伝説紀行 七霊の滝 平家落人伝説  山川町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第133話 2003年11月16日版
再編:2017.04.24 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
七霊の滝


2007.04.22

福岡県山川町


七霊の滝

 福岡県山川町(現みやま市)は、熊本県との境にある谷あいの街道筋に位置する。九州自動車道の「山川パーキングあたり」と言ったほうがわかりやすいかも知れない。土地の人なら「いや、山川みかんの山川ですたい」と言い返すだろう。
 大むかしは、現在の国道443号のすぐ近くまで有明海が迫っていたそうな。従って、南と北を行き来する旅人は、必ず「北関」「南関」「松風の関」と連なる関所を通らなければならなかった。
 
山川町の中心部を流れる要川(矢部川の支流)は、壇ノ浦から逃れてきた平家の残党と、追撃する源氏方の最後の決戦の舞台だと伝えられている。平家の部隊には、身だしなみだけは公家のなりを崩さない女や子供も大勢混じっていた。

逃れて大宰府へ 久留米へ

 寿永4(1185)年3月、壇ノ浦で源氏との決戦に及んだ平家は、二位尼に抱かれて安徳幼帝が海の藻屑と消えた瞬間に滅亡した。武将たちの戦意は一挙に喪失し、海に飛び込むもの、泳いで陸地に上陸するものなど散り散りになっていった。


要川古戦場跡

 かつての栄華を夢見る公卿たちの合言葉は、「必ず平家の再興を果たそうぞ!」であった。軍団の逃避行は男に限らず、女房・子供、そして再興のための資金となる金銀財宝を携えてのものであった。現在に至るも全国各地の山岳地帯に存在する「平家落人伝説」が、それなりの現実味を帯びるわけはそこにある。
 平義宗を頭とする一行300人は、九州の和布刈(めかり・
北九州市門司区)に上陸した後、一路筑紫の大宰府を目指した。大宰府は何百年にわたって平家の影響下にあったし、未だに恩顧を感じる武将が数多く居座っているはず。だが、彼らの思惑は完全にはずれた。十重二十重と源氏に囲まれて身動きできない平家贔屓(ひいき)の大名が、次々に源氏方に寝返った。しかも、平家の残党が大宰府を頼ってくるという情報を得た源氏方は、筑前・豊前の要衝をも固めて、蟻一匹通さない備えを完了していたのだ。


要川の古戦場跡図

 一行は、山道を通り大川(筑後川)を渡った。目指すは、さすがの追手でも及びそうにない九州南部の山岳地帯である。しかし、足手まといの女子供ずれでは、なかなか行進もはかどらなかった。矢部川岸の尾島にたどり着いて、やれ一休みと思ったのもつかの間、待ち伏せた敵兵500が一行に襲い掛かった。敵は例え相手が女・子供であっても、容赦をしなかった。哀れ平家もこれまでかと義宗が肩を落としかけたその時、東の方から騎馬に跨った群れが怒涛のごとく押し寄せてきて、源氏の兵をなぎ倒していったのである。

僧兵の援軍来る

 その数100。清水寺(きよみずでら・瀬高町)の僧兵であった。平家の繁栄とともに修行を積んできた僧侶たちである。
「かたじけない」
 義宗は、僧侶軍団の大将らしき人物に感謝しながら、思わぬ援軍に力も倍増した。敵兵たちは、100以上の屍(しかばね)を残して北方に退散した。
「安全な場所までお送りいたす」


七霊の滝・七霊宮

 僧侶の大将はそう言って、一行の前後を固め、南に向い要川(山門郡山川町)で人馬を休めた。
「必ず、敵は次の矢を放ってくるに違いない。力を蓄えておくように」
 平義宗は、矢部川の戦いで半分に減った兵の一人一人を労いながら諭した。その時、清水の僧兵が「敵が来る」と叫びながら、北方から早馬を走らせてきた。「その数1000」とも告げた。平家で戦える数はたったの100人、清水の援軍を加えても到底立ち向かえる戦力ではなかった。
「無念なれど、おのおの方覚悟する時がまいったようだ。目の前の要川を決戦の場にして、平家の意地をみせつけようぞ。女と子供は東の山に隠れて吉報を待て。運良く我らが勝利したら、今度こそ絶対に敵の目に触れない場所に移動して再興の時を待つ」
 義宗は天を仰ぎながら全軍に号令を発した。

女たちは山に

 間もなく物見の丘から次ぎなる報せが届いた。敵の軍団がはっきり見通せる場所まで迫っていると言う。
 源氏の追手が、一丸となって平家軍と清水の僧侶に襲い掛かった。味方も最後の力を振り絞って戦った。捨て身の戦法に不意を衝かれた追手の兵が、もんどりうって要川に転げ落ちた。浅瀬の川中でも戦闘は激しさを増す。要川はたちまち鮮血で染まっていった。
 山に逃げ込もうとする女官たちも途中で捕まり、ことごとく斬り殺された。やっとのことで敵陣を潜り抜けた女が7人。彼女たちは、重い衣を引きずりながら要川支流の待居川沿いに登った。
 振り向くと、遥か彼方の戦場では、源氏方の勝ち鬨の声がこれ見よがしに聞こえてきた。その声で、7人の女たちの生きる気力も消え失せてしまった。かすかに聞こえる滝の音に引きずり込まれるように、女たちはとうとうと流れ落ちる滝壺の縁に立った。


源平最後の決戦場要川夕景

「皆のもの、今生(こんじょう)では再び平家の栄光は望めない。遅まきながら壇ノ浦に消えられた幼い帝の後を追おうぞ。来世で再会を」
 平義宗の妻政子が真っ先に滝壷に飛び込んだ。残りの7人も次々に色鮮やかな衣の裾を棚引かせながら水中に消えた。

最後は村人が弔う

 激しい戦闘の間、息を潜めていた村人たちは、追手の軍が引き上げた後、要川周辺に集まってきた。敵味方合わせて数百の死骸が川岸や水中に頭を突っ込むようにして倒れている。村人は、その一つ一つを丁寧に拾い集めて荼毘(だび)にふし、川岸の草むらに埋葬した。
「おーい、こちらでも死体があがったぞ!」
 
待居川の滝壺近くで7人の女の遺体が引き上げられた。血の気はないが、それぞれが彩色鮮やかな衣装をまとい、薄化粧をしている。胸も裾も肌蹴ないように紐でしっかり結んであった。


現在の要川

「さすが気位の高い女官だ」
「世が世なら、栄耀栄華が欲しいままであったろうに」
 彼女らも、武将たちと同じ場所に埋葬された。
(完)

 源氏を恨んで鯰に変身

 源平合戦の最後の決戦場といわれる要川は、待居川と飯江川(はえがわ)が合流するところ。今では町が「要川公園」として整備し、「決戦場」を印象付けようと熱心である。公園から東に1キロほど登ると、7人の女官が身投げしたといわれる「七霊の滝(しちろうのたき)」に着く。
「このあたりのもんは鯰(なまず)は食いまっせんばんも」とは、地元のお方の話。「なぜ?」と尋ねると、「滝に身を投げた平家の女房(おなご)衆は、源氏を恨んで鯰に変身し、今もこの川で生き続けているけん」だと。また、干ばつの時には、姫の木像を滝壺で洗い清めて雨を乞えば、必ず願いがかなうとも伝えられれいる。
 あぜ道に咲いている名も知らない草花を滝壺に投げ込み、7人の女官の成仏をお祈りして帰途についた。

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