その4 戊辰戦争で寺地大仙坊でも戦いが
新潟市は今、人口50万人を数える大都市として発展しているが、今から133年前の慶応四年春、新潟町は北越戊辰戦争の大きな渦に巻き込まれようとしていた。 明治元年、新潟港(明治2年に開港したが、それ以前にも重要な港としての役割を担っていた)は、新政府軍に反対する米沢、仙台、会津、庄内の列藩同盟筒盟軍)が占領していた。 同年7月24日、長岡藩河井継之助を支援する列藩同盟による長岡城奪還作戦が成功すると、新政府軍は同盟軍を優勢にしているのは、新潟港を通じて外国商人から豊富な武器弾薬を補給しているためであると察知し、新潟を押さえなければ戦局は好転しないと判断。7月25日、新政府軍一千人余りが松ケ崎から太夫浜に上陸すると、破竹の勢いで新潟港に殺到した。 7月27日、28日と、29日の朝まで新政府軍は新潟沖に五隻、関屋沖に二隻の軍艦を配備し、海陸呼応して笠夜間断ない砲撃により、新潟町は修羅場と化した。 29日、同盟軍の総督米沢藩の家老色部長門は、光林寺を本陣に新潟全線の統師に当たっていたが、西堀、古町東堀が新政府軍の砲弾で焼けていくのをみて、新潟が廃嘘とならないうちに潔く撤退しようと仙台兵(150人)、会津兵(200人)、米沢兵(600人)、庄内兵(200人)の各藩士に命じ、退路を海岸すじにとり徹退を始めた。 時を同じく関屋金鉢山に陣していた新政府軍が新潟に向けて進撃を開始した。色部は手兵25名と寄居浜から五十嵐街道に出て、加茂方面に落ちる作戦をとったが、関屋の「食違い」(俗称地名・現新潟高校前)で新政府軍の攻撃を受けた。
激戦の末、重傷を負った色部長門は、関屋下川原新田の茄子畑で割腹して果てた。 同盟軍は関屋から平島に逃れる部隊と五十嵐方面に逃れる部隊があったが、平島から大野方面に逃れる敗残兵を追っていた新政府軍の一隊は、寺地大仙坊で米沢兵と遭遇するや激しい白兵戦が行われた。 付近に隠れていた同盟軍の藩士が四方からかけつけ、新政府軍は苦戦に陥ったが、この時援軍が渡河し、同盟軍は敗走した。その後、しばらく敗残兵伐りが行われて鳥原や緒立、的場等各所で小競り合いがあった。黒埼の善久でも、ある家の土蔵に隠れていた同盟軍の藩士を、新政府軍の兵が囲んで鉄砲で射殺した。 その時、土蔵の回りの竹薮に銃弾がパチ、パチと音をたててはね返り、その音はいつまでも忘れられなかったと、古老より聞いている。
戊辰戦争とは 慶応4年(1868)戊辰の年〜明治2年(1869)、旧幕府軍同盟軍と新政府軍(薩摩長州を中心とした軍隊)との戦争。新政府軍は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍をやぶり、江戸城をあけわたさせた。新政府軍のことを官軍ともいわれていた。