あこがれの信州暮らし 2013年いなずみなおこ

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あこがれの信州暮らし その121(2013年11月)
「介護の社会化」を進めつつ・・・
 先日の冷え込みで、紅く燃えていたドウダンツツジの葉がいっきに茶色になり、柿の葉は全部いっぺんに落ちました。自然は冬へと急ぎ足です。
 父の介護、看取りで始まったこの1年。私はアレルギー性の咳や肩の骨折などで散々でした。それでも秋の深まりと共にイネ科の雑草の花粉は下火になってきて、しつこかった咳もようやく(!)治まってきました。肩の骨折も、せっせと一人でリハビリに励み、ほぼ不自由なく動かせるようになりました。整形外科医には「これはスゴイ! ずいぶん無茶しましたね」と言われましたが・・・(バレタか)。
 私が父の介護と看取りに費やした時間とエネルギーを改めて振り返ると、我ながら驚くばかりです。しかし、まがりなりにも介護や終末期についてさんざん本を読んで考えてきたにもかかわらず、なぜ「介護の社会化」に反するかのような「家族による」在宅介護にどっぷり浸かってしまったのか? これでは「医療費抑制」にやっきになって「家族の介護」を熱心にアピールしている政府の思うツボではないか? 
 私を突き動かしていたのは、日本のホスピスケアを牽引してきた山崎章郎さんの著書の中の一節でした。山崎さんは時々、余命が1ヶ月を切ったと思われる末期がん患者の家族から「あと数日になったら、何とかやりくりして時間をつくりますから教えてください」と聞かれるそうです。でも山崎さんは「もし、やりくりできるんでしたら、それが必要なのは今です」と答えるとのこと。つまり亡くなる2〜3日前になると患者の意識は朦朧としている。むしろ、亡くなる2〜3週間前くらいの、患者が動けなくなって、不安で、誰かを求めていて、まだ意思疎通ができ、患者本人の望みに家族が応えられるという時期にこそ、やりくりは必要なのではないか? というのです。・・・・私は山崎さんに深く共感しました。
 私たちは家族の死に際して、「お通夜」「お葬式」に続く各種法事など死後の「儀式」に関しては、どんなに多忙な人も仕事を休んで駆けつけることを(社会的にも!)認められています。でも、死にゆく人にとって、もっとも傍にいて欲しいのは、まだ意識があり不安に押しつぶされそうな、しんどい時期ではないか? もし家族や親戚・友人たちが(儀式の時ではなく)そういう時期にこそ少しずつ時間をやりくりして交替で患者に寄りそうことができたら、主たる介護者が疲労困憊することも減らせるのではないか?
 父の介護と看取りを全うできた私は、ある意味幸せだったと思います。何もかも放り投げて介護に専念できたのは、家族(とりわけパートナー)の理解と協力があってこそ。でも、それだけでなく経済的なバックアップも必須です。生活のために働かざるを得ない人もたくさんいるし、介護のために責任ある仕事を放り出すわけにいかない人も多い。それでも、思うんです。死んでから儀式に馳せ参じるよりも、生きている間に数日間だけでも共に過ごし、じっくり話すことを優先できる、そしてそれを寛容に見守る社会でありたい、と。終末期を支えるのに、医療面での緩和ケアはもちろん重要ですが、それ以上に「食べること」「排泄すること」・・・つまり、日常生活そのものを、周りがやりくりしながら!どれだけサポートできるかが問われている。「介護の社会化」を進める一方で、身近な人の死に際して医療や介護の専門家に任せるだけでなく、家族や友人だからこそやれることもいっぱいある、そんな気がしています。

あこがれの信州暮らし その120201310月)
ピンチの時に         
 病気であれ怪我であれ、人は「ピンチ」の時にどんな助けを必要とするだろう? そりゃあもう「まずは苦痛の緩和」でしょうか。日々の暮らしは、歯が1本痛くても気分的にブルーになります。だから誰しも何はともあれ、痛みなどの苦痛から解放されたいと願うもの。
 がん末期の父を支えたのはホスピスケアチームでした。在宅ホスピス医は驚くほどのスピードで進行した父の病状に、次々に手を打ってくれました。もし、諸症状を抑えることのみを目的として、即効性のある強力な薬剤を使用するのであれば、患者は終末期の貴重な時間を、家族としゃべることも叶わずに眠り続けるってことになるのかも? だから、ベテランのホスピス医によるきめ細かな症状緩和医療の技(わざ)があってこそ、患者は一日一日を「より楽に」過ごし、かつギリギリまでやりたいことができ、大切な人と話をすることができます。たとえ大病院の「緩和医療チーム」であっても、こういった技を持つ医療者であるかどうかは、実は私たち素人には判断できません。研修を積み重ねながら経験を積んでもらうしかない。でも、その技っていうのは、あくまでホスピスケアの一部。何よりも患者や家族の話にじっくり耳を傾け、共感し、その上で(たとえ専門的な治療法であっても)いくつかの選択肢をプラス面やマイナス面の両方を示した上で、患者や家族の意志を最優先して治療方針を決定する。・・・実は、そんな医療者の誠実な姿勢こそが心からの信頼を育む、とい・u桙、ことを今回つくづく実感しました。
 具体的な日々の生活に寄り添ってくれたのは、ホスピス医と連携した訪問看護師さん。排泄ケアのノウハウを教えてもらったのはもちろん、「薬にむせる」とか「腰が痛くて座った姿勢がつらい」とか、どんな些細なことでも「相談すれば必ず何かしら解決策を提案してくれる」プロ。そして医療以外の面でも、一緒に考え、支えてくれた。父が死んだ日の朝、手渡された桜の枝がどんなに私を慰めてくれただろう。
 特殊浴槽での入浴でお世話になったデイサービスのスタッフ。身体の清拭方法や足浴など親身に教えてくださったヘルパーさん。そしてもちろん、病状にあわせてケアプランを提案してくれるケアマネージャーさんなどなど、父はホスピスケアチームの総力に支えられたのですが、介護者の私にとって本当に有り難かったのは、なんといっても「食」でした。
 父がいた賃貸住宅には、希望する住人や訪問者だけでなく、地域にも配食サービスを行っているNPO法人のレストランがありました。父の居室内にももちろん台所はありますから、自炊はできます。でも、夜を徹して父に付き添っていたあの時期、私はそこのスタッフが運んできてくれる食事にどれだけ助けられたことでしょう。私は父が眠った短い時間に、とにかくしっかり食べることができました。
 これまで私は、たとえば近所の方が病気した時、たとえば友人や、その家族が入院した時、誰かの引っ越しの時、あるいは愛娘を亡くし悲嘆の最中にある方にも、とにかく手づくりの食べものを届けてきました。私ができることってタカがしれている。だからまずは「とにかく、しっかり食べて」。
 先月、私自身がピンチになってしまった肩の骨折。大急ぎで京都から帰省してきた息子がまず作ってくれたのは、畑の野菜各種を使ったラタトゥユ。どれだけ美味しかったか、言うまでもありません。

あこがれの信州暮らし その119(2013年9月)
誰かに助けてもらう生活
 「骨折」なんて、私には無縁のことだと思っていました。だって、常に「冷静で」「慎重で」「優雅なふるまいの」私ですもの(そうですよ!)。あぁ、それなのに・・・。9月初旬に、また庭のトウモロコシ畑に猿が1頭出没したんです。私は追い払おうと玄関先で爆竹に火をつけ、放り投げた! その瞬間、甲の部分が裂けかけていた玄関スリッパが庭の砂利石に引っかかり、転んで、・・・左肩の上腕骨大結節骨折。当初は(私は右利きなので)左肩でまだよかったと思いました。ところが、けっこう不自由なんですね、これが。何せ左腕が上がらず、左手でモノを持つことも押さえておくこともできませんから、料理ができない。茶碗も洗えない。洗濯物をハンガーや物干しに干せない。タオルや布巾が絞れない。もちろん車の運転も、庭仕事や畑仕事も・・・できない。思った以上にできなくなったことが多くて愕然としました。パートナーは「こういうこともあるさ。これまでさんざん働いてきたんや。少し休憩しろってことや」と言います。大学院生の息子や大学生の娘が交替で帰省し、父親の負担を軽減すべく、家事や畑仕事を手伝ってくれています。そんな子らにもパートナーにもひたすら、「迷惑かけてゴメン」。日々、軽快していくハズの怪我ですら(「気にしない、気にしない」と何度言われても)こんなに身の縮むような思いをするんですから、もっと高齢になってさまざまなからだの機能が衰えてきたり、深刻な病気になったりしたら、自分のこと以上に「家族に迷惑をかける」ってことがツライんだろうなぁ〜。
 介護保険制度が始まって13年半。介護保険法が施行された当初、私は「まだまだ不十分な点はあっても画期的な制度やわ。介護保険をしっかり活用すれば遠距離介護だって何とかやり繰りできるやろ」と楽観していました。ですから「何より情報をしっかり持っておこう」と、「高齢社会をよくする女性の会(代表・樋口恵子さん)」に注目しては情報を集め、介護の諸問題をクリアに示してくれる上野千鶴子さんや遠距離介護に詳しい太田差惠子さんの著書をはじめ、この20年ほどはけっこうな数の本を読んで「いつか来る介護の日々」に備えてきました。でも、介護保険はやっぱり万能というわけではなかった。
 父はがんが発覚してから息を引きとるまでが5ヶ月でした。その短い期間でも、介護保険のおかげで、東京への転居後もすぐに電動式の介護用ベッドや車椅子を使うことができたし、デイサービスでの特殊浴槽を使った入浴もできました。それでも、介護者である私がもっとも助けを必要としていた時期に、単なる「つきそい」や「見守り」が介護保険のメニューにないのは本当にしんどかった。もちろん医学的な処置が必要な場合は24時間支援体制を持つ在宅ホスピス医や訪問看護師さんが来てくれます。でも、私が欲したのは特に夜間のつきそいの交代要員でした。当時、私の家族は海外にいたり、仕事の都合でどうにも交代できない一時期がありました。そんな孤立無援の時にこそ、公的支援が欲しかった。ここ安曇野でも一人暮らしの高齢者が増え、つい数年前までは丹精込めて手入れされていた庭や畑が雑草に覆われ荒れてしまっているお宅も増えてきました。もちろん介護保険に「草取り」のメニューはありません。最低限の生活支援が優先なのは当然のことですが、あれほど手をかけ大切にしてきた土地が荒れていく様子を高齢者の方はどんな思いで眺めておられるんだろう、と胸塞ぐ思いです。

あこがれの信州暮らし その118(2013年8月)
「生」と「死」の推移を見守って
 「猛暑、猛暑」と騒いでいたこの夏も、わが家の生きものたちはそれぞれの生の営みを淡々と続け、私たちはその対応に追われました。畑のトマトを(熟れたのから順に!)カラスが突っつくので、防御網をかけました。家の白壁にはマイマイガの卵塊がそこらじゅうにあり、届く範囲で片っ端にそぎ落としました。スズメの雛は(たぶん)ヤマカガシに襲われて地面に落ちました。そのヤマカガシを直後にパートナーが長靴で踏みそうになりました。スズメの雛の死骸を後で庭に埋めようと思っていたら何者かが持ち去っていました。数日雨が続いたあとで2階の雨戸を一枚開けた時、戸袋の中にいたアオダイショウが開けた雨戸に腹部(?)が挟まって、あちらは慌てて上半身(?)を部屋の内側に反らせ、こちらは仰天しました。土手のホオジロの巣から無事に雛が巣立ったかどうかは不明です。リビングの真ん前にある畑には、白昼に猿(若オス?)が1頭出没。大胆にも私の目の前でトウモロコシの皮をバリバリと剥いて食べました。私が手に竹刀を持って騒ぎたてても、ヤツは悠々と食べ続けます。爆竹を鳴らしたら、よりによって一番大きなトウモロコシをさらに2個選んで(!)バキッと折り、両手に持ったまま囲い網をヒョイと跳び越えて立ち去りました。そして今、エンマコオロギたちは日中も庭中でかしましく鳴いています。 
 「生きる」って、「食べる」こと。そして「繁殖する」ことなんだって、生きものたちは教えてくれます。そして「生」と「死」は隣り合わせの、表裏一体のものだということも・・・。
 父は「がん」がわかってから、在宅ホスピス医や訪問看護師さんなどのホスピスケアチームの力に支えられて、結局最期まで在宅で過ごしました。その終末期の一部始終を見せてもらいながら、私は3人の子の出産時のことを思い出していました。「出産」と「終末期」は、どこかしら、とても似ていた。
 助産師さんは妊娠中の内診の際にも、会陰部を「消毒」するのではなく、温かな蒸しタオルで拭いてくれました。そして、私たち夫婦は3人の子の出産を助産師さんの力を借りながら、里帰りせずに2人で迎えました。出産直後からオムツ換えも沐浴も(最初は助産師さんに教えてもらいながら)自分たちでやりました。だから赤ん坊の便が、粘性のある黒緑の胎便から、黄色味を帯びた便に移行し、そして数日後に黄色いツブツブの便になると「あぁ、母乳が無事に消化管を通過したんだ」と感慨深かった。がん末期の父がベッド上で排泄した際には、試行錯誤の末、まずはペットボトルに入れたぬるま湯で洗い流し、温水で絞ったタオルで拭くことにしました。そして、がん末期の病状は「階段状に推移する。突然変化する」と言われますが、ず〜〜っとそばで見ていたらそれは必ずしも突然ではなく、「なるべくしてなっている」というか、必然があるとも感じました。がんの進行に伴って、がん細胞が浸潤し、ある拮抗した状態を打ち破った時、あるいはある臨界値を超えた時に症状が大きく変化する・・・と感じました。痛みが強まり、血圧が低くなり(心機能が弱まり)、腎機能が弱まり、固形物が摂れなくなり、水分を飲み込むこともできなくなり、しゃべることができなくなり、寝返りができなくなり、痰がからみ、・・・・そんな「大きな流れ」をじっと傍で見守りました。ホスピスケアの専門家は、その「大きな流れ」の中で、いかに「楽に」過ごせるかを、患者や家族の思いに寄り添いながら支えてくれたのでした。

あこがれの信州暮らし その117(2013年7月)
支えがあってこそ
 癌の進行に伴って高カルシウム血症を発症した父は、頻尿やせん妄状態になり、私は2月中旬以降は全く東京を離れられなくなりました。こんなに早くこーゆー状態になるとは、私だけでなく誰もが想定外のことでした。12年前に癌で死亡した母は、末期癌と言われてからもホスピス医に痛みを緩和してもらいながら自宅で長く生活し、一人暮らしの高齢者のためにお弁当を作って届けるボランティアも続けていました。「末期といっても、私は末期のどのあたり?」と尋ねて主治医を絶句させたことも・・。だから父だってまだまだ当分は大丈夫・・・なぁんて、素人の勝手な希望的観測でした。
 せん妄状態は高カルシウム血症の治療を始めたからといって、すぐに解決するわけではありません。身体介護には慣れても、認知症のような状態にある父に四六時中つきあうのは容易ではなかった。それでも、私が何とか切り抜けられたのは、言動に混乱があった期間は短かったこと(3週間程度)。これが、何ヶ月も何年も続く状況だったら、どうだっただろう? だから、患者の身体への「抑制」や「拘束」を批判するのは簡単ですが、批判だけでは何も解決できないとつくづく思います。
 私は子育て期でもそうでしたが、しんどい状況であればなおさら、その状況を「もう一人の私」が少し離れた位置からじっと観察する習癖があります。そして、それを記録する。今回の、非常に厳しい状況でも私がパニックにならず、むしろ自分自身の心理をも興味深く観察できたのは、「もう一人の私」のおかげです。その「もう一人の私」が、いつも私に「まずは深呼吸を」とささやいてくれる。
 そして、そんな毎日を(愚痴も含めて)それこそ毎晩(!)電話で聴いてくれたパートナー。彼にとって、2月はどうにもこうにも動きのとれない時期でした。「交替できなくてゴメン」と言いながら毎晩私の話に耳を傾けてくれる彼の存在が、どれほどの支えになったことか! 「そうか」「よくやってるなぁ」と言ってくれる人がいるからこそ、私はまた多難であろう明日を迎えることができました。
 そして「お気楽な孫」の存在も。たとえば・・・、まだ父がせん妄状態にあった3月初めに急遽、アメリカ留学中の娘が一時帰国しました。留学も半年を過ぎ、たくさん学んでたくさん経験して、それらをすべて自分の「肉」にして、本当に丸々と太って・・・。その娘が、祖父のすぐそばで食べ、しゃべり、そして祖父の食事の介助をする。そうしたら、ほとんど食べてなかった父が、孫娘の勢いにつられて(!)食べ始めたんです。そしてあちらこちらに飛びまくる、とんちんかんなものなんですが、「楽しい会話」が成立している! 娘は軽妙に相づちを打ちながら、楽しげな雰囲気をつくります。「否定せずに聴く」という原則も軽々と乗り越え、頃合いをみて「○○じゃなくて△△だよね?」などとシビアに訂正しながらガハハと笑う。父は「ほうかぁ?」と、認識違いをそれほど気にしていない。
 いやもう、私は舌を巻きましたね。ノー天気な孫というのも、深刻になりがちな介護には重要な役割を果たすものです。父の現状を前に塞ぎがちだった私の心は明らかに軽くなりました。
 娘が「ほなら、じっちゃん。4月に短い休みがあるから、また来るね」と再渡米した日、父は「よし、わかった。おまえは、そのぅ・・・喰い過ぎるなよ」と言ったのでした。ちゃんと、わかってるやん!

あこがれの信州暮らし その116(2013年6月)

「楽(らく)」を望む気持ち
 5月の連休前に風邪をひいたあと、ひどい咳だけが長引いて・・・。これがイネ科の花粉症に特徴的な症状だったとは! 今、私はちょっと凹んでいます。6月中旬を過ぎた今も、まるで喘息のような咳が出るんです。出始めたら止まらない。そういえば、ライ麦の花粉でエライ目にあったのは2年前の6月のことでした。耳鼻科医は「イネ科の雑草の花粉はスギやヒノキほどは遠くまで飛ばないから、とにかく近づかないことが一番の対策」なんて簡単に言うんですけど、そんなぁ! わが家の周辺は休耕地も多く、イネ科の雑草だらけ。いやもう、あこがれの農的生活がピンチです。ど〜しよ〜。
 父の終末期にも、そんな思いがけないことがつぎつぎに起こりました。上京後まもなく、認知症に似た言動をし始めたのです。何事もきちんと自己管理できていた父なのに、2月中旬くらいから、いろいろな面で理解がスムーズにいかなくなりました。日付や曜日がわからなくなり、薬の管理ができなくなり、粉薬は必ずこぼす。字が思うように書けなくなる。お金のことをとりわけ気にする。しだいに人の名前はごっちゃになり、ついには私が「家内」になったり「孫娘」になったりしました。一時的に、話す言葉やふるまいに混乱がみられるこういった状態を医学的には「せん妄」というのだそうです。末期がん患者の約3割に出現する症状だとか(高齢者に多いらしい)。
 そりゃぁもう、困惑しました。83才の父が自宅を処分して福岡から上京するなんて、無謀すぎたか? 環境の激変についていけないのか? と落ち込みました。その上、多尿、頻尿になり夜中でも30〜40分おきにトイレに行きたいと言うので、私は全面介助をすること に・・・。1月まではずっと高血圧の薬をのんでいた父なのに、血圧はぐっと低くなっており(それだけ心機能も弱っている?)、トイレに行こうと立ち上がって歩き始めると、意識を失って(脳貧血?)膝から崩れ、床に倒れることが増えたからです。それでも父は「自分でトイレに行く」と言います。訪問看護師さんがじょうずに話してくださって、ポータブルトイレや尿瓶を受け入れるようになったかに見えても、すぐに忘れて(?)ガバッと起きあがりトイレに行こうとする。私は父が倒れそうになるのを支え、抱きかかえてベッドに運び、尿を尿瓶にとる、の繰り返し。昼も夜も父から目が離せなくなってしまいました。
 検査の結果、高カルシウム血症になっていることがわかりました。すぐに骨吸収抑制剤を点滴注射しました。これで、血中のカルシウム濃度は改善し、1週間ほどでせん妄状態から脱却できるとのこと。でも、がんが骨転移している以上、破骨細胞は活性化され続け、注射の効果は約1ヶ月といいます。その点滴をするのにあわせて、導尿カテーテルを膀胱内に挿入することになりました。
 切れ切れに3時間程度の睡眠の日が続き、直前の2晩は完全徹夜だった私は心底ホッとしました。トイレに起き上がろうとする父に導尿のことを繰り返し説明してなだめ、「先生が言ってたよね」とダメ押ししたら何とかあきらめてくれます。夜間だけでも15回前後も尿瓶で尿をとり、漏らした尿の後始末をする大変さに比べたら、どれだけ楽か。でもその時、ハッとしました。こうした介護者の「楽」を望む気持ちが「(患者への)抑制や拘束」につながっていくんじゃないか?って・・・。

あこがれの信州暮らし その115(2013年5月)
               栄養点滴をする?しない?          
 4月末にかかった風邪ですが3週間たった今でも咳が止まりません。からだが異様にだるくてあんまりしんどいので、久しぶりにいちばん近くの(といっても3kmは離れている)仲の良い(いや、仲の悪い)内科医を訪ねました。咳が止まらず声もしゃがれて・・と言うと「しゃべりすぎじゃないの?」。そんなことはない! 美人薄命というから何か重篤なものかもしれない、と言うと「(まじまじと私を見て)その心配は一切ない。ぼくが保証する」と断言します。ほんっとに、ヤブ医者ね!
 さて1月下旬、福岡で一人暮らしをしていた父は入院したまま、私が引っ越し作業をし、家の売買契約も進めました。そして入院中にいっきに車椅子状態になった父は、結局一度も自宅を見ないまま、東京への大移動をしました。いやはや、大変な日々でした。大変すぎて、何をどう一人でやり繰りしたのか、今も当時のことが夢だったような気がするくらいです。それから2ヶ月たらず。病気は予想以上にぐんぐん進行し、3月後半に父は私たち家族に看取られて息を引き取りました。結局、私が安曇野の自宅に戻ったのは2月前半の数日のみ。あとは24時間父に付き添っていました。
 でも、それだけべったり付き添うことができたおかげで、終末期の一部始終を見ることができました。そして、実にさまざまなことを考えさせられました。忘れられないのは、父がほとんど食べられなくなっていた時に栄養点滴をするかどうかを家族で(海外にいた子もネット上で)議論したことです。
 1月最終日に博士論文を提出してすぐに上京してきた上の息子は、短期間で激ヤセした祖父の姿に衝撃を受けたようでした。安曇野から持参したリンゴジュースや果物などの他はほとんど手をつけようとしない祖父が「栄養点滴もしてない!」と驚き、心配しました。そして「このままでは祖父が会いたがっている弟(牧畜民調査のためにケニアに渡航中)や妹(アメリカ留学中)が帰国する日まで保たないじゃないか。生命の維持に必要とされているカロリーを補充するための点滴をしないというのは科学的ではない」と主張しました。そして、相変わらず父のために緑茶をいれている私に「高カロリーのジュースやスポーツ飲料にするべきだ」と言います。私たち親ふたりは「食べものを受けつけないというのも、それなりの身体の必然性があってのことであり、人間の身体にはその時なりの適量があるのではないか」「本人が甘ったるい飲み物を嫌がっている。科学的にはポカリスエットの方がよくても、本人が飲みたがっている、そして長年愛飲してきた緑茶を飲ませてあげたい」と答えました。そのやりとりを聞いていた在宅ホスピス医が「人それぞれに人生観があり、特に終末期をどのように過ごすかは本人の意向を最も尊重したい。科学が必ずしも人を幸せにするとは限らないからね」と息子に話しかけていたのが印象的でした。
 ・・・とはいえ、私も「本当にいいのか?」と何度も何度も考えました。ほとんど食べない人が目の前にいると、やっぱり平気ではいられない。これは?あれは?と手当たり次第に試しては、やっぱり食べない父に落胆します。赤ん坊であれ病人であれ「食べたかどうか」を気にする心理って何なのだろう? 自分が安心したいだけではないのか? と自問したり・・・。家族にとっても試練の時でした。

あこがれの信州暮らし その114(2013年4月)

最期にそばに居てほしいもの
 引っ越しを8日後に控えた1月中旬、父は胸水を抜くために緊急入院しました。駆けつけた私は「当初の予定は変更してしばらく福岡で療養しようよ。私がしばらくこっちにいるから。体力がついたら安曇野に一緒に行って暮らそうよ」と、もう一度説得を試みました。しかし父の意志は固く、上京して在宅ホスピス医に診てもらいながら一人暮らしを続けると言います。胸水が溜まるなどの一時的な症状の悪化はあっても、まだ当分は一人でやれると信じていたようです。「あんたには大変な思いをさせるが、引っ越しはまかせるけん」‥‥私は途方に暮れました。今回は普通の引っ越しではありません。長く暮らした自宅を処分して、東京の在宅ホスピス医のクリニックがある建物の上階にある賃貸住宅に転居するというもの。そこは病院ではないし、施設でもありません。自宅ですから、家具家電だけでなく寝具、台所道具、洗濯や入浴のためのグッズも必要です。でも、今までのような広い一軒家ではありませんから、荷物を厳選する必要がある。
 父が入院のベッド上から私に指示した荷物は、生活必需品以外では仏壇と神棚、それにアルバム数冊、そして亡き母が長年使っていた和裁のための裁ち台をリフォームしたテーブルなど。長年あちこちの窯元めぐりを楽しみながら集めていた壺や花器、食器、そして季節に応じて毎月こまめに掛け替えていた掛け軸や色紙などは、数点を残してあとは全部どなたかにお上げするなり処分してくれと言いました。飾り棚にずらりと並んだ100種近くあろうかと思われたぐい呑みのコレクションからは8点だけを選び、額に入った絵画は3点だけ持参したいとか・・・。
 私は父に言われるがまま、東京に持参する以外のものを従兄弟たちや近所の方たちに受け取ってもらいました。でも、残ったものを「処分」する決心ができず「どうやって収納するねん?」と思いながらも、とりあえずは信州に送るために段ボールに梱包しておりました。治る見込みのない父の病状を考えると、ある意味遺品整理のような側面があって心の重い作業です。だから売りに出した家が(引っ越しの2日前!に)造りつけの家具や食器棚、テーブル、書棚や紫檀の座卓にいたるまで「そのまま全部使いたい」という若い人が買ってくださることに決まって、本当に有り難かった。あぁ、これでゴミにならずに済む、活用してもらえると思うと涙が出ました。
 私ならいったい何を選ぶんだろう? 最期まで何を身近に持っておきたいと考えるだろう? 膨大な量の蔵書は無理やろなぁ。でも「私」を形づくってきたのは、何と言っても本やしね。お気に入りの絵本も手放しがたい。そうや! 漬け物石は外せんわ。ギリギリまで自分で漬け物くらい漬けたい。それに野の花をデッサンする色鉛筆とクレヨン、それから・・・と考えていた時、ハタと気付きました。
 父が驚くほどの潔さで、東京への転居と自宅の売却を決めたのは、最期は子や孫に囲まれて・・・という強い希望があるからだということに。それは私一人が福岡で付き添っていればいいというわけではなく、孫たち皆が集まりやすい東京に行って、日常的に会って話がしたいっていうこと。
 モノはなくてもいい。父が強く望んだのは「賑やかな家族」だったのでした。

あこがれの信州暮らしその113(2013年3月)
 「大丈夫!」の言葉に勇気づけられて
 「今後の人生を抗がん剤の副作用に苦しみながら過ごすよりも、痛みなどの症状を緩和してもらいながらできるだけ普通の生活を続けたい」と望んだ83才の父は、福岡から東京への転居を決めました。これから出現してくるであろうがんの諸症状の緩和を、私たち家族が集いやすい東京の在宅ホスピス医に委ねようというわけです。とはいえ、そう決めた10月〜11月の時点では目立った自覚症状はなかったものですから「大変になるのはず〜〜っと先のことじゃろ。それまでは当分、東京で孫たちとも遊べるったい」と信じていたようです。近所の人たちからも「老人は進行が遅いって言うけん、まだまだ大丈夫!」などと励まされていました。
 父は11月中旬には福岡から一人で上京し、東京で待ち合わせた私と一緒に在宅ホスピス医の訪問診療が可能になる地域を下見しました。それが、12月に入る頃から「何か知らんけど、きつか(しんどい)」と言い始め、それでも思いがけず、当の在宅ホスピス医のクリニックが同居しているコミュニティケア本拠地の賃貸住宅へ2月から入居できることが決まったら「これでもう安心」と心は早くも東京へ。しかし年末年始の頃にはハァハァと肩で息をして、すぐに「きつかけん寝る」と言うようになりました。そして日増しにしんどくなって毎日伏せっている様子。私は信州で片っ端に仕事を片付けながら「あと数日で引っ越しの手伝いに行くからね。今は無理しないで」と電話で励ましていました。そんな時に福岡の病院の主治医から私に電話がかかってきました。「胸水がかなり溜まっていますので、すぐに水を抜く必要があります。入院してもらおうと思いますが・・・」。1月中旬のことです。
 翌朝、特急しなのと新幹線を乗り継いで福岡に向かいながら、私の心は千々に乱れていました。東京への移動はもはや無理ではないか。このまま福岡にいた方がよくはないか。私が覚悟を決めたらすむことだ。いや、今のしんどさが少し落ち着いたら、安曇野に来てもらうように説得できるかも?  松本・安曇野地域のホスピスケアは遅れているけれど、大学病院も地域拠点病院もある。今回のように胸水を抜くような処置はもちろんできる。これだって症状緩和医療のひとつではないか。しかし、東京にはホスピスケア、コミュニティケアの先駆的取り組みをしている人たちがいる。いやいや、そうはいっても東京で(基本的には)一人暮らしの在宅ホスピスケアなんて、そもそも無理はないか? いよいよになった時に、主たる介護者の私にとってやっぱり東京は遠すぎないか?  
 そんな時に私の話を聞いてくれた友人の言葉を私はこれからずっと忘れないことでしょう。「貴女はいつだってパートナーと二人でとことん調べ、考え、相談して、よりよい道を考える人よ。貴女たち二人が考えたことだもの、大丈夫! きっとお父さんにとっていちばんいい選択だよ。私、貴女たちの選んだものに間違いはないと自信をもって言える。ただ、貴女の身体が心配。いつだって私、手伝いに行くからね。遠慮なく頼んでほしい! 頼んでくれたらうれしいよ!」
 悩んでいる人に必要なのは「アドバイス」ではなく、「大丈夫!」っていう言葉なんだ! 私はつくづく思い知りました。・・・それにしても、引っ越しは8日後です。どうしよう〜。

あこがれの信州暮らし その112(2013年2月)
孫も捨てたもんじゃない?
 福岡で一人暮らしの父にがんが見つかり、すでにかなり進行したものであることがわかりました。でも12年前にやはりがんで妻を看取った経験から、父は積極的治療はせずに緩和ケアのみで、普段通りの生活を可能な限り続けることを望みました。
 でも、その父の生活をどこで、どうやって支えていくか? 私は「今まで12年間、お父さんは一人でじゅうぶん頑張ったと思う。もうこのあたりで信州に来ない?」と提案しました。しかし、父は即座に断りました。理由は「(私のパートナーの)お母さんに申し訳ない」。父がわが家にいたら、一人暮らしの義母に何かあった時に義母がうちに来にくくなるというのです。「いやいや、母は当分元気そうだし、万が一何かあっても、その時はその時で考えましょう」とパートナーが何度も言うのですが、絶対に首をたてに振りません。どうしようもなく頑固! それでも、「私が福岡にいると、あんたたちには迷惑をかけるなぁ〜」と何度も言う父。 そこで出てきた案が、松本・安曇野地域にホスピス医がいないのであれば、私たち家族が(福岡よりは)集いやすい場所でホスピス医を捜そうということでした。
 それで、東京でホスピス病棟から在宅ホスピス医に転じて8年目のベテランのホスピス医のお力を借りようということになったわけです。そのために、父は「福岡の自宅を処分して、東京に引っ越す」と決断しました。 もちろん私たちは悩みました。どんなに良い緩和ケアの専門家がそこにいるとはいえ、父が長年住み慣れた一軒家を手放し、遠方に転居までしていいのか? 本音は「最期までわが家で過ごしたい」ではないのか? 介護保険をフルに活用すれば福岡でも何とかできないか? いよいよになったら私がしばらく福岡に移り住めばいいじゃないか? しかし、本当にやりきれるか?・・・・などなど。
 父が東京への転居を決断してもなお、私たちは福岡で父を支える方策を考え、あるいはまた父が説得に応じて信州に来てくれたら、長野市と茅野市にあるホスピス病棟のどちらが行きやすいかなどの情報を集めては、連日パートナーと2人で相談する日々。
 わが家の子どもたち3人には逐一(PC)メールで祖父の状況を詳しく知らせていました。この1月に博士論文提出が迫っていた京都にいる上の息子は、「自覚症状が出る前に検診で見つかったんやから、まだよかったやん!(春から就職して上京するので)じっちゃん、また東京で遊ぼう!」と電話してきたとか。
 この半年あまり、ケニアのかなり辺鄙な場所で牧畜民の調査をしている下の息子は、1ヶ月に1度ナイロビに数日戻った時にしかメールが読めないので、ずいぶん心配したようでしたが「こっちの人たちがとっても心配してくれて、じっちゃんの回復をみんなで祈ってくれてるよ」と手紙を書き送ってきたとのこと。そして、昨夏から1年間アメリカ留学中の末の娘は「驚きました! でも、こんな時になんやけど、私にとってはうれしいよ。だって、6月末に東京に戻ったらじっちゃんが東京にいるんだね! これから頻繁に会えるね!」と絵はがきを送ってきたといいます。
 こんな孫たちの存在が、父の心をどんなに励ましたことでしょう! 父は自分ががん患者であることをうっかり忘れそうになるくらい、新生活の準備をうきうきと始めたのでした。ところが・・・。(つづく)

あこがれの信州暮らし その111(2013年1月)
                   親をどうやって支えるか?           
 「信州の冬は寒いやろねぇ〜!」と他県に住む友人に言われるたびに、「うん、確かに朝の最低気温は低いけど、日中はけっこう陽ざしがあるから室内は暖かいよ」と答えてきました。ところが今年は、その陽ざしがかなり控えめで日中の気温が上がらないんです。いやぁもう、寒いのなんのって!
 年末年始は三重県と福岡県で一人暮らしをしている親のところをハシゴして9日間うちを留守にしました。水道管は凍結防止帯をつけたままにしてありますから安心のハズです。ところが帰宅してみると、配管部分は大丈夫なのに風呂場や洗面所など家の中(!)の水道の蛇口部分が凍っていました。部屋の空気も、FFストーブをガンガン焚くのになかなか暖まらない。家全体がとことん冷え切っているんですね。ストーブをつけているのに身体がガタガタ震えるという体験は初めてでした。
 そんな厳しい寒さのこの冬、私は寒さよりも厳しい選択を迫られています。12年近く前に母を見送って以来、福岡で元気に一人暮らしをしてきた83才の父にがんが見つかりました。毎年やっている検診でひっかかり精密検査をして確定。手術不可、放射線治療不可。主治医は進行を遅らせるための抗がん剤治療を提案しました。別のがんだった母の時には、手術後に受けた抗がん剤治療は副作用があまりにしんどくて中止。当時はまだ数少なかったホスピス医に痛みを緩和してもらいながら長く在宅で暮らしました。最期の2ヶ月半はホスピス病棟(ホスピスは基本的に個室)に入院し、陶器の皿にきれいに盛りつけられた食事を、付きそう父は晩酌もしながら(!)一緒に楽しみました。
 そんな体験もあって、父は迷わず「そうね、治らんとね。そんなら私は抗がん剤治療はせんでよか。苦痛を緩和してくれたら、それでよか」と言います。私たち家族も賛同しました。しかしモンダイは、その父をどこで、どうやって支えるかです。
 今まで12年間、近所の方たちには本当にお世話になりました。何かと声をかけていただき、おかずのお裾分けをいただき、怪我をした時などは病院に連れて行っていただきました。そのことを娘の私に電話で知らせてくださる時も「慌てて来んでよかとよ。肌着の洗濯くらいうったち(私たち)がするけん。少し様子をみてからでよか。また経過は知らせるけんね」などと言ってくださるくらいです(とはいえ、私は毎回できるだけすぐに飛行機でとんでいったものです)。しかし、これからがんが進行すればしんどさが増すばかりの父の今後を近所の方のご厚意だけに頼るわけにはいきません。
 父が、慣れ親しんでいる福岡の自宅で最期まで過ごしたいと切望するのであれば、介護保険の各種サービスを駆使してもなお、ある時点からは私が福岡に常駐する必要があります。もし、父がこちら(信州)に来てくれるのであれば、私は体力的にも経済的にも、私自身の生活との両立の上でも助かります。しかし残念ながら、松本・安曇野地域はホスピスケアの導入が遅れている!・・・・。
 老いた親をどうやって支えるか。親が夫婦2人でいる間は、週末を利用した遠距離介護で乗り切ることができました。しかし、「おひとりさま」の親を支えるにはそれだけではかなり厳しい。
 では、どうするか。・・・・・以下は次回に続けたいと思います。

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