その9 大野の橋の歴史1「宝永橋」
賃橋「宝永橋」の架設
大野の中ノ口川に初めて橋が架けられたのは、明治21年のことである。同年12月29日付夕刊に「宝永橋が完成し本日盛大なる橋梁落成式が行われた・・・」とあり、新潟の芸妓さんが大勢呼ばれて町は大賑わいで、夜は花火大会が催されると記されている。橋の位置は今の大野小学校のプールのあたりで、橋の名は新聞などに「宝永橋」と記されているが、町の人や川向の人たちは「げんごみ橋」と読んでいたようである。
この橋は個人が営利を目的に架けた賃橋(渡り銭を取る)で、明治19年の万代橋や、同じ頃にできた泰平橋、味方橋もみんな個人の架けた賃橋だった。橋の架設は莫大な費用がかかるため、当時の弱体だった村や町ではとても不可能だった。そのため明治19年から20年代に架けられた橋の大半は、近くの財産家や事業家が、橋銭の収入を得る営利を目的としたものであった。 橋は交通機関として重要だったので「橋梁(橋のこと)は営利の業にあらず」として橋の渡銭は所得税の対象とならないと、明治23年5月の郡区長会議で保護政策が決められた(同月26日付新潟新聞より)。 小船と櫂があれば営業できる渡し船と違って、多額の資金を投じて架けられた橋のため、渡り銭が高くなるのは当然のことだった。橋が架かるとどこの橋でも、架橋者と利用者の橋銭についてのいざこざが起こった。 明治22年4月20日の新潟新聞に「宝永橋の橋銭の苦情」が載り、これまでの渡し船に比べて橋銭が高すぎると、野菜を売りに来る対岸、白根側の鷲ノ木や笠巻の人たちが、この橋を渡らなくてもすむ酒屋市へ行き、大野へ来なくなり、一時大野市が疲弊した(衰えた)という。
「宝永橋」に安進丸が衝突し沈没する
明治43年9月8日、その日は良い天気だったが、中ノ口川は先日来の大雨で増水し、濁流がうずを巻いていた。たまたま家にいた新町の人たちの耳に、川の方から大勢の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。驚いた人々が土手に上がって見ると、舵の壊れた白根からの下り安進丸14号が流れてきたのだ。人々は船の中からの悲鳴を聞きながらどうすることも出来ず、船と一緒にただ土手の上を歩いて下るよりしかなかった。 数百m下流には手を広げるように宝永橋があり、誰もが衝突は絶対避けられないと思っていた。そのとき諏訪神社の少し下流のカーブの流れで、船が大野側の土手に寄せられ接岸した。土手を歩いていた人々は安堵したがそれもつかの間、船員の不手際からか係留(船をつなぎとめること)の操作が間に合わず、またもや船は宝永橋から百mほど手前まで流されてしまった。
船の中から救いを求める悲鳴が、両岸まで聞こえてきた。一瞬「バリバリッ」という大きな音と共に、船は横になったまま宝永橋の橋脚に衝突した、そして次第に傾斜して転覆しそうになり、川に落ちる人や、飛び込んで対岸に泳いで行く人の姿が見えた。大野側からコウレンポウが救助に向かったが、六分(白根の月潟村)のだんな様が川に落ちて行方不明になったと伝えられた。また一人の男の子(五歳位)が橋脚と船の間にはさまれて泣き叫んでいるのが見え、川岸の人から、「早く橋をのこぎりで切って助けてー」と声が飛び、大野側からのこぎりを持った人がコウレンボウでかけつけた。子どもを助けようと橋が切られた瞬間、子どもの姿は濁流の中に消えてしまった。 見守っていた人々の口から思わず念仏が唱えられ、さらしで子どもをしばっておけばよかったと悔やむ声も聞こえた。宝永橋はその後修復されないまま、廃橋となった。