◇はじめの一歩から◇
思い出せるかな(?!)印象記 あの頃の旅体験 そのD

   6年振りのヨーロッパ 東欧から南欧へ
 ワルシャワ・ドイツ・イタリアの旅 
9年前ワルシャワで知り合った青年宅に宿泊 足かけ20日間〈1997年7月17日〜
はじめに…6年振りになってしまいましたが、3人旅で再びヨーロッパへ 
 1991年に、ヨーロッパへの家族旅行に出かけてから、少し間をおくことになりましたが、1997年にイタリアを目指すことになりました。この間も、短いシンガポールの旅(1992年リフレッシュ休暇活用)、三上単独での合州国西海岸の旅(1993年度3学期末)はありましたが、夫婦と西矢の母の少し長めの旅は久し振りになりました。
 三上が毎年世界史を教えるようになったこともあり、次はイタリアへ行きたいなぁということになり、初めての個人旅行でワルシャワで知り合ったポール君との文通で、「是非こちらへ来て下さい」と言ってくれていることもあり(彼が考えている程私達にとって海外旅行は簡単ではないのですが)、この両方をセットすることにしました。
 ですから、今回はワルシャワinローマoutということになります。更に、近くのピアノ教室で頑張っておられる北村智恵先生が世話されたポーランド人のカタジーナさんへの出産祝いをワルシャワへ届けるというミッションも加わりました。
先ずは、ポールの職場の学校へ見学に、そして旧市街とかへ出向きました
 この頃は航空券の価格は夏休みに入ると随分高くなる設定でした。三上は3年間担任を持って上がり、この年は、総務部長でしたが担任はなかったし、西矢も担任はなかったので、終業式に居なくても何とかなるという判断で、20日が日曜だということもあり、17日に学校へ行ってから関空を発つという大胆なプランでした。ミュンヘン乗り換えで60人乗りくらいの小型機でワルシャワに着き、ポールの出迎えを受け、彼のアパートへタクシーで直行しました。私達3人に1室を提供してくれたので、助かりました。
 大きな団地で、窓からは池越しにポールの職場の学校が見えるという職住接近そのものでした。着いた翌日、早速その学校を訪問しました。夏休みですから人は殆ど居ませんでしたが、理科室には少し年輩の女の先生が居られそこへ案内されました。
 
ポールの部屋から見える池と彼の小学校 ▲ポールの学校のエントランス  
 
案内された理科室。動植物がいっぱい ▲理科室でポールと  
ポールと一緒に、ワルシャワ旧市街や史跡を巡る
 その後、ヴィラノフ宮殿や旧市街、美しい公園に案内してもらいました。ワルシャワは色々な国に侵略された歴史を持ち、先の大戦でも破壊し尽くされたこともあり、見所は色々ありました。
 
ヴィラノフ宮殿 ヴィラノフ宮殿の庭園で ワルシャワ大学の正門  
   
大戦直後の旧市街 ▲市民の手で復興された今の旧市街    
   
バルバカン門 ワルシャワ蜂起のモニュメント    
   
ワジェンキ公園のショパン像 ポール宅で美味しかった夕食    
雨の中、ショパンの生家へ。
 先に書いたカタジーナさんに無事会うことができ、北村さんから預かった誕生祝いのプレゼントを手渡しました。彼女は日本語が堪能で、卒論に沖縄のことを書いたそうで、そのための渡日だったようです。
  午後はショパンの生家を訪ねました。ワルシャワから鉄道で1時間少々、バスで向かいますが、雨脚はきつくなっていました。
 最初の計画ではクラコフで一泊する予定でしたが、歴史的な大洪水で南部を回るのは諦めて、ワルシャワから夜行列車で直接ベルリンへ向かいました。   

 
カタジーナさんのご家族に会う ショパン生家の庭 ショパン生家入口前  

 

 
ポール一家と 愛娘アンナちゃんに日本の絵本を読む(?)    
壁がなくなったベルリンへ。梶村さんに見学地を教えて貰う
 夜行でベルリンに到着。ここからユーレイルパスの使用開始でスタンプを押して貰う。Zoo駅近くでホテルを確保し、壁の無くなったブランデンブルグ門を往復。壁の博物館までできていました。雨が激しく寒いくらいでした。
 午後は前回行けなかった旧東ベルリンのペルガモン博物館へ。西アジアの色々な展示なのですが、後発帝国主義国だったドイツの略奪の戦利品みたいなものでしょうか。それにしても、よくこれだけ持った帰って来たなぁと驚くくらいで、博物館の中に持ち帰った建物が造られていました。
 翌日は月曜日で博物館の類は休館が多く、在住の梶村さんに電話して、こういう日にお薦めは?と聞いてみました。その結果、日本人はポツダムに興味があるだろう、休みでもホテルは開いてるからどうか。サン・スー・シー宮殿も休みだけど庭とか広いからいいのでは。最後にヴァンゼー会議の家は行っとくといい。休館じゃないし、ユダヤ人絶滅を決めた会議が開かれた所で、今、博物館として保存されている、ということでした。
 このアドバイスに沿って、電車やバスを乗り継いで探訪しました。さすがベルリン在住の長い梶村さん、それぞれになかなか面白い探索地でした。ベルリンに戻って来て、クーダム通りで梶村さん父子と落ち合い、僕達行き付けのマルシェというセルフレストランで夕食を食べながら色々話を聞きました。

 ここから、 また夜行で、ミュンヘンへ向かいました。ミュンヘンは乗り継ぎだけでしたが到着も次のベローナ行きも2時間遅れでしたが、珍しく昼に国境越えをしたことになります。

 
▲どこにも壁は無くなったブランデンブルグ門 ▲ペルガモン博物館の外観  

 
▲ペルガモン博物館の内部 ▲建物の中に建物がある博物館

 

 
▲ポツダム宣言の会議が行われたホテル ▲サンスーシー宮殿(休館で中には入れず)

 

 
▲ヴァンゼー会議の家の門(インターホーンで呼ぶ) ▲ユダヤ人抹殺決定の会議の部屋と出席者一覧

 

 
▲梶村父子とマルシェで夕食 ▲オーストリアとイタリアの国境表示

 

愈々、イタリアへ。先ずはベローナ、街はオペラファンでいっぱいでした。ミラノへ往復も。
 愈々、今回の旅のメイン、イタリアに踏み入れ、最初の訪問都市はベローナ。ところが、ホテル探しにこんなに困ったのは初めてでした。事前学習が不十分で、後でわかったことですがベローナは、このシーズン、オペラファンが駆け付ける町でホテルはその為に混んでいるのです。どの国でも夏休みでオペラもお休みなのですが、ベローナにはローマ時代からのアリーナがあり、そこで連日オペラが上演されるのです。それなら私達も、とチケットを求めましたが、当日の「アイーダ」は完売、幸い翌日の「マダム・バタフライ」が取れました。
 この町は、それだけでなく見所も多く、イタリアの観光地にしては静かな佇まいでした。古くからの交易地であったので、豪商みたいな旧家の家々が並んでいます。有名な「ロミオとジュリエット」のジュリエットの家には多くの人だかりがありました。
 話が前後しますが、ホテル探しは突っ込みスタイルではダメで、最後にインフォメーションで聞いてみたら、遠い所しかダメだったのですが、少し待ったら意外にもオペラ会場のアリーナのすぐ横のホテル、ボローニャが何とか取れました。翌日も別の部屋に移動でしたが宿泊OKになり、ホッとしました。
 余裕が出来たので、次の日はミラノへ鉄道で往復できました。ミラノでのお目当ては、サンタ・マリア・デル・グラッツェ教会の「最後の晩餐」。市電で行って歩いて10分くらいでした。入場制限をしていて、待たされましたが、この絵のある元食堂では、ゆったり観賞できました。
  歩いて15分くらいでドゥオーモに到着。ただ、短パン姿では入場できず、三上は待ちぼうけになりました。その前のガレリアは壮大でそこを通り抜けるとオペラ座で、広場(ここにレオナルド・ダ・ビンチの像)、その先にブレラ美術館があり、そこは美術学校でもあり、学生も居ましたが、私達も自由にウロウロできました。
 再びミラノ駅から1時間半ほど列車に乗り、ベローナに戻り、バスでホテルのあるブラ広場に着きました。ホテルでシャワーを浴び、その後、エルベ広場やジュリエットの家を探索。アリーナの近くのブラ広場にブレックというセルフレストランがあり、ここならメニューなしでも、現物を持ってレジで並べばいいので大変好都合でした。そして夜9時15分に前記のオペラが始まりました。終了は12時半でした。近くに居た一団はドイツからバスで来ていて、そのまま帰ると言っていました。
 

 

遂にイタリアへ。ベローナの入口 ベローナのシニョーリ広場。ダンテ像  

 
ミラノのガレリア 最後の晩餐(まだ修復中でした)  

 
ミラノ大聖堂ドウォーモ レオナルド・ダ・ビンチ像  

 
ベローナのセルフレストラン・ブレック ジュリエットの家  

 
オペラ「蝶々夫人」の会場、上から 野外オペラの会場、翌日  
1時間半でヴェネツィアへ。翌日はガラス細工のムラーノ島へも
 列車に乗って1時間半、ヴェネツィアに到着。ここは駅近くで簡単にホテルを取れホッとしました。直ぐに運河を走る小型船に乗って、サン・マルコ広場へ。ドゥカーレ宮殿の博物館を見学。ここは宗教施設でも王宮でもなく、市民の共同体の施設なので、趣が違っていて面白い雰囲気でした。
 この広場の周辺で西矢母子がショッピングの間、三上はサンマルコ広場のオープンカフェでゆったりスモーキングタイムを楽しめました。その後、リアルト橋のすぐ下の運河沿いのセルフレストランで夕食。ここも色々選べて満腹でした。
 次の日は大運河(街の外側を航行)の大きな船で、島全体が教会になっている所を経由して、サンマルコ広場へ。塔から眺望を味わい、その後、ヴェネツィアングラスのムラーノ島へ。当たり前ですが実演をじっくり鑑賞。再び船でサンマルコ寺院周辺へ戻り、歩いてセイント・ロッコ信者会の教会に着いたのですが閉っていて、チョッと休憩したら、置き引きに遭ってしまいました。カードを止めるとか色々初体験で大変でしたが、まぁ被害は最小限で止められたようです。  

 

ヴェネツィア駅前の運河 何度も渡ったスカルッツィ橋  

 

 
屋根付きのレアルト橋 ドゥカーレ宮殿    

 

 
サンマルコ広場でスモーキングタイム 大運河からサンマルコ寺院    

 

 
島全体がサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会 溜息橋    

 
サン・マルコ寺院正面 ムラーノ島に渡り、ガラス工房  ▲有名人が通ったカフェ・フローリアン  
フィレンツェは見所いっぱいで、ウフィッツ美術館も駆け足。ピサへも電車で往復
 ユーロスターで3時間弱、フィレンツェに到着。ユーレイルパスで乗れるのですが、追加料金をとられます。いまいち仕組みが良く解りませんが、快適ではあります。
 駅前でホテルは取れたのですが、オフィスを改造したもので殺風景でした。メディチ家関係の建造物がたくさんありますが、ドゥオモは、壮大で、横のジオットの鐘楼へは420段の階段を登りましたがその甲斐あって全方位の眺望でした。
 ウフィッツ美術館は長蛇の列で、明日にまわし、ヴェッキオ宮、ピッティ宮、ボーボリ庭園とかを見て回りました。
 次の日、早朝から45分、開館前に並び、ウフィッツ美術館に入れました。とにかく著名な作品がいっぱいなので、午後の予定もあるので、大急ぎで鑑賞。

 午後はローカス線でピサを往復しました。片道1時間でした。バスでドゥオモや斜塔のあるゾーンに着きました。斜塔は修復中で立ち入りはできませんでした。帰りは街並みを見学しながら鉄道駅まで歩きました。

▲ドゥオモ(花の聖母教会) ▲サン・ジョバンニ洗礼堂 ▲ジオットから鉄道駅方面

▲フィレンツェ中心部を見る ▲市政庁前のダビデ像

▲Hエリナのエレベータ

▲ピサの入口 ▲ピサの斜塔(支えている人?)

▲ピサの駅で自転車で乗り込む人達

一気にナポリへ。「ナポリを見て死ね」も解らないでもないか? ポンペイ遺跡へも
 早朝6時半過ぎに電車に飛び乗って、ローマを通過してナポリへ。駅前は人と車で凄い喧騒。止むなく(笑)三ツ星ホテルに泊る。直ぐにポンペイへ向かいましたが、駅がよく判らない上に、列車は遅れる、途中で止まる、結局ポンペイに着いたのは3時前でした。
 中学生の一団が、遺跡の入口まで案内してくれましたが、「ローマとか北の方は良くないだろう、ナポリが良い」と自慢げだったのが印象的でした。大阪人が東京嫌いなのと似ている? 相当広い遺跡でしたが、日射しを遮るものがなく、炎天下、2時間以上こってりと見学しました。
 次の日ナポリの町散策でしたが、渋滞も激しいので、歩いてカポデイモンテの丘へ登って行きました。そこには国立美術館があり色々な絵画が展示されていましたが撮影は禁止でした。歩いて街の暮らしを見ながら下って行きました。
 モンテサントのケーブルカーで高台に登ると、そこはナポリ湾とヴェスビオ山が見渡せる素晴らしい眺望でした。日本語の達者な人がいて、何かなと思ったら、カメオの彫り物の店に案内するためでした。悪くなかったので、お土産に幾つか買い求めました。
 再び平地に下りて、今度は海岸線をブラブラ歩くことにしました。幾つかのお城が残っていて、その周辺で結婚式をやったりしていました。
 ホテルに戻って、バゲージを取って、シチリア島行きの夜行を待ちました。
 

 
▲ナポリへ向かう列車 ▲ポンペイの円形劇場  

 
▲ポンペイの壁画 ▲炎天下、ポンペイの街路を歩く

 

 
▲番犬?のモザイク ▲円形劇場で休憩

 

▲ナポリのカポディモンテ美術館前 ▲モンテサントのケーブルカー

▲ナポリ湾が一望できるテラス

▲ヴェスビオ山とナポリ湾 ▲ヌォーヴォ城

▲ローヴォ城

列車で海峡を越え、シチリア島へ、南部のローマ遺跡まで。地中海で泳いだ
 夜の11時頃にナポリ駅を出発、パレルモに着いたのが朝8時40分でした。ここは、列車に乗ったまま、イタリア半島からシチリア島へ船で渡るという珍しい方式なので、ビックリしました。船に乗る時は車輛を切り離し、陸地に着いたらまた繋いで走り出すのです。
 シチリアは緑が少なく岩がちの光景が印象的でした。パレルモは大都市でしたが、植物園の傍のホテルが取れ、従業員用のような奥の方の部屋で結構いい感じの部屋でした。パレルモは遺跡等の閉まる時間が早くて戸惑いました。裏道に入ると小父さん達がゲームをしていて賑やかだったりしました。
 翌日、鉄道でアグリジェントに向かいました。ここには考古学博物館があり、更にバスで行くとローマ時代のコンコルディア神殿が残っていて多くの人が訪れていました。
 更に南へバスで下ったらそこは地中海のサンレオーネの海岸で、熱い砂を踏んで泳ぎに行ったりしました。

 アグリジェントの駅から、パレルモに戻り、夜8時に夜行列車でローマへ向かいました。

▲パレルモの民家 ▲ホテル横の植物園・パピルス ▲シチリア島の風景

▲テラモーネ ▲考古学博物館。前庭は劇場跡

▲コンコルディア神殿

 
▲サン・レオーネのビーチで泳いだ ▲ビーチの岩場で。ここは地中海

 

 
▲ローマへ戻る列車から ▲夜行列車から暮れなずむシチリア

 

最終訪問地のローマに3日間滞在、バチカンにも6時間
 翌朝8時半頃ローマに到着、丁度12時間かかったことになります。
 その頃、ローマの治安の悪さは話題になっていましたから、着いた途端に色々なものをタスキ掛けに持ち直したくらいです。案の定、駅を降りて、広場を通過する途中に子供達3人くらいがぶつかって来たのですが、被害はありませんでした。幸か不幸か、パトカーが街のあちこちに停まっていて、警戒態勢はきつそうで、3日間滞在中不安はありませんでした。そういう風評のためもあって少しレベルの高いホテルに泊まることにしました。
 1日目はホテルに荷物を置いて主な観光地を歩いて巡りました。帰りは疲れたので地下鉄、という風に便利でした。お決まりのスペイン階段から始まって、ピンチョの丘、ポポロ門、トレビの泉、コロンナ広場、カンピドリオの丘、市庁舎、フォロ・ロマーナ、コロッセオと巡って相当疲れました。
 ローマ2日目は、早くから開門を待ってカトリックの総本山的なサン・ピエトロ寺院へ。先ずは330段の階段を登ってクーポラに着き、360度のパノラマを堪能。システィーナ礼拝堂もギッシリ詰まっていても入替制で、凄い人でした。美術館も宝物館も教会も色々あり、カトリックの力を見せつけられる所でした。
 ただ、ここで土産を買うのにカードOKだし、床磨きは車でやっているし、自販機はあるし、何だか変な感じでした。中にあるカフェで休憩したりランチしたりして、午後2時頃には退出しました。
 サンタンジェロ宮を通ってナヴォーナ広場で休憩していて、韓国からの学生の一団と一緒になり、偶々横に座った教育大学生の金貞美と知り合いになりました。この後文通し、教員になった彼女と日韓を相互に訪問したり、付き合いが続くことになります。

▲シチリアから夜行でローマに着いて朝食 ▲上からのスペイン広場 ▲スペイン広場

 
▲ポポロ広場 向こうにバチカン市国 ▲トレビの泉

 

▲フォロ・ロマーナ ▲フォロ・ロマーナ奥の方

▲元老院

▲古代ローマ帝国の版図を示す地図 ▲真実の口

▲コロッセオ、地下室も

 
▲バチカン。サンピエトロ寺院 ▲サンピエトロの展望台から

 

 
▲サンタンジェロ宮殿と橋 ▲ナヴォーナ広場

 

 
▲金貞美と知り合う ▲毎日通ったローマのレストラン・ストレーガ

 

最終盤はカラカラ浴場と、その南部へ
 ローマ3日目は、中心部から少し離れているカラカラ浴場跡へ出かけました。9時開門なので待機し、人も少なくゆっくり回れましたが、凄い壮大な遺跡でした。地下鉄ピラミデ駅近くに非カトリック墓地があるので探して行きました。宗教的な色々の体験があってこその墓地、そこにグラムシの墓も発見。
  ここから相当な距離がありそうなので珍しくタクシーでアデルアティーネ洞窟へ向かいました。『世界人権の旅』で知ったのですが、イタリア降伏後も、ナチスはイタリア占領を画策し、イタリア人の虐殺を強行したらしく、その犠牲者の地下納骨所がありました。

 
▲カラカラ浴場跡 ▲モザイクの残骸が放置  

▲壁面の小さな絵 ▲床はモザイク ▲カラカラ近くのピラミデ

▲グラムシの墓

 
▲アデルアティーネ洞窟入口 ▲ナチスに殺害された人達の墓

 

今思えば、欲張りな旅でした。ヨーロッパ縦断とまではいきませんが、ワルシャワからシチリアまで
 帰りの航空便は朝7時発なので、空港近くのホテルに泊まるしかないかなと思っていたら、ローマのホテル・セントロのレセプションの人と話すうちに、早朝にタクシーを呼んで貰うのがいいな、ということになりました。まだ薄暗い4時50分にホテルを出ました。
 フランクフルトで乗り継ぎでしたが、待ち時間が5時間近くあり、少し退屈でしたがいつもの旅の整理で過ごし、翌朝8時前に関空に着きました(8月5日)。
 考えてみれば、欲張った旅でした。ワルシャワのポール宅から始まってシチリア島までヨーロッパ縦断とまではいきませんが、長旅になりました。
 この頃のイタリアはインフレの影響もあり、リラの値打ちが下がって、1リラ=0.1円程度でしたから、凄い換算になり一瞬ビックリする額になりました。千円が一万リラですからネ。物価はかなり安目だった印象でした。エアーチケット代は相当安くなっていて、空港使用料を別にして13.8万円/人で済んでいます。

 この旅では、関空が使えていますから、時間的には格段の節約ができています。
 【おまけの話】旅の最終盤ローマで、大変な鉄道事故が起こったようで、鉄道をよく使った僕達にとって危ういところでしたが、何とかすり抜けたようでした。8月2日に事故が発生したのですが、私達がローマに着いたのはその前日の1日でした。

 
▲帰ってから見たイタリア国鉄の事故の記事 ▲現地の新聞。写真が全く同じで驚く  




Copyright © 2013 MIKAMI HIROSHI