その7 新田町川口の渡し場
人などを舟に乗せて川の向こう岸まで運ぷ所を渡し場という。古老の説によれば明治初期頃から、大野の新田町川口に渡し場があった。場所は、新潟方向から国道八号線を新田町の信号機から左に入り、すぐ左側にある滝沢時計店を左折して突き当たった川端にあった。近くには水上安全を祈って小さな祠に大神宮様が祭られている川合神社があり、町の人や通行人がよくお参りをしていた。 (川と川との合流点には、たいてい川合神社があると聞く)
川口の渡し場から対岸の曽野木へは、中ノ口川と信濃川の二つの川を渡らなければならなかった。まず、川口の渡し場を出た舟は中ノ口川を少し上流に向かい、鷲ノ木のさめづらと島との間の狭い水路を通って信濃川に入り、曽野木の渡し場に着いた。 渡し舟は二十人乗りくらいのものが川口と曽野木に二艘ほどずつあり、帆柱を建てられるようになっていたが、ほとんど手こぎだったようだ。 またこの航路は、内野-大野-曽野木-亀田線の県道になっていたので渡り賃は無料で、船頭の小山三代吉さん、鷲尾五作さん、高橋石五郎さん(家号)は県の職員として作業に従事されていた。 三、八の大野市(六斉市ともいう)の日になると、朝も暗いうちから曽野木方面の人たちが、野菜などの入った大きな馬篭を背負い、手提げボテや小荷物を持ち、時には一度に三十人も乗ることがあった。大勢の乗る市日や風の強い日、大水の時などは、船頭さんが二、三人も乗って、ここが腕の見せどころと全身で舟を操り、乗客の安全を計ったという。 時間表がなく、客の集まり次第で舟を出したが、舟を出すとき船頭さんが大きな声で「オーイ、舟が出るろうー」と二、三回もなって、川口の店でお茶を飲んだり雑談している人たちに知らせた。岸を離れ始めた舟に、乗り遅れた客が「オーイ、オーイ」と呼ぶと、後戻りし乗せてくれることもあった。また曽野木からの舟とすれ違う時、言葉を交わし合ったりして、のどかな風景も見られたという。 昭和二十五年、大野-曽野木間に待望の信濃川橋(木橋)が架けられた。また、中ノ口川の河川工事の際、さめづらと島との間は埋め立てられ陸続きになり、さめ゛つらの間の大通川は信濃川橋の上流側で、信濃川に注がれるようになった。 その後、70~80年続いた渡し舟は、物資や人の輸送が川から道路へと変わり、衰退し消えていった。