伝説紀行 三池長者の娘 久留米市大善寺


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第087話 02年11月24日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

三池長者の娘


07.04.22

福岡県久留米市


栄尊禅師坐像(久留米朝日寺)

ときは平安時代。栄華を極めた平家一門に翳(かげ)りが見え始めた頃である。筑後国は大善寺というところに、筑後川下流一帯(筑後地方)を支配する藤吉種継(ふじよしのたねつぐ)・人呼んで「三池長者」が住んでいた。
 今回は、その長者の娘が宿した父なし子で、将来この地に朝日寺(ちょうにちじ)を創建した「神子禅師栄尊(しんしぜんじえいそん)」の出生について。

未婚の母

 ここは藤吉種継の館。母屋から離れた別棟で一人の男の子が誕生した。赤ん坊の母親は種継の一人娘千代である。
 種継は、誰の子かわからない赤ん坊を孫として認められないと言い張った。それどころか、あれだけかわいがってきた娘に、父子の縁を切るとまで言い出した。
「お父上さま、それはあんまりです。私などどうなってもかまいませんが、この子は父上にとって初めての孫ではありませんか。そばにおいてやってください」
 涙ながらに訴える千代の叫びを無視して、種継は母子とも館の外に放り出した。行く当てもない千代は、乳飲み子を抱いたまま霰川(あられがわ)(広川の別名)岸をさ迷った。箱入り娘で育った千代には、この先赤ん坊とともに生きていく自信などなく、目の前の深みに飛び込むことばかり考えていた。
 そこに通りかかったのが元琳和尚。和尚は千歳川(筑後川)を10`ほど遡った耳納連山麓の
永勝寺の住職であった。「何があったか知らないが、死んではならぬ。ましてや、赤ん坊を道連れにしようなどもってのほかじゃ」
 母子の不審な態度を見て和尚が立ちふさがった。

出生の秘密

 元琳和尚は母子を永勝寺に連れて行き、わけを質した。
「この子の父親は平康頼(たいらのやすより)と申す都人でございます」
 千代が語る赤ん坊誕生のいきさつである。
 千代は藤吉種継の一人娘として何不自由なく育てられた。成長すると、生まれつきの美貌に加え利発さも伴って近在の男どもの憧れの的になった。「ぜひ我が跡取りの嫁に」と申し出る者が引きもきらず、その都度種継は蹴散らした。
 娘の評判は遠く都にまで及び、御所からも遣いがやってきた。そのときなどは、大量の腐ったコノシロ(近海でとれる小魚)を庭で蒸し焼きにして館中に悪臭を充満させ、「娘は昨日急死いたしました。今荼毘(だび)に付しているところ」と嘘をついて追い帰したほどだった。
 そんな折、館に一人の若者がやってきて一夜の宿を頼んだ。若者は平康頼と名乗った。平康頼と言えば、絶対的権力を誇る平家一門の転覆をはかった、いわゆる「鹿ケ谷事件」の首謀者の一人として、僧俊寛とともに南海の孤島鬼界島に流された人物である。時を経て平家に許され都に帰る途中であった。
 千代の運命はそこから急展開する。たまたま彼女が千日参りをしていたところに、滞在中の平康頼と出会う。そしてすぐさま恋仲に。もちろん、二人の仲を種継が許すわけもなく、二人は隠れて逢瀬を楽しんだ。やがて平康頼は再会を約束して都に帰っていった。
「子供を孕(はら)んでいることなど、康頼さまはご存知なく、父の許しを得て私が一人で育てるつもりでおりました」
「だが、お父上は許さなかった。だから、赤ん坊を抱いたまま入水しようと考えたのじゃな」
 元琳和尚は、千代の話を聞き終わると、深いため息をついた。

涙堪えて仏門に送る

「人間誰でも、どんな環境にあっても、一度や二度は死にたくなるほどの辛いことがあるものじゃ。だが、人の命は神仏が与えてくれた掛け替えのないもの、自分勝手に断つことなど許されるわけがない。あなたはこの子を産む運命にあった。この子もまた、後の世に光をさす役目を担っておる。この子の目を御覧なさい。光り輝いておる。そのことを母親に訴えようと、口元を必死に動かしているではないか」
 千代は和尚の言葉をただうつむいて聞いていた。
「愚僧にこの赤ん坊を預けなされ。あなたは庫裏で働きながら子供の成長を見守っていればいい。ただ一つ、あなたの命が果てるまで、けっして自分が母親であることを名乗ってはならぬ。それが約束できるなら、愚僧もこの子をりっぱな僧に育てましょう」
「和尚さまのおっしゃるとおりにいたします。最後にもう一度だけこの子を抱かせてください」写真は、霰川(広川)
 和尚が本堂を出て行った後、千代は力いっぱい赤ん坊を抱きしめた。
「母が弱いばかりに苦労をかけます。これからは和尚さまがあなたのお父上だと思って大きくなるのですよ。もしもあなたに危険が迫ったら、私は身を呈して守ります。私にできることはそれだけです」
 母は柔らかい我が子の頬を撫でながら心行くまで泣いた。

宗の国で修行

 元琳和尚は、預かった赤ん坊に「口光」と名づけた。一目見たとき、体中から光り輝くものを感じたことが命名のもとになった。7歳になると小僧として認め、人としてのや仏教のイロハを教えた。その頃には早くもあの法華経を丸暗記するほどだったという。口光の成人を見届けた和尚は、名を「栄尊」と改めさせ、かつていっしょに学んだ聖一(しょういっ)国師に従わせて宋の国に留学させることにした。
「あなたは愚僧との約束を守って栄尊に母と名乗らなかった。だが、あの子が海の向こうに行けばいつ帰れるかわからない。遠慮は要らぬ、大きくなった我が子を抱きしめてあげなされ」
 元琳和尚は、千代に母子の名乗りを許した。だが、千代はきっぱりと断った。
「今のままで充分幸せでございます。もし今、私が母と名乗ったら、あの子の心は揺るぎましょう。そうしたらせっかく高い教えを得ようと旅たつ気持ちに歪みが生じます」と。


永勝寺(久留米市)


 元琳和尚は栄尊に対して出立前夜、「おまえは川下の大善寺で生まれた」とだけ告げた。永勝寺の山門を下りていく我が子の後姿を、千代はいつまでも見送っていた。

出世を見届けて

宋の高僧無準和尚のもとで仏教の奥義を修得した栄尊は、帰国すると真っ先に耳納の山裾にある永勝寺に駆け込んだ。勉強の成果を元琳に報告するためであった。だが、そこに元琳和尚の姿はなく、庫裏で働く老婆がひとり栄尊を出迎えた。
「お帰りなさいませ。よくぞ頑張りました。ご住職は昨年風邪をこじらせてあっという間に旅たたれました。亡くなる間際まであなたのことを心配なさっておられました」
 老婆は、着物の袖口で腫れあがった目頭を抑えたまま、それだけ告げるのが精一杯の様子だった。
 栄尊は元琳への思慕を胸に秘めたまま再び長の旅に出た。宋で得た学問を実践に照らし合わせるための全国行脚であった。行脚は一年、二年と続き、再び耳納の麓に戻ってきたときは、庫裏にいるはずの老婆の姿も既になかった。
 ふるさとに帰り着くとまず、生まれ故郷の大善寺を訪れた。彼はその地に善男善女が集って悩みを打ち明けあう禅寺を開いた。その寺が現在も残る夜明山(よあけざん)朝日寺である。その後も栄尊は、生涯をかけて各地に次々と禅寺を開いた。そんな栄尊の活躍は都の天皇の耳にも入り、彼に「神子」の称号を贈った。
 称号をいただいた4年後の文永9年(1272)12月28日、禅師栄尊は78歳の生涯に終止符をうった。(完)

神子禅師栄尊が開山したと伝えられる朝日寺を訪れたのは、秋も深まった小春日和の午後であった。山門そばの大楠が開山から750年の時の流れを教えてくれる。応対に出た若いご住職は、開祖栄尊の坐像を前に寺の歴史や藤吉種継とその娘の伝記など親切に話してくれた。鎌倉時代の作といわれる栄尊像は、人の心を包み込むというよりは、弱者に対して強くなれと励ます眼光で僕を睨んでいるように見えた。

朝日寺経緯:夜明山朝日寺と言う。寛元3(1245)年に、神子栄尊禅師が開いた臨済宗妙心寺派の禅寺である。神子は諱(いみな)を口光、字を栄尊と称す。開山より3世で法統(教法の伝わる系統)は絶えたが、元禄年間に中興した。

木造神子栄尊坐像:像高は110cm・座高は75cm・桧材の寄木造り。丸い頭に、玉眼を入れ、頬骨を高く、枯れたなかに強い意志力を表現している。両手は膝におき、右手に如意を持つ。

観音堂:筑後国三三ヶ所霊場の第20番札所。天明3(1783)年建立。ここには不空羂索(ふくうけんさく)観音を中心に、右手に聖観音、左手に十一面観音を安置している。いずれの座高も2メートルを超える。

般若泉(はんにゃせん):延宝年間に掘られた、石を畳んだ井戸。

大善寺の町名:町の名称は1300年も前に開かれた寺の名前からきている。白鳳元(672)年、高良神社に付属する寺として安泰という高僧が高法寺を開き、延暦年間(782〜806年)に大善寺と改称したもの。その由緒ある大善寺も、明治維新時の神仏分離令によって廃寺となり、ご本尊はすぐ近くの妙覚寺に移された。

永勝寺(えいしょうじ)

耳納連山の麓に建つ。(久留米市山本町)
創建は天武天皇9年(680年)
紅葉の名所

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