伝説紀行 七霊の滝 平家落人伝説 山川町
|
僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
七霊の滝
福岡県山川町
福岡県山川町(現みやま市)は、熊本県との境にある谷あいの街道筋に位置する。九州自動車道の「山川パーキングあたり」と言ったほうがわかりやすいかも知れない。土地の人なら「いや、山川みかんの山川ですたい」と言い返すだろう。 逃れて大宰府へ 久留米へ 寿永4(1185)年3月、壇ノ浦で源氏との決戦に及んだ平家は、二位尼に抱かれて安徳幼帝が海の藻屑と消えた瞬間に滅亡した。武将たちの戦意は一挙に喪失し、海に飛び込むもの、泳いで陸地に上陸するものなど散り散りになっていった。
かつての栄華を夢見る公卿たちの合言葉は、「必ず平家の再興を果たそうぞ!」であった。軍団の逃避行は男に限らず、女房・子供、そして再興のための資金となる金銀財宝を携えてのものであった。現在に至るも全国各地の山岳地帯に存在する「平家落人伝説」が、それなりの現実味を帯びるわけはそこにある。
一行は、山道を通り大川(筑後川)を渡った。目指すは、さすがの追手でも及びそうにない九州南部の山岳地帯である。しかし、足手まといの女子供ずれでは、なかなか行進もはかどらなかった。矢部川岸の尾島にたどり着いて、やれ一休みと思ったのもつかの間、待ち伏せた敵兵500が一行に襲い掛かった。敵は例え相手が女・子供であっても、容赦をしなかった。哀れ平家もこれまでかと義宗が肩を落としかけたその時、東の方から騎馬に跨った群れが怒涛のごとく押し寄せてきて、源氏の兵をなぎ倒していったのである。 僧兵の援軍来る その数100。清水寺(きよみずでら・瀬高町)の僧兵であった。平家の繁栄とともに修行を積んできた僧侶たちである。
僧侶の大将はそう言って、一行の前後を固め、南に向い要川(山門郡山川町)で人馬を休めた。 女たちは山に 間もなく物見の丘から次ぎなる報せが届いた。敵の軍団がはっきり見通せる場所まで迫っていると言う。
「皆のもの、今生(こんじょう)では再び平家の栄光は望めない。遅まきながら壇ノ浦に消えられた幼い帝の後を追おうぞ。来世で再会を」 最後は村人が弔う 激しい戦闘の間、息を潜めていた村人たちは、追手の軍が引き上げた後、要川周辺に集まってきた。敵味方合わせて数百の死骸が川岸や水中に頭を突っ込むようにして倒れている。村人は、その一つ一つを丁寧に拾い集めて荼毘(だび)にふし、川岸の草むらに埋葬した。
「さすが気位の高い女官だ」 源氏を恨んで鯰に変身 源平合戦の最後の決戦場といわれる要川は、待居川と飯江川(はえがわ)が合流するところ。今では町が「要川公園」として整備し、「決戦場」を印象付けようと熱心である。公園から東に1キロほど登ると、7人の女官が身投げしたといわれる「七霊の滝(しちろうのたき)」に着く。 |