その1 親鸞聖人の焼鮒
◎親鸞聖人の焼鮒
親鸞聖人が越後へ流されたのは建永元年のこと。国府(直江津)と鳥屋野に居られた聖人が、建暦元年赦免されてこの地をたたれるとき、合子(ごうし)の里(現在の山田)で越後七不思議の』焼鮒の伝説が生まれる。 別れを惜しんだ合子の人々が、村の山王宮に手造りの酒や馳走を持ち寄り、聖人とのお別れの宴を開いた。 宴半ば、村人の差し上げた焼いた鮒を持たれた聖人が、「私の説いている真宗の教えが正しければ、きっとこの鮒が泳ぐでしょう。」と、お堂から出て、袈裟を傍らの榎の小枝に掛け、南無阿弥陀仏御称名(しょうみょう)と共に御洗水(みたらし)に放下された。 すると、不思議にも焼かれた鮒が泳ぎ出し、聖人の袈裟を掛けられた榎の根元に隠れた。 それから数百年経った寛政八年の大風で榎の大枝が折れ、村人が挽き割ってみると、二股に分かれた一方の切り口に聖人の姿(写真右)が、いま片方には焼鮒の姿(写真左)がはっきりと現れていた。 この不思議に村人は驚き、噂が広まると方々の村から大勢の人が拝観に訪れ、新発田藩の奉行所の知るところとなった。 役所では怪しい物と思い、木の盤をいろいろと調べたが、聖人の姿も鮒の形も消えないので、奉行星村治兵衛の朱印を押して返してよこしたと伝えられている。 焼鮒の盤はその後、上山田の田代家に祭られていたが、昭和二十三年、隣家からの出火で田代家は類焼し、このとき親鸞聖人の盤は焼けたが、焼鮒の盤は焼けず現在も田代家に祭られていろ。〈親鸞聖人焼鮒御縁起よリ〉 明治29年の河川改修以前まで、合子の山王宮は新潟ふるさと村の後ろ辺りにあった。
越後の七不思議 一 山田の焼鮒 田代家 二 川越の波切りの御名号 鈴木家 三 鳥屋野の逆竹 西方寺 四 田上の繋ぎがや 了玄寺 五 小島の八房の梅 梅護寺 六 小島の数珠掛け桜 梅護寺 七 保田の三度栗 孝順寺 八 国府の片葉の葦 国府別院
親鸞聖人の生涯