2019年09月08日
 筑後川流域を歩いていると、やたらと平家伝説に出くわす。それだけ、筑紫次郎(筑後川の愛称)と平家の縁は深いのだろう。下記「郷土の平家遺跡」参照。
平家は、壇ノ浦で滅亡した後も、カッパに変身したり、ある時は漁師になったり、後の世でも変幻自在にお話を提供してくれている。本サイト「伝説紀行」の取材を通じて、改めて、筑後川と平家(ある時には源氏)の関わりを考えた。
下記の平家遺跡の中から、いくつかの例を見ながら辿ってみる。

郷土の平家遺跡
(久留米市史より)

 平家遺跡は大橋町常持の庄前神社、高良内町杉谷、荒木町白口などがある。近郊では、浮羽郡原口の御座所、朝田の禊池、川会の水天宮、船越や水分など平家城跡または平家館跡と伝えられる所数カ所、妹川の御前塚、山春の有王淵、竹野の知盛塚、柴刈の重盛塚、山春の尼の長者館跡など。
また、筑南一帯では、山川の七霊社、黒木の小待従伝説、筑後市の市の塚、白滝神社、津島光明寺、馬間田の一敷、八女市では平・新庄などに、また八女郡大淵・矢部・笠原・星野辺りは、平家一族の隠栖(いんせい)した形跡があると伝える。また柳川には、ロッキュウ(六騎)伝説が伝承されている。
平家伝説は、血なまぐさい合戦話から脱して、哀愁と悲恋のロマンに形を変え、後世に伝承されてきた。

目次

NO.01 平家と水天宮 NO.02 帝の身代わり  NO.03 平家の怨霊
NO.04 有明海漁業と平家 NO.05 平家のプライド  NO.06 源平最終決戦場
     



NO.01平家と水天宮

 
筑後川と久留米水天宮(左下)・下野水天宮(中央上)・千代局の墓(中央下
むかしの筑後川は、下野水天宮脇が本流だった

水天宮のご神体

 筑後川と平家の関わりを語る際に欠かせないのが、久留米水天宮の存在である。両者には、単に水天宮が「川辺の神さま」である以上に、深い関係があるような気がする。
水天宮のホームページを開くと、「ご祭神(さいじん)」として、下記の平家に関係深い3人の名前が記されている。

安徳天皇:平安末期の天皇。父は高倉天皇、祖父は平清盛、母は平清盛の娘建礼門院(徳
子)。8歳になったばかりの天皇は、平家の落ち目とともに西走することに。屋島の館を経て、壇ノ浦合戦で祖母の二位の尼に抱かれて入水する。

高倉平中宮(平徳子):安徳幼帝の母で高倉天皇の皇后。木曾義仲の攻撃に追われ、壇ノ浦で入水するも、救助されて都に送還される。後に出家し、院号を「建礼門院」となった。

二位の尼(平時子):平清盛の正室。実子は宗盛・知盛・徳子(建礼門院)。清盛亡きあとは、平家の家長的存在であった。壇ノ浦で敗北すると、娘徳子らに、「浪の下にも都の候ぞ」と言い聞かせた後、安徳幼帝を抱いて、三種の神器ととも海中深く沈んでいった。浪の下の都とは、壇ノ浦の海底を指す。「みもすそ川」ともいう。


久留米水天宮本社

 水天宮のご祭神に、肝心の平清盛の名前はない。

中宮女官の祈祷

 久留米水天宮は、壇ノ浦合戦の後、平中宮(徳子)に仕えていた按察使局(あぜつのつぼね)によって祠が設けられたことから始まる。久留米水天宮は、按察使局(本名伊勢)がご主人の安徳幼帝と中宮、それに二位の尼を供養するための祠であった。場所は、千歳川(筑後川)の北岸の下野村の鷺ヶ原であった。
 主人(平徳子)のあとを追って海中に飛び込んだはずの伊勢がどうして・・・? 生き伸びて鷺ヶ原に現れたのか。平徳子は、一度は我が子安徳幼帝と実母時子とともに壇ノ浦水中に沈んだ。だが、源氏方によって救出された。伊勢も時を同じくして水中を脱出して、九州の地に上陸したということなのだろう。


久留米水天宮脇の筑後川


 伊勢は、九州の地をさ迷いながら、南方に向かった。そこに立ちふさがったのが大河・千歳川(筑後川)である。伊勢は土地の人に助けられ、名を千代と変えて、生涯をかけて徳子と安徳幼帝、二位の尼(平時子)を供養することを誓ったのであった。江戸時代に入って、久留米藩主の有馬氏により、今日の水天宮が出来上がったというわけ。安産の神さまで有名な東京蠣殻町(かきがらちょう)に建つ水天宮は、その後文政元年(1818年)に、久留米水天宮から分霊されて芝赤羽橋の久留米藩上屋敷にお祭りしたもの。
 水天宮のご祭神に平清盛がないのは、最初に祈祷所を築いた伊勢(後に千代)によるお祈りが、直接の主人3人にあったためだと解釈できる。

伊勢の変遷

 按察使局(伊勢)とは、どのような生まれで、その後どう生きたのか。本サイト「水天宮の起源」のさわりを紹介したい。

 千代は、奈良の「石神神社」の娘として生まれている。子供の頃から加持祈祷を覚えたことがここにきて役に立ち、里人たちの悩みを癒すために祈ってあげた。千代に対する尊敬の念はますます高まり、「尼御前さま」と慕われるようになった。
 時は移り、寿命を全うした千代がこの世を去ることに。恩を感じる里人は、祭壇に祠を建て、彼女の墓の側には松を植えた。それからは誰言うとなく千代の霊を「千代松明神」と呼び、祠を「尼御前社」と崇めた。上記地図参照


尼御前社・下野水天宮(鳥栖市下野)

 その千代の墓は、現在も久留米市内のアサヒコーポレーション正門前にあり、毎年春に墓前祭が執り行われているとか。
 下野の鷺が原に「尼御前社」が建てられたのが建久元年(1190年)という。その後幾多の変遷を経て、二代目久留米藩主の計らいで現在の久留米市瀬下に鎮座されたとのこと。
つづく


NO.02

帝の身代わり


赤間神宮の安徳幼帝像

帝の替え玉

 安徳天皇(8歳=幼帝)は、実は死んでいなかった。確定している歴史をも覆す「口込みによる伝承」は、「壇ノ浦」後も幼帝が生きていることになっている。伝説たる所以であろうが、「NO.01平家と水天宮」に登場する按察使局(あぜつのつぼね・名を伊勢)が、平家再興を祈願して建てた祠が、その後の水天宮となった。その時祠に向かって祈願したのは、生死を共にした安徳幼帝と母上の高倉平中宮(徳子)、更に幼帝の祖母にあたる二位の尼(時子)であった。
 壇ノ浦を見下ろす下関の赤間神宮には、幼帝のお墓がある。更に岸壁には、二位の尼が娘徳子(中宮)や幼帝に言って聞かせたという言葉も添えられている。


壇ノ浦に建つ安徳帝御入水処(二位の尼の時世)

今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 浪の下にもみやこありとは

「この流れる波の下にも、貴方たちが望む都が存在するのですよ」と、声を振り絞って8歳の幼帝と徳子に言い聞かせたと伝わっている。

 しかし、伝説の世界(口承文化)では、安徳天皇は28歳まで生きていたとある。尼に抱かれて海底に沈んだのではなかったのだ。第142話 安徳天皇終焉の地参照

 壇ノ浦で二位の尼に抱かれて飛び込んだのは、実は幼帝の身代わりだったというわけ。幼帝の母上の中宮は、その後源氏方に確保されて都に護送された。二位の尼は、幼帝とともに源氏方から逃れて生きのびたと。一度優雅な貴族社会と権力の座を味わった平家の一族にとって、義経率いる源氏軍に敗北したとは、どうあっても認めたくなかった。それは、平家の人間に限らず、平家贔屓(ひいき)の庶民に至るまで共有する願望であったろう。


壇ノ浦古戦場碑(下関市)

 幼帝の皇位を証明するためには、どうしても三種の神器が必要となる。その後の必死の海底捜索でも発見できなかったことから、神器は生き残った幼帝が、生きて携えたままだということになった。こうなれば、「替え玉」説にも真実味が増してくる。

三種の神器 皇位の標識として歴代の天皇が受け継いできたという三つの宝物。即ち、八咫の鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)

 替え玉が成功して、生き残った幼帝らは、千歳川(筑後川)岸まで逃走する。そして、平家贔屓の豪族らに保護されながら生きのびることに。帝(安徳天皇)は、匿ってくれた豪族の娘と結ばれて、男の子を誕生させたというオチまでついてくる。それだけではない。

第87話三池長者の娘参照

 一方では、久留米地方の豪族藤吉種継(人呼んで三池長者)の娘は、父の反対を押し切って平康頼(たいらのやすより)の子を身ごもったとある。平康頼こそ、壇ノ浦から生きのびた安徳天皇その人ではと唱えるお方もあって、帝は筑後の地で没したということになった。
 それでは、帝が没した場所はどこなのか。そして、帝が携えていたという三種の神器は一体どこに隠れているのか。探し回りたい衝動に駆られる。

知盛の墓が田主丸に?


平知盛の墓

 源平合戦時の「身代わり」は、安徳幼帝だけではなかった。幼帝が入水したとする時刻からほどなくして、急流に飛び込んだはずの平知盛も生きのびていた。知盛とは、平清盛の四男で継母時子の次男である。壇ノ浦では、兄の宗盛を助けて全軍の総指揮を執っている
 平家再興を願う知盛は、身代わりを立てて生きのび、兵を率いて九州に上陸し、筑後の吉木に城をかまえる草野永平を頼った。草野永平は、平家加護のもとでこの地方を治めてきた一族である。草野の城を目前にして、永平もまた源氏の軍門に下ったことを知り、絶望のどん底に落とされたのだった。

250話 平知盛の墓参照

 草野永平の兵が迫ったことを知った知盛の家来・伊賀平内は、割り切れずにいる主人の鎧兜(よろいかぶと)を剥ぎ取ると、自らが大将の形(なり)を整えて、単独敵陣に立ち向かった。それもすぐに見破られて、知盛もろとも首を取られることに。
平家贔屓の村人は、知盛の死を悲しみ豪華な墓を建立したのが今も残る平神社と2基の墓石である。

 知盛の墓は、筑後川と並行して居座る耳納連山の麓に位置する。800年経った今も、多くの村人が墓を守っているという。NO.03に続く


NO.03

平家の怨霊


平家がに

 今回は、筑後川周辺に伝わる平家落人の、死んでも死にきれない怨霊について。
壇ノ浦で歴史を閉じたはずの平家人は、その後もお家再興の夢を捨てきれず、怨霊と化して現世をさ迷い続けたという。
 怨霊は、カッパに姿を変えたり、なまずに乗り移ったりして、筑後川周辺で生き続けた。現世に対する恨み節は、向こうの世界にすら踏み込めずにいたのだ。

怨霊:怨みを抱いてたたりをする死霊又は生霊。

清盛公の仮姿

 平家の時代を確立した武将・平清盛(1118-81)は、平家の滅亡(1185年)後、カッパの世界に身を託して現世に現れ、筑後川支流の巨瀬川(こせがわ)に住みついた。
 千歳川(筑後川)の支流九十瀬川こせ川と読む・現巨瀬川のこと)の源流近くの芋川村(いもかわむら)である。芋川とは、現在のうきは市妹川のこと。名前も九十瀬入道(こせにゅうどう)と替えて、農業用水を支配することになった。現在も高西郷(こせごう)水天宮に掲げられている「由来」が、清盛のなれの果てを暗示している。

 当社の起因は、九十瀬入道という僧を祀り瀑布のそばに小社をたて、これ九十瀬水神なりとある。この頃、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の落人が移り住み神仏への信仰心厚く次第に栄えたと言われる。


妹川集落と水神

 妹川地区には、今日でも脈々と平家伝説が生きている。20年近く前の新聞記事である。記事の中で妹川の方々は、「私らは平家落人の子孫です」と誇らしげに語っておられる。江戸時代、久留米藩は源流に位置する水天宮を認めようとしなかった。それでも彼らの誇りの方が勝ち、明治に入ってすっかり復活したとのこと。何処かで聞いた、隠れキリシタンのようだ。


2004年4月13日 西日本新聞

 本サイト伝説紀行と読み比べていただきたい。(217話 妹川の平家カッパ
伝説紀行の発表が2005年7月17日だったから、新聞掲載とほとんど期を同じくしている。取材の際川辺で遊んでいた小学生の女の子に問いかけた。「この辺りには平家の人たちが暮らしているそうだが?」と。女の子はためらうこともなく、「うちも平家らしかですよ」と応えてくれた。


NO.04

特技で地域貢献


沖ノ端漁港(柳川市)

ろっきゅうさん

第154話 ろっきゅうさん

 

 どんこ舟を滑らせて、堀から見上げる柳川の武家屋敷街。江戸時代、立花さんが藩主を務めていた頃、時の流れを忘れさせるほどにゆったりと時間が過ぎて行く町だった。
 ご存知の通り、柳川は有明海漁業、つまり「沖ノ端漁業(おきのはたぎょぎょう)」で栄えた町である。有名な作詞家・北原白秋が生まれ育った場所でも有名。生家跡を南に200メートルほど下ったところに、六旗神社(ろっきじんじゃ)なる不思議な名前の祠が建っている。帰去来など白秋の詩碑や、彼が学んだ矢留小学校と隣り合わせの空間だ。
 説明板に、上記写真の「6人の武将」の絵が掲げられていた。壇ノ浦合戦で敗れて、有明海まで落ち伸びてきた平家の武将らである。彼らは、百姓や漁師に身を隠していても、源氏の追手を逃れてきた「お訪ね者」だということはすぐ分かったはず。過去の栄光や平家武士のプライドも投げ捨てて、武将らは地元民に頭をこすりつけたに違いない。何としても生きのびて、再び平家の再興を成し遂げるためであった。

 
六騎神社(左)と沖ノ端漁港(右)

 地元漁民は、彼らを庇おうとすれば、命がけのリスクを背負わなければならない。そこで武将らは、眼前の有明海を指差した。この干潟の海にはどのような生き物が生息するのか、その魚は食えるのかと尋ねた。漁師たちは一様に、力なく首を横に降った。「我らの身なりを見れば分かること。泥の中で棲息する魚なんぞ食えるわけがない。第一、舟を出して遠くに出ようものなら、海賊が現れてみな殺しされるだけ」と嘆き、有明海漁業だけでは食うこともままならないと言う。

むつごろう&たいらぎ

 平家武将らは、漁民の嘆きを解消してやる代償として、自らも生き残れる道を見出そうとした。6人には何人かの郎党がついていたと考えられる。人数は分からないが、平家全盛時代から培ってきた頭脳を働かせることに。武士は戦場での戦だけが仕事ではなかったのだ。
干潟を掘り起こしたり投網で掬ったりして集めた魚介類の商品価値を高めること。
比較的波静かな入り海である有明海に適した漁船の製造法を開発する。
海賊対策として、船上での戦の訓練。
収獲した獲物の現金化
などであった。
 暮らしが楽になることならと、地元民も一様に六騎の計画に同意したのではないか。


六騎神社前の案内板

 有明海といえば、干満の差が大きいことで知られる。六騎の平家残党が、このような自然の摂理を分析して漁業法を創りあげたことで、柳川の漁村は潤った。戦国時代を経て江戸時代に至り、平家の落人はすっかり地元の漁民に溶け込んでいったという。もちろん、沖ノ端の漁法は、有明海沿岸のすべての住民の生活をも豊かにしたに違いない。
 昨今、お隣の諫早湾を閉め切って、農業用地を広めたために、たいらぎなど貴重な漁業資源が失われつつあることが残念で仕方がない。つづく


有明特有の魚介が並ぶ沖ノ端の店頭

有明海の主な海産物

 
きびなご
 
たいらぎ
 
わたりがに
 
わらすぼ

あげまき 
 
くちぞこ
 
遥か彼方まで干潟  
 
朝市で賑わう中島漁港
 
愛嬌もののむつごろう
 

NO.5
平家のプライド

 弥太郎淵  松木の落人
松木の落人

  筑後川流域には、源平に関わる伝説が多い。壇ノ浦合戦で勝敗が決まった後、敗者である平家方は、女・子供を引き連れたまま各地に散らばった。必然、九州の山奥に平家落人伝説の多いことが理解できる。


宝山の登山口

 九州上陸組の中で、かなりリアルに形を残して伝わるのが玖珠盆地の松木落人伝説だろう。彼らが運んだ金銀財宝は、絶対他人に見つからない場所に隠蔽されなければならない。いつの日か、平家再興の日のための必要資金だから。下記地図に見える「大祖山」は、落人が根付いたと言われる山奥であり、北方の「宝山」は、財宝の隠し場所として伝えられてきた。


松木伝説の地

 大願成就まで生きのびるために、地のものの辱めをも我慢しながらも、武士であり貴族でもあった誇りだけは失わなかった。「松木の落人」の一説である。
 大将の平宗忠は、清盛から拝領した刀を肌身離さず持っていた。自尊心の方が先に立ち、やがて飢え死にするものが後を絶たなくなった。
「おのおの、これ以上生きて恥をさらすより、いっそのこと・・・」
 お互いが介錯人となって首をはねあい、生き残っていた30人も山の獣の餌食となった。首を落とされた平宗忠は、それでも清盛公から拝領の赤い鞘の劒を握り締めていたという。

弥太郎淵

平家落人の特徴の一つが、かつて貴族の暮らしを経験したことからくる強烈なプライドである。再興を夢見て身なりは貧しくても、心は常に高貴な位置に座っていた。住民から蔑まれようものなら、体を張って襲いかかることも。


前津江村を流れる高瀬川


前津江村(現日田市)を流れる高瀬川に「弥太郎淵」なる澱みがある。壇ノ浦後に、平家の子孫弥太郎』が村長に馬鹿にされた上、高瀬川の深みに連れ出されて命まで奪われてしまった。駆け付けた母親は、「何を隠そうそなたの父は平家の侍大将なるぞ」と泣き叫びながら、都の方角に向かって合掌し誓った。
「平家の生き残りを危める奴は、このわしが許さぬ。村長の家に七代祟れ」と、恨み節を唱えて高瀬川の急流に身を投げた。
 毎夜、毎夜、村長の寝床に弥太郎母子の亡霊が立ち、「平家の誇りを傷つけた悪い奴」と罵った。1週間も亡霊に悩まされた末、村長も気が狂い、これまた高瀬川の深みにはまって死んでしまったそうな。
 誰がつけたか、弥太郎母子が沈んだ澱みのことを「弥太郎淵」と呼ぶようになったんだって。

NO.06

源平最後の決戦場

要川(みやま市)

七霊の滝

  国道443号がみやま市(福岡県)を通過するあたり、中小河川の「要川」を渡る。九州自動車道の山川PA近所だ。地元では、この場所を源平が激突した最後の戦場だとおっしゃる。


要川古戦場跡 

 壇ノ浦で決定的な打撃を受けた平家側の内、生き残った者が本州と九州に上陸して源氏の追手を逃れようとした。平義宗を頭とする数百人の一行も、頼りにしていた太宰府に寝返りを打たれて、止むなく南方へ。矢部川岸で追手と闘った後、要川では総力戦となった。ほぼ壊滅状態となった平家は、更に生きのびたものが熊本や大分方面へと逃れた。落人伝説で有名な五家荘(熊本県)や松木(大分県)がそうだろう。


五家荘 2001年11月撮影

 平家伝説に登場する場所に何度も足を運んだ。山また山の中に、落人の郷が静かに佇んでいる。誰だって800年以上もむかしの平家一族の敗走ぶりを想像せずにはいられない。
「要川の戦い」は、まさしく源平合戦の最後の舞台としてお誂えの条件を満たしているともいえよう。

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