伝説 松木の平家落人  九重町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第156話 2004年05月02日版
再編:2016.02.25 2017.06.11 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

松木の里の落人伝説

大分県九重町

 九重町北部の山を地図で見ていると、「平家」に縁のありそうな名前が連なっている。そのものずばりの「平家山」、落人が再興を期して財宝を隠したとされる「宝山」だとか。山の麓を松木の里といい、近くには有名な龍門の滝(りゅうもんのたき)もある。


平家の財宝が眠る?宝山

300人の落人が松木の里

 時は文治元(1185)年3月。壇ノ浦(関門海峡)合戦に破れた平家の軍勢は、九州各地の山奥に逃げこんだ。ここ豊後の玖珠盆地にも、平家一門の武将と女子供300人が落ち延びてきた。いかに九州の深部といっても、いつ住民に密告されて捕らわれるかもしれない。
 一行は、より安全を求めて、玖珠盆地からさらに奥の大祖山に踏み込んでいった。
「不自由であろうが、お味方より再興の狼煙(のろし)があがるまでの辛抱じゃ。300人が一緒では何かと目立ち、いざと言うときに動きづらい故、3班に別れてその日を待とう。運んできた財宝は三等分する」
 総大将の平義遠が全員に号令した。

都の大岩に似た巨石が

 翌日から、慣れない力仕事が始まった。釜や鍬を持って荒地を開墾するもの、鉄を溶かして生活用品を作る鍛冶など。一坪耕しては種を蒔きながら、少しずつ田畑が広がっていった。
「大きいのう、この岩は」
 大祖山に陣取った弥平次が、今にも転げ落ちそうな巨石を見上げてため息をついた。
「どこかで見たような気がする、この岩は」
「そうよのう、都近くの妙義山中にあったな」
「そうだ、あれだ!」


写真は、玖珠日出生の山奥

 武者髭で勇ましい男たちも、いつ帰れるかわからない都の話になると、声も上ずった。
「この岩を、我らの願いをかなえる守り神として崇めようぞ」
 中でも年嵩のいった鷲之佐が提案した。それからというもの、この大岩に野の花を供え、全員で手を合わせるようになった。

女は春を売る 

 大祖山から西の山に赴いた100人は、財宝を山頂近くの洞窟に隠すと、寸暇を惜しんで開墾に励んだ。だが、励んでも励んでも田畑は広がらない。麓に下りて米や野菜を買おうにも銭がない。女は、意を決して里の男たちに体を売り、みんなのために米を買った。
 まさか平家の落人とは知らない男たちは、色白で上品さが漂う女の体に酔った。食べるためと割り切って、女たちは里の集落・後辻に館を築き女郎として働くことになった。これも、平家再興のための苦肉の策であった。
 平家の女を求める男たちは後を立たず、やがて、彼女らは性病に侵されることになる。そして、一人死に二人あの世へ旅たつ。気がつけば13人もの平家の女が、土地の男たちの遊び道具となって、この世を去って行った。


龍門の滝


 男たちは、涙ながらに女たちを埋葬した。最近まで後辻の田んぼの中にあった十三基の墓は、平家落人の哀しい結末を示す証(あかし)だという。「あの墓を触ると、祟りがあるげな」と伝えられたのも、心までは触らせない平家のプライドが、死んで後の世まで語り継がれたものなのか。

絶望の果てに自害し、猿になる

 大祖山の東部、平家山に隠れた100人。待てど暮らせど、平家再興の狼煙は上がらない。隠し置いた財宝のうち、金になるものや物々交換が可能な品は、暮らしのために少しずつ消えていった。
「この劒だけは」
 大将の平宗忠は、清盛から拝領した刀を肌身離さず持っていた。平家の自尊心が先立ち、やがて飢え死にするものが後を絶たなくなった。
「おのおの、これ以上生きて恥をさらすより、いっそのこと・・・」
 お互いが介錯人となって首をはねあい、生き残っていた30人も山の獣の餌食となった。首を落とされた平宗忠は、それでも拝領の赤い鞘の劒を握り締めていたという。


耶馬渓の奇岩

 それから500年たった享保の時代。平家山麓に100匹の山猿が里に下りてきて農作物を荒らした。猟師が待ち伏せして、一匹残らず猿の息の根を止めた。最後まで逃げ回ったボス猿を手にかけた後、猟師の頭がおかしくなった。そのボス猿は赤い鞘の刀を握っていて、手放そうとしなかったからである。

信心が身を助けた

 本体の平義遠の部隊。彼らは大祖山のわずかばかりの平面を辛抱強く耕した。相変わらず妙義山の大岩に似た大石を守り神にして。そのうちに、麓の農民との交流も盛んになって、武士は知恵を出し、農民は食うものを提供しあうようになった。
 そんなある日、麓の嘉作が息せき切ってやってきた。
「大変だ、源氏の追っ手が登ってくる!」
 見ると、急斜面を大軍が押し寄せてくるところだった。目算用で1000人の大隊である。女・子供を含めてわずか100人の平家方が、まともに勝負して勝てるわけがない。その時、山鳴りがして、大地が揺れた。地震である。義遠や武将たちが、朝晩拝んだ大岩が、グラグラと動き出し、急斜面を地響きを立てて転がり落ちていった。大岩は、よじ登ってくる源氏の大軍を一人残らず踏み潰した。
 後の世の人は、転がり落ちた大岩のことを「千人石」と呼び、平家落人の苦労話を語り継いだそうな。
 結局、壇ノ浦から玖珠盆地に逃げてきた平家一門のうち、生き残ったのはこの大祖山の100だけ人ということになる。彼らは次第に地元の農民と交じり合って、子孫を残した。平家残党の生き残りのお陰で、滅亡した東部の山を「平家山」と呼ぶようになり、西部の山が、財宝を隠した「宝山」と名づけられた。宝山の名称は、宝を埋めたという伝説と、一説にはこの山には食べられる野草や薬草などがたくさんあるところから、「宝の山=宝山」と呼ばれるようになったという二つの説があるそうな。(完)

言い伝えは限りなく

 宝山の中腹に祀られている妙見宮近く。岩壁と反対側の絶壁には、赤岩・黒岩の伝説がある。昔、この赤岩・黒岩は、金・銀の財宝でできていた。地元の人々は毎日この岩を眺めて楽しんでいた。欲の深い百姓が掘り起こすと、何の変哲もない赤や黒のゴツゴツ岩でしかなかった。だが、下から見上げる地元の人の目には、金や銀で彩られた山に見えた。今でも欲深い人が見れば赤岩・黒岩に見えるが、心のきれいな人が見ると金・銀の岩に見えるそうな。

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