◇はじめの一歩から◇
思い出せるかな(?!)印象記 あの頃の旅体験 その@

    生まれて初めての海外旅行は此処だった
 ギリシア・スイスの旅 
互助組合主催・大所帯40人のパックツアー 18日間〈1985年8月6日〜
はじめに…初の海外アップから15年遡ることになります。最初の旅体験から振り返ってと思います。 
 最近は1年に何度か海外を訪れることができるようになりました。当たり前ですが、こんなことができるようになったのは、退職してからです。退職前、3年生の担任をした年度とか、退職の年とかは海外旅行は控えていました。子供の大学受験とかの年も、気持ちの問題で海外は控えました。
 このサイトの冒頭にも書いていますが、個人のWebページを作成し出したのは、「情報」の授業を持つようになったことと繋がっています。その時期がこの「旅の印象記」の開始時期ということになります。印象記「その1」は2000年に始まっています。海外旅行事始めは1985年ですから約15年のズレがあります。最近教え子や友人から、「プラハやウィーンは行かれました?」とか聞かれると、「行ったけどだいぶ前だしなぁ」と言いつつも、その時の体験談は「Webサイトを見て下さい」とは言えないことになります。
 前々から気になっていたのですが、このブランクを埋めたいなぁと思うようになりました。新鮮な印象記ではないのですが、時間が経ってからの印象記も悪くないかも…と思っています。
 実は、個人史年表を眺めてみると、最初の頃は、3年に1度くらいのペースしか許されなかったので、回数的にはそんなに多くはありません。先に書いておくと、
85年―ギリシア・スイス。ここがスタートです。
88年―フランス・スイス・オーストリア・ポーランド・東西ドイツ。初めての個人旅行です。メインはアウシュビッツ訪問でした。
91年―チェコスロバキア・ドイツ・スイス。この時が初めての家族全員旅行です(西矢の母と私達・子供)。
92年―シンガポール。初めてのリフレッシュ休暇活用です。
97年―ポーランド・イタリア。88年に知り合ったポーランドの友人宅に泊めて貰うことから出発した旅です。
98年―カンボジア(従姉と一緒のパック)・中国(弘志と妙さんのみ。パックで) 。
99年―スペイン・モロッコ・ポルトガル→ここからWebサイトにアップしています。
これ以外に三上単独で合州国の西海岸(93年)、東海岸(97年)に行っていますが、それは更に後に思い出すことにします。

 カメラの進歩とかは凄いですが、その頃のデーターはフィルムカメラで、紙の写真しかありませんから残念ですが仕方ありません。DATAは旅MEMOとアルバムですが、それなりに思い出せそうです。
 
大阪府教職員互助組合の抽選から全ては始まった
 三上は、あれこれと忙しい時期で、海外旅行等には全く興味も関心もありませんでした。
 その頃は今ほど海外旅行は一般的でなく、互助組合で募る海外のパックツアーにもかなりの補助金が出ていました(その後、研修とは言え支援金を出すことに批判が高まり、減額が続き、今は数万円程度です)。ですから、申し込みも多く、もちろん抽選で当たればラッキーということでした。
 申込みを提案したのは西矢でした。行き先は今から思えば変な取り合わせですが、ギリシア+スイスなのです。「世界史を教えているならギリシアは行きたいのでは?」「スイスアルプスは元ワンゲルとしては行ってみたいのでは?」と誘われたのです。三上も少し興味がありましたが、直ぐに行きたい訳でもありませんでした。なら、ということで、「抽選で当たるかどうかも判らないから、申し込んで二人とも当たれば行こう、どちらか一人なら辞退しよう」ということで、まぁそれなら確率も低いだろうから、申し込んでみようということになりました。
 倍率とかも知りませんでしたが、何と結果は二人とも当選だったのです。 ここでアウトなら、僕達の人生は相当変わっていたかも知れません。現に、誰かの辞退を期待して説明会に来られていたカップル(一人当選)も居られました。結局40人の参加者で夫婦での参加は私達以外に2組でした。
  リピーターの方も居られるようで、説明会でホテルのグレードとかを聞く人とかもありましたが、僕らにはよく解らない専門用語が飛び交っていたようです。主催が互助組合ですから、参加メンバーは小中高の教職員、教育委員会の方でした。それに幼稚園の先生とかも。出発するまでどんなメンバーかはわからないままでした。伊丹空港で部屋をとってくれて顔合わせをしました。
 
まだ関空は開港していないので、成田から。かかった時間はなんと33時間。
 しかも、当時はまだ冷戦の時代ですから、シベリア上空を飛ぶなんてあり得ないので、成田からアンカレッジ経由でヨーロッパに向かいます。北極圏経由です。
 ギリシアへは直行便がなく、アンカレッジからロンドン経由で、更にローマ経由なのです。何かのトラブルで、それさえもスムーズに行かず、我が団は二班に分かれてアテネに到着する羽目に。ですから、伊丹を出てからアテネに着くまでの所要時間は33時間となるわけです。アテネに無事ランディングした時、拍手が沸いたことを覚えています。
  
全員集合です。添乗員さんも含めて39人の大所帯 ▲アンカレッジの白クマ ▲アテネに着いて、ホッと一息

前半はギリシアですが、半分以上はエーゲ海クルーズというパックでした
 前半の訪問先はギリシアで、アテネと言えばパルテノン神殿ですから、その辺りからスタートしますが、西欧文明の原点みたいなところですから凄い人出でした。
 ただ、ギリシアでの旅の半分以上は豪華客船でのエーゲ海クルーズでした。ヨーロッパ系の参加者も多く、その頃はアジア系は日本人くらいで、船内アナウンスも日本語がありました。3泊4日でエーゲ海を廻り、もちろん宿泊は船内、食事もすべて船内。しかも相当豪華な食事が待っていました。船内では連日ディナーショーが行われ、食事も甲板上での場合もありました。ヨーロッパでも比較的北部の人々は体を焼くのが好きですから、プールもあるし、その周りのデッキで焼きながらのんびり過ごす人も多かったです。
 正味2日目には、アテネのピレウス港を出て早速ミコノス島へ着きました。 
   
パルテノン神殿の前で 正面のリカベトスの丘    
   
早速ミコノス島へ到着 島から戻る頃には、夕暮れ。私達の豪華客船コンステレーション号。    
 
ミコノス島から、ロードス島・クレタ島・サントリーニ島と、有名な島々を巡る
 有名なロードス島は相当な広さで島内をバスで巡るくらいでした。ランチボックスで昼食をとり、午後には海水浴もできました。途中でレモンの木の下の喫茶店があり、子供達がウェーターをしてくれました。
 クレタ島は古代遺跡として有名なクノッソス宮殿がある島です。サントリーニ島は鋭くえぐり取られたような形状で成立ちには色々な説がある島でした。  

ロードス島のゲートにある鹿の像 レモンの木の店で ロードス島で海水浴

今日も豪華な夕食 船長主催のディナーショー クレタ島クノッソス宮殿

甲板のデッキで サントリーニ島遠景 最後の夜はギリシャの夕

再びアテネ市内を探訪
 船に乗ってから4日目の朝、港に戻り、バスでアテネ市内見学でしたが、一行とは離れて自由に散策しました。本家のオリンピックスタジアムで走ってみたりもしました。
 ガイドブックで見つけたダフニ修道院へ路線バスを使って向かいましたが、あまり上手く行かずUターンしたりしました。しかもガイドブックの間違いで、扉は閉められていました。横にあったオープンの喫茶コーナーではスイカも食べられました。
 夜には、頑張ってコンサートのチケットを入手、パルテノン神殿の下の野外コンサート会場という贅沢でした。
 翌日は左翼政権のパパンドレウ首相の属する社会党中央本部へ行くことにしました。道を尋ねても、この政権の評価をまくしたてる人がいたりして、結構手間取りましたが、大学生とかには英語が通じ何とか辿り着けました。ただ、何しに来たかというと、不鮮明で、ここでは語学力の無さを痛感しました。

オリンピックスタジアムで走る ▲ダフニ修道院横のタベルナで ▲コンサート会場

 
▲パルテノン神殿下のコンサート会場で 社会党本部を訪問。英語版のパンフレットとかを頂く。

 


後半はスイス。ルッツェルンからスタート。昼前にはグリンデルワルド到着
 ギリシアでは正味6日間過ごしたことになりますが、アテネからスイスの玄関口とも言えるルツェルンへ飛行機で移動しました。
 スイスに入った途端に、洗練された雰囲気になったように思われました。ルッツェルンでは瀕死のライオン像やカペル橋を大急ぎで見学し、登山電車でその日の昼過ぎにはグリンデルワルドに着いていました。

 随分悩んだのですが、スイスではトレッキングができそうなので、軽量の登山靴を持参しました。この日は着後直ぐユングフラウヨッホへ向かいました。そして、クライネシャイデックで登山電車を乗り換えますが、帰りはここからメンリッヘンまでのプロムナードを楽しむことを添乗員さんに許してもらえました。
 ヨーロッパの夏は日が長いので、クライネシャイデックから歩き始めたのは5時半頃だったと思います。1時間半ほどほぼ平坦な道を谷筋から聞こえるカウベルを聞きながら、高山植物をめでつつ、歩きました。メンリッヘンからロープウェイがあり、そこからグリンデルワルドへ下れば問題なし!のはずでした。ところが、7時前に着いたらまだ十分明るいのに、ロープウェイは本日の営業終了!になっていました。係員に聞いたら、ここにホテルもあるので泊っていったら?とか、最後にスタッフも降りる便があるから、少し後になるけどそれに乗るかい?と仰る。そんな訳にはいかないのです。
 幸か不幸か、メンリッヘンからグリンデルワルドはストンと見えるのです。まぁ足回りも一応登山靴だし、歩いてみるか!?ということになりました。ところが歩いても歩いても、町は近付いてくれないのです。お花畑を大胆に下るので贅沢なのですが、放牧されている牛さんが怒って追いかけて来たりします。尤も牛さんは怒ったのではなく単に運動だったみたいですが。 幸いその辺の農家の親子が車で通りかかり、乗せて貰えました。でもご自宅までのことで、そこからでも相当距離はありました。
 もちろん、遠くても歩けば着くわけですから、暗くなってきていましたが、グリンデルワルドのホテルに到着。心配してくれていた(はず?)メンバーの下に駆け付けました。添乗員さんは心配この上なかったのではないかと思います。因みにホテルに着いたのは午後9時半頃でした。スイス初日から思い出深い体験になりました。

ルツェルンの瀕死のライオン カペル橋 グリンデルワルドに到着

クライネシャイデックのホルン演奏 メンリッヘンで 途中乗せて貰った農家の前で
 
アンデルマットから氷河特急でツェルマットへ
 翌日はブリエンツ湖畔で木彫製品を見て、サステン峠でコーヒータイムを楽しんで順調だったのですが、峠の下りでバスの炎上事故に遭遇。消火活動が終わるまで待つしかありませんでした。こういう時は添乗員さんも大変で、レストランでのランチがランチボックスに変更になり、駅で皆で食べることになりました。氷河特急に乗ってツェルマットに着いたのは5時頃でした。
 翌朝は憧れのゴルナグラードへ向かいました。何と言ってもここからのマッターホルンの眺めは最高ですから期待に胸膨らみました。残念ながら、雲に覆われがちでしたが、時折なんとかピークまで見えました。途中駅で降りて、逆さマッターホルンを見て、また登山電車に乗りました。ここは計画通りで、皆で歩きましたが、添乗員の和田さんが熱狂的な阪神ファンなので六甲おろしを歌いながらのハイキングでした。
 ツエルマットに戻ってホテルで昼食、午後は自由行動だったので、ロープウェイに乗ってシュワルツ湖へ行き、マッターホルンの右側へ下りる道を選びました。途中ツムットというひなびた村で喉をうろおしました。ここで東京の高校教員から個人旅行のハウツーを教えて貰いました。
 夜は早目だったので、ホテル内のレストランでメンバーの順ちゃんがクレイダーマンをピアノ演奏したり、ダンスしたりとゆっくり過ごしました。

峠を越えたら、バス炎上に遭遇 消火活動を見守る ゴルナグラード

リュッフェル湖 ツェルマット シュワルツ湖付近からマッターホルン ツムットで喫茶
 
旅も終盤、最後の名峰モンブランへ。そしてジュネーブ
 ツェルマットを電車で出て、乗り継ぎながらシャモニに着いたのが午後1時頃でした。ここから空中ケーブルとかを使い、イレーギュ・ド・ミディへ到着。急に高度が上がるため、高山病にかかる人が多いようでした。頂上へはケーブルを待たねばならず、長蛇の列でそれだけで疲れてしまいました。夕方、最後の宿泊地ジュネーブに着きました。
 翌日はヨーロッパ最後の日でしたが、フリーな1日でした。色々考えましたが、有名なシオン城へは少し遠いので、ジュネーブからは隣町のようなニヨン城というのがあり、そこへ向かうことにしました。電車に乗ってみるのも面白そうでした。二人の若い女性教員とご一緒することになりました。ローマ時代にカエサルがやって来たところはあまたあるのですが、その一つで色々な遺跡が残っているようです。
 午後はレンタサイクルを借りて、ジュネーブ市内を散策しました。ジュネーブは国際連盟の本部があった所ですから、今も国連のヨーロッパ本部があります。ガイドさんは英語なので、目が合ったりすると大変でした。
最後の夜はやはり、フォンデュ鍋で締めくくられました。
 当初の企画と少しずつ変化したのですが、帰りは南周りで、カラチとかで外に出ないで給油、その間冷房がとまるのできつかったです。朝方にバンコックに着き、日本への飛行機は夜10時過ぎに出発なので、ホテルが用意されました。元気な人は街に出かけたみたいですが、僕達はウトウトしていたら夕方になっていました。夕食は久しぶりの中華料理でした。
 朝6時頃に成田、9時頃には無事伊丹に着いていました。往きも還りも結構な時間を要する旅だったことになりますが、満足でした。

▲モンブランのイレーギュ・ド・ミディ ▲ニヨンのカエサルの銅像 ニヨンのレストラン

国連ヨーロッパ本部の見学 レマン湖の巨大噴水 おまけのバンコク、ホテル前
 
夏休み、思わぬ18日間の長旅。10人くらいの若者層とは気が合って、その後の付き合いも続く。
 この時のパックツアーに不満があった訳ではないのですが、自由度からすれば、やはり旅は個人旅行に限る、と痛感。旅先で日本人を見たら、ハウツーを尋ねて、次に備えた次第です。ここを原点に色々な可能性が開けました。
 特にエーゲ海クルーズは英語圏の人もいっぱいだったので、その気になれば語学習得のチャンスだったと思うとチョッともったいなかったかな、と痛感。いずれにしても昔得意だったはず(笑)の英語の勉強を少しはするようになりました。
 クル−ズから上った頃、例の御巣鷹山の日航機墜落のニュースがアテネの街にも届いていました。ですから不謹慎かもしれませんが、御巣鷹に慰霊の訪問をされるニュースの何周年は僕達の海外旅行開始何周年に重なります。
 はじめにも書いたのですが、支援金が出た最後の互助組合パックツアーですが、何とその金額は一人20万円でした。二人で参加できましたから、凄い金額を支援されたことになりますネ。因みに価格は20万円を差し引いて48万円程でした。ただ、為替レートは1ドル=約240円でしたから、隔世の感があります。
 




Copyright © 2013 MIKAMI HIROSHI