郷土黒埼の歴史散歩その3 善久.山田の陸軍飛行場建設

山田・善久の地図
◎善久・山田の陸軍飛行場建設
昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦以来、日本軍は緒戦を有利に進めていた。しかし、17年4月米軍機の本土大空襲、同年6月ミッドウェー海戦の大敗18年4月山本連合艦隊司令長官の戦死、5月にはアッツ島の玉砕と、18年から19年にかけ、前線では玉砕や撒退が続いたが、政府は軍の敗退をひた隠しにしていた。
しかし、新潟にも敵機が来たり、本土空襲が日増しに激しくなると、国民は戦局の厳しさを肌で感じるようになった。
そんな緊迫した情勢下の19年秋ころ、黒埼村青年学校(現在の黒埼中学校)に陸軍特攻隊約30人が駐留した。
旧山田島陸軍飛行場
旧山田島陸軍飛行場(長さ1.500m、幅300m
日の丸の付いた飛行服に、白いマフラーをなびかせ、軍刀をさげた凛々しい特攻隊員を見て、人々は心強さを感じたが、隊員の目的は村人の農地を飛行場にすることだったのだ。
20年7月に入るとすぐに「善久と山田の旧河川敷地(農地)に飛行場を建設するので、果樹や野菜、他の構築物一切を速やかに撤去せよ」という軍命令が、善久と山田の自治会に伝えられた。
軍の指定した飛行場予定地は善久と上山田の農地で、現在の国道八号沿いにあるトーショ−叶V潟営栗所から山下家具あたりまで、幅は国道から信濃川端まで。
善久の農地には、国道沿いに荒れ地や、小さな池(現在の新潟日報付近)があったが、農地の約六〜七割が果樹畑で、ぶどうや桃などはもう袋かけも終り、後一ヶ月もすれば販売できる程に大きく実っていた。
上山田の農地にも果樹畑が少しあったが、大半が野菜畑で、茄子やトマトなどはもう初ナリし、長芋や里芋などに至っては、こんな時期に撤去すれば来年度は種さえなくなるということで、非常に困惑したが、私情は許されなかった。
20年7月8日、朝早くから曽野木役場の応援を得て、人々は果樹畑の伐採作業にかかった。日夜丹精込めて育てた野菜や果樹を伐採するのは気が重かったが、涙をのんで作業に取り組んだ。
二枚羽根の飛行機
飛行場の建設工事が始まり、作業用員として郡内(中蒲原郡)はもちろん、近隣市町村から「勤労奉仕隊」(勤奉隊)の名のもとに、老人から婦女子、小学生までが動員された。作業は、池や果樹を掘起こした穴の埋立てから始められた。
現代ならブルドーザーやダンプカーで簡単にできるが、当時の日本にはなかった。
全てが人力で、何百人もの奉仕隊がモッコや、背篭、猫ぐるまなどを使って土を運んだ。地ならしの重いコンクリートのローラーを、何十人もの小学生が引っぱった。
人々の必死の努力によって、8月2、3日ころようやく飛行場は完成した。飛行場といっても、格納庫ひとつない、畑や荒れ地をただ均しただけの野っ原である。このころから、機銃の付いていない二枚羽根布張りの練習機が飛ぶようになった。
8月8日ころ、飛行場の完成を祝って、勤奉隊に参加した各市町村の代表や関係者を招いて、飛行場開きが行われた。飛行場には戦勢の挽回を願って大勢の人が集まった。
ところが、初飛行で飛んだのは、前記の二枚羽根の復葉練習機だけで、ア〆リカのようなジュラルミンの戦闘機などは一機も見られなかったが、轟音をたてて頭上すれすれに飛ぶ練習機に、人々は「万歳、万歳」と叫んでいた。
制空権は元より、戦争ができる飛行機さえなかったこの時期、なんでこのような飛行場がつくられたのかは未だもって謎である。