伝説紀行 ろっきゅうさん 柳川市
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
ろっきゅうさん 【関係資料:柳川藩史】 福岡県柳川市
柳川では、漁師のことを尊敬の念をこめて「ろっきゅうさん」と呼ぶ。「六騎殿」が訛り、親しみを込めてそうなったんだそうな。むつごろうや 漁港のある沖ノ端のあたり、むかし「矢留浜」といって寂しい魚村だった。平安時代の終わりの頃、この村に刀や棒切れを杖の代わりにした6人の男たちが彷徨いこんだ。リーダー格の男が、大きな漁師の家に救いを求めた。 要川の決戦を経て 「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた時代もあったが、平清盛が亡くなるとすぐ、一族は衰亡の一途をたどった。源頼朝は弟の義経に命じ、逃げる平家を瀬戸内海から壇ノ浦(関門海峡)まで追い詰めた。 漁師に変身して 「昨日も今日も源氏方の追っ手がこの村に参りました。こうなったら、皆さまには私らと同じ漁師になってもらうしか匿いようはございませんな」
「私らの知恵で、港を造りましょうぞ。漁師が安心して漁に出れるよう、基地を整備するのです。それから、大勢が一艘に乗りこめる船を造れば、漁も大掛かりにできましょう」 海賊退治が功を奏して 海賊退治なら難波ら武将にとって最も得意とするところ。出来立ての大きな船に乗り込んだ6人は、出没地点の海上で待ち伏せして、一網打尽に賊をやっつけた。
ある晩、難波善良の枕元に神が立たれた。翌朝、百姓姿の難波が伊勢神宮に向かった。参詣を終えて帰ろうとすると、足元に半分に割れた鏡が落ちていた。 村に守られ、子孫も繁栄して それからというもの、不思議と源氏の追っ手がこなくなった。そして、矢留の漁業は豊漁続きで、村はますます繁栄した。 ろっきゅうさんを祭る「六騎神社」は、どんこ舟が到着するお花(旧立花邸)から、北原白秋の生家手前を折れたところに建っている。桜が満開の頃で、大勢の観光客がそぞろ歩きを楽しんでいた。でも、ろっきゅうさんのお宮さんを訪ねたのは僕だけだった。(完) |