ホームページ開設 平成13年8月15日 イラスト・文 宮田 栄門
新潟日報のミニコミ紙「nippoるーと 」(毎月1日発行)に掲載中のものを順次載せますので、少々お待ち下さいませ。
「古代の越後」 豊かに水をたたえて延々367キロに及ぶ大河・信濃川。日本海の河口まであと十キロ程の所に「黒埼」という地がある。 この地の開発の鍬がいつ打ち込まれたのか、村落がいつ出来たのか、明確に知ることができない。五、六千年前の新潟平野は内湾状態だったと推定される。黒埼の起源は緒立に訪ねることができる。緒立は小高い丘で、人々が住み始めるようになった。ニ千年ほど前、弥生時代のことである。緒立以外のこの地は低湿地や潟であった。 弥生時代には稲作耕作が始まる。緒立遺跡にその跡はないが、耕作と土器の生産により、富の蓄積や集落が形作られた。板井の釈迦堂付近に集落が平安中期から鎌倉初めに存在した跡がある。 「明治まで」 平安時代、京の朝廷の全国支配が進み、黒埼辺りは弥彦神社の荘園となるが、朝廷に屈せず抵抗する豪族や農民もいた。それをモデルにしたのが、黒鳥兵衛の伝説(1100年頃)と思われる。鎌倉時代、親鸞が越後に流罪となり(1207年)この地で浄土真宗を布教する。 焼鮒の伝説や立仏、寺地などの地名はそれに由来している。戦国時代、越後は上杉謙信により統治される(1550年)。上杉家の下越の拠点となったのが木場城である。 木場の棒踊りは木場城の武士から伝わったと言われている。 徳川時代の初め(1600年代)には今の集落が出来ており、寺地、立仏、鳥原、鳥原新田、小平方は新発田藩領に、板井、木場、黒鳥、北場は村上藩領に、金巻は池ノ端領になる。 農民は「田植あれど稲刈りなし」「三年一作」と言われるほど水害に苦しみ、信濃川、中ノ口川の堤防工事や潟や湿地の開墾が進められた。 大野町は、川の水運を利用した商取引や宿場、花柳界の町として近郷の中心地となった。 「黒埼村の誕生」 明治になって町村制の実施(明治22年)で、鳥原村、板井村、木場村、黒鳥村、金巻村(大野町含む)の五か村が出きる。明治34年に五か村の合併で「黒崎村」が誕生する。 名称は、大野町にするか否かで大野と各村が対立したが、古く黒鳥郷と呼ばれていたことから「黒」をとり、村の東側を流れる信濃川と西側を走る西川がこの地で合流し、岬の形になっていることから「さき」をとって「黒埼」とした。 人口9860人、世帯数1549戸であった。 戦後の昭和23年、中蒲原郡曽野木村の合子ケ作(山田)、楚川新田(善久)を合併した。昭和40年代から新潟市の隣接地ということで都市化が進み、昭和48年に町政を施行し「黒崎町」となった。 そして平成13年1月1日、新潟市と合併した。 今後は新潟市のベッドタウンとして発展が期待されています。