郷土黒埼の歴史探訪 その6 大野にあった遊郭「吉原」

「♪♪ 木山屋通ればお駒が招く、
     お駒招くな、金がない金がない♪♪」

これは木場に伝わる郷土芸能手踊りの一節である。
幕末の安政年間、大野が信濃川と中ノ口川の合流点の河港として栄えていた頃、今の大野新田町(吉原という地名がある)に木山屋という遊郭があり、そこで働くお駒という人の名が、木場の郷土史(木場公民館昭和50年9月発刊)に載っており、遊郭の実在が証明されている。
私は以前、吉原で働いていた人の孫にあたる人から証言を得ているので、吉原遊廓説を信じている。
しかし、新田町には、吉原遊廓説を否定する人がいる。この説の文献が少ないため、遊廓と非常に関係が深いと考えられる親分について調べてみた。
当時、大野に百人近い子分をもつ木山六兵衛という博徒の親分がいたは、町の古老や郷土史家などから聞いている。
新潟新聞明治29年(1896)10月30日の見出しに、「二侠客(親分のこと)互いに縄張りを争う・・・、目下、県下に於いて長脇差と称せらる侠客は、西蒲原では大野の木山の六兵衛、観音寺の久左衛門。いずれも多くの子分を有して競いあっているとある。
大野に木山一家と思われる記録が水原町史(水原編年史)にもあった。
嘉永3年(1850)「山口陣屋(当時、京ヶ瀬から水原に入る手前の山口村にあった)支配所蒲原郡大野町の事件書」に、大野町木山屋吉兵衛より山口役場(今の水原町)へ、微罪で逃走中の弟栄八を三日間で捕らえて差し出すという請願書を出したとある。
この吉兵衛の子が明治期の木山親分の六兵衛ではないかと思われる。
また、明治初期、木山親分と白根の新飯田の惣七親分が、双方数十人ずつ出しての大出入り(大喧嘩)は有名で、数々の方から聞いている。
さらに、今の大野(七区)の安兵衛寿し店のあたりに木山家の墓地があったことは、私も見たことがあり、多くの人も証明する。
「三十坪もある大きな墓地で、三つ程あった墓の中央の一番大きな墓は、四つ屋根づくりで上に玉が上がっていた。
墓地内の二本の松にぶらんこを作ってもらい、子供のころよく遊んでいた。」と、安兵衛寿し店の栗林タマイさんは話していた。
これらから、大野に木山親分がいたことは間違いなく、親分の資金源だったと思われる吉原遊廓の存在も想像に難しくない。
しかしながら不思議なのは、墓地は分かったが木山一家のあった場所と、遊廓のあった場所が、いくら探しても不明である。
謎がよけいに私を魅了させ続ける・・・。