あこがれの信州暮らし

あこがれの信州暮らし その55(2007年11・12月)

職人さんとの出会いがうれしい

まだ11月だというのに、アレもしなくちゃコレもしなくちゃと気ばかり焦ります。そう、11月中旬を過ぎた頃にあっと驚く寒波がきて雪まで積もったからです。最低気温が-5~-6℃まで下がり、最高気温が3~4℃なんて日もありました。もちろん車は早々に冬用のスタッドレスタイヤに履き替えましたとも!
ついこの間まで「今年はいつまでも暖かいねぇ」と話していたのに・・・。信州の冬はいつもこうなんです。いつだって、急に冬になる。「徐々に」「次第に」「だんだんと」・・なんてことはなく、ある日突然キッパリと冷たい空気になる。その潔さ!!

凄まじい数のハムシから守りきった青首大根を収穫し、たくあん用の地大根は棹に吊し、太ネギは乾燥させ、何とか生き延びた野沢菜16kg分(例年の半分以下)を醤油漬けにし、干し柿はひとつひとつ手揉みして、・・・ネッ、この時期ってほんっと忙しいでしょう?これをはやく片づけなくっちゃ、早くしないと雪が積もって凍みてしまう、と少々焦るんですわ。寒い地方の人たちは勤勉だと言われるけれど、そりゃそうでしょう。もうそこまで本格的な冬が来てるって時に「さぼりたい」だの「のんびりやりたい」だのガタガタ言ってられないもの。

いつも使う直前にその場しのぎで研いでいた包丁を、鍋の修理のついでに金物屋さんに出して何本か研いでもらいました。いやぁ!驚きました。これがうちのあの包丁?と思うくらいにスパスパ切れる。切れすぎて、パートナーが一度ならず二度までも大根と一緒に指先まで切っちゃったくらいです。刃先がほんのちょっと欠けていた出刃包丁も新品みたい。やっぱりプロはプロですね。400円~500円といった料金でこんなに快適な道具に蘇る。感謝感謝です。

都会で暮らしていると「壊れたら買い直す」のが当たり前。でも、信州に暮らしているとそこここに本物の職人さんがいるからうれしいです。押し寿司の木枠が乾燥して蓋と合わなくなった時に、シャカシャカシャカとカンナをかけて寸法を合わせてくれた人。「いいよ、お金なんて」と言われるので押し寿司をつくって届けました。リビングの入り口の引き戸を閉めた時に隙間があくようになったんだけど、どうして?と尋ねたら「あぁそいつは戸車が古くなったんだね」と替えてくれた人。「いいよ。ついでだから」と言われるので畑でとれたカボチャを持って帰ってもらいました。冬の暖房で乾燥するせいか表面がポロポロと剥離してきたリビングテーブルは今、塗り直してもらっています。サンドペーパーで薄~~く全面を削って塗り直すのだそうです。これはさすがに寿司やカボチャでは済まないでしょうが、どんな仕上がりになって返ってくるか楽しみ楽しみ。

畑の片づけが終わったら、これからは庭の樹木の剪定作業の季節です。もちろん上手じゃないんですけど、暖かな日を選んで精を出すことにしましょう。そうそう、枯れた枝とか落ち葉を入れる時に使う巨大なザルのようなカゴがあるでしょ?あの「ボテ」というのが今、私のいちばんのあこがれ。いいなぁ、あれ。信州の庭の雰囲気に合うよなぁ!!

あこがれの信州暮らし その54(2007年10月)

お茶うけを回しながら

天高く馬肥ゆる秋・・・今年もどっさり栗が落ちまして(無農薬ですから虫喰いは多いんですけど)せっせと拾っては渋皮煮をつくりました。渋皮煮にした栗だけで12.5kg。4回に分けてつくりました。渋皮煮を作るぞ、という日は覚悟を決めてとりかかります。テーブルの上に、剥いた鬼皮を入れるボール、うまく剥けた栗を入れるボール、そして渋皮に大きな傷をつけちゃった失敗栗をいれるボール(栗ごはん用にします)などなど大中小のボールをずらりと並べ、CDかラジオのスイッチを入れてから、やおら包丁を持ちます。あとは、ひたすら黙々と・・。ちょっとでも短気をおこしてエイッとちからまかせに剥こうものなら、ベロッと渋皮まで剥けちゃって・・・失敗!・・これはもう人間修行やと思いながら、ひたすら黙々、黙々と・・・。

高1の娘がネ。「あぁもう!なっかなか数学の課題が終わらんわ!」と愚痴るんですわ。この人は兄たちと違って、出された課題は一応全部やっつけようとする無謀なところがありまして(高校って、どだい無理な量の課題をこれでもか、これでもかと出すところですから)、そりゃあ大変ですわ。「無理せんでええんやで。やれるだけやるんでええやん。まぁ、今は絶望的な量に思うかもしれへんけど、こつこつと少しずつやっていけば希望が見えてくることもあるやろし。栗の皮剥きも一緒や」と言ったら、(ちょうど剥いた鬼皮が山盛りになっているボールが目の前にあったせいか)妙に納得しておりました。

出来た渋皮煮はまず大家さんに届け、一人暮らしの親ふたり(三重県と福岡県)に送ります。それからお世話になっている友人、知人などに届け、それから最後に京都にいる愚息ふたりに送ります。あとはお正月用に瓶詰めにして、形の悪いものや実が崩れてきた失敗作がわが家の当面のお茶うけ用。ふぅ~~!毎年のことながら、手間がかかるものですね~~。でもおいしい!

信州はお茶うけ文化が発達した地域です。近所の人や友だちと気軽に家を行き来して、お茶を飲むことが昔は盛んだったそうです。そこに出てくるお茶うけは、買ったものではなく、家の畑で採れた野菜や山菜で手作りしたもの。大家さんちで、テーブル一杯に並べられたお茶うけの数々を初めて見た時にはド肝を抜かれました。おかげで、私も野沢菜やたくあんはもちろん、白瓜の粕漬けや福神漬けなどなど漬け物の幅が広がりました。塩漬けした野菜を大きな竹ザルに並べて天日に干している光景の中に私がいるなんて、信州に住んだ甲斐があったというものです。

8年近く前、この地の小中学校のクラス懇談会に初めて参加した時、タッパーに入った野沢菜やたくあんなどが参加者の間をぐるぐる巡回する様子に「さすが信州」と驚いたものです。回ってくるたびに爪楊枝で取ってお茶を飲む。セロリの粕漬けを初めて食べたのもここでした。そんなタッパーが5年くらい前からあまり回らなくなり、ここ数年はクラス懇談会の参加者そのものも極端に減ってきました。大人たちがお茶うけを回しながら語り合い、地域の子どもたちの様子を知ることってずいぶん意味があると思うのですけれども。

あこがれの信州暮らし その53(2007年9月)

どいつもこいつも!

ふぅ~っ。まだまだ平年の気温よりは高いのですが、長かった夏がようやくその勢いを弱めつつあるのを感じます。それにしてもこの9月の気温の高かったことと言ったら!

おかげで種を蒔き順調に育っているハズだった大根や野沢菜などの秋野菜に、ハムシが大発生。いえね、最大の武器である寒冷紗(虫除けのポリエステルの布)を畝全体にかけてはいましたよ。これでハムシなんぞは寄りつけないハズでした。ところが素人がかける寒冷紗でしょ?庭にころがっている石で寒冷紗の両脇を押さえつけていたんですが、そりゃぁ少しは隙間があくんですわ。そこから侵入した奴らの数が(この9月が高温のせいか)ハンパじゃなかったようでして・・・。

9月上旬にポツポツと葉っぱに穴が開き始めたのはもちろん知ってました。でも、なんてったって寒冷紗をかけてるんですからね。それ以上は増えないだろうとタカをくくっていたわけです。それが9月は来客が多く内心ハラハラしながらも畑仕事がついつい後回しになり、間引きするのも後手後手になっていたものですから、あっという間に大根や白菜の葉は網目状になり、幼苗の野沢菜は枯死しかけて・・・。

1週間前に意を決して、大根の畝にかけていた寒冷紗を払いのけました。手作業でハムシをやっつけていくしか大根を救う手はないんです。とはいえ、大根の葉を最初に1枚裏返した時の絶望的な気持ちといったら!!ダイコンハムシの成虫(約3mm)はもちろんいっぱいいるんですけど、幼虫も葉1枚につき10~15もいるんですから!あぁ!もうダメ!と大根をぜ~んぶ引っこ抜こうかとすら思いました。それでも、やるだけはやってみようと気を取り直しまして・・。えぇ、武器はピンセットです。だって敵は葉の裏側や葉柄が集まったところの窪み、それに株の根元にまで潜り込んでいるんですから。手で触ったり葉が揺れただけでもポロポロと体を縮めて(死んだフリして)地面に落ちるヤツもいます。そんなことしたって許さへん!逃がすもんですか!

えぇ、この3連休も「ぬぁ~にが行楽の車で高速道路が混雑やねん」とラジオに毒づきながら、パートナーや娘と一緒にひたすら捕殺しましたよ。絶望的かと思われた大根や白菜は徹底抗戦の人海戦術で何とか生きながらえそうです。野沢菜は苗が小さかったため被害甚大で3分の2はダメみたい。コマツナやコカブ、ミズナ、チンゲンサイは穴ぼこだらけですが大丈夫です。

「静かで穏やかな信州での田舎暮らしを楽しんでいます」と言いたいところですが、毎日なんやかやと事件は起きます。事件といっても、ニワトリの餌を夜な夜なネズミが出てきて食べてるだとか(毎夕、ニワトリ小屋から餌の容器を撤去することにしました)、家の外壁や網戸に張り付いているアマガエルが何かの拍子にしょっちゅう部屋に入り込むだとか(首根っこをつかまえて放り出します)、私が絶好の秋晴れの日に布団を干すために頻繁に出入りしていた玄関のすぐ上の軒下にセグロアシナガバチが50匹近くも集合しているだとか(新女王1匹とオスたちの交尾集団だそうです)、・・・ったく!どいつもこいつも油断もスキもありません。

あこがれの信州暮らし その52(2007年8月)

信州も暑い!

ここは「あこがれの信州」です。関東や東海以西の西日本が猛暑のさなかに、涼しい顔をして「大変ね~!」と同情の声をあげる場所だったハズです。それがまぁ、この夏の暑いことといったら!!そりゃぁ、信州も今までだって35℃などという気温の日はありましたよ。でも、こんなに長く太陽がギラギラと照りつける日が続いたことは今までありませんでした。特に、お盆休み前後の1週間あまりの暑かったこと!

信州に引っ越してきてから数年はお蔵入りだったエアコンを、たまには通電しておかないともう使えなくなるかも(?)と設置して以降も、実際に使ったのはひと夏に3~4回。それがもう今年は、午後の蒸し暑さが耐えられなくて10日間、ほぼ連続で午後に3~4時間スイッチを入れました。設定温度は29℃。これがホントに有り難い涼しさ。べっとり張り付いた背中の汗も、モーローとした頭もいっぺんにスーッとするんですから・・・。

環境問題にうるさい娘(高1)も夏休みの課題を抱えてすり寄ってくるし、避暑地(わが家のことです)で優雅にお勉強?のハズの大学生の息子も加わって、広い食卓テーブルが押し合いへし合いの盛況ぶりでした。昔の信州なら家族は囲炉裏の周りに集まったのでしょうが、これからの信州の夏は家族がエアコンのある部屋に集まることになるのかも?

こんなに暑い日が続くと、梅雨が明ける前に草取りをがんばっておいてよかったとつくづく思います。今は、朝6時前からギラギラの日差しですから、とてもじゃないけど草取りどころではありません。

昔、亡き母がせっせと草取りをしている様子を見て「そんなに草を目の敵にしなくてもいいのに」「雑草だっていいじゃん。貴重な緑じゃない」などと言っていたものですが、しょせん当事者ではないサボリ人の無責任発言だったと今では思います。

雑草というのは放っておくとエライことになるのが常でして、アッという間に荒れ果てた感じのヒサンな状況になります。そして単に見かけだけではなく、ハチがあちこちに巣をつくってわが物顔に飛び回るでしょうし、クマも近づきやすくなる。ヒトが家の周りを手入れするのは、単に美観だけの問題ではなく、安全上の必須事項なのだと今では理解できるようになりました。

庭の草取りもこれだけやっていると、その栄枯盛衰をいやでも実感します。メヒシバ・オヒシバ(イネ科)が隆盛だった時に徹底的にやっつけたと思ったら、次はスベリヒユ(スベリヒユ科)。これをがんばって採ったぞと意気揚々としていたら、次はヒメスイバ(タデ科)。そしてノボロギク(キク科)、ミチヤナギ(タデ科)、コニシキソウ(トウダイグサ科)・・といった具合です。私の足もとには気が遠くなるくらいの雑草の種の層がびっしりと積み重なっていて、私はその層を上から順番に剥いでいっているような気がするくらいです。それとも、その年の気象条件に最も適した雑草が眠りから覚めて起きあがってくるのかしら?

ともあれ、お盆は過ぎました。今年の草取りのピークは過ぎたってことです。次の流行りの雑草が何なのか、楽しみなようなコワイような・・・。

あこがれの信州暮らし その51(2007年7月)

世間とズレてる?

そう、かなり前から「うちって、随分よそと違うみたい」と感じてはいました。朝のみそ汁をパートナーがつくること。子どもが掃除を手伝ってから登校すること。食事はごく稀な例外を除いて皆一緒に食べること。ペットボトル飲料を買ったことがないこと。二槽式洗濯機を使っていること。・・このあたりまでは「へ~、よくじゃん」と言われます。でも、塾に行ったことがないこと。テレビを見ないこと。(離れて住んでいる大学生の息子ふたりと高校生の娘を含めて)家族全員が携帯電話をもっていないこと。・・・ここまで話したら、大抵の場合目を丸くされ「信じられない!どうして?!」と大騒ぎになるので、大っぴらには言わないことにしています。それくらい、今の時代にテレビとケータイのない生活というのは「信じられない!」ようです。

当然、子どもたちは世間とのギャップに苦しんだと思います。とりわけ「テレビが見られない」というのは小中学校時代の子どもにとっては重大事ですから。

ちょうど6年前に上の息子が高校に入学したころから瞬く間に普及したケータイも、3年後入れ替わりに下の息子が入学した頃には「常識」になり、そのまた3年後の今春、娘が入学した時には「えっ?うっそ~~~っ!!!」と絶句されたとか・・。中学時代にケータイを持っていなかった子でも高校の合格祝に買ってもらう子がほとんどで、3~5月は多くの子がメールの送受信に夢中。別の高校に進学した中学時代の友だちや、新しく知り合ったクラス・部活の友人と休み時間や登下校中もメールをやりとりする子が多く、娘は思いっきり!疎外感を味わったそうです。最近ようやく、周りの子たちのケータイに熱中する度合いが少し落ち着いてきたようで、私までホッとしました。そうしたら、今度は・・・。

この連休にあった文化祭前の2週間。夜9時までの活動が学校から許可されると、当然のように娘の部活も9時まで練習することになりました。もちろんうちでは論外です。そんなこと許したら、駅まで親が車で迎えに行ってすら帰宅は10時ですもの。問題外!というものです。娘に懇願されて普段は夕方6時台の電車に乗るのを7時すぎの電車に乗ることを許可しました。それでも、帰宅は8時台。うちにしてはギリギリの譲歩です(もちろんこの期間限定ですけど)。・・・それでも、他の子が9時まで練習するのを7時前にやめなくてはならないというのは、相当にしんどいようすでした。そりゃそうでしょう。よくわかる。それでも・・ダメ!

暗くなったらうちに帰るというかつての常識はいったいどこに行ってしまったのでしょう。「遊んでるわけではないし、子どもが頑張ってることだから」とほとんどの親たちは協力します。でも、勉強にせよスポーツにせよ10代の子たちが夜遅くまで家の外にいる状況を、ホントに許しててええんやろか?文化祭前の期間限定、大会前の期間限定、入試前の期間限定。いろいろ理由はつけられる。「できる限りの努力をする」というのは美化して語られることが多いけれども、キリがないと思う。「制限の枠内でやんなはれ」と子どもの足を引っ張り続ける毎日です。

あこがれの信州暮らし その50(2007年6月)

やっててよかった

そろそろアスパラガスの収穫は終わりにして株を休ませようね、と話し始めた頃です。そうしたらちょうどスナップエンドウやキヌサヤ、グリンピースが収穫時期になりました。

野菜を自家栽培していてよかったと思うのは、こうしていつも何かしら収穫できること。そして「もう十分食べたわ」と正直飽きてきた頃には旬が過ぎ、次の作物が実ってくることです。「旬のものを食べる」ってことは、ある意味ものすごく贅沢なことなんですけど、その時期は「飽きるほど食べなくちゃならない」ものだとは、以前は知らなかった。グリーンアスパラガスひとつとっても、シンプル塩ゆではもちろん、サラダ、グラタン、ごま和え、味噌和え、各種クリーム和え、バター炒め、クリーム煮、かき揚げ、・・と何かしら毎日料理に使い、朝のみそ汁の具としても毎日消費しなきゃいけません。コレって、けっこう大変なんです。

畑の野菜がいつも何かしらあるようにするには、もちろんよ~く考えて作付けしなければなりません。それこそ初期の頃は、畑の広さについつい気が大きくなって、畝の長さをフルに使って青菜類の種を蒔いたものです。でも何年か「無駄にしないで食べる大変さ」をさんざん味わうと、青菜一種につき(すじ蒔きで)50~80cmもあれば十分ということがよくわかりました。むしろ常に何種類かを蒔くことや、2~3週あけて何回か蒔くってことの方が有用ということも。

6年前に他界した母も家庭菜園を熱心にやっていました。癌を患ってからも、入院の合間を縫うようにして畑に種を蒔いていました。末期と言われてからもホスピス医に痛みをコントロールしてもらいながら「少しでもできることを」と畑に出たがりました。その気持ちが、今の私には少しわかるような気がします。「種を蒔く」って「希望を蒔く」ことなんですね。

末期癌でなくても、私たちは皆「明日生きている」という保証はない。でも種を蒔く時って、誰しも収穫のその時を信じて種を蒔く。無条件で自分の生命を信じている。そういうことって私たちの心をそっと支えているのかもしれません。

もともと私たちの身の回りには、そういう営みが多かったと思います。庭に植物を育てること。山に木を植えること。味噌を仕込むこと。野菜を漬けものにすること。・・・・どれもみな、すぐに結果がでることではなく、しばらく待つしかない。それでも、「時々様子を見ながら待つ」というその行為にこそ人は癒されるのかも。そんな気の長~い営みが、あのまま街に暮らしていたら縁遠いものになっただろうなぁ、とこの頃よく思います。

この春、進学して一人暮らしを始めた2番目の息子が、毎日せっせと自炊に精を出している様子。5月の連休に私の母の7回忌で広島に集合した際に、息子が「スーパーで買った野菜って味がぜんぜん違うよ」と祖父(私の父)に話しているのを小耳に挟みました。そうか、そうか。そう思うのかぁ、と思わずニンマリ。畑をやってきて(そしてそれを手伝うよう、こき使ってきて)よかった!と思う一瞬です。

あこがれの信州暮らし その49(2007年5月)

守りたいもの

この春は花粉症のシーズンが少し前倒しになったおかげで、外仕事をはやく始めています。例年ならまだクシャミをしながら庭に生えこびる雑草どもを恨めしく眺めているのですが、今年は雑草退治が着々と進みつつあるんですよ。フフフフッ!これがたまらなく嬉しい。彼ら(雑草)は動けない分、数で私を圧倒しようと思っているんでしょうけどね。彼らが大量の種を飛ばす前に引っこ抜いたかと思うと、自然に笑みもこぼれるというものです。ここ数年、うちの庭をわが物顔で占有していたヒメスイバやヒメムカシヨモギどもに「今年はそうはいかへんで!」。

とはいえ、ほかの人から見たらうちの庭はまだまだ雑草だらけに見えることでしょう。パートナーがチョウを大変にお好きなものですから、チョウの食草になっているものはできるだけ残すよう頼まれておりまして。シロツメクサ、イヌガラシ、アカソ、カタバミ、各種スミレ類、ムラサキケマン、ワレモコウ、スイカズラ、ナンテンハギ、スイバ、・・などなど。言うまでもなくウスバサイシン、クララ、カタクリなどは別格の扱いです。それに私が植えたオレガノ、ミント、カモミール、ラベンダーなどハーブ類も。・・・せっかく大家さんが敷き詰めた砂利の庭にも、こういった草本がどんどん侵入しつつあります(いいのかな?)。その上、クヌギ、キハダ、コクサギ、コマツナギ、サンショウ、ネムノキ、メギ、ブッドレア、ユキヤナギ、エゴノキなどの(チョウなどの食草や蜜源になる)樹木もずんずん育ってきました。

いやはや、こういった植物が整然とデザインされて配置されている庭ならば、流行りの「ガーデニングやってます」と胸を張って言えるのでしょうが、実際は雑然とあちこちに散らばっているわけですからねぇ!・・ちょっと恥ずかしい。それでも、たとえ見慣れたモンキチョウ、ルリシジミであってもパートナーは目を細めて眺めます。少し太りすぎてよたよた飛んでいるように(私には)見えるウスバシロチョウも、彼に言わせれば「優雅なとび方」なんだそうな。

三重県出身のパートナーは、このウスバシロチョウが三重県内では限られた山だけにしか生息していないというので、中2の時に友だちと一緒に泊まりがけで採集に行ったとか。「それが今はうちの庭を飛んでる!」と、それはそれはうれしそうに言います。

しゃがみこんで黙々と草取りをしている時、ごく近いところで大音量の♪ホ~ホケキョ♪・・いったいどこで鳴いてるの?と探したら、なんと!玄関から3メートルも離れていないドウダンツツジの株の茂みの中でオスがメスを呼び寄せているのでした。ウグイスの声自体はうちの周りでは普通に聞くのですが、庭の中でこんなに身近にウグイスが鳴く場面を見たのは初めてです。

庭を北から南に横切ってカケスの群れ(5羽)が飛びました。カラスの仲間だと思うと興がそがれますが、翼部分のスカイブルーの羽はなかなか素敵。

こうやって地面に這いつくばっていると、本気で守るべきは自然の営みだと改めて思います。

あこがれの信州暮らし その48(2007年4月)

やれやれ

やれやれ、やれやれ、やれやれ、やれやれ・・・・・2番目の息子が進学のためわが家から巣立っていきました。

わが家は1月下旬のセンター試験からいきなり受験シーズン真っ只中になりまして、それも3年前にも体験した大学と高校のダブル受験です。このダブル受験というのがくせ者でして、ついつい高校受験の方は忘れ去られる運命にあります。親の意識として、どうしても大学受験の方に意識がいっちゃうんですよね。センター試験、前期試験、後期試験と(私立を受けなくても)3回の受験料を振り込まなくちゃいけないだとか、受験時の宿の手配は大丈夫かだとか、・・・で、ハッと気づいたら娘の高校受験が終わっていました。

3人の子とつきあっていますと、人間っていろんなタイプがあるんやなぁと改めて思います。勉強とかテストとの向き合い方でもホントいろいろで、親である私は相手に応じて言うことを変える必要があります。高校時代にテストの出来が悪けりゃ「問題が悪い」と言っていた上の息子(この春から大学4年)には「謙虚であれ」と言い、「あちゃーっ!惜しい!・・・まっ、しゃーないわ」と言う下の息子(この春大学進学)には「立ち直りが早すぎる。もう少ししっかり落ち込みなさい」と言い、「あ~ぁ、なんであんなポカをしてしもたんかなぁ」と散々悔やむ娘(この春高校進学)には「だいじょうぶ、たいしたこっちゃない」と言い、・・・よくまぁ!我ながらうまいこと言うてきたものです。・・・いえ、誰ひとり私の的確なアドバイスをちゃんと聞くようなヤツはいませんけどね。

センター試験の頃まではちゃっかり新刊の小説も読んでいて、機嫌ようやっていた息子ですが、前期試験(大学の個別試験)まで秒読みになった1ヶ月はさすがに勉強していました。この息子、勉強してるかどうか親には一目瞭然でして、勉強し始めると途端に機嫌が悪くなる。機嫌がいい時は、勉強じゃなくて小説を読んでるんです。・・・で、2月は珍しく極端に機嫌が悪かった。ちょっとしたことにも突っかかってくるんです。「このお菓子、いくつ食べていいの?2個?3個?どっち?」・・・んなもん、2個に決まってるがな。

子どもが受験だからって私の生活が特に変わることはありません。受験するのは子どもですからね。どーすることもできませんし。毎日ごはんをつくって、ギャグで和ませるしかない。でも、そのギャグにも白い眼が向けられたりしてね。おぉ、こわっ!

塾にも予備校にも行かずに淡々と家で勉強するっていうのは、きょうび珍しいんだそうです。でも、彼らが生まれて初めて経験する試練は、結局(頼りにならない)自分ひとりの力で乗り越えていくしかないんですから。

こうして、根拠のない自信と漠然とした未来への希望を胸一杯に抱えた、楽天性そのものの若者は、親に感謝しようなんてこれっぽっちも思うことなく、意気揚々と巣立っていきました。

あこがれの信州暮らし その47(2007年3月)

ちっとも可愛くなかったオンドリですが

朝っぱらから(それも午前3時ころから)「コッケコー」と大音量で時を告げていたオンドリが死んで1ヶ月がたちました(うちで飼い始めて7年目)。

結局、彼(オンドリのことです)とは最期まで心が通じ合わないままでした。確かに、毎朝水を替え餌をやるのはパートナーや子どもたちですけどね。私は昼間何かあればすぐ様子を見に行ってやるという重要な役割を受け持っていました。それなのに、ちっとも感謝の念を持ってる風がない。週に一度、私が新鮮市場から魚を買ってきて包丁でさばいて、その魚のアラをニワトリに煮てやります。そんな時には「クククッ、クククッ」と大騒ぎで近づいてくるのに、それを持ってきたご主人さま(私のことです)には完全無視なんです。そもそも、彼はオスであることを自覚し始めた生後5~6ヶ月あたりから、反抗的な態度でした。いえ反抗的というより、「メンドリにチョッカイ出したら許さんぞ!」と常に警戒しているようでして、メンドリが私に近づくのを極端に嫌いました。ですから、私に対する目つきは完全に「敵」扱いです。

だから、私は一度だって彼のことを「可愛い」と思ったことはありません。私を襲うヤツの態度があまりに腹立たしくて「カシワにするからネッ!」と毒づいたこともあるくらいです。それなのに、死んで1ヶ月たつというのに、私の胸に残るこの不思議な存在感は何なのでしょう?

最初はオンドリ1羽、メンドリ5羽でしたから、次第にメンドリ同士のつつきあい(いじめ)が目に余るようになりました。そんなメンドリどもを相手に、彼は「クククッ、クククッ」とひたすら彼らの好きなミミズだの何かの幼虫だのを見つけては(自分は食べずに!)分け与えるのです。私が魚のアラをやる時も、いかにも自分が見つけた餌のように「お~い、いいものがあるぞ~」とメンドリたちを呼び集めて食べさせる。自分はうしろの方でウロウロしながら、メンドリたちの食事が一段落するのを待っている。放し飼いにしている時には、メンドリたちがてんでバラバラに歩き回るのを、いつも注意深く見守っている感じでした。

いやぁ、オンドリがこんなに利他的行動をとるものとは、私はうちでニワトリを飼うまで知りませんでした。最後の2年ほどはついに一夫一婦制になりまして、彼も少しは肩の荷がおりたようで、落ち着いた穏やかな毎日でした。ずいぶん太っていましたし、脚も次第に弱ってきて止まり木に飛び上がることさえ困難になりました。ところがメンドリの方は元気で、鶏小屋を開けるとテェ~ッと飛び出していくものですから、よろよろしながら「おい、気をつけろよ」という感じで付いて回っておりました。ひたすらメンドリの意志を尊重し、とにかく安全であるようにと見守るんです。オンドリにこんな騎士(ナイト)精神があるとは!!・・たいしたものです。

メンドリですか? 元気です。今年は暖かいせいか、例年なら春分の日あたりから産み始める卵を1ヶ月はやく産み始めました。オンドリのことは・・忘れてるみたい。「あのオンドリって、ある意味、俺みたいやったなぁ」とパートナーがしみじみとつぶやきました。どーゆー意味?

あこがれの信州暮らしその46(2007年2月)

PTAで出会った素敵な大人たち

「雪が積もらない」だの「暖かくって気持ち悪いくらい」だのと、会う人ごとに話しています。案の定うちの庭でもフキノトウが出てきて、2月初旬というのにフキ味噌を味わいました。初春の香りがうれしいけれど、今はまだ2月ですよ、2月!

3人の子の親として関わってきたPTAとのつきあいが、来月に娘が中学を卒業しますのでほぼ終了となります。小中学校のPTAだけで15年間。保育園の親の会を加えると20年近く関わってきました。もちろん高校にもPTAはありますが、親としては「補助教材が多すぎる。ホンマにそんなに必要なの?」くらいしか言うことはありません。昨秋の未履修問題も、高3の息子は「当事者である生徒に何の相談もなく勝手にカリキュラムを操作されて、その挙げ句に『生徒のためだった』はないだろう。誰もそんなこと頼んだ覚えはない」と憤然としていましたが、そんなことも生徒会を通して話し合うことであって親が出ていくまでもない。

何度か引っ越したため、これまでいくつものPTAを経験しました。西日本のある小学校では、秘密会で決まったPTA本部役員が学校とベッタリで、親の意見には一切耳を貸さないところでした。アメリカのシュタイナー学校では、小学校3年生に二桁×一桁のかけ算を(私の想像をはるかに超えた)超ゆっくりモードで教えるベテラン教師に「まだテンポが速いと思う」と意見をいう親たちがいました。その親たちと教師がもっとわかりやすい教授法はできないかと長時間話し合うことにビックリ。親の関わり方もそれを受け入れる教師の度量も、ホントにいろいろです。

安曇野に引っ越してきて最も驚いたことのひとつは、ずっと子どもの学校教育に関わっていなかった父親たちも、いったんPTA役員になると能動的に取り組むってことです。あるお父さんは、(担任ではなく)学級PTA役員の私が発行していた学級通信を「すごいですねぇ!懇談会の様子もよくわかる」と感心していましたが、その翌年に彼がPTA会長になると「PTA通信」を発行し、「PTA掲示板」を設置し、クラスの垣根を越えた「PTA懇談会」を開催するなど次々に新たな試みを始めました。その次の年のPTA会長は、PTA会員の要望を受けて実際に参加したCAPワークショップでその重要性を認識し、さっそくPTAでCAPワークショップに取り組むことに決めて活動計画の柱にしました。・・要するに自分の眼で見、自分の頭で考え「これはいい!」となれば、どんどん取り入れ実行していくその決断力。それに柔軟性!

それまでの私は、授業参観すら来たことがなかったという父親がPTA会長になるこの地の伝統に懐疑的でした。しかし、ここの父親たちはいったんその機会に出会うと誰もが真摯に誠実に向き合うし、近隣の地区ではPTA組織の中に「親父の会」を立ち上げる人たちまでいます。もちろん次の段階としては、パワーあふれる女性のPTA会長も出てくることでしょう。

たくさんの素敵な人たちに出会い、たくさん話をしたPTA活動。おかげで、安曇野にたくさんの友だちができました。

あこがれの信州暮らし その45(2007年1月)

「凍みる」日も、家の中は暖かくて野菜はたっぷり

このところ朝の最低気温が-8~-9℃という日が続いています。寝室の窓ガラスも玄関の戸もびっしりと凍りついていて、冷凍庫みたい。私の目覚まし時計が鳴る5時20分はまだ外は真っ暗です。キーンとした冷気の中で見上げる空には満天の星。信州の真冬の快晴の一日はこういう「凍みる」朝から始まります。西日本に住んでいた頃は「きょうは冷えるねぇ」などと話したものですが、-10℃前後になる信州の寒さは「冷える」という言葉ではピンときません。やはり「凍みる」という語感そのものです。

そんな寒さの中で新聞配達をしている人がいるってことに、私は頭が下がるばかりです。うちに新聞が配達されるのは、いつもだいたい4時50分。玄関から離れたところにバイクを止めて、そぉ~っと玄関まで歩いてきて、そっと静かに郵便受けに差し入れる方なんです。大雪や雨の日に車で来られる時も、ぐっと速度を落としてゆっくり静かに乗り入れて(砂利がゆっくり小さくジャリジャリと音をたてる)、車のドアをほとんど音がしないように閉めておられる様子が伝わってきます。すごいねーっ!こんな配慮をして配達してくださる方がいるんですよね。ただでさえ、眠くてたまらない早朝に、しかもこんなに「凍みる」日は布団から抜け出すのが辛いだろうに、寝ている人に配慮してそっと新聞を配達する。・・そんな人がいるんだもの。

私の友人(息子の中学時代の同級生のお母さん)も新聞配達をしています。小・中・高の3児の母。毎朝3時に起きて朝食の下ごしらえをしてから新聞を配達し、家に戻ってから夫と高校生のお弁当を詰め、それから仕事へ。「凍みる」朝も(車だと時間がかかるので)バイクで配達するそうです。手袋は二重にして、マフラーをぐるぐるに巻いて、・・・自分の吐いた息で眼鏡が曇るのが大変だと言っておられました。ときどき彼女の話を聞くたびに、私は自分の背中が少しはしゃんとするのを感じます。「寒いだの大変だの文句ばっかり言ってないで、まずはからだを動かして働かなくちゃ」って。

そう、信州で暮らすようになって何が一番変わったって、ずいぶん「からだを動かす」ようになりました。パートナーも私も文字を読んだりパソコン相手にカチャカチャやることが多く、時間が惜しいからと車に乗り、運動しなきゃとは思っても心理的にも物理的にもその余裕もなく・・・。それが信州に住むようになって、それも思いがけず家庭菜園のレベルを超えた畑仕事をするようになって、からだを動かさざるを得ない毎日になりました。そのせいかどうかはわかりませんが、以前よりは風邪で寝込むのがぐんと減りました。そして頭でっかちの私も少しは「批判」より「提案」、「問いつめる」より「耳を傾ける」ことができるようになってきたみたい。

1日は24時間。だから通学時間が長いことで損をしてるような気がする?「ううん。な~んにも考えずに黙々と歩くのって、私けっこう好きだよ。それに帰ってきたら家の中があったかくってホーッとする。そしてそこにおやつがあるともう最高」と娘が言いました。ハイハイ。

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いなずみなおこ
「八百屋おやおや」配達のお客さん
2000年に長野県安曇野市堀金に引越して来られ、それ以来配達の度に田舎暮らしや子育ての事等、おもしろい話が聞けて、これは僕一人で聞くにはもったいないと思い「おやおや伝言版」に登場願いました。(店長談)