再び岩船地蔵へと戻り、JR横須賀線のガードを潜った後、 今度は左に道をとってJR横須賀線沿いに進む。 最後の訪問地 英勝寺、そして本日最初に訪れた壽福寺へと向かっているのだが、 英勝寺に至る手前、道路右側の斜面にやぐらがあり (その隣には稲荷神社もある)、 そこには小さな層塔 (三重の塔や五重の塔など、幾重にもかさなった高い塔) が安置されている。 聞くところによると、 ここは 『 十六 (いざよい) 日記 』 の著者である阿仏尼の墓とのことである。 時刻は 13時14分。 | |
なお、『 十六日記 』 とは、 阿仏尼の実子である藤原為相 (= 冷泉為資。れいぜいためすけ。) と継子の為氏との領地相続争いの訴訟のために、弘安2年 (1279年)、 阿仏尼が京都から鎌倉へ下った際の旅日記と鎌倉滞在中の記録である。 これが阿仏尼の墓とは確定されていないようであるが、 層塔の基部には 『 阿佛 』 の文字が刻まれており、実子 冷泉為相は先程訪れた浄光明寺に眠っているので、 やはりこのやぐらは阿仏尼と何らかの関係があることは間違いなかろう。 写真は阿仏尼の墓の隣にある英勝寺鎮守、隠里稲荷神社。 |
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阿仏尼の墓から少し進むと、 右手に白っぽい塀が続くようになり、塀際を少し進むと教会を思わせるような両開きの西洋風の金属製門扉が現れる。 縦格子の門扉自体は白く塗られており、 両扉の中央部分には緑色をした徳川家の三葉葵紋と黄色い太田 (道灌) 家の桔梗紋を組み合わせた意匠のものが配されている。 ここが英勝寺の通用門で、惣門はもっと先にあるのだが閉鎖されており、 英勝寺にはこの門扉の横のくぐり戸から入ることになる。 | |
この英勝寺は、太田道灌の曾孫 康資の娘であって、 家康の側室の一人となったお勝の方 (家康の死後に出家し英勝院と号す) が、三代将軍 家光から寺地としてこの地を賜り、 菩提寺としたのが始まりで、1636年に創建された現在鎌倉 唯一の尼寺である。 先に述べたようにお勝の方は太田道灌の子孫であり、また徳川家との関係も深く、
さらにはこの地がかつて太田道灌の屋敷があったとされる場所であることから、門扉の意匠も頷けるものがある。 |
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受付で 300円也を支払い、順路に従って左手に進んで境内を散策する。 四季を通じて花の絶えることがないという花壇の間を通っていくと、
まずはスカートを履いているような袴腰造りの鐘楼が現れる。 鐘楼を過ぎると左手奥に惣門が見えてくるが、 先にも述べたように閉鎖されていて通ることはできない。 | |
道順に従い右に曲がっていくと山門の前を通ることになる。 すると竹の生える斜面に洞窟が現れるが、洞窟は 2つあって奥が入口になっている。 洞窟を通り抜けた後は、山門に戻って中に入る。 |
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