弥太郎淵
大分県前津江村
落人伝説を連想させる山間の集落
息子が恋をした
前津江村は、日田市から高瀬川を遡った山また山の中にある。いまでこそりっぱな道路が整備されているが、ほんの数十年前までは、人が暮らすことも大変だった。
途中に「上の志谷」という地名がある。脇の県道から見下ろすと、はるか下方に急流が見えた。川向こうには、いまどき珍しい藁葺屋根の一軒家が建っていた。さすがの源氏も、ここまでは追ってこなかったということか。そう、ここ前津江村の上の志谷一帯は、平家落人伝説が埋もれる場所なのである。
時は壇ノ浦の合戦から20年ほどたった頃。高瀬川べりの一軒家に、年老いた母親と20歳を過ぎた青年弥太郎が住んでいた。弥太郎は生まれて間もなく壇ノ浦で死んだという父の顔を覚えていない。
(写真は弥太郎渕付近)
20歳といえば、恋する年頃。1里ほど上流の出野(いずの)の長者の娘モモヨと恋仲にあった。弥太郎の母親は、「不釣合いは不幸の始まり」と諭したが、恋をするものにそんな説教など聞こえるはずがない。。
弥太郎は、モモヨの父親と直談判に及んだ。
「どこの馬の骨かもわからぬ男に、大事な娘ば盗られてたまるか」
モモヨの父親権兵衛は、弥太郎を玄関払いした。それならと、弥太郎は玄関先に座り込んだ。飲まず食わずで座っている弥太郎に権兵衛。何とか穏便に追い払う手立てはないものかと考えた末、弥太郎を裏庭に通した。
無理難題に母親が怒った
「青年よ、わしの言うことを聞くか?」
権兵衛が、おもむろに提案した。
「酒10樽、魚10荷(人間が天秤棒で担げる単位が1荷)を、釘茶として明日までに届けてくれたら娘をやろう」と。
「釘茶」とは、子供の結婚を約束させるために、男の親が娘の親に届ける品物のことである。身なりで家の粗末さを感じ取っている権兵衛は、無理難題で弥太郎を諦めさせる算段であった。
息子から話を聞いた母親が怒った。
「よいか弥太郎、よっく聞け。これまで黙っていたが、何を隠そうそなたの父は平家の侍大将なるぞ。いつかは平家再興をと願って、隠してある財宝がある。それを日田の街で金に替えてまいれ。そうすれば長者の難題くらいなんということはない」
びっくりしたのは弥太郎。初めて聞く身の上話もさることながら、我が家にそんな財宝があるなどと考えもしなかった。
「売ってしまえばいざというとき、困るだろうが」
弥太郎も自分が平家の子孫だと知れば、無理もできないことに気がついた。
「よくよく考えたら、既に平家の栄光は遠くなってしまった。そなたには、先祖から受け継いだ誇りを捨てて欲しくないのじゃ。たかが田舎者の金持ちくらいに馬鹿にされてなるものか」
平家の誇りが怨念となって
弥太郎は、母から預かった家宝の名刀を売りさばいて、翌日酒10樽、魚10荷を権兵衛の目の前に置いた。喜んだのはモモヨだが、権兵衛は困った。そこで次なる悪だくみ。手下である鉄砲の名人に、弥太郎闇討ちを命じた。弥太郎が権兵衛の屋敷を出て高瀬川の浅瀬を渡ろうとしたとき、「ズドーン」と一発。猟銃の弾が弥太郎の背中から腹に突き抜けた。
「卑怯なり!」
弥太郎は喉が破れるまで声を絞り出して倒れた。死体は流れて底なし淵に。そして二度と浮き上がることはなかった。
「お父さま、私の大事な弥太郎さんを殺すなんてあんまりです」
ことを聞きつけたモモヨは権兵衛をなじって、奥の座敷に篭ってしまった。10日間も座敷から出てこないモモヨを心配して座敷を覗いたお母さんが腰を抜かした。あのかわいい娘の体にうろこが生え、姿は蛇に変わっているではないか。
弥太郎の恨みがモモヨに乗り移ったのか、変身したモモヨの大蛇は、のっそり外に出てやがて高瀬川の深い淵の中に潜っていった。
恨みはそれだけではすまない。息子の不慮の死を知った弥太郎の母親は、都の方角に向かって合掌し、「平家の生き残りを危める奴は、このわしが許さぬ。権兵衛の家に七代祟れ」と、恨み節を唱えて高瀬川の急流に身を投げた。
毎夜、毎夜、権兵衛の寝床に弥太郎母子の亡霊が立ち、「平家の誇りを傷つけた悪い奴」と罵った。1週間も亡霊に悩まされた末、権兵衛も気が狂い、やっぱり高瀬川の深みにはまって死んでしまった。
出野の衆は、これほどまでに家柄にこだわる平家の執念に恐れおののいた。誰がつけたか、弥太郎母子とモモヨが沈んだ淵のことを「弥太郎淵」と呼ぶようになった。(完)
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