伝説紀行 安徳幼帝の最期  久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第142話 2004年01月25日版
再編:2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

安徳天皇終焉の地

福岡県久留米市

 
安徳天皇没地と伝わる白鳥神社(久留米市荒木)
一角に三種の神器が埋もれているとか

本当に平家は壇ノ浦で滅亡したのか

 文治元(1185)年3月、壇ノ浦の合戦において平家は滅亡した。平家軍の御旗となる8歳になったばかりの安徳天皇が、おババ上の二位の尼(平清盛の妻時子)に抱かれて急流逆巻く海峡に身を投げたその時である。写真は、壇ノ浦での平家滅亡の図(下関市赤間神宮展示)
 だが、平家贔屓(ひいき)の人々は、その事実を認めようとしなかった。幼帝と平家の主要な人物は、平家再興を願って、その後も生き続けたと信じている。その未練は820年たった現在に至っても完全に払拭されていない。何故か? 安徳幼帝生存説を説く根拠は、天皇存在を示す「三種の神器」が、関門海峡のどこからも発見できなかったことによるらしい。
 筆者も、平家贔屓(ひいき)の彼らに便乗して話を進めたい。
*三種の神器:神から受け伝えた宝器。皇位の印。

見知らぬ老女が平家船から飛び込んだ

「宗盛、そなたは、天子さま(安徳天皇) とお母上(二位の尼)を伴って九州に上陸せよ。九州では大宰府におる平家の家人どもを頼れ。その後、機熟せば天子さまを御旗にして平家の再興を図るのじゃ。さらば」
 平知盛は、命令したあと碇を担いだまま海峡に飛び込んだ。眼前には源義経率いる艦船が迫っている。その時、いつの間に乗船したのか見知らぬ老女が幼子を抱えて舳先に現われた。
「我こそ平清盛の妻、時子なるぞ。ここにおわすは、恐れ多くも先の高倉天皇の御子さまであられる」
 老女は、あらぬ限りの声を振り絞って、義経の艦に呼びかけた。大げさな仕種を繰り返した後、知盛が飛び込んだ同じ海中に消えた。入れ替わるように、漁船らしい小舟が艦船に横付けになった。幼帝とともにあるはずの三種の神器を奪い取るための冒険であった。
「楓、天子さまを離すでないぞ。我は、尼殿といっしょだ。神器も我が持つ」


赤間神宮の安徳幼帝像


 一瞬の出来事に何が起こったのか理解できずにいる幼帝の乳母・楓は、言われるままに幼帝の手を引き、横付けになった漁船に乗り移った。続いて宗盛に手をとられた二位の尼も。

むかし平家も、今は皆源氏方

 安徳幼帝を抱いた楓は、二位の尼、平宗盛と4人で門司の漁港に上陸した。
「大丈夫でございます。九州には、清盛さまの御世以来平家のお陰で繁栄した家人(平清盛が畿内・西国の武士を支配下に置くためにつけた位)がたくさんいますゆえ。必ず天子さまを匿ってくれましょう。帝と三種の神器さえ健在ならば、必ず平家再興がかないまする。さすれば、散り散りになった一族のものが再び結集いたしましょう」
 幼帝と二位の尼を支える平宗盛が尼を励ました。4人は、身を町衆の姿に変えて、平家贔屓の豪族が住む大宰府を目指した。途中茶店などで聞く話は、宗盛の予想を覆した。
 味方と信じていた豊後の緒方惟義が反旗を翻し、草野(現久留米市)の城主・草野次郎も頼朝の命を受けて平家討伐に加わっていた。その中で大宰府にいる平季貞は、筑後川河畔で彼らの追撃と対し、力及ばず大宰府は既に陥落していた。


太宰府政庁跡

 大宰府周辺には、もう誰も平家の味方はいなかったのである。このまま大宰府に入れば、飛んで火に入る夏の虫、待ち受ける源氏の追手に捕まること必定であった。
「南に逃れましょう。そちらには、壇ノ浦から生き延びた数百のお味方の軍がおりまする。それらと合流して、再興の機を伺うのが良策かと存じます」
 藤盛の決断で、幼帝・二位の尼の一行は南に進路をとることになった。三日目の夜更け、目の前に大河が立ちふさがった。千年川(筑後川)である。向こう岸に渡るため、どこかで舟を調達せねばと、楓が走り出した。
*天子:天帝の子。天命を受けて人民を治める者。国の君主。

逃避行の先に大川が

 楓が寝静まった大きな屋敷の門を叩き、門番に用件を伝えると、しばらくして恰幅のよい男が現われた。
「悪者に追われています。向こう岸に渡りたいのですが、小舟を1艘お貸し願えませんか」
「この暗闇で、あなた方素人が大川を渡るのはいかにも無謀じゃ」
「でも…、すぐ渡らなければ、捕まって殺されてしまいます」


水天宮の御座舟

「訳がありそうじゃな。向こうにおられるお人は?」
「主人とその家来です」
 屋敷の主らしい男は、主従を屋敷内に引き入れ、奥の座敷に通した。客には床の間を背に座らせ、男は下座に畏まった。男の指示で間もなく5人の主従の前に温かい雑炊が運ばれた。考えれば、主従は門司の港に上陸して以来、食らしい食をとっていなかった。道中は誰一人空腹の苦情を言わなかったが、目の前に湯気の立つ椀が置かれると、見境なく箸を取った。

平家贔屓が筑後にいた

「恐れ多くも、そちらにおいでは、都の帝では?」
 お腹が満足して一息ついたところで、下座の男が4人の客人を見上げた。
「また、どうして?」
 今度は楓が驚き顔で訊きなおし、藤盛は刀の柄に手をかけた。
「壇ノ浦に沈まれたお方は、大宰府のある者が仕向けた幼帝の替え玉だと聞き及んでおります。申し遅れましたが、私めは、このあたりでは少しばかり名が通った立石儀右衛門と申すもの。潮に飲まれたお方が替え玉であれば、本当の天子さまと二位の尼殿は何処かに逃れられたはず。そのお方が、壇ノ浦の合戦から数日たってここに現われなさっても、不思議なことではありません」
「……」
「ご心配なさいますな。私めは、先祖以来平家あってこそ栄えた一族です。けっして内通などするものではありません」
 平宗盛が初めて儀右衛門を直視した。
「いかにも、こちらにおわすは、安徳天皇でござる。親切にしてくれた上に、我らを匿った罪でそなたに迷惑がかかったら忍びないゆえ、こちらの女子(おなご)がお願いしたように、向こう岸まで運んではくれまいか」
「今は、危なうございます。ご不自由ではありましょうが、もうしばらく我が屋敷にお隠れくださいますよう」
 立石儀右衛門の勧めで、天皇一行は屋敷内に止まることになった。

そこも危なく…

 それからひと月ほどたって、儀右衛門が藤盛の部屋にやってきた。
「家のものの話だと、周辺では源氏の追っ手がウロウロしているとのことでございます。私めの屋敷では心もとなく、よろしければ、帝を知り合いの屋敷にお移し願えないかと」


一行が止まった下野地区(鳥栖市)

 一時のためらいが命取りにもなりかねない。宗盛は早速二位の尼にそのことを告げて、儀右衛門屋敷から大川を渡り、鷺野原の豪族・執行利左衛門の屋敷に移ることになった。墨を流したように暗くて静かな千年川を、幼帝と尼、それに宗盛と楓を載せた舟が静かに滑っていった。 主従の体には穀物を保存するのに使う筵(むしろ)が被せてある。よそ目には、船頭が向こう岸に荷を運ぶ姿にしか見えないはずである。
「ここなら安心でございます。都の御殿のようにはまいりませんが、いつまでもごゆるりとなさいませ」
 主人の執行利左衛門が、平身低頭で挨拶した。

豪族の娘を娶(めと)った天子さま

 こうして年月は流れ、安徳天皇は20歳に成長した。その間に帝が最も頼りにする二位の尼が他界し、平宗盛は「山中に隠れし一門の者と連絡をとる」と言って出かけたまま、早や10年が経過した。帝に寄り添うのは30歳を遥かに越えた楓一人である。
 帝もすっかり都のお住まいのことを忘れ、利左衛門の屋敷の一員になりきっている。言葉も顔つきもいつしか地元のものになっていた。
「おうおう、今日も帝は玉江と何やら親しそうに話しておられるのう」
 玉江とは、利左衛門の末娘で、頭がよくて器量も人並み以上の、利左衛門自慢の娘であった。「玉江が帝と夫婦になれば、わが執行家にお上の血が注がれることになる。それより何より、そうなれば、いかな源氏でも我らを疑うこともなかろう」とは、利左衛門が密かに思うことであった。
 ことは利左衛門の思惑通りに運んだ。やがて玉江は男の子を産み落とした。その機会に利左衛門は、別荘の小笹山(現久留米市篠山)を改築して、帝親子を移転させた。
 だが、その移転が裏目に出た。華やかな利左衛門の別荘改築を怪しく思った者が役所に届け出て、大宰府から駆けつけた兵が別荘を取り巻いたのである。
「楓、例の宝物を忘れぬよう」
 百姓姿に変身した帝が楓に囁くと、「大丈夫でございます。ここに」と、半尺ほどの長物らしいものを筵に巻いたものを見せた。

帝は白口村で没した


白鳥神社(久留米市荒木町)

 またまた安徳天皇の逃避行が余儀なくされることになった。利左衛門は、機を見て帝親子と楓を1里南方の白口の郷にいる豪族・松田栄之丈の別荘に預けることにしたのである。鬱蒼と生い茂る照葉樹林に囲まれた別荘は、犬一匹他人が忍び込めない囲いとあいまって、帝親子にとって安住の地となった。
 帝のお子吉丸を挟んで、一家は幸せな日々を送ったが、帝が28歳になったとき、流行病の天然痘が襲い、あえなくこの世を去っていくことになる。
 そして、その後の玉江と帝のお子、楓の消息は記録が断絶する。もっと大切なもの、天皇の身から離れないはずの「三種の神器」がどうなったかなど、後世の人が知りたい情報が、帝の死去に合わせて、ぷっつり途切れてしまったのである。(完)

 昔の識者は、帝が崩御された松田の別荘が、現在久留米市大字白口に祀られている「白口神社」だと言っていた。いわゆる「三種の神器」も白口神社の境内のどこかに埋められたはず、とも考証している。その根拠として、白口神社には「名劒大明神」が祭られているからだとか。
 その白口神社は、筆者が生まれた場所と目の鼻の先であった。子供のころ、神社の境内は格好の遊び場だった。どんなに悪さをしても、大人の目にとまることもなく、無邪気にご神木に登ったりしたものだ。
 取材のため40年ぶりに神社を訪ねたが、境内と本殿の景色は一つも変っていなかった。変ったことといえば、子供のころには神社の周辺に民家らしいものが数軒しかなかったものが、すっかりモダンな住宅に囲まれていることだった。
 さて、肝心の神器は境内のどこに埋まっているものやら。背伸びして白口川の方向を眺めたら、その向こうに喧嘩仲間の安徳君の家が見えた。

本稿は以下の文献等を参考にして構成したものです。
  *立石光雄家(佐賀県鳥栖市下野)古文書 『建礼門院自言自筆』、『立石家据置記』
   *執行萬蔵所蔵『旧記』
   *『水天宮神徳記』
   *久留米市史

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