◇はじめの一歩から◇
思い出せるかな(?!)印象記 あの頃の旅体験 そのA

   初めての個人自由旅行
 仏・墺・波蘭・東西独逸の旅 
メインはアウシュビッツ訪問 足かけ20日間〈1988年7月20日〜
はじめに…初の海外旅行から3年、個人旅行へ。何より先ずアウシュビッツへの思いから 
 1985年に生まれて初めての海外旅行へ出かけ、結構魅力的な内容で、メンバー的にも恵まれたのですが、「パックツアーはもういいなぁ」というのが実感でした。パックではゆっくりしたいところで急がされ、飛ばしたいところで立ち止まらざるを得ない、そういうのが困るのですネ。
 その頃、頻繁には海外に出かけられるわけではないので、3年後を目指して、個人旅行を計画し始めました。前回、添乗員の和田さんに「世界でどこがお薦め?」と尋ねたら「個人の好みでしょうが、僕はドイツ語圏が好きですネ」とのこと。前回のスイスの東部もそうなのですが、本格的にドイツに行ったわけではありませんでした。
 それともう一つは、学生時代に、当時の人気の的だった羽仁五郎の代表作『都市の論理』に「アウシュビッツを見ずして現代を語れない」というようなことが書かれていたのが印象に残っていて、海外へ行くなら先ずここだと考えていました。
 ということになると、アウシュビッツ+ドイツが目的地になります。その頃までに研究も進んでいて、航空会社は大韓航空が割安、ヨーロッパで動くならユーレイルパスが便利、というようなことが知識としてありました。ただ大韓航空で直行便はありません。日程的に都合のいい日の便はパリに着くのです。となると、ついでにパリの観光をして、ユーレイルパスで移動して、ポーランドへ入り込み、そこからドイツを目指すことにしました。
 今と違って、ビザが要る国が多かったのですが、特に困ったのはポーランドと通過だけするのですがチェコスロバキアのビザです。フランスも要ったのですが、大阪の大林ビルにある領事館で取れます。この2カ国は東京の大使館でないと無理なのです。『地球の歩き方』によれば、「ウィーンでは取り易い」というのです。少し不安もありましたが、思い切ってウィーンで取ることにしました。
 ワルシャワ・ベルリン間だけは飛行機ですが、その他は鉄道です。ただ、ユーレイルパスはいわゆる共産圏では全く通用しませんが、仕方ありませんでした。ベルリンの壁が崩壊するのは概ね1年後の1989年11月ですから、色々と不便なことも多かったし、逆にだからこそできた経験もありました。
金浦空港からパリへ。現地で自由に選べる旅の面白さを痛感
 当時は格安チケットの代名詞となっていたのはDST〈ダイヤモンド・ステューデント・ツーリスト〉でした。そこでユーレイルパスも買えるし、おまけとして「トーマスクックの時刻表」も貰える、バックパッカーのメッカのようなところで、梅田の第3ビルにありました。もちろん、『地球の歩き方』も割引販売されていました。
 アウシュビッツを目指す身としては、付け足しのようなパリ→ウィーンだったのですが、初めてのヨーロッパ個人旅行ですから、いい経験になりました。旅慣れていませんから、重いザックを担いでウロウロするしんどさに気付かず、そんな恰好でセーヌ河畔を歩くのですからまだ若かったとしても直ぐに疲れました。
 パリに着く前に機内で声をかけてくれた日本人が、石垣忍さんという大阪の高校の教員でした。こちらも世界史の資料を読んでいたりしたので声をかけてくれたようですが、後で判ったことですが彼は『モロッコの恐竜』という本も出されていて、海外青年協力隊で3年間現地に居られ、久し振りにモロッコへ向かわれるところだったのです。空港で右も左も判らない身にとっては何となく心強かったです。
 パリの北駅のインフォメーションでホテル探しからスタートでしたが、のっけから困惑しました。初日はヴェルサイユ宮殿近くに泊る積りで此処という候補がありました。それはダメだと言うのでわけが解らなくなりました。要するにホテルを決めているのならインフォメーションに行く必要はないのです。よく考えるとそうなんですネ。だから、条件を提示してそれに見合うホテルを見つけるのがここの仕事なのです。その通りにしました。結果的にはなかなかいいホテルでした。ホテルに着いて、さぁ、夕食と思っても、6時過ぎなら店は開いていないんですネ。
 此処へ向かう前にノートルダム寺院とかを見学しましたが、時差もあり、体力的にも限界で、次の日の寝台列車の予約だけはできましたが、シャンゼリゼ通りなんて、とても無理でした。
 次の日は、ヴェルサイユ宮殿をゆっくり見て回り、奥の広大な庭園(王妃の村里と呼ぶ)をレンタサイクルで回ることもできました。  
 
セーヌ川の橋の上で休憩〈疲労困憊?〉 ▲翌日、ヴェルサイユ宮殿へ  
 
鏡の間で 宮殿の庭園の噴水 レンタサイクルで王妃の村里へ  
パリからウィーンへ直行するのももったいない、インスブルックで途中下車?
 ウィーンまでのどこで降りても良かったのですが、夜行列車でちょうど真ん中あたりで、冬季オリンピックでも有名なインスブルックを選びました。駅前のインフォメーションでホテル予約しましたがバスで少し山側に登ったバルコニー付きの眺望もいい静かなホテルで、朝食付きで一泊6600円と割安でした。昨日のパリでも同じような値段で、大体こんな感じで進みます。
 次の日は、近くの山をトレッキングして、旧市街にも足をのばし、夕方から駅前のチロリアンショーを見て、ウィーン行きの夜行列車に合わせて店を出ました。
   
パリからの列車。二人部屋でした インスブルックのホテル外観    
   
インスブルックのトレッキングコース インスブルック駅前のチロリアンショー    
 
ビザ取得に何日かかるか不安の中、ウィーン観光
 夜行列車でウィーンに着き、ホテルも日本で買って行ったホテルバウチャー(一泊一人6000円で選択可能)で取れたので、そこそこのものでした。問題は、チェコスロバキアとポーランドのビザ取得に何日かかるのかでした。うまく行けば申請の翌日に発給されるのですが、二つ重なるとどうなるかとか色々不安がありました。
 行列ができていたり、色々聞かれている人が居たり、それなりに時間をくったのですが、比較的スムーズに進み、結果的にはまる二日でビザはゲットできました。夜行で朝着いて、翌日また夜行に乗れたのでウィーンは一泊だけで終えました。二日目にビザ受け取りだったのですが、位置的に先にポーランドへ行ったら、通過するチェコスロバキアのビザを持って来いと言うので、西矢が待っている間に三上がチェコスロバキア大使館へ走って来るというようなスリリングなこともしました。
 ですから、ウィーンは市内の素晴らしい公園や聖ステファン寺院やシェーンブルン宮殿を見たくらいで、随分半端な訪問になりましたが、それは贅沢というものですネ。ゆっくりできなかったのはビザ取得がスムーズだった訳で、むしろラッキーでした。  

▲混み合うチェコスロバキア大使館 モーツアルトの銅像 ゲーテの銅像の前で シェーンブルン宮殿
愈々メインイベント!! ウィーンから二つ国境を越えてアウシュビッツのあるクラコフへ
 ウィーン発の夜行列車はその名もショパン号。名前はいいのですが、超長距離列車でモスクワまで行き、その間に色々な町を通るのでしょうが、ガタガタの車輌でした。それに、共産圏からの買い出しの人がたくさん乗っていて、満員なのです。夜8時に出発しますが、まだ明るく、徐々に夕闇が迫って来るのを窓外を眺めながら見ていました。
 困るのは、国境通過で叩き起こされることでした。オーストリアを越える時なんかは車掌さんがパスポートを預かってくれて、国境を越えたのを忘れるくらいでしたのに。しかも、オーストリアからチェコスロバキア、そこからポーランドと、出る時・入る時、2回検問があります。カメラを見せろとか色々仰るんですネ。検問の時は停車するから風も止まり暑いのです。止まっている間、猟犬みたいなのが、車輌の下とかを嗅いでいるのは不気味でもありました。〈こんな光景は怖くて写真には撮れていません〉
 そんな訳で、クラコフに着いた朝6時には眠くてボーっとしていました。
 駅前にインフォメーションがあるのですが、この頃は、ここでは英語は全く通じません。ロシア語かドイツ語、お手上げです。英語を話せる親切な紳士が通訳をしてくれて助かりました。駅から遠くない所にホテルを確保してから、アウシュビッツへ向かうことにしましたが、駅を降りた途端に「アウシュビッツ?15ドル」と声がかかります。こんな所に降り立つ日本人はアウシュビッツへ向かうに違いないので、タクシーの運転手が寄って来るのですが、誰も皆15ドルなのです。良心的そうな人を選ぶしかありませんでした。
 小一時間かかって、現地に着きますが、もちろん15ドルは往復ですから、運転手さんは待っていてくれます。その上、もう一つのビルケナウにも回ってくれます。クラコフに戻る直前にチップを1ドルだけ渡しましたが、凄い喜びようで却って申し訳ないくらいでした。
 少しは勉強して行きましたが、アウシュビッツは衝撃的でした。外を歩いていると炎天下でも涼しい風が吹いて、爽やかなのですが、部屋の中には色々な展示もあり、大戦中の雰囲気に引き戻されます。英語版の地図を貰え自分達で回ったのですが、やはり順序良く回った方がいいみたいで、ガイド付きの方が良かったかも知れません。ただ日本語は特別のツアーの時以外は無理みたいですね。
 少し離れたビルケナウの方が、建物も木造で、ヨーロッパからユダヤ人達を運んだ列車の線路が引き込まれていて、中心に監視塔もあり、荒涼とした雰囲気はアウシュビッツ以上でした。ただ、こんなままだったら朽ちてしまわないか心配でした。  

 
▲クラコフ駅前で ▲「働けば自由になれる」の標語  

 
▲鉄条網のアウシュビッツ ▲嘆きの壁

 

 
▲焼却炉へ送られた人達の靴 ▲同じく髪の毛

 

 
▲ガス室の奥の焼却炉 ▲少し離れたビルケナウ収容所

 

▲ビルケナウの記念碑 ▲監視塔と線路

▲ゲットーの内部

クラコフから電車でワルシャワへ。
 収容所の見学で食欲も減退していましたが、クラコフは京都みたいな所ですから、街の雰囲気は少し洗練されているので散歩もしました。ヤミ両替が多くて「チェンジマネー?」と聞かれ、公式レートより多分2倍くらい良かったと思います。空港を出る時にチェックされるとか怖い話があるので控えていました。ただ、ホテルの両替所の近くでヤミ両替のおじさんが近付いてもスタッフは何も言わないどころか、微笑んだりしているので、これは闇で両替してもいいんだと勝手に判断して替えて貰いました。出国の時は少し緊張しましたが。特に問題はありませんでした。
 電車で3時間ほどで首都ワルシャワに着きます。英語などは全く通じませんから料理を注文するのも大変で、現物がないと困るのですが、昼は中央駅の2階でセルフの店があり助かりました。ここの旧市街は第2次大戦で破壊されたのですが、市民の手で修復作業が行われたそうで、経過を示す博物館もありました。
 さて、ホテルなのですが、『歩き方』に、インターナショナルなホテルが二つあるゾーンがあり、そこで尋ねたら満室とのこと。これなら、旧市街へ戻って探すしかないかなと思っていたら、おじさんが近付いて来て「良い部屋があるから、ついて来て」と言うのです。何だか不審に思いましたが、直ぐ近くだというので付いて行きました。何だか薄暗いエレベータと廊下を通って、部屋に着きました。要するにおじさんの自分の部屋なのです。一人10ドル、合計20ドル。もちろん安いし、ワルシャワ駅の真ん前のアパートなので、不安もありましたがそう悪そうな人でもなさそうなので、OKしました。当時はドルの価値も高かったのでおじさんもこれで結構助かるのでしょうネ。
 旧市街やコペルニクスの居たワルシャワ大学とかも見て回り、夕食を食べるためにレストランに入って此処なら見て注文できると思っていたのですが、システムがわからないで、どうしようかな?と思っていたら、「此処は待っていてもダメで注文しないとダメですよ」と若者が話しかけてくれました。理解できたということは、それは英語だったのです。お陰で通訳してもらって、注文もできました。
 これが文通したり何年か後にお宅を訪問することになるポールとの出会いだったのです。当時彼は外国語大学の学生で、チェコ語か何かを専攻していました。英語は独学で勉強していて、BBCとかを聞いているようでした。お礼に電卓〈例の僕達の部屋に戻って取って来ました〉を渡したら、「僕は理系の学生ではないのに」と冗談を言ったりしていました。
 アパートの部屋は一応寝るだけには困らないのですが、トイレとか炊事場は暗く、何の臭いかわからなかったのですがきつくて凄かったです。まぁこの値段で一夜を過ごせたので、よしとしました。
 

ワルシャワ中央駅の構内 無名戦士の墓  ▲ワルシャワゲットー

 
英語で料理を注文してくれたポール君 駅前の私達の部屋のあるアパート  
飛行機で先ずは西ベルリンへ。東ベルリンへ往復。
 ワルシャワからはポーランド国営航空で西ベルリンへ着きました。何となく明るい雰囲気に戻った印象でした。
 西ベルリンから東ベルリンへ向かう電車からビデオカメラを回すと、やめた方がいいと注意してくれる市民も居ました。検問所〈チャーリーポイント〉では、暗い所で結構な時間待たされました。東の方は百貨店とかのディスプレイは貧相だった感じでした。テレビ塔の上のレストランでお茶でもと思ったのですが、服装でお断りで、ビックリしました。
 西ベルリンでは、ヒットラーが権力を掌握する口実になった爆破事件の旧国会議事堂とか幾つかの遺跡をまわりました。今から思えば残り後1年ほどの命でしたがベルリンの壁があり、その周辺も巡りました。
 日独平和フォーラムの活動をされている梶村さんに電話して翌日「家へ来たら」と言われ、初対面でしたがお邪魔しました。高槻の元府議だったヤマケンに教えて貰いました。電話帳を見るとKAJIMURAなんて一人だけですから直ぐ判りました。お嬢さんが迎えに来てくれて自転車でお宅へ連れて行ってくれました。ベルリン在住でなければ知らないこともたくさんあり、色々と面白い話も聞けました。小田実がベルリン自由大学に居た時のことを色々本にしているのですが、その案内をしたのが梶村さんだったようです。

東の象徴的なテレビ塔 東の出発点フリードリッヒ駅 ブランデンブルグ門の前の壁。東側

 

 
梶村娘が教えてくれたローザルクセンブルク記念碑 西の中心、カイザーヴィルヘルム教会    
ライン下りとロマンティック街道、そしてボーデン湖へ
 西ベルリンからは夜行列車でケルンへ。列車で移動して、ライン下りへ(これもユーレイルパスでOK)。途中のリューデスハイムの丘の上のホテルで一泊。そこから、大学時代から歌にも歌われていた大学町ハイデルベルクへ立ち寄り、やがてロマンティック街道のスタート、ビュルツブルクからヨーロッパバスに乗車。これもユーレイルパスでフリーなのに感激。
 ローテンブルクなんかではチャンと時間を確保してくれるご当地路線バスで安心。終点にあたるのがノインシュバインシュタイン。そこでホテルも取れました。もちろん城には行きましたが、雨に煙っていてよく見えませんでした。
 そこから、日本人観光客とかはあまり行かないボーデン湖へ向かい、花の島マイナウを駆け抜け、船はコンスタンツに着き、そこで泊ることにしました。

▲ライン川下り ▲リューデスハイムのぶどう畑をロープウェイで登る リューデスハイムのホテル

 
大学町ハイデルベルク 座席を伸ばすとベッドのようになることを発見  

ロマンティック街道のスタート、ヴィルツブルク要塞 ローテンブルク ノイシュバインシュタイン城前の吊橋

▲雨に煙るノイシュバインシュタイン城 花一杯のマイナウ 船で立ち寄ったミアスブルク
最終目的地はチューリッヒでしたから、少し観光もして、帰国準備
 日本への航空便はチューリッヒ発なので、鉄道でチューリッヒへ向かい、チューリッヒ湖の遊覧やチューリッヒ大学とか、町を散策して、この旅最後のひと時を過ごしました。最終日の朝も空港へはホテルからシャトルバスが出ていたので、直行。
  もちろん大韓航空ですから、金浦空港経由で帰って来ました。

 
ペスタロッチの銅像 チューリッヒ湖遊覧へ チューリッヒで西瓜を食べた  
個人・自由旅行の旅スタイルの基本を確立できたホントの意味での《初めの一歩》になりました
 その@で書いたパックツアーはもういいなぁ、という先にあったのがこの旅でした。まだ円高は本格的でなく、この当時で1ドル=140円弱でした。ですから、DSTに払ったエアーチケット代は約26万円。ユーレイルパスは約5万円(3週間)でした。ビザも仏2500円、ポーランド・チェコは各3000円強と、重なると結構な金額でした。フィルム代、現像代も数万円はかかっていますし、それより嵩張ることの大変さはSDカードで済ませる時代とは大違いですネ。その頃、パックツアーを見もしていないので、比較できませんが、しようにも普通のパックで20日というのはキットなかったでしょうネ(今でもそうでしょうが)。
 メインのアウシュビッツのポーランドを挟んで幾つかの国々を巡ることになりましたが、これはこれで大変いい経験になりました。ヨーロッパの通貨統一が成っていませんから、国を越える度に両替に頭を痛めることになりました。
 まだ情報発信は限られていましたが、帰ってから大阪の「教育タイムス」という新聞に寄稿を求められ、クラコフ入りの大変さだけでしたが書かせて貰ったのを覚えています。
   




Copyright © 2013 MIKAMI HIROSHI