとき、フェレリウスは、主の聖餐を受けられるかどうか訊ねた。
「感謝して」と答え、自分は他の世界の一員であるので、この秘跡を必要としないが、それでも上方の教会とこの世の下方の教会の間に存在する密接な関係を示すためにこれを受けることを付け加えた。スヴェーデンボリは、このとき、フェレリウスが聖餐についての自分の教えを理解してくれたことに安堵した。それから、その聖職者は彼に、自分が罪人であると認めるか、尋ねた。
スヴェーデンボリは、「もちろんです、この罪深い身体をつけているかぎり」と言った。
それから、非常に敬虔な態度で、手を組み、罪の告白を唱え、秘跡を受ける準備をした。聖職者に、「祝福の言葉を述べて、他の形式的な言葉は省いてください。私にはその意味がよくわかっておりますから」と話した。
フェレリウスはそうした。その配慮に感謝して、スヴェーデンボリはほんの少し残った一揃いの大著『天界の秘義』を贈呈し、「おそらく一般の人から受ける、また特に同僚のアーロン・マセシウスから受ける反対は気にしないで」、新しいエルサレムの教えを心に抱くよう勧めた。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P740
これはスヴェーデンボリの死の前の金曜日のことであった。シアースミス氏はその日付は確かなものであるとしている、聖餐用のワインの値段をメモするとき、その日付を記録していたからである。
予言された日の三月二十九日の午後、シアースミス婦人とエリザベスは床の脇に座っていた。平安な春の時候、安息日の終わりであった。しばらくの間、ロンドンの鐘が鳴り、クラーケンウィルの緑地の小鳥たちの夕方のさえずりに包まれて、人々を夕拝へと呼んだ。
スヴェーデンボリは時計の打つ音を聞き、何時か尋ねた。皆が「五時です」と答えると―
「それは結構。ありがとう。神があなたがたを祝福しますように!」彼は穏やかなため息をつき、静かに息を引き取った。
主のしもべは、その使命を完了し、この世を去った。机には、はるか遠くまで駆け巡り、深く耕したペンが置かれていた。そのそばには未完の原稿があった―
「全キリスト教会へ語りかける新しい教会への招待、人々は主のもとに行き、主に会うべきであるとの勧告・・・。これから人々は福音派、改革派、まして、ルター信奉者、カルヴァン主義者と呼ばれてはならず、キリスト教徒と呼ばれるべきである」。
『スヴェーデンボリ叙事詩 その生涯と著作』 P738
それで、聖餐式の準備をしながら、フェレリウスはハートリ氏が前の機会にしたのと同じ、しかし少し違った形の質問を発した。フェレリウスは、「多くの人々が、あなたが新しい神学体系を発表した唯一の目的は名声を得るため、と考えています、もしそうなら、あなたの発表されたことの全部、または一部を取り消すなら、それはよいことです」と述べた。
これらの言葉を聞くと、床から半分起き上がり、健やかなほうの手を胸に置き、非常に真剣になって言った―
「あなたが目の前に私を見るように、そのように私の書いたすべてのものは真実です。許されたなら、もっと多くのことも言えました。あなたが永遠の世界に入られたなら、あらゆるものを見るでしょう、その世界で、あなたと私は多くのことを語り合うでしょう」。