あこがれの信州暮らし 2011年 いなずみ なおこ

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あこがれの信州暮らし その99(2011年12月)

ささやかな脱原発アクション

東日本大震災から9ヶ月たった12月11日。少ない日照時間をフルに活用して、走り回るように野菜や庭木の冬支度に追われておりました。その夜、ふっと思いついて、久しぶりにレイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』(佑学社 1991年)を開きました(現在は新潮社から刊行)。

あぁ、懐かしい! 私たち夫婦にとって、子育ての原点ともいえる本です。

環境の汚染と破壊の実態を世にさきがけて告発し、世界中で農薬(化学薬品)の使用を考え直すきっかけにもなった『沈黙の春』を書いたのがレイチェル・カーソン。彼女の遺作として1965年に友人たちによって出版されたのが『センス・オブ・ワンダー』です。

『センス・オブ・ワンダー』の舞台は、レイチェルが毎年、夏の数か月を過ごしていたメーン州の海辺の別荘。この本は、レイチェルがその別荘周辺の美しい浜辺や森を、赤ん坊の頃から遊びに来ていた姪の息子ロジャーと一緒に探検し、自然が織りなす美や神秘さ、不思議さを共に感じ、分かち合った経験をもとに書かれています。レイチェルがいう「センス・オブ・ワンダー」とは、神秘さや不思議さに目を見はる感性のこと。生まれつきそなわっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」を保ち続けるために、私たち大人ができることは何か?ということをやさしく語りかけています。

「幼い人」と一緒にいると、私たち大人は何かと(たとえば植物や動物の名前など)教えたがるものです。そして、多くの人はそういった知識が自分自身にもあまりないことを恥じ、自分には何もできないと思い込みます。でも、レイチェルは言います。「たとえ、たったひとつの星の名前すら知らなくとも、子どもたちといっしょに宇宙のはてしない広さのなかに心を解き放ち、ただよわせるといった体験を共有することはできます。そして、子どもといっしょに宇宙の美しさに酔いながら、いま見ているものがもつ意味に思いをめぐらし、驚嘆することもできるのです。」

私たち夫婦は二人とも山歩きが好きで、その山行途中の足元でひっそりと咲く草花に魅せられて、大学時代に「植物生態ゼミ」という自主ゼミに入り、そこで出会いました。でも(パートナーが昆虫に詳しいとはいえ)鳥も星も植物も、知っていることは少ないです。それでも、私たち家族が“ネイチャーウォーク(自然探索散歩)”と呼んでいる散歩の道々で、子どもと一緒に何度「きれいやねぇ〜!」と足を止めて見入ったことでしょう。下の子の授乳期でさえ、上の子たちは父親と歩いた道々で拾った鳥の羽、一部がかすかに光る石、そして雑草の花束などを「母さん、おみやげ〜」と持ち帰っていたものです。そしてその「おみやげ〜」を食卓テーブルのまん中に飾るのが常でした。

「人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性」を大人も子どもも一緒に育んでいくことが、今もっとも必要とされているのではないでしょうか? 私たちは、自然を統御できると思い込んでいるようです。だから、「絶対安全な原発」があり得ると言うのでしょう。レイチェルは自然との共存は、「幼い人」に育まれた「センス・オブ・ワンダー」があってこそと考えました。3・11を経験した今だからこそ、『センス・オブ・ワンダー』を読み返したい。それが、ささやかな脱原発アクションになると信じます。


あこがれの信州暮らし その98(2011年11月)

 『365日信州野遊び宣言』

今年はちっとも冬支度が進みません。第一、11月も中旬というのに気温は高いし(だから、畑の収穫物を冬囲いしようという気にならない)、「寒波が来る、来る」と言うわりには寒さは一時的だし、このところの週末は雨続きだったし、やっと晴れた週末にはパートナーが知恵熱(?)を出すし・・・。だから、大根、人参、白菜、太ネギなどの収穫・収納もまだですし、渋柿(豊作です。たぶん400個以上!)は干し柿にするためにやっと少し剥き始めたばかりです。野沢菜漬けやタクアン漬け、キムチづくりも、この分だと12月に突入してしまうことでしょう。どーしよう? 実は内心ちょっと焦っています。そしてこんな風に、このままずっと畑仕事や保存食づくりなどに追われている毎日でいいんだろうか?と迷いが生じたり・・・。

そんな時に見つけたのが、なべくら高原・森の家編『365日信州野遊び宣言』(信濃毎日新聞社)です。2005年に発行されたこの本には、雪の斜面をお尻の下に敷いた肥料袋で滑るという「ケツぞり大作戦」(4月1日)、5cm位の木切れをたこ糸で結んだ釣り竿で、メスと間違えて飛びついてくるオスのバッタを釣ろうという「秋のムシムシハイキング」(10月11日)などなど、ありとあらゆる365日分の自然体験・野遊びのレシピが収められています。ちなみに11月13日はお菜洗い(収穫した野沢菜の泥を洗って落とす作業)、14日は「干し柿づくり」、17日は「新そば粉でクレープづくり」、18日には「栗イガで秋色染め」が記されています。まっ、言ってみたら、この本に出てくるのは、私たちが今やってること、わが家でやれることばかりではありませんか!!・・・ということは、私たちの生活は1年365日丸ごと「野遊び」しているようなものでして・・・・。この本に「自然の中で過ごす素晴らしさ」「ぜいたくな自然遊び」とこれだけ繰り返し言われると、そりゃそうだよなぁ・・としみじみ思います。

自然は偉大やとつくづく思います。どこかに出かけるということがなくても、家の周囲をひとまわりするだけで目を見張るものが次々にあります。店で花を購入しなくても、家のあちこちにはイヌタデやノジギクなどが挿してある小さな花瓶があり、テーブルには庭のドウダンツツジやブルーベリーの真っ赤な葉が並び、玄関では籠に入ったカリンの実が匂っています。パートナーに促されて、久しぶりに引っ張り出したルーペで今が盛りのダイモンジソウの花を眺めたら、群生する花のひとつひとつが違った状態にあることがわかってビックリ! 雄しべしかない雄の時期のもの、雄しべだけの状態が終わって雌しべの柱頭が突きだしている雌の時期のものなどが混在してるんです。雄しべだけの花に近寄った虫のからだに付いた花粉が、別の花の雌しべにくっつくように、花も考えてるんですね。自家受粉を避ける知恵かな? しかも雌しべとその周りは蜜を出してテカテカ光っているし、花びらですら表面がキラキラ光ってるんです! これって虫を呼び寄せてるんだ。きっとそうだよね!

はるか昔の小学生の頃にルーペを持ち歩いていた時期がありました。雪の結晶、木肌、葉っぱの表面・・・、ルーペの向こう側には信じられないくらいに魅力的な世界が拡がっています。これからまたしばらくルーペにはまりそう・・・。


あこがれの信州暮らし その97(2011年10月)

放射能だけでなく

穏やかな晴天です。庭にはキンモクセイの香りが満ちあふれ、花の周りをハナアブやスズメバチが乱舞しています。ブルーセージの花にはクマバチが盗蜜にきており、フジバカマには翅を広げるとびっくりする位にきれいなクジャクチョウがいます。リンドウやシュウメイギクも満開。いい季節です。

秋野菜の種蒔きと間引きで忙しかった畑も、ようやくちょっと一段落。白菜は巻き始めたし、大根の3回目の間引き菜は塩漬けにしました。冬越し用の人参も太り始め、野沢菜も穴あき葉っぱながらずいぶん大きくなってきています。いやぁ!「食べるための労働」にどっぷり浸っております。

それでも、虫よけに寒冷紗を使うようになってから、畑仕事はずいぶん楽になりました。以前はそれぞれの野菜の畝の横に延々としゃがみ込んで、ピンセットでひとつひとつダイコンハムシを捕獲していたんですもの。

トンネル支柱にかけた寒冷紗の裾は土に埋めるのが基本です。でも芽生えたあとの間引きし易さを考えて、片面を土に埋めずに石で押さえるとどうなるか? もちろん私が見る限りすき間なんてありません。それなのに、ヤツらはどこからか簡単に入り込む。だから片面が石置きの寒冷紗でも、ダイコンや小松菜などは何とか守ることができるんですけれど、白菜、水菜、チンゲン菜など、いわゆるアクのない野菜は、ボコボコにやられます。ハイ、私はこのテの野菜を「軟弱もの!」と呼んでおります。

近隣の畑では、この寒冷紗もかけていないのに、虫に喰われた穴ぼこもなく、野菜が整然と並んですくすく育っています。殺虫剤を化成肥料と一緒に播種前から使用するようです。もちろん、(ただちには?)人体に影響はないと言われています。でも、たとえば「作物への浸透作用が大きく葉や茎から吸収されて、作物のすみずみに行き渡り、害虫をむらなく防除する」「効力の持続時間が長く省力的」といった薬剤の効能書を、どう捉えるか?です。「浸透移行性が強い」「残効期間が長い」ってことを、「利便性が高い」と捉えるか、「本当に大丈夫?」と考えるか。

11年前にここで暮らし始めた時、その田園風景に感嘆の声をあげた私たちに、大家さんは「10年たったら田畑の担い手がいなくなり、荒廃農地が増えて、この景色も一変しますよ」と言いました。本当にそうです。一年に何度も汗だくで草刈りしていた60代の人たちも、畝の間を這いつくばって草とりしていた70代の人たちも、確実に年をとりました。その下の世代はそれぞれの仕事に忙しく、あちこちでクズやススキがはびこっています。広大な敷地内をあれほど完璧に整備していた大家さんも70代後半になり、庭や畑に除草剤を使っています。それを、いったい誰が責められるでしょう。

私たち(50代)だって無農薬有機栽培をいつまでやれることやら・・・。格段に労力がかかるし、手間をかける時間的・心理的な余裕も必要です。まして、出荷する農家であればなおのこと。今はまだ、お金を払いさえすればより安心な食べものが手に入る私たちの生活は、近い将来立ちゆかなくなるかもしれません。食べものを、そして環境を守るにはどうしたらいいかを本気で考えなければならない時期になったと感じています。


あこがれの信州暮らし その96(2011年9月)

夜は静かで暗〜いもの・・・だよね

9月も中旬というのに、今日も朝早くから真夏のような日射し。嗚呼、畑に出て秋野菜の間引きをしなくちゃという気持ちが萎えそう・・・(ハァ)。でもやらなくちゃ! 種蒔き以降、手頃なお湿りがあって、どれも順調に芽が出たんです。密生している幼苗を早く間引いてやらないとね。

この辺りでは、この間引き菜のことを「おろ抜き菜」と言います。安曇野で初めて知った「おろ抜く」という言葉ですが、広辞苑にも載ってるんですね。「疎抜く」と書きます。特に、本葉5枚程度の若いおろ抜き菜は、アクもないし実に柔らかい。このおろ抜き菜が初秋の楽しみ。

「街」に暮らしていた頃は、「明日やれることは今日はしない」で済みました。でも、畑仕事の鉄則は「今日やれることは今日のうちに」「明日やる予定のこともできれば今日のうちに」です。特に、「秋まきの一日の遅れは、収穫では一週間違う」とも言われているくらいです。天気予報をチェックしながら「明日の雨の前にこれを済ませておこう」「台風の前にコレをしておかなくちゃ」「晴天が続きそうな今のうちにこの作業を」・・・と毎日それはそれは忙しい。いやはや、私も勤勉になったものです。おかげで、夕食に山盛りの野菜料理各種を食べたら、じきに眠くなります。夜10時も過ぎれば、うるさいくらいに鳴くのがコオロギなのかキリギリスなのかウマオイなのかスズムシなのかカンタンなのか、考える暇もなくバタンキューですね。有り難いというか、情けないというか。

子どもが全員巣立った今。少々帰宅時間が遅くなってもええやん、とたまには出かけたい気持ちはあるのですが、夜の外出はすっかり億劫になっています。前々から注目していたドキュメンタリー映画、講演会、学習会、・・・信州の市民活動は活発です。でも、帰りの時間を考えると「無理やなぁ」。加えて、「夜はまったく完璧に夜らしい!」真っ当な地に暮らしていますから、たまに街の照明の中に身を置くと私の感覚が狂ってしまうんです。つい先日も2番目の子の同学年の親たちの集まりがありまして、夜の集まりに躊躇しながらも豊科(とよしな)まで出かけました。豊科ですよ、豊科。松本ではないし、新宿や渋谷でもありません。集った仲間は、同じ地区の気のおけない人たちです。その豊科でも、うちの周囲に比べたら照明がダンゼン明るく、人の声も大きい。それが私の神経を刺激するんです。こちとら、毎夜コオロギの声を友として夫婦でしっとりと語らっているんですから。

集まりでの会話は他愛ないものです。今年度中に23才になる子らのそれぞれがどーしてる?とか、ボーナスを親にお裾分けしてくる?とか、カレやカノジョいるの?とか・・・。大学院に入って、8月から4ヶ月の予定でケニアに滞在しているうちの息子については、さらに大騒ぎ。どこで寝泊まりしてるの?とか、ビョーキが心配じゃん、とか・・・。英語もままならないのにスワヒリ語なんてどーなることやら、と嘆く私に、「大丈夫。あの子はどんな時も最後は結局にっこり笑顔で乗り切るさぁ」と誰かが言えば皆が頷き・・・。小学校からずっと見てきたオバチャン達ですからね。ぜ〜んぶお見通し。

 「さぁ、おねむの時間や」と夜9時には退出した私でしたが、久しぶりの夜の外出に興奮して(?)結局夜中の3時過ぎまで寝付けませんでした。あ〜もう、フツーの生活は無理やわ。


あこがれの信州暮らし その95(2011年8月)

犯人は誰だ?

8月初旬のこの時期に、こんなに肌寒い年も珍しいです。このところ、何かというと「観測史上初めての」とか「記録的な」とか形容される気象現象が多いですよね。何だか不気味だな。

それでも、畑の野菜は(トマトは春の低温と最近の長雨で不調ですが、あとは)なんとか順調です。今年はキュウリの摘芯やナスの整枝などがまぁまぁうまくできて(ふっふっ、プロの農家みたいでしょ!)収量も多いです。夏休みに福島から信州に避難・保養にやってきた子どもたちにも、野菜と一緒に、庭先のブルーベリー(合計3kg)をせっせと収穫して、どっさりジャムにして差し入れました。ちょっと酸っぱいけど、プレーンヨーグルトに合うよ。おいしいよ〜〜!

しか〜〜し! トウモロコシが実りはじめ、もうすぐ収穫だという頃、今年もやっぱりアイツにやられました。アイツと言っても、いまだ正体不明。何せ私たちが寝ている間に出没するものですから、現場を取り押さえられないんです。以前、すぐ下の畑に植えていたのを次々にサルにやられて以来、トウモロコシはリビングの真ん前の庭の畑で育てています。それなのに、夜ごと1本、また1本と、引きちぎってかじられた残骸が落ちてるんです。悔しい! あと数日で食べられるハズだったのに。犯人は近くに落ちている糞やトウモロコシのかじり方から推測するに、たぶんキツネかタヌキ。

無農薬有機栽培で手を掛けて育てているトウモロコシを毎夜毎夜、進呈したくはありません。昨年はトウモロコシの周囲に網を張ってみました。「防御してるぞ」というこちらの意志を感じて、少しは警戒して近づかなくなればいいのに、「何てこたぁない」というお返事でした。じゃあ、どうする?

まず、夕方から朝までトウモロコシのすぐ横に車を置くことにしました。そうして、車内のルーム灯の代わりに、いつもは玄関に置いているソーラーライトを座席に置きました。人間がいるかのように見せかけたらいいでしょ? ・・・・ダメでした。やられました。

アイツは「実際に」人間がいないとダメなんでしょうね。パートナーに車内で寝るよう勧めましたが、あーだこーだ言って渋るんですよね。そうだ! 彼らは私たち人間より格段に嗅覚が優れているハズです。「人間がいる」と思わせるには? そうです! 草刈りで汗だくになったパートナーのシャツを近くに掛けておきましょう。単なる「かかし」ではありません。強烈な匂いつき!!

はたして! その日から9日間トウモロコシは無傷です。ふっふふ、プチプチ弾けそうなトウモロコシです。実に甘い! 鼻のひん曲がったキツネ?タヌキ?ムジナ(アナグマ)?・・がいたら、そいつが間違いなくアイツです。

・・・と、犯人撃退を得意がっていたのに、きょう再びやられました。はやくも見破られたか。今度はどんな作戦にしようか・・とわいわい騒ぎながら、ふと思います。福島でも、生業ではなくても、庭先で家庭菜園をしたり海に潜ったりして楽しんでいた人たちも多いハズ。丹精込めて育てたものを野生動物にやられただの、きのうは大漁だったのに今日はサッパリだのと大騒ぎする、こういった他愛ない生活の営みをも奪ったものは何なんだ?って。


あこがれの信州暮らし その94(2011年6月)

               まだまだ修行中              

私の花粉症のアレルゲンはスギ・ヒノキです。ですから、5月のゴールデンウィークを過ぎれば少しずつ楽になってくるハズ。それなのに、ここ数年6月に入ってもまだ症状が長引いて・・・。どうも、このあたりに繁茂しているイネ科の花粉にも反応しているらしい。牛の飼料にするというオーチャードグラスやローズグラスなどの牧草、そして雑草のスズメノテッポウやチガヤ、シバ類もことごとくイネ科。これらが6月になっても止まらないクシャミと鼻づまり、そして頭痛の元凶なんです、たぶん。 

そうそう、思いがけないところに伏兵もいました。うちの畑に、昨秋初めてライ麦の種を蒔きました。自然農に詳しい友人Uさん(ペンションのオーナー)が「キャベツの畝の両側にライ麦を植えたら、チョウがキャベツの存在に気がつかずに飛んでいくよ」なぁんて言うんです。何せUさんって、私に「はいコレあげる。アイの種」と言って種を渡す人です。「またまたぁ〜、何の種?」と聞くと、「だから、アイの種」。「ふざけてないで、ちゃんと教えてよ!」「だからアイの種って言ってるじゃん」・・マッタクもう!「藍」なら「藍」とちゃんと言ってよね! Uさんが「アイの種」って言うとアヤシイ感じがするじゃないの。・・そんなUさんにもらったライ麦ですから、「チョウがキャベツに気づかずに通り過ぎる」かどうかは期待してないけど、まぁ風よけや緑肥になるからいいか、と思って種を播いたんです。

麦の穂っていいものです。すうっと天に向かって伸びる姿も清々しいし、匂いも素敵。・・・で、畑から数本刈ってきて、テーブルの上の花瓶にさしました。・・・それから数時間は悪夢でしたよ。ひっきりなしに鼻は出てくるわ、ひどい頭痛はしてくるわ、まぶたも真っ赤に腫れてくるわ・・・なんで? よ〜く考えてみたら「ライ麦ってイネ科じゃん!」。大急ぎで花瓶ごと片づけたら、テーブルの上に淡黄色の花粉がびっしり。いやぁ、マイッタ!・・・ライ麦も近隣の畑のコムギも、ムギなのにイネ科!

先週の週間天気予報は、当初は連日、傘マークでした。毎年、梅雨時にぶつかるタマネギの収穫をいつにするか迷います。できれば週末にパートナーとふたりでやっちゃいたい。だって、500個あまりのタマネギの収穫と運搬はけっこう重労働なんです。「何とか天気が持ちそうならば今日のうちにやっちゃおうか」とつい考えたくなる。近所の農家の方に話すと「きのうは夜中までだいぶ降ったでね、畑の土が濡れてるからよくないねぇ」と言います。「でも、早く収穫しないと茎がとろけて収穫しにくいし、保存も悪くなるし・・」と言うと、「そうだねぇ。でも2、3日は外に干した方がいいから晴れた日が続く時にやりましょ」。「週間予報がずっと雨で・・」「そうだねぇ」「車庫に広げておいてもダメですか?」「少なくとも半日はお日様にあてて乾燥させてから車庫に干すのでないとねぇ。晴れた日にしましょ」。私はあきらめきれない思いで、断念しました。そうしたら、2日後に絶好の収穫日和。

農家の人は違いますね。週間予報はあくまで週間予報。実際にどうなるかはわからないものです。だから予報なんていう一見科学的なものに惑わされない。「急いては事をし損じる」ということが身についてる。

花粉症といい、作物の収穫といい、思いどおりにはいかないことばかりです。でも、ともすると効率主義に陥りやすい私にとって大事な修行をしているんだろうな、きっと。


あこがれの信州暮らし その93(2011年5、6月)

読者の責任

世の中、何でもデジタル化です。購読している新聞(朝日)も電子版を創刊し、配信を始めたのだそうです。これで、パソコンやスマートフォン、iPadなどの電子端末で「いつでも どこでも」読めるとか・・・。いずれこういうことになるとは思っていましたが、いやはや時代の流れの速さには驚くばかりです。でも、こうやって24時間「いつでも どこでも」情報を仕入れられるってことが、本当に進歩と言えるんだろうか。ソローの『森の生活』を超えるような思索はできるんだろうか。

私はこの3ヶ月というもの、花粉症の症状がひどくて、外出はもちろん外仕事がことごとくできませんでした。本を読み、たまっていた新聞を切り抜きながら、あっちこっちの文章に立ち止まり、ため息をつきながら内省し、ひたすら考えておりました。特に大震災後は、紙面を凝視し、ずっと考え続けておりました。咀嚼し、じゅうぶん消化するには、時間がかかるものです。

それでも新聞は、消化不良というか、もの足りないことも多いです。「原発事故の記者会見って事実確認ばっかりやん」とか「放射線の基準値が、緊急時にはレベルを変えることができるって簡単に書いてあるけどなんで?」・・とか。ただでさえ新聞には1日2回の締め切りがあって、記者には余裕がないらしいのに、電子版では常時更新するらしいです。それで深い考察や追求ができるの? 

実は私、農繁期に読めずにいた昨秋の新聞を今年1月に入ってから読みました。そうしたら、驚いたことにスマトラ島沖では4月、5月に続いて10月25日にもM7クラスの地震が起きていたんですね。国際面にありました。2004年のインド洋大津波を起こした地震以来、あの辺りでは毎年のように地震が起きてるなぁとは思っていましたが、2010年だけでもこんなに頻発していたとは! そして10月11月にはジャワ島のムラピ山大噴火です。2011年に入ってからも1月に新燃岳の噴火、2月にニュージーランド地震と続き、素人目にも「なんだかやばくない?」。それで「誰か新聞記者が、最近の大地震が起こっている地域を地図で示しながら記事を書いてくれないかなぁ。このところ太平洋沿岸で頻発してるから、もうじき日本もアブナイよね」と家の中では言いつつ、結局なんのアクションもせずに、ただ離れて暮らすわが子に防災の備えをするようにヤイヤイ言っていただけでした。そんな頃に東日本大震災が起きたのでした。

つい最近、過去の巨大津波を解説する記事が掲載されました。その記事の最後に担当記者が「(6年半前にインド洋大津波の現場を取材していながら)あの惨状を本気で日本に重ねて考えたことがあったのか。もっと何かを伝えられたのでは。我ながら、ものすごく甘かった。自責の念でいっぱいです」と書いていました(朝日5月21日付)。いいえ、貴方の責任ではありません。日々の報道に追われている記者に「こういう視点はどうでしょう?」と提案するような市民がいなかったせいです。

速くて大量の情報でなくていい。「なんで?」と感じることをきちんと調査し検証してくれる、そんな報道を私たちは必要としています。そのためにも、じっくり読んで咀嚼して、そこで感じた疑問を記者に伝える・・・読者にもそんな責任があります。


あこがれの信州暮らし その92(2011年4月)

 う〜〜〜む

私が今、新聞の中で真っ先に読んでいるのは、東日本大震災被災者の声を伝える紙面です。横に座って、ただただ黙って耳を傾けているような気持ちで・・。悲嘆、やり場のない怒り、要望、いろいろな声があるんですが、それだけじゃあない。「慈悲深い」と形容したいほどの笑顔!の写真まであって、その表情はカメラ(記者)越しに私にもまっすぐ向けられています。「わしらは一人じゃねぇっちゃ。自然もすごいけど、人間もすごいっちゃ。昔から何度も立ち上がってきた。また何年かしたらここに来てな。必ず、ここを元に戻してやっから」と瓦礫の前で話す魚の仲買人の男性(60才)。支援物資でもらったジャージのネームのタグに「頑張って生きて!」というメッセージがあることに気づき、そのジャージの元の持ち主に「新米ができたら、お礼に送りたい」と言う74才の女性(いずれも朝日4月10日付)。・・・う〜〜む、被災して絶望的な状況でもなお、私はこんなふうに言えるだろうか。

新聞でもラジオでも、復興を語る政治家や識者など、さまざまな意見が紹介されています。でも、私の心にいちばん突き刺さったのは、作家のあさのあつこさん。「人の高貴さも愚劣さも、国のあり方も人の生き方も、ことごとくが仮面を剥ぎ取られ、さらけ出された」「剥き出しになったものと対峙し、言葉を綴り続ける。3月11日にこだわり続ける。それができるかどうか。問われているのは私自身だ」(朝日3月29日付)。そして、舞踏家の麿赤児さんは言います。「(自分は)何をすればいい、わからない、っていう迷いを持ち続け、ひとりひとりが己なりのやり方を探すのが『悼む』ってことじゃあないのかな」(朝日4月23日付)。自分なりのやり方を探すのが悼むってこと・・・う〜む、そうだよな。

考えさせられることはまだまだあります。

ひとつは、被災者の方々が、より安全でゆっくり休めるハズの場所に移住するのがこんなに難しいのかということ。被災者の中には、今もなお家族が行方不明の人も大勢いて「できるだけ近くにいて探したい」という気持ちがある。でも長期にわたる避難所生活は厳しすぎます。集落の中で「自分だけ行くわけにはいかない」と拒む人も多いとか。でも、地区のリーダーが生活弱者の人に優先的に声をかけて移ってもらうことはできないのだろうか。・・・でもこういった感想をもつこと自体、都会的な発想なんですよね。その地域にはその地域なりの(良くも悪くも)住民の結びつきというか、助け合って生きてきた歴史や文化がある。そういうものを無視して、合理的な解決策を押しつけることはできないってことでしょう。・・・う〜む、わかるような気がする。

もうひとつは、放射線量に対して「冷静な対応を」とか「正しく怖がって」とか、やたら声高に言われていることについて。もちろん、パニックや風評被害を怖れてのことなんですが、そもそもこの基準値がどれくらい信用できるのでしょう? 今の科学では確たることが言えないから「暫定基準値」なんでしょうに、「日本の基準値は厳しい方だからこれ以下なら安全」なんて本当に言い切れる? 魚介類だって、たとえ「今」が大丈夫でも生物濃縮の可能性もあります。でも、だからって疑わしいものを買い控えれば「風評被害」。生産者に補償すれば済む問題でもないだろうし・・・。う〜〜〜む。


あこがれの信州暮らし その91(2011年3・4月)

私は何をしてきたんだろう?

募金受け付けが始まったら急いで郵便局に走りました。そして、安曇野市の社会福祉協議会に「避難される方と受け入れ家庭とを結びつけるコーディネイトをお願いします」「被災地に行かなくても個々の家庭ですぐにできることをしたいんです」と電話しました。・・・・あれからもう3週間近くになりました。

「大津波」は絵本でも扱われている題材です。たじまゆきひこ作『てんにのぼったなまず』(1985年福音館書店)では、「うみは なんども ふくれあがって いえやたはたを おそってきた」とあります。立松和平・文 坪谷令子・絵『満月の百年』(1999年 河出書房新社)では、「天にむかってたちあがった波」が「村におそいかかって」「村はきえてしまった」といいます。『満月の百年』に出てくる村で生き残ったのは10人でした。

昔話や絵本の中にもたびたび出てくる大津波は、現在の日本でも決して「あり得ないこと」ではありませんでした。インド洋沿岸で甚大な被害をもたらした2004年のスマトラ島沖地震以来、TSUNAMIはすっかり国際語になっていたくらいです。でも、私たちの意識の中ではやはりどこか他人事だったんですね。「まさか」とか「想定外」の言葉をこの3週間どれだけ聞いたことでしょう。

その上、厄介な原発事故を抱えてしまった。ラジオや新聞で福島の原発関連ニュースに接するたびに、いったい何人の人がまさに今起こっている事故の状況を的確に理解し把握しているのだろう?と思います。東京電力のほんの一握りの人、原子炉を設計したメーカーの中でもごくごく一部の人にしか、何が起こっているのか、あるいは何が起こりうるのか、解決策の選択肢はいくつあって、この手もあの手もダメな場合は、次はどんな手があり得るのかということまで考えられないのでは? 

そんなごく一握りの人たちにしかわからないことなのに、私たちは私たちの社会の安全を無条件でその人たちに委ねてきてしまった、そのことに今さらながら愕然とします。何を根拠に、こんなに大変なことを一方的に任せてきたのか? 記者会見で発表された断片的な内容がそのままニュースの文面や記事になっても、「ただちに人体に影響があるものではない」と何回繰り返されても、そんなこと誰が「なるほど」と納得できるだろう。

だからといって私は今まで何をしてきたんだろう? 私はこの10年あまり、声を上げることをずいぶんサボってきました。理由はいろいろあります。日々の農作業が忙しかった。それまで15年間の市民運動に疲れていた。無力感もあった。良心が痛むから、時々署名や募金をしてお茶を濁した。・・・でも、それが何の言い訳になるだろう。

 エネルギー政策も、それに伴うリスクも結局、専門家らしきごく少数の人の言いなりになり、また逆に「よくわからないけど何だか危なそう」と感じる私たち素人のごく真っ当な感覚でさえ、声に出して発することをせずに「市民運動の専門家」に任せてきたそのツケが「今」ではないか。

募金やささやかな支援だけではなく、自分を厳しく問い続けたいと思っています。


あこがれの信州暮らし その90(2011年2・3月)

「願いは口に出すことや」

 本格的な花粉の飛散直前の2月中旬、四国に行ってきました。以前住んでいた香川県で私のお産を介助してくださった助産師さん(89才)のお見舞いに。当時香川県に1ヶ所しかなかった助産所で、私は3人の子を産みました。「できれば陣痛促進剤や子宮を柔らかくする薬を使いたくない」「パートナーも上の子も出産に立ち会いたい」「ぜひ母乳で育てたい」・・・などの希望を叶えるには、当時はそこしかなかったんです。6000人以上の赤ん坊をとりあげた、その助産師さんとはその後もずっと深いおつきあいが続いており、うちの3人の子にとっては、まさに「高松のおばあちゃん」。だから、近年心臓が弱り、昨年来食欲もなくなって弱々しいお声になっておられたのが心配で、「もと赤ん坊」3人のパワーを届けようという計画でして・・・。
 車で行きました。途中、京都で息子2人を拾い、東京から夜行バスで駆けつけた娘と合流しました。高速道路の左車線でせいぜい時速90kmどまりでトロトロ走っている車がいるでしょ?あれがうちの車です。息子たちは免許を持っているものの、うちの車の任意保険の運転者年齢(26才以上)に達していないので親2人が交代で運転しました。私はかなり意識していないと、けっこうスピードが出ちゃいます。「ほら、スピード出てるで」「車間距離が短いやん」「追い越しは事故の元」などと助手席のパートナーに監視されながら、なんとか安全運転。
 ずっと畑の農作業に忙しくしていましたし、何年ぶりかの家族旅行。車ででかけるなんていつ以来だろう? うきうきしながら私が天満敦子さんのバイオリンにうっとりしていたら、上の息子が「これに替えて」とバッハのチェンバロ曲を差し出します。しばらく聴いていたら下の息子が「まだ終わらんの?違うのにしようよ」・・・・ったく、CDの選曲だけでもあーだこーだ喧しい一家です。
 助産師さんは笑顔満開でした。ついこの前まで弱々しかったお声に気力が蘇っていました。89才の今も、3人それぞれの出産時の詳細を覚えておられるんですよね。3人目(娘)の出産時(夜中の1時台)に、2番目の子(当時3才)が車からつっかけで飛び出してきて「おばちゃ〜ん!着いたよ〜!」と呼びに来たとか、上の子(当時6才直前)が私の「ヒッヒッフ〜」に唱和しながらうしろから私を抱きかかえていたとか、赤ん坊(娘)が生まれてくる場面を見て2番目の子が「こりゃスゴイわ」と言ったとか・・・。
 今回、「高松のおばあちゃん」はわが家の子どもたちに、「こういう仕事がしたいとかこういう生き方がしたいとか、自分の願いは口に出すことや」「そうしたら願いは必ず実現する」と何度も言い聞かせていました。思えば、当時20代だった私たちが「農的生活がしたい」と言っていた時にも同じことを言われました。非農家出身の私たち2人が今こうして広い畑に囲まれた生活をしているのですから、本当にそのとおりですね。上の息子(25才)には「勉強も大事やろけど、伴侶を得ることも大事や」「山で出会う女性がええで」などと迫っていました。
 いやはや、パワーを届けるつもりが、逆にパワーをもらって、一同またワイワイ言い合いながら帰路についたのでした。

あこがれの信州暮らし その89(2011年1月)
 やっぱり手紙がいいな
 今日も凍みますねぇ。晴れていても空気が冷たい。玄関前の温度計は午後1時の段階でようやく1℃。
 私も信州に暮らして11年ですからね、朝の最低気温が低いのには慣れてます。今朝は−9℃でした。玄関の戸(内側)は昔の冷凍室の内壁のような霜がびっしりとへばりつき、風呂場の窓は朝のうちは凍り付いて開きません。いずれ正午近くになれば溶けてくるという希望が支えです。ところが、午前10時も過ぎて何とか風呂場の窓が開くようになっても、この冬はなかなかそれ以上の気温にならないんです。このところの最高気温は1℃前後。いやぁ、こう何日も凍みる日が続くと、こたえますワ。先日、久しぶりに日中の最高気温が4℃になりました。からだが伸び伸びするような、鼻歌がしらずしらず出てくるような、一種の開放感がありましたね。私は信州のきっぱりした冬がお気に入り。でも、朝晩はともかく日中はそんなにも「きっぱり」せんでええのになぁ〜。
 年末年始は帰省してきた大学生3人と、三重県で一人暮らしの義母を迎え、てんやわんやでしたから、ようやく最近ゆっくりと年賀状を眺めました。ここ数年、あちこちの旧友からメールアドレスを教えてとか、メーリングリストに入らないかと熱心に誘われては断っています。原則として友人にはメールアドレスは公開していません。モチロン友人は懐かしいです。懐かしいからこそ、アナログなやりとりがうれしい。ずっと仕事や子育てに忙しかった私たちの世代。年賀状のやりとりだけで、ずっと会っていない友人も多いです。ここ数年は喪中欠礼も増えました。親を見送った人が続出なのは私たち自身の年齢を考えると仕方のない面もあるのですが、配偶者を亡くした人もいてこちらまで本当につらい。そして昨年はとうとう私の中学時代のボーイフレンドも亡くなって言葉を失いました。
 年賀状の手書きの部分にはさまざまな人生が綴られています。数年前、子育て後にやっとつかんだ仕事をリウマチの発症で断念した友人は、最近乳児院で働き始めたといいます。そうかぁ、少し復調してきたんだね、と本当にうれしい。義父の介護だけでも大変そうなのに、春からは自分の両親も呼び寄せることにしたという友人。心やさしく、責任感ある彼女らしいです。でも自分のからだも大事にしてね、無理しすぎないでと祈ります。教師をしている友人は、仕事を続ける意欲がなくなってきたと書いてありました。年齢的にも責任ある立場になってきて、無理してるんだろうなぁ。近年、ますます要求されることの多い学校現場。疲れ切っている友の顔が目に浮かびます。夫の転勤先で平日はケアマネージャーをしている友人は、土日に地域で高齢者が集えるようなサロンをボランティアで始めたとのこと。一緒に長く「障害児を普通学校へ」という活動をやっていた友人です。「障害児」の親でも教師でもないのに活動するっていうのは、今も昔もごくごく僅か。自分や家族の問題でなくても、当事者ではないからこそやれることがある。それを実践し続ける彼女に励まされます。不登校や引きこもりの子を抱える友人も複数います。静かに見守りつつも苦悩が滲む文面です。
 そんな友人たちの手書きの文章は、社会的な地位や役職には無縁な年賀状ばかり。でも、私を確かな言葉で支えてくれたり、考えさせられたりします。これからゆっくり手紙を書くつもり。

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