郷土黒埼の歴史探訪 その10 大野の橋の歴史U 

「宝永橋」に安進丸衝突のその後
大野橋の歴史
 宝永橋は使用不能となり、住民は修理を希望したが、個人の賃橋(橋の滞り銭がかかる)であり、また工事には莫大な費用がかかるため、実現不可能となった。再び、渡し船が始まったのは、1年後の明治44年7月8日。
大正4年まで渡し船が続いたが、川が増水したときや強風のときは船が出せず、不便を感じることが多かった。そのため、住民の間で賃橋架設の話が急浮上した。 
手すりの全くないつり橋
手すりの全くないつり橋
貸橋つり橋
 つり橋が架けられたのは大正5年。大野橋ともいわれたが、正式名の記録はない。場所は、現在の大野橋下流約100mのところで、写真でもわかるように、このつり橋には手すりが全くないのには驚かされる。こんな物騒な橋が、昔は許可されていたのだから、今ではとても考えられない。怖くて、この橋を一度も渡らなかった人も多かったと聞く。
現在の大野付近図 大野橋
 つり橋が非常に危険ということで、つり橋架橋後すぐに両岸住民から、木橋の架橋が要望された。ついに、大正14年4月、現在の大野橋の場所に、木橋の大野橋が完成した。少し風が強くなれば渡れなくなるつり橋とは違って、タダで渡れて頑丈な木橋の完成を、大野や鷲ノ木の人たちは心から喜んだ。
 昭和15〜6年ころになると、大野橋は木橋ゆえに傷みがひどくなり、橋の所々に大きな穴があき、自動車の通行は不可能となり、歩行者や自転車しか通れない状態となった。しかし、国をあげての激しい戦時下にあったため、補修の手は加えられなかった。
「昭和16年ころ、白根から黒埼の柳作に嫁ぐ花嫁が、大野橋の手前でハイヤーを降りて、親に手を引かれて穴のあいた橋を、おっかなびっくり歩いて渡ると、渡り終えたところからまたハイヤーに乗って、婚家へ行った」。
また、「昭利20年ころのある風の強い日、マントを着た老婆が、橋の穴から川にころがり満ち、これを見た人たちが大騒ぎ。必死で助けようとしたが、ついにおよばなかった」という話もあった。
 昭利22〜3年ころ、大野橋の大規模な補修工事が行われた。そのころ、大野橋の鷲ノ木側付近に住んでいた当時小学四年生の石黒静代さんからは「大野橋は所々穴があき、下をのぞくと目がまわるほど怖い橋だった。・・・私たち桜町の生徒は渡し船で大野小学校に通学したが、大勢の人が乗るので大変で、特に冬は、雪のかたまりが流れてきて、船にぶつかり、怖かったのを覚えている」と。

 補修工事を終えた大野橋は、昭和30年代の終わりまでなんとかもちこたえ、昭和39年の新潟地震でも落ちなかったが、満身創痍(傷だらけ)の状態となり、昭和40年9月から橋の架け替え工事が始まった。そして大野橋(二代目)が完成し、昭和43年7月28日の「広報くろさき」に次のように載った。「大野橋完成丸三年の歳月を経て」。工事費一億三千四百十万九千円、長さ112m、幅7.5m、ようやくこのたび永久橋に生まれ変わった。

大野大橋

 昭和38年、白根〜大野間の国道八号が開通した際、現存の場所に大野大橋が架けられた。新潟地震で一部が落橋したが、すぐに復旧じ現在架け替え工事中dです。

信濃川橋、信濃川大橋
 昭和25年、信濃川橋(木橋)は、信濃川と中ノ口川の合流点のすぐ上流にあった。当時、大野から対岸の曽川(現在の新潟市曽野木)の間は、約700〜800mの川幅があり、島があった。その島を利用して、二つの橋、信濃川橋が架けられた(島の中の大通川という狭い川にも橋があった)。島の中にある道が、両側の二つの橋よりはるかに低いので、川が大水になるとすぐに水没し、利用者は水が引くまでの何日間もの通行止めで、泣かされたものである。
このように島の中の道が低くつくられたのは、洪水の際、島を水没させて橋への圧力を弱め、橋に無理をかけないようにとの狙いからのようであった。
 そして、昭和43年、工事費ニ億九千二百万円かけて、待望の三つの川をつなぐ一本の橋、万代橋の約二倍の長さ、信濃川大橋が完成した。