その5 灯油精製法を発明した田代虎次郎
明治初期、わが国の石油精製業に大きな足跡を残した人に、山田出身の田代虎次郎がいる。虎次郎は、旧山田島の合子ケ作村(現在新潟市上山田)の、親鸞聖人焼鮒の旧跡で知られる「和泉どん」の田代和泉家・正秀の次男として弘化2年(1845)1月17日に生まれる。 21歳の慶応2年(1866)、京都に出て勤王党に入り国事に奔走。慶応4年に起こった鳥羽伏見の戦いの戊辰の役には、官軍側の一員として松ケ崎浜上陸軍の中にいた。 赤谷口や、会津若松城攻めに参戦。後、小林政司の金革隊に加わり、隊長政司と共に170名の隊員を統率して、数々の武功をたてた不撓不屈の精神をもった人である。 明治3年(1870)2月金革隊は、正規軍第三遊軍隊に編入され東京警備を命ぜられる。同年9月、兵部省令により第三遊軍隊は解隊される。 翌4年、26歳の時郷里に帰った虎次郎は、新潟の叔父・板谷香之助のもとで、石油製造業を手伝いながら、英国人医学者や宣教師から化学工業の知識を学んだ。 当時、製油法が幼稚のため、日本の石油工業は振るわず、輸入油の評価が高いことに歯がみし、もっぱら製油の改良に没頭していた。 こうした虎次郎の努力、苦心は明治17年に花開いた。揮発成分を取り除き、発火点の高い安全な灯油を精製する「安全灯油用蒸留釜」を考案したのである。 青年期には同志を率いて国事に奔走し除隊後は、わが国の石油業界の発展に大きく貢献した虎次郎は実に時代の先端をゆく洞察力と、行動力のたくましい人であった。 弥彦駅に向かって右の弥彦公園の南側の小高い山の中腹に、大正7年に建立された田代虎次郎の顕彰碑がある。 碑文を読むと、遠く田代家祖先のこと。田代虎次郎氏の出生から、ご逝去されるまでの波瀾に富んだ、しかも新しい時代を開こうと、ひたむきに前に前に進もうと、日夜努力されている氏の姿が彷彿と浮かんでくる。
碑の台石は、幅2.2m、奥行き1.0m、高さ0.4mで苔におおわれている。 碑石は高さ2.3m、幅1.2m、厚さ0.2mの黒い石である。 上段横書きに「田代君碑」のてん額があり、前農商務大臣河野広中とある。 農商務大臣河野広中は、第二次大隈内閣(大正4.7.7〜大正5.10.9)に入閣した人である。
出雲崎の石油記念館には、田代虎次郎が明治17年に考案した「安全灯油用蒸留釜」が残されている。