伝説紀行 平知盛の墓 久留米市(田主丸町)
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
身代わりに身代わりが 平知盛の墓 福岡県久留米市(田主丸)
JR久大線(久留米−大分)の筑後草野駅を降りて南へ。前方を遮る耳納連山に向かって柿畑を登っていくと、「平神社」と称する小さなお宮さんが見えてくる。奥まった場所には2基の石塔が建っていて、「平知盛の墓」と書いてあった。 死んだはずの知盛が 時代は、壇ノ浦合戦で源平の戦いに決着がつき、源氏が勝利して鎌倉幕府が開かれた頃のこと。今から820年以上もむかしのことである。筑後の吉木(久留米市草野)に向かう数十人の武装した公達集団があった。平清盛を父に、高倉幼帝の母建礼門院を妹に持つ平知盛(たいらのとももり)とその一党であった。中には女房や子供の姿も見える。
一行が筑後川を渡り終えて中尾の里まで行き着いたところに、草野の竹井城に遣わしていた家臣が駆け込んできた。
平家再興のため身代わりに 案の定、数百騎とも見える武装集団が砂埃(すなぼこり)を巻き上げながら迫ってきた。
「知盛さまともあろうお人が、この期に及んで戯言をおっしゃいますな。壇ノ浦で貴方さまの身代わりをたててここまで落ち延びたは、いったい何のためか。すべてはいつの日か平家再興を念じてのことではありませぬか。貴方さまは平家再興を果たす為に欠かせぬお方でございますぞ。それから、女子供も逃がさなければなりません。平家の未来を繋ぐ役目を担ってもらうためです」 逃げた女子供で子孫繁栄 知盛と妻子らを遠ざけた伊賀兵内は、迫ってきた合原外記の馬前に立ち塞がった。
そして伊賀平内の妻子と数人の家族は、険しい耳納山を越えて福島の今山(現八女市今山・筑後市との境付近)に落ち延びたとのこと。「服部」と姓を変えた彼女らは、時間をかけてその土地に馴染み、子孫を繁栄させたという。その服部さんらは、800年経過した今も、時々中尾の里の平知盛の墓にお参りされていると聞いたのだが。(完) 富有柿畑の中の「知盛の墓」は、威風堂々天を突いていた。「平家物語はこの場所にもあった」と実感させられる。目の前の耳納山は、雨上がりのせいもあってまるで墨絵を観ているよう。落人伝説にはうってつけの、大自然が織りなす演出ではある。 |