その8 柳作の水戸場の地蔵さま
ばあさんが家と一緒に流される
おばあさんが家と一緒に流される 市道柳作線と新幹線の交差する地点から約70m上手の同市道の西側に、小さな地蔵堂がある。中に祭られている地蔵を柳作の人たちは「水戸場の地蔵さま」と呼んでいる。 水戸場地蔵の由来 昔、信濃川は図1の通り明治中頃まで善久、上山田と柳作の間を流れており、善久や上山田あたりは島だった。この信濃川の堤防沿いにあった柳作地区(当時柳作 村)は、明治12年と同14年の二回、信濃川破堤によって大きな被害を被った。そして同18年ころ、村の人たちが三度このような災害の起きないようにと願いを込めて、前二回の破堤の中心地にこの地蔵を祭ったといわれる。
古老からの話や新聞による破堤の様子 明治12年7月に入り連日雨が降り止まず、10日ころには柳作の河川敷地内を濁流が渦を巻いて流れ、それは柳作の人たちが今までに見たことのない大水だった。 危ういと思われる堤防の箇所に村中の人が集まり、必死で補強と防御にあたった。急を聞いた立仏や鳥原村からも、応援の人が続々と駆けつけた。 しかし、人々の懸命な努力の甲斐もなく、7月12日(新聞掲載より)柳作堤防は破堤した。 最初に、今の地蔵堂のあたりに小さな穴が空き、堤を破った水がものすごい勢いで境内に流れ込んだ。人々は「土俵を。」「杭を。」と必死で防御にあたったが、次第に水戸口が広がり、遂に180mにも及ぶ大破堤となった。急を知らせる半鐘が鳴り響き、たちまち村中が大騒ぎとなった。堤防を突き崩した濁流は、村の家を押し包み、更に裏の耕地の方へと氾濫していった。 当時、決壊した堤防に添うように並んでいた六軒の家は、激しい濁流の直撃を受けた。またたく内に増える水に恐れをなして、池田佐五平を除く五軒の人たちは近く の土手などに避難したが、70余歳になる佐五平の老夫婦はまだ家にいた。 新潟新聞は次のように記している。 「危うかりしは池田佐五平(70余歳)と女房の両人にて、佐五平は物置より何か取り出さんとする間なく、水が軒に及びたれば、逃げ出すこと叶いがたく天井にすがりつき、茅葺き屋根をかき破えり、辛うじて這い出たり・・・。 また女房は土蔵の二階へ逃げ登りしに、二階の敷板も水に浮かびて筏の如くこれに取っ付き運を天にまかせて漂流せしに、二十丁ばかり隔たりし北場村の大木にかかりて留まりしを助けられた・・・。」とある。
柳作に洪水の残した大きな爪あと 家屋の流失六戸(ほかに小屋、雪隠〈便所のこと〉など)、流失を免れた家もほとんどが水没。家具や農機具類の大半が流失。 破堤後、水戸口付近から立仏裏にかけて広さ三町歩(三ヘクタール)ほどもある池ができた。また、柳作から立仏裏へかけて高さ一丈(三m余り)、広さ五町歩(五ヘクタール)もある何を植えても育たぬ巨大な砂山ができた。この池と砂山は、この地域の人々の生活と農業経営に大きな後遺症となって、永く人々を苦しめた。池が埋められたのは大正15年頃で、砂山がなくなったのは昭和26年頃といわれている。