あこがれの信州暮らし 2012

あこがれの信州暮らし その110(2012年12月)

いったい誰が責められるべき?

安曇野は11月後半の連休頃から12月初旬が漬け物シーズンまっただ中。あちこちの畑で野沢菜を収穫する人の姿が見られます。農協や道の駅などの店先にも束ねた地大根や野沢菜がうずたかく積まれ、糠や粗塩、乾燥トウガラシやザラメなどの調味料もお店の一角を占領しています。子どもらが巣立ち夫婦2人だけになったわが家ですが、今年も無農薬有機栽培で育てた野沢菜(25kg)を大樽に漬け、2週間干しておいた漬け物用の地大根(15kg)をたくあん漬けにしました。あ~っ!漬け物を仕込み終えたあとの、この解放感といったら何とも形容し難い!! 11月は週末ごとに人参や青首大根、太ネギ(松本一本ネギ)やキャベツなどの冬囲いをして、あとの畑に残るのは白菜(30個)とブロッコリーの脇芽のみ。これを今週末に収納し、堆肥をすき込んで来春の畑の準備をすれば、いよいよ待望の農閑期です。うふふ、私は畑じまいのこの時期がいちばん好きな季節。

4月初旬から11月末まで休みなくフル稼働していた畑も、これから4ヶ月ほどはお休みです。この時期、穏やかな晴天の日にはあちこちの畑で煙がたちます。畑の作物を収穫した後の枯れた茎や葉、剪定した枝、落ち葉などを焼くためです。北アルプスをバックに晩秋の空に大きく立ち上る煙。壮大ないい眺めです。今どき、こんなに派手に野焼きができるところも珍しくなってきているでしょうね。ずいぶん遠くの方で燃やしておられても、風向きによってはその煙がわが家を直撃することもあるんですが(ゴホンゴホン)、自然界のものが燃やされているのであれば、確かに煙いですが不快にはならない。ところが、時々「こりゃマズイ!」と避難を余儀なくさせられることもあります。畑や庭の自然界のものに混じって、明らかにビニール系のものを含むゴミが燃やされているんです。今やスギやヒノキだけでなくイネ科などの花粉も感知できる私の鼻ですからね。変なモノが混じっていると鼻の奥がツ~~~ンとして頭痛がし始め、涙まで出てきます。

もちろん、行政はゴミの野焼き禁止を広報紙や行政無線を通じて繰り返し広く周知しているし、たぶん誰もがみんな知っている。それでも、畑の野焼きのどさくさに紛れて農業資材や家庭ゴミを燃やす人がいるんですよね。

思い出すのは、20年ほど前にパートナーの仕事の関係でたびたび家族で訪れていたボルネオの熱帯雨林です。かなり奥まったところにある集落の小さなお店でも何か購入するとポリ袋に入れてくれようとしました。そして、そのポリ袋があちこちに無残に捨てられていても誰も気に留めない。私は「いったい誰がこのポリ袋文化を持ち込んだんや!」と憤っては、暗い気持ちになっていたものです。

長年、田畑の土とともに生きてきた人たちにとって、収穫後のゴミや家庭生活で出てきた残渣を燃やすのは当たり前。ただそれが、本人が強烈に望んだわけでもないのに、素材がすっかり変わってしまった。昔からの慣習でゴミを燃やす人を責めるのは簡単。でも納得してもらうのは難しい。

「便利なモノ」に振り回される消費者と、開発競争に血道をあげ廃棄されたあとのことは考えない企業。同じような構図はあちこちにありますよね。

あこがれの信州暮らし その109(2012年11月)

“自然”に救われて

庭のドウダンツツジがいっきに紅くなってきました。合計28本。私たち素人はなかなか思い切って剪定できないものですから、きっと刈り込み方が弱いんでしょうね。ずんずん巨大化して現在樹高130cm前後。毎年カエデの紅葉に負けないくらいにきれいに色づきます。壮観!です。

この秋は思いがけず栗の木にトラブルが発生しました。例年に比べ、極めて虫喰いが少ないことに気をよくしていたのに、あろうことか味が超マズイ!んです。うながされてルーペで観察したところ、驚いたことに枝という枝にび~っしりのカイガラムシ! カイガラムシが甘みを吸い尽くした? いえね、おかしいとは思ってたんです。夏頃から一部の枝の葉がしおれ始め、その次には枝ごと全部半枯れ状態になってるものが出始めた。でも、うちの栗の木があまりにも大木になりすぎて日陰になった枝が枯れたんじゃないの?なんて思ってた愚かな私たち。パートナーが春から3~4回下草を刈っているんですが、ゆっくり栗の木を見上げるような余裕はなかったんですよね。残りの枝では遅ればせながら順調にイガが大きくなってきてたので、「まっいいか。例年穫れ過ぎなんだから、これくらいでちょうどいいよね」なんて話してたんです。罰当たりなことに。

初めて、栗のない秋です。超マズイとはいえ次から次に落ちてくる栗を集めないと、徘徊中のクマが目をつけるかも?という懸念もあって、黙々とむなしい栗拾いをしました。それとも、今年のこの超マズイ栗を食べたら「ここの栗はまずい。これからは他の場所をあたろう」とクマが思うかしらん?

マッタク! うちでは毎年毎年、何が起こるかわかりません。この夏はトウモロコシの周囲に金網を張って、アイツ(タヌキ?キツネ?ハクビシン?)を近づけないことに成功しました。今は庭の蜂屋柿の周囲に金網を張っております。ちょうど今色づきつつあるカリンの実くらいの大きな柿です(直径8cm、実の高さ10cm程度)。ぽったりと熟しきった実をスプーンですくって食べる時の幸せといったらもう! 干し柿にしてもモチロン最高!・・・とにかくアイツから守りきることが肝心です。

先日、裏の物置きでパートナーがアオダイショウ(たぶん)の抜け殻を見つけました。150cm以上あります。ほとんど損傷がない綺麗な抜け殻なので、玄関の下駄箱の上に飾って、来る人来る人に見てもらっています。ちょっと生臭いけれど、どうです、きれいでしょう!玄関の鉢植えには冬眠前のカエルが常に4~5匹潜り込んでおります。そこでいつもじっとしているだけなら、アタシだって文句は言いません。玄関の白壁におびただしい数の糞をへばりつけるから、両手でムンズと掴んで下の畑に投げやるんです。それでも、翌朝にはおんなじ顔して鎮座してるんですからね! 出かけるついでに松本まで連れて行ったことも一度や二度ではありません。最近、松本市のカエル人口が増えているのは、そういうわけです。ハイ。

夫婦ふたりの平穏で落ち着いた生活です。でも、福岡で一人暮らしの父の発病、それをどうやって支えていくか、頻繁になってきた帰省費用の工面、などなど心労は尽きません。それでも、うちに戻ってくると自然が迎えてくれているのを実感します。晴れた日にはリンドウが満開です。

あこがれの信州暮らし その108(2012年10月)

『ヒーローを待っていても世界は変わらない』

彼岸の入りと同時に涼しくなった信州ですが、台風が南の暖かな空気を連れてきたのか10月に入ったというのに再びT-シャツを引っぱり出しました。まだしばらくは平年より気温の高い日が続くらしいです。うわぁ、マイッタなぁ。ルッコラが、はや大株になりつつあります。野沢菜も順調に育ちすぎて漬ける頃には堅くなってしまうかも? ふぅ~、毎度のことですが自然と折り合いをつけるのは本当に難しい。そう、自分が思うようにできないことっていっぱいある。畑仕事も保存食も子育ても・・・。

それなのに、世の中を自分の思いどおりに動かそうとする人たちが「我が世の春」とばかりに大手を振って闊歩しています。突然、尖閣諸島を買い取ると言い出して混乱を引き起こした挙げ句、(中国の船を)「追っ払えばいい」「体当たりしたらいい」などと言い放つ人、問題だらけの教育行政基本条例や職員基本条例を数の力で成立させ、今度は国政に進出しようという人、などなど。良識ある市民が「また言ってる。くだらないねぇ」と思っている、その隙に巷を跋扈している危険な勢力。でも、いちばんモンダイなのは、そういう人たちが選挙で圧倒的な支持を得て選出されてるってことです。なんで? その人がテレビに出ている有名人だったり、白黒ハッキリと威勢のよい発言をしていたら頼りになるような気がするの? 発言の中味はどうでもいいの?

こんな社会を目にすると「もう、どうしようもない」とあきらめて漬け物づくりだけに専念したくなるけれど、そーゆーわけにはいかない。湯浅誠さんが言うように『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版)のだから。だから一見遠回りのように感じるけれど、私は(わが子が巣立ってしまっても)教育にこだわり続けています。「それ、おかしくない?」と考え、発言する人がひとりでも多く増えるように。教育が、ただ黙って人の言うことを聞くだけの、世の中の趨勢に流される素直な人材を育成するものであってはいけないと思うから。・・・だから、大人自身が発言しなくっちゃね。

身近なところにも疑問に思うことはあります。たとえば、10月1日だからって、どうして「一斉に衣替え」なの? モチロン、季節感を大事にしたい人は衣替えしたっていい。でも「一斉に」と学校や会社が全員に強制する必要はないでしょうに。

あるいは、近年ますますクローズアップされている有害鳥獣駆除。そのために必要とされている若い狩猟者を確保するために行政が講習会をする、それはよくわかる。わが家の周辺もクマの出没は切実な問題です。でも、若い人に「狩猟の楽しみ」を伝えるためにハンティングシミュレーション(狩猟疑似体験)をするっていうのはどうなんだろう? 現代の狩猟が生活(食糧確保)のためではなく個体数調整のためなら尚のこと、野生動物に銃を向けるのは人間の勝手さを自覚しながらであってほしい。いかにも「おもしろいゲーム」であるかのように勧誘するのっていかがなものか。

「何が絶対正しいか」なんて難しい。でも、「発言して議論する」のが民主主義の基本ですよね。数日前、「『はやく』『たくさん』読むのはいいことか?」と題して、高校の先生方の集まりで話をしてきました。タイトルが少々挑発的? でも私のやれる範囲で発言をしていきたいと思っています。

あこがれの信州暮らし その107(2012年9月)

少しは役にたたなくちゃね

降りました。やっと昨日(8月30日)降りました。待望の雨です。ここ安曇野もついに熱帯になったかと思うくらいのスコールでした。30分も続かないものでしたが、天然のシャワーのおかげで夕方はぐっと涼しくなりました。お盆を過ぎてもこんなにギラギラと陽射しが強く、こんなに高温の日が続く年も珍しいです。でも、いちばん困ったのは雨が降らなかったこと。庭も畑もカラッカラでした。とっくに収穫し終わったトウモロコシを片づけることもできませんでしたからね。カラッカラの大地にしっかりと根を張って踏んばってきたトウモロコシです。ちょっとやそっとの力では抜けない。先週、松本や穂高では短時間ながら「こわいくらいの」強い雨が降った日もあったそうですし、うちの裏にある(!)上高地や乗鞍高原ではちょいちょい雨が降ってるのに、うちではまったく降りませんでした。黒い雲がわが家の真上を覆い尽くすように広がってくるたびに、「来るぞ、来るぞ」とワクワクしながら玄関や窓に立てかけているよしずを片づけ、閉めても風通しに支障のない雨戸を先取りして閉めてまわり、「さぁ、いつでもザザ~ッと来い!」と待っているのに空振りばかりで・・。

おかげで、秋野菜の種蒔きには大変な労力がかかりました。例年ならば、8月下旬から9月上旬といえば大抵は雨が降りますから、それほど苦労なく芽が出ます。ところが、今年ときたら熱したフライパンに種を載せているような気分でした。昼間の熱気で灼けた土にジョウロで水をやろうものならジュッと音をたてて湯気がたつんじゃないかと思うくらい! だから、太陽が西山に引っ込んで涼しくなってからが種蒔きタイムです。日が長かった6~7月とは違って、最近はまごまごしているとあっという間に真っ暗になってきます。その限られた時間の中で「きょうは白菜の種」「きょうは(花芽を食べる)アスパラ菜に水菜、春菊」「きょうは(タクアン用の)地大根」・・・と順番に播いていき、虫よけの寒冷紗をかけます。それから発芽までの間、今年は特別に朝夕2回の水やり。いやぁ!バテました。

ホントは、昨日の雨を待ってから種を播きたかった。でも、福岡で一人暮らしの父が9月上旬に白内障の手術をすることになっているので、8月の手術前説明日に合わせた帰省に続き、手術前後も1週間ほど帰省することに。だから、それまでに秋野菜の発芽まで見届けておきたかったってわけ。この時期に出かけるのは、正直「イタイ」です。種蒔き作業に限らず、庭も畑もやるべきことは山積みですから。農繁期(!)は、週末はパートナーと二人で、平日は私ひとりでフルに働いて何とか維持している庭や畑です。だから、どちらか一人が1週間も家を離れるというのはけっこう大変。

父がこの頃、何かにつけ「すまんなぁ」と言います。「いいよ、いいよ」と答えながら、内心では「やっぱりちょっと大変」と思っている私。でもね、人が年老いて病気をしたり、ちょこっとからだのメンテナンスをしたりする時に「すまんなぁ」と遠慮しなくちゃならないなんて、なんだかなぁ・・・つらいよね。ええい! とにかく行ってきます。いつもは近所の人の見守りの中で元気に過ごしてくれていることに感謝しなくっちゃ。こんな時くらいは役に立たないとバチがあたるというものです。収穫や草刈りやトウモロコシの片づけや植木鉢の水やりや・・・夫よ、頼んだぜ!

あこがれの信州暮らし その106(2012年8月)

いいんでしょうか?

九州北部地方に1時間あたりの雨量が100mmを超すような豪雨災害をもたらした梅雨がようやく明け、ここ安曇野でも真夏日が続いています。信州はナンダカンダ言っても、長雨が続くことはないし、(アルプスの山々が守ってくれているのか)台風が直撃することもまず滅多にない(これが信州では雨戸を閉める家が少ない原因かもしれません)。だから、信州では気象に関係する自然災害は比較的少ないと実感しますが、7月下旬に続いた「信州らしくない」じとっとした湿気には少々うんざり。何かが少しずつ変わってきているんじゃないかしらん?

少し前の時代には考えられなかったことはいろいろあります。時間雨量しかり、最高気温しかり。竜巻だってアメリカでよく起こるのは知ってたけど、日本でも昔からあったの? ましてマグニチュード9クラスの地震も、原発事故も、ほとんどの人にとって想定外でした。これからだって、どこで何が起こるかわからない。それなのに、どうやって原発再稼働のための「安全確認をした」というのか。

パソコンの世界も1980年代前半までは想像もしていませんでした。特殊な職業の人だけが使っていたものがこんなに普及し、インターネットで瞬時に世界中の人とつながることができるなんて!

大学院生の上の息子が、最近ニューヨークに行っていました。彼はこれまでビルマ(ミャンマー)だのイランだのと、ややこしいところにばかり毎度1ヶ月以上の貧乏一人旅をしていたので、私はその都度心労が絶えませんでした。でも、今回は意外にも大都市。「ちょうど今、区切りがええからちょっと友だちにおうて(会って)くるわ」と、まるで大阪にいる友だちのところに「ちょっと行ってくる」みたいにひょいと旅立ちました。彼が子どもの頃9ヶ月を過ごしたシュタイナー学校の先生や友人にも連絡して、ニューヨークやボストンで17年ぶりに再会。当時は親が翻訳する手紙で何とか細々とつながっていた友人関係でしたが、今はフェイスブックでクラスのほとんどの子とつながって、息子の訪米を機会に集まってしゃべりまくり笑い合っている!なんて感嘆するしかありません。

野外調査のために、1年の半分近くをアフリカ(ケニア)のかなりへんぴなところに単身で出かけている大学院生の下の息子にも、最近まで中米コスタリカに7週間滞在していた大学生の娘にも、ネット環境があるところにいる期間であればメールもできるし、(途切れがちとはいえ)スカイプ(インターネット電話)もできる。地球は狭くなりました。外国にいる友人とも気軽にやりとりしたり、心配しだしたらキリがない子どもらの動向が(ある程度は)わかるってのは、確かに便利です。官邸前のデモだってネットで入手する情報があってこそ!

でも、私はずっと不安があります。ネットつながりのモロモロが、もひとつ信頼できない。市民運動のメーリングリストで回ってくる文章にも、ときに聞く(読む)に堪えない攻撃的な(歯止めのきかない)表現があってゲンナリすることもあります。ネット上への書き込みというのは、人間の負の感情が出やすいのでしょうか? 大津のいじめ事件に関しても、酷いネット情報があふれているといいます。

いいんでしょうか? 本当にこれでいいんでしょうか?

あこがれの信州暮らし その105(2012年7月)

マスコミよ!

6月後半、梅雨の中休みというか「ずっと休みなのでは?」と思うくらいに1週間以上も乾燥した晴天が続いたおかげで、畑の作業が何とか進みました。春先の低温のせいでなかなか大きくならずヤキモキしたタマネギは6月中旬に急激に肥大化して、下旬に丸2日天日干ししてから車庫に吊しました。グリンピースも3kg近く固めにゆがいて冷凍。キャベツも収穫したし、春大根は最終間引きをしたし・・・。でも、この時期はまだまだほんっと忙しい。作物以上にぐんぐん伸びる草を抜きながら、キヌサヤやスナップエンドウの杖を片づけなくちゃ、7月中下旬に人参の種をまくのを皮切りにいよいよ始まる秋野菜の畑の準備をしなくちゃ、加えて、トウモロコシを狙う害獣対策も、・・・ってね。

畑作業を行う「時季」というのがあります。たとえば、タマネギは晴天が続く日を待ちすぎて収穫が遅れると薹立ちしたり、茎がとろけて収穫しにくくなったり、貯蔵性が悪くなったりするんです。6月から翌年4月までさまざまな料理の素材になる大事なタマネギです。悠長にはしてられません。

ホントはこんな日常の忙しさにまぎれていていいのか!と忸怩たる思いもあります。こういう個々人のささやかな生活の営みなんぞあっさり吹き飛んでしまうような事故の危険を抱えたままで、大飯原発が再開してしまった。ところが、私ときたら6月の毎週金曜夕方に実施されていた官邸前デモはもちろん、松本でも開催されている脱原発関連の集まりにも全く参加できていないのですから。「でも、・・・」と怒りの矛先はマスコミに向かいます。うちにはテレビがないのでテレビのことは知りませんが、官邸前のデモのことだって、ラジオも新聞もなかなか報道しなかった。そもそも、動きのとれない私たちの意志をすくい上げるようなことを、もう少ししてくれたっていいでしょうに。政局がらみの世論調査は何度もやって内閣を総辞職に追い込むのはマスコミでしょ? なんで原発再稼働の是非を問う世論調査を何度もやってトップニュースで扱い、原発の存続問題を顕在化しないのか?

私以上に日常の仕事から離れられないけれど、「そんなぁ! 3・11を経験した日本で再稼働はないだろう!」と思っている人はいっぱいいます。私が毎週行く魚やさんは(私が「この頃ずっと千葉産が多いですねぇ」と言ったら)「福島、宮城、茨城の魚はやっぱり売れないからねぇ。ここには検出されてないものしか置いてないんだけどね。お客さんからみたら大丈夫なの?って思われちゃう。東電は犯罪者だってわかってるんだろうか? 福島の人たちの生活をめちゃくちゃにしておいて。政府も政府だよ。原発なしでこの夏1回やってみたっていいじゃんねぇ! やれるもんかどうか一度やってみてからみんなで考えたらいいのに」と言います。

私たちが知りたいのは、マニフェストの筋を通す小沢さんが何人の議員を引き連れて離党するかってことじゃない。消費税を上げることが本当に必要か、消費税を上げないのならどうやって社会保障費や復興財源を確保するのか、そういう具体的な議論が知りたいんです。

原発の再稼働をどう思うかという世論調査を繰り返しトップニュースで扱って「みんなで考える」素地を作っていくのが、マスコミの役割じゃないか!と豆類の片づけをしながら憤っています。

あこがれの信州暮らし その104(2012年6月)

冷凍バナナにご用心

6月に入って、ようやく私も畑仕事デビュー。でも、このところ歯にトラブっています。あ~ぁ、私は30年つきあってる花粉症こそ抱えておりますので鼻だけは弱点がありますが、昔は視力も聴力も歯も、ついでに頭と顔(!)もよかったのになぁ~。

そもそもの発端は学生時代でした。それまでほとんど虫歯がなかった私ですが、同い年の女の子4人の下宿で、夜な夜なしゃべってはお菓子を食べていたのが始まり。目先の授業攻略のこと、進路のこと、男の子のこと・・・そりゃぁもう、しゃべる題材は山とありましたからね。あの頃は歯磨きは朝、起床後にするものでした。食べて飲んでしゃべったあと、そのまま眠る。虫歯になるのは当然の成り行きでした。

乳幼児を抱えた時期は受難続きでしたね。私がまだ寝ていた朝早く、早起き小僧(上の息子)が「かーたん!」と言いながら私に勢いよく抱きつき、石頭が私の前歯に思い切りぶち当たりました。数年後、保育園に迎えに行った私に、かけっこ大好き小僧(下の息子)が遠くから「かあさ~~ん!」とニコニコ笑顔で全力で駆けてきて、私はしゃがんで抱き留めた。これがまた私の前歯にダメージを与えました。そして、「抱っこ!抱っこ!」が長かった甘えっ子(娘)が「いやだ、いやだ」とぐずりながら頭を揺らして、私の顔面に!・・・・いやはや、親というのは歯が丈夫でないとやってられません。

そして、その数年後。今から15年くらい前のことです。夜、3人の子を寝かしつけたあと、私は深夜にパソコン画面に向き合っておりました。文章を打ち込みながら、ふと空腹をおぼえたんです。「あっそうや、冷凍バナナがある」とパソコンの画面を見たまま、左手に持ったバナナに喰らいついたんですね。普段は余ったバナナは輪切りにして冷凍していましたが、その時はたまたま輪切りにする手間を惜しんで丸ごと冷凍していたんです。その丸ごと冷凍バナナをろくに見もせずに、思い切りかぶりついた。その途端、ぽろりと落ちたのが、根元近くから折れた前歯です。いやぁ! 深夜に一人で焦りましたね。翌日、歯科医院にマスク姿で駆け込んで、私の前歯はさし歯になりました。

その15年前のさし歯が今、トラブっています。特に堅いものを食べたというわけでもないのに、ポロリととれたんです。鏡に映った歯抜けの女性は、あろうことか!晩年の母とそっくりでギョッとしました。歯茎の腫れもあって根冠治療が必要なんだそうです。今やフロスや歯間ブラシも駆使する歯磨きのプロになっている私です。それなのに、今度は左の奥歯も右の奥歯もおかしい。左の奥歯は歯茎に炎症を起こしているんだとか・・・。

次々に起こるトラブルを、モグラ叩きのように治療してもらいながら、私が「何でやろ?老いたってこと?」としょげていると、歯科医の奥さんや歯科衛生士さんたちが「違う、違う。ほら、電気製品だってひとつが壊れたら、次々に壊れるってことあるでしょう? たまたまそういう時期よ」と慰めてくれます。でも、それが「老化」ってことじゃないの? それとも3人の子に心労が多いせいやろか?

あっそうそう。折れた歯は牛乳に浸して歯科医に走れば、今はたいていうまくくっつくそうですよ。

あこがれの信州暮らし その103(2012年5月)

子を守る勇気

4月下旬からの急激な気温の上昇に伴い、桜が開花し始めたと思ったらいっぺんに満開になり、数日で葉桜になってしまいました。いやぁ~、早かった。旭川では5月2日に開花したエゾヤマザクラがその日のうちに満開になったといいます。まったく、この頃の季節変化の波にはついていけまへん。おかげでウドはいっぺんにウドの大木になり、タラの芽ははじけるように拡がって鳥の羽になってしまいました。毎年、ウドもタラの芽も友人知人におすそ分けし、わが家でも天ぷらやお浸しなど2週間くらいは連日何らかの形で食卓に登場するのですが、今年はあっという間の出来事でした。

桜の開花の頃から、キジがうちの周辺に出没し始めました。朝も早よからキジの鳴き声がこの辺り一帯にとどろき渡ります。キジの鳴き声って、「けんもほろろ」の由来とも言われる「ケ~ン」でも「ホロロ」でもないんです! 「クエッ、クエ~~ッ」、いや「グエッ、グエ~~ッ」かな? まぁ、あんまり上品な鳴き声とはいえませんね。これはオスがメスを呼ぶために鳴いてるんだって。

キジはうちの庭の中も自在に歩いておられます。先日も庭先の土手沿いに植えてあるドウダンツツジの株の間にぬぼ~っと立っていました。オスの発する「グエッ、グエ~~ッ」の声の方角を眺めているようでして・・・。丸々と太ったメスでした。「頭隠して尻隠さず」どころか全身丸見え。こんなことだから、猟の対象にされてしまうんだよ!

数年前のことですが、私が庭先で草取りをしていたら、5mほど離れたところをメスが子を連れて歩いていたことがあります。思わず「あっ!」と小さな声を発した私に、母キジは一瞬立ち止まり「何かご用?」と一瞥を与え、平然と立ち去ったものです。いやぁ、肝っ玉が据わっていらっしゃいます。うちの前の道路を横切って歩くことも・・・。車がきても、それほど急ぐふうでもありません。

夏の炎天下、隣の敷地にある休耕田で背が伸びた雑草に埋もれるようにして母キジが抱卵しているのを見たことがあります。草刈りをしていた大家さんの弟さんが発見し、私たち家族が次々に見に行ったにもかかわらず、母キジは抱卵したままじっとどこか一点を見据えて動かず、決して逃げようとはしませんでした。何があろうとも私は卵を守りますからね!と言わんばかりに・・・。大家さんの弟さんは、抱卵する母キジの周囲、直径3mほどの藪をそのまま残して草を刈りました。

今の私たちにとって、「子を守る」とはどういうことでしょう。母キジのように「わが子」を胸に抱きかかえるだけではすまない時代です。安心、安全な食を手に入れること。早く早くと急かされがちな知育偏重の風潮の中でも、子どもが「子どもである時間」を保障すること。「何かに突出した才能を」と鍛えるのではなく、「人生はこんなに楽しい」ということを身をもって伝えること。誰かに「指導」される効率的な学びやスポーツではなく、仲間と主体的に遊ぶ自由な空間を確保すること。・・・・アレもコレも大人自身に、並大抵ではない覚悟が必要です。

そうして、もうひとつ。たとえどんなに経済の発展に必要だとしても、人間が制御できない技術からは手を引く勇気をもつこと。・・・あぁ、もっとしっかり意思表示していかなくちゃね。

あこがれの信州暮らし その102(2012年3月)

ボソボソっと小声で

この冬は長かった・・・と、過去形で語ることはまだできません。3月もあと4日というのに今朝の最低気温は-5℃。ひんやりした空気でした。雪や雨のあとにすっきり晴れるとたいてい朝晩の気温がぐぐっと下がります。まだまだ油断できませんね。それに、この寒さで、スギ花粉の本格的飛散が遅くなってうれしいような、これから一度にまとめてドドンとくるんじゃないかと怖いような・・・・。

「原発がなかったら、絶対に電力不足になる」とさんざん言われてきました。きのう、東京電力の柏崎刈羽原発6号機が定期検査のために止まって、国内で残るのは北海道電力の泊原発3号機の1基のみ。ぜひ、再稼働させることなく原発ゼロの社会を実現したい。喧伝されているような電力不足にはならなくても、私たちは私たちの暮らしの有りようを少しばかり考え直すいい機会です。

今、手にしている便利なモノを(手を伸ばせばすぐに手に入れられるにもかかわらず)手放すというのはかなり難しいことです。農薬を使わずに農作物を栽培すること。車に頼らない生活をすること。過度な暖房や冷房を控えること。・・・完璧には無理でも、何かのきっかけで「手放す」ことはできると信じたい。

大学に入って間もない頃のことです。休日のたびにせっせと山歩きを楽しんでいた私は、進んで食当(食事当番)になっておりました。山でも美味しいものが食べたいからです。アルファー米とかマッシュドポテトなんぞは論外。ですから、テントやポールなどの重いものは有無をいわさず男どもに預け、私はザックの片隅にかつお節、煮干しや天然塩、時には乾燥ハーブなどを入れて持ち歩いておりました。「うまい!」の声に気をよくして、食後は皆で沢の水で食器洗い。その時、ごく普通にタッパーに小分けにして持ってきた合成洗剤を取りだしたんですね。琵琶湖周辺住民による石けん運動が盛んになるちょっと前のことです。実家ではごく普通に使っていましたから、下宿して実家を離れた私も当然のように使っておりました。

「え~っ、そんなものまで持ってきたの?」と言われて、かつお節と同じように得意がっていた私に、仲間のひとり(男)が小声で言ったんですね。「この沢に洗剤を流してまで皿をキレイにする必要があるのかなぁ?」。格別、非難じみた口調でもなかったし、本当にボソボソっと言っただけなんですが、この一言はこたえました。考えてもいませんでした。皿をキレイにすることは善とばかり思っていたんです。その行為が沢の水にダメージを与えるなんて、思ってもいなかった。

その日以来、私は合成洗剤とは決別しました。食器を洗うのも、洗濯も、シャンプーも・・・。そして、自分や自分の周辺を清潔にするというごく普通の生活の行為のその先に、すぐには目に見えない環境問題があるってことに気づいたのです。それから「ゴミ問題ゼミ」という自主ゼミも始めました。

当たり前のように享受しているエネルギー。コレがないと成り立たないと思い込んでいる便利なモノ。・・・「本当に必要なのかなぁ?」とボソボソっと小声で伝えたい。ちなみにくだんの男の子は、その後研究者になり、河川に生息する生物を保護する立場での研究活動を関西で続けています。

あこがれの信州暮らし その101(2012年2月)

「優秀さ」って何だ?

いったいこの寒さはいつまで続くんや?とぼやいていたのが嘘のように、2月下旬になってようやく「光の2月」らしい陽ざしの日もでてきました。雪ではなく雨が降る日も・・・。凍った雪の下に2ヶ月以上埋もれていたホウレンソウが、黒々とした畑の土と共に少し見えてきました。あの凍みる日々をよくぞ耐えて生きのびたね! さっそく3株ほど掘り出してきて茹でたら、これがもう、実に甘い!

毎年この時期になると、人を選別することについて考えます。私自身に関係なくても、高校・大学の入学試験、そして就職試験の話を耳にするたびに、何とかならないかと思うんです。入試って単なる適性試験じゃないの? これって「その人にとって」というより、学校や会社など「その組織にとって」都合がいいかどうかってことになってないだろうか。

長年、「子ども」の世界を興味深く眺めてきました。そうして感じたのは「いい子」というのは、大人の側の恣意的な見方にすぎないのではないかということです。

たとえば、単なる「本の読み聞かせ」であっても、こっちをまっすぐに見てじっと聴き入る子もいれば、真面目に聴いているフリをしながら別のことを考えている子、一見しらんぷりを装いながら実は耳がダンボになってる子まで、いろいろいます。この「いろいろ」が実に楽しい。

でも、これを評価するとなると、きっと、少なくとも表面上はきちんと聴いている子が「いい子」になるのでしょう。私自身がそんないい子でした。テストだって何だって、大人が何を求めているかがわかる。単に勘がいいんですね。だから相手が何を求めているかを察してそれに応えてしまう。でも、それでいい点がとれるからって、それがいったい何なのか?

じゃあ、面接はどうでしょうか。そりゃあ試験官にしてみれば、誰だって「何でも頑張ります!」みたいな一生懸命な人に好感を抱くことでしょう。それが人情というものです。でも、口べたでうまくしゃべることができない人はいったいどう評価されるんでしょう。

こんなことを考えるのは、最近、大人の世界でもやたら表面的な業績が重視されてきていると感じるからです。会社も学校もスポーツも、学問の世界だって、やたら実績がモノをいう。その実績をあげるってことが第一で、ひとりひとりの(一見実現不可能な、壮大な)夢や興味を育て、その成長を見守るような、そんなゆとりがどこにもなくなってきているのでは? 実力主義というと聞こえはいいけれど、要するに短期的な視野で「役に立つかどうか」だけが問題になっていないでしょうか?

進学して遠くにいる子どもらがうちにいた頃、毎日、誰かに風呂掃除をまかせていました。3人いれば3人3様。親に教わった手順で教わったようにきちんと洗う子もいれば、(親にはバレないように)どこでどう手を抜くかを常に企んでいる子もいました。風呂桶や風呂の椅子を使いやすいように所定の位置に伏せておくように言っておいても、「こうする方がいい」と勝手に(合意なく)変えてしまう子や、いろいろ考えて毎回違ったようにアクロバティックに積み重ねる子もいました。

いったい、どういう人をよしとするか? これはもう、永遠の課題ですね。

あこがれの信州暮らし その100(2012年1月)

農閑期のミステリー

凍みますねぇ、ほんっと! どか雪に見舞われている長野県北部に比べればここ安曇野はたいしたことはないんですが、私も毎日黙々と雪かきしています。家への出入り口が北側にあるため、ここの雪をできるだけかいておかないと、踏み固められて完全にアイスバーン状態になってしまうんです。せっせせっせと雪かきをしたら、ついさっき食べたばかりなのにおなかがすきます。薄く切った自家製の豆餅を焼いて食べてお茶を飲んでホッとしたら、また雪が積もっておりまして・・・・。

動物たちも大変です。晴れた日に庭のコンポストまでを雪かきして地面が露出しますと、すかさずカワラヒワが集団でやってきて雑草の種をついばんでおります。真冬ですからね。食糧調達も困難を極めていることでしょう。これは微笑みながら眺めていられます。

ところが、不可解なこともあるもんです。先日、車のボンネットを開けたんです。普段、滅多なことではボンネットなんて開けないでしょ? たまたまです。そうしたら、ナント!ボンネット内部の隅っこに大きな柿のへたが2個あったんです。ハァ~? パートナーと2人で顔を見合わせましたよ。どこから誰が入れたんや? よ~く見ると、ボンネットってエンジンを冷やすためか、下部はスケスケなんですね。けっこう大きい空間もある。知ってました?

それにしても、いったい誰の仕業やねん? もちろん柿のへたは速やかに除去しまして、数日後もしや?と思って開けてみました。ボンネットをです。・・・4個ありました。今度はへたではなく、柿の完全版です。ただし、凍みておりました。まさかねぇ・・と並んで置いているもう1台の車のボンネットを開けてみましたとも。・・・3個ありました。

道をはさんだ隣地(牧草地)には、収穫されないままの大きな柿の木があります。ときどき、サルが集団でやってきます。ネズミがあの柿の実をひきずってきて、ボンネットの中に貯蔵するんやろか? 半信半疑ながらも、それからときどきボンネットをチェックするんですが、そのたびに柿の実が数個あるんです。せっせと割り箸でつまみ出しでは処分するんですが、その翌日にはまた2~3個。

あのねぇ!私はこんなイタチごっこやってる暇ないんよね! えっ? まさかイタチじゃないよね。イタチは肉食でしょ? じゃあ、ハクビシン?タヌキ?キツネ?・・・と騒いでいたら、八百屋おやおやの店長さんが「ネコがボンネットに入り込むという話をラジオで聞いたよ」とのこと。そういえば以前から、車の上にネコの(ような)足跡がつくことがありました。最近は毎朝、車庫前の雪の上にネコの(ような)足跡があります。疑念は確信となり、早速車の周囲にネコ専用忌避剤を置きました。これで安心だよね・・・と、翌朝ボンネットを開けましたら・・・2個ありました。

ネコが暖をとっているとしたら、朝7時過ぎに出勤するパートナーが、たまにはネコを目撃してもよさそうなものなのに。いったい、あのネコのような足跡は誰よ?
雪の上に残る足跡の指は4本。だからイタチでもテンでもありません(彼らは5本)。4本で可能性があるのはネコ?タヌキ?
タヌキは柿が好きらしいです。でも、タヌキの“ため糞”なら知ってるけど“ため柿”なんて聞いたことない。

・・・こうやって、私の貴重な農閑期は着々と過ぎていきます。

Author

いなずみなおこ
「八百屋おやおや」配達のお客さん
2000年に長野県安曇野市堀金に引越して来られ、それ以来配達の度に田舎暮らしや子育ての事等、おもしろい話が聞けて、これは僕一人で聞くにはもったいないと思い「おやおや伝言版」に登場願いました。(店長談)