その10 大野の橋の歴史U
手すりの全くないつり橋 |
大野橋 つり橋が非常に危険ということで、つり橋架橋後すぐに両岸住民から、木橋の架橋が要望された。ついに、大正14年4月、現在の大野橋の場所に、木橋の大野橋が完成した。少し風が強くなれば渡れなくなるつり橋とは違って、タダで渡れて頑丈な木橋の完成を、大野や鷲ノ木の人たちは心から喜んだ。 昭和15〜6年ころになると、大野橋は木橋ゆえに傷みがひどくなり、橋の所々に大きな穴があき、自動車の通行は不可能となり、歩行者や自転車しか通れない状態となった。しかし、国をあげての激しい戦時下にあったため、補修の手は加えられなかった。 「昭和16年ころ、白根から黒埼の柳作に嫁ぐ花嫁が、大野橋の手前でハイヤーを降りて、親に手を引かれて穴のあいた橋を、おっかなびっくり歩いて渡ると、渡り終えたところからまたハイヤーに乗って、婚家へ行った」。 また、「昭利20年ころのある風の強い日、マントを着た老婆が、橋の穴から川にころがり満ち、これを見た人たちが大騒ぎ。必死で助けようとしたが、ついにおよばなかった」という話もあった。 昭利22〜3年ころ、大野橋の大規模な補修工事が行われた。そのころ、大野橋の鷲ノ木側付近に住んでいた当時小学四年生の石黒静代さんからは「大野橋は所々穴があき、下をのぞくと目がまわるほど怖い橋だった。・・・私たち桜町の生徒は渡し船で大野小学校に通学したが、大勢の人が乗るので大変で、特に冬は、雪のかたまりが流れてきて、船にぶつかり、怖かったのを覚えている」と。 |