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筑後川流域を歩いていると、やたらと平家伝説に出くわす。それだけ、筑紫次郎(筑後川の愛称)と平家の縁は深いのだろう。下記「郷土の平家遺跡」参照。 平家は、壇ノ浦で滅亡した後も、カッパに変身したり、ある時は漁師になったり、後の世でも変幻自在にお話を提供してくれている。本サイト「伝説紀行」の取材を通じて、改めて、筑後川と平家(ある時には源氏)の関わりを考えた。 下記の平家遺跡の中から、いくつかの例を見ながら辿ってみる。 |
郷土の平家遺跡 (久留米市史より) 平家遺跡は大橋町常持の庄前神社、高良内町杉谷、荒木町白口などがある。近郊では、浮羽郡原口の御座所、朝田の禊池、川会の水天宮、船越や水分など平家城跡または平家館跡と伝えられる所数カ所、妹川の御前塚、山春の有王淵、竹野の知盛塚、柴刈の重盛塚、山春の尼の長者館跡など。 |
目次
NO.01 平家と水天宮 | NO.02 帝の身代わり | NO.03 平家の怨霊 |
NO.04 有明海漁業と平家 | NO.05 平家のプライド | NO.06 源平最終決戦場 |
筑後川と久留米水天宮(左下)・下野水天宮(中央上)・千代局の墓(中央下 むかしの筑後川は、下野水天宮脇が本流だった |
水天宮のご神体 筑後川と平家の関わりを語る際に欠かせないのが、久留米水天宮の存在である。両者には、単に水天宮が「川辺の神さま」である以上に、深い関係があるような気がする。 高倉平中宮(平徳子):安徳幼帝の母で高倉天皇の皇后。木曾義仲の攻撃に追われ、壇ノ浦で入水するも、救助されて都に送還される。後に出家し、院号を「建礼門院」となった。 二位の尼(平時子):平清盛の正室。実子は宗盛・知盛・徳子(建礼門院)。清盛亡きあとは、平家の家長的存在であった。壇ノ浦で敗北すると、娘徳子らに、「浪の下にも都の候ぞ」と言い聞かせた後、安徳幼帝を抱いて、三種の神器ととも海中深く沈んでいった。浪の下の都とは、壇ノ浦の海底を指す。「みもすそ川」ともいう。
中宮女官の祈祷 久留米水天宮は、壇ノ浦合戦の後、平中宮(徳子)に仕えていた按察使局(あぜつのつぼね)によって祠が設けられたことから始まる。久留米水天宮は、按察使局(本名伊勢)がご主人の安徳幼帝と中宮、それに二位の尼を供養するための祠であった。場所は、千歳川(筑後川)の北岸の下野村の鷺ヶ原であった。
伊勢の変遷 按察使局(伊勢)とは、どのような生まれで、その後どう生きたのか。本サイト「水天宮の起源」のさわりを紹介したい。 千代は、奈良の「石神神社」の娘として生まれている。子供の頃から加持祈祷を覚えたことがここにきて役に立ち、里人たちの悩みを癒すために祈ってあげた。千代に対する尊敬の念はますます高まり、「尼御前さま」と慕われるようになった。
その千代の墓は、現在も久留米市内のアサヒコーポレーション正門前にあり、毎年春に墓前祭が執り行われているとか。 |
赤間神宮の安徳幼帝像
帝の替え玉
安徳天皇(8歳=幼帝)は、実は死んでいなかった。確定している歴史をも覆す「口込みによる伝承」は、「壇ノ浦」後も幼帝が生きていることになっている。伝説たる所以であろうが、「NO.01平家と水天宮」に登場する按察使局(あぜつのつぼね・名を伊勢)が、平家再興を祈願して建てた祠が、その後の水天宮となった。その時祠に向かって祈願したのは、生死を共にした安徳幼帝と母上の高倉平中宮(徳子)、更に幼帝の祖母にあたる二位の尼(時子)であった。
今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 浪の下にもみやこありとは 「この流れる波の下にも、貴方たちが望む都が存在するのですよ」と、声を振り絞って8歳の幼帝と徳子に言い聞かせたと伝わっている。 しかし、伝説の世界(口承文化)では、安徳天皇は28歳まで生きていたとある。尼に抱かれて海底に沈んだのではなかったのだ。第142話 安徳天皇終焉の地参照 壇ノ浦で二位の尼に抱かれて飛び込んだのは、実は幼帝の身代わりだったというわけ。幼帝の母上の中宮は、その後源氏方に確保されて都に護送された。二位の尼は、幼帝とともに源氏方から逃れて生きのびたと。一度優雅な貴族社会と権力の座を味わった平家の一族にとって、義経率いる源氏軍に敗北したとは、どうあっても認めたくなかった。それは、平家の人間に限らず、平家贔屓(ひいき)の庶民に至るまで共有する願望であったろう。
幼帝の皇位を証明するためには、どうしても三種の神器が必要となる。その後の必死の海底捜索でも発見できなかったことから、神器は生き残った幼帝が、生きて携えたままだということになった。こうなれば、「替え玉」説にも真実味が増してくる。 三種の神器 皇位の標識として歴代の天皇が受け継いできたという三つの宝物。即ち、八咫の鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま) 替え玉が成功して、生き残った幼帝らは、千歳川(筑後川)岸まで逃走する。そして、平家贔屓の豪族らに保護されながら生きのびることに。帝(安徳天皇)は、匿ってくれた豪族の娘と結ばれて、男の子を誕生させたというオチまでついてくる。それだけではない。 一方では、久留米地方の豪族藤吉種継(人呼んで三池長者)の娘は、父の反対を押し切って平康頼(たいらのやすより)の子を身ごもったとある。平康頼こそ、壇ノ浦から生きのびた安徳天皇その人ではと唱えるお方もあって、帝は筑後の地で没したということになった。 知盛の墓が田主丸に?
源平合戦時の「身代わり」は、安徳幼帝だけではなかった。幼帝が入水したとする時刻からほどなくして、急流に飛び込んだはずの平知盛も生きのびていた。知盛とは、平清盛の四男で継母時子の次男である。壇ノ浦では、兄の宗盛を助けて全軍の総指揮を執っている 草野永平の兵が迫ったことを知った知盛の家来・伊賀平内は、割り切れずにいる主人の鎧兜(よろいかぶと)を剥ぎ取ると、自らが大将の形(なり)を整えて、単独敵陣に立ち向かった。それもすぐに見破られて、知盛もろとも首を取られることに。 知盛の墓は、筑後川と並行して居座る耳納連山の麓に位置する。800年経った今も、多くの村人が墓を守っているという。NO.03に続く |
平家の怨霊
平家がに
今回は、筑後川周辺に伝わる平家落人の、死んでも死にきれない怨霊について。 壇ノ浦で歴史を閉じたはずの平家人は、その後もお家再興の夢を捨てきれず、怨霊と化して現世をさ迷い続けたという。 怨霊は、カッパに姿を変えたり、なまずに乗り移ったりして、筑後川周辺で生き続けた。現世に対する恨み節は、向こうの世界にすら踏み込めずにいたのだ。 怨霊:怨みを抱いてたたりをする死霊又は生霊。 清盛公の仮姿 平家の時代を確立した武将・平清盛(1118-81)は、平家の滅亡(1185年)後、カッパの世界に身を託して現世に現れ、筑後川支流の巨瀬川(こせがわ)に住みついた。
妹川地区には、今日でも脈々と平家伝説が生きている。20年近く前の新聞記事である。記事の中で妹川の方々は、「私らは平家落人の子孫です」と誇らしげに語っておられる。江戸時代、久留米藩は源流に位置する水天宮を認めようとしなかった。それでも彼らの誇りの方が勝ち、明治に入ってすっかり復活したとのこと。何処かで聞いた、隠れキリシタンのようだ。
本サイト伝説紀行と読み比べていただきたい。(217話 妹川の平家カッパ) |
特技で地域貢献
沖ノ端漁港(柳川市)
ろっきゅうさん
NO.5
平家のプライド
弥太郎淵 | 松木の落人 |
松木の落人
筑後川流域には、源平に関わる伝説が多い。壇ノ浦合戦で勝敗が決まった後、敗者である平家方は、女・子供を引き連れたまま各地に散らばった。必然、九州の山奥に平家落人伝説の多いことが理解できる。
九州上陸組の中で、かなりリアルに形を残して伝わるのが玖珠盆地の松木落人伝説だろう。彼らが運んだ金銀財宝は、絶対他人に見つからない場所に隠蔽されなければならない。いつの日か、平家再興の日のための必要資金だから。下記地図に見える「大祖山」は、落人が根付いたと言われる山奥であり、北方の「宝山」は、財宝の隠し場所として伝えられてきた。
大願成就まで生きのびるために、地のものの辱めをも我慢しながらも、武士であり貴族でもあった誇りだけは失わなかった。「松木の落人」の一説である。 弥太郎淵 平家落人の特徴の一つが、かつて貴族の暮らしを経験したことからくる強烈なプライドである。再興を夢見て身なりは貧しくても、心は常に高貴な位置に座っていた。住民から蔑まれようものなら、体を張って襲いかかることも。 あ
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要川(みやま市)
国道443号がみやま市(福岡県)を通過するあたり、中小河川の「要川」を渡る。九州自動車道の山川PA近所だ。地元では、この場所を源平が激突した最後の戦場だとおっしゃる。
平家伝説に登場する場所に何度も足を運んだ。山また山の中に、落人の郷が静かに佇んでいる。誰だって800年以上もむかしの平家一族の敗走ぶりを想像せずにはいられない。 |