思いつくまま印象記 旅体験あれこれ
 
『イベリア半島&チョットだけモロッコ17日間』

 はじめに
 この文章はEメールでこの旅の印象を書き始めたものが意外と長くなって標題のような内容になったものです。この春に家を建て替えされ、参考に我が家を見に来て下さったり、昨夏息子からの連絡がボリビア・ブラジル国境付近で途絶えた時に、ボリビアの知人を紹介してもらったりしたKさん(英語・F高校)に宛てたものです。出かける前にスペイン料理の店を紹介してもらい、帰国して「是非旅の印象をレポートして下さい」とういリクエストのメールが入っていたのに、遅まきながら応えたもの。途中でも書いている通り、個別的なものでもなく一般的なものになりましたから少し分かり難いところもあるかも知れませんが、多くのみなさんに渡そうという気になりました。文章はEメールほぼそのままで、フォントだけ換えて印刷しました。
 興味のある方は熟読して下さい。あまり興味のない方は?…飛ばし読みするか、そう、返して下さい。


無事帰ってきました
 8月6日に関空に着きましたから、もうかれこれ3週間近くになります。メールの返信が遅くなってごめんなさい。書いていただいていたように、貯まった仕事などに追われてあたふたしていました。前半は他の人に任せきりだったクラブの付き添いや、いなかった間の新聞や雑誌のチェック、それに旅の後始末とかしている内に、組合の夏季セミナーになり、もう3年生の授業が始まってしまっています。8月28日にある佐高信、テリー伊藤、宮崎学、辻元清美のトークセッションの準備でも、今は大変です。
 さて、イベリア半島の旅ですが、なかなか簡単にレポートできそうにありません。ここに書き出したら、それはHIROSHIの旅日記みたいになってしまいそうですし。マアー、また機会があれば詳細はお話しするとして、ほんの1,2点だけ。
天候、物価、言葉…
 夏だから、雨は一滴も降らず。少しくらい降ってほしかったと思うほど。「こんな暑い時にイベリアなんてヨウ行くなー」と言われたりもするのですが、なるほど気温は大阪並に33、4度あるとしても、夜の気温が違うのです。日本流に言えば熱帯夜(確か25度以上?)がないのです。スペインでもポルトガルでも夜になると10度台まで下がるのです。リスボンなんか夜出歩くと寒いくらいで、同じホテルの日本人は正味風邪をひかれて、お義母さんが持っていた風邪薬を差し上げたくらいです。
 一昨年のイタリア以上に物価が安い。3人でトリプルをとるから余計にそうですが、ホテル代やフラメンコ、ファド等の料金(ああ、それから闘牛も)を含めて、一人17日間で約26万円でした。僕たちが特別グルメ一家でないことや、アルコールをとらないこともあるでしょうが、この安さは格別ですね。最後のアランフェスなんかでは、スーパーで買い物をして思い切りサンドイッチパーティーにしたり。
 イギリス語はイタリア並に通じない国。リスボンなんかは日本語メニューがあったりしましたが、僕たちが入る並のレストランはすべてスペイン語。ウェイターさんも英語が通じないから大変です。その内いい方法が見つかったのですがそれまでは大変でした。そのいい方法というのは、メヌー・デル・ディアを取る方法です。これは「本日の定食」みたいな意味ですが、これを注文すれば概ねOKでした。注文の仕方を理解するまでは大変だったのですが、要するに2皿あって、1がスープとかサラダで、2がメインという訳で、3人とも別のものを注文すれば大変バラエティに富んだ食事になる寸法です。
 だから、普通のスペイン人で英語のしゃべれる人と友達になるなんてことは旅行者にとっては難しいことでした。コルドバからアルヘシラスに向かう列車に同乗した人が英語を喋っているので、ヤッターと思ったのに、よくよく聞いてみたら、アメリカ人でフラメンコの勉強に来ていて3ヶ月。帰る前にイギリス人の友達(かなりの人数でしたが)を案内して海水浴にカディスへ向かう途中でした。英語が母語でスペイン語が喋れる人だっただけ。マア、それはそれで凄いことなんだけど。イギリス人のお世話で忙しく余り話せませんでした。
バルセロナでフラメンコ、リスボンでファド
[フラメンコでトリをつとめた日本人ダンサー] フラメンコはバルセロナで観たのですが、これはド迫力で圧倒されました。夜10時半頃始まり、終了は12時過ぎでしたが、このタブラオはトリのダンサーが日本人。やはり、黒髪でないとフラメンコらしくありませんから、バッチリでした。12時を遙かに越えていたので、この日本人のお名前さえ聞きそびれましたが、また行く機会があれば、レイアール広場のタラントスという名前のタブラオですからお薦めです。因みに『地球の歩き方』を見せれば2500(日本円で1900円くらい)ペセタです。
[リスボンで唄うファド歌手] 前にお話しした時には知らずに恥ずかしかったのですが、リスボンではファドも聞きに行きました。これも上手い人が登場するのは夜11時頃からと言うので、その頃行ったのですが、僕たちがフラッと入った店は(もちろん歩き方に載っていた)アデーガ・メスキータという店でしたが、客はまばらで、3グループくらいでした。哀愁こもるという雰囲気はホントに日本の演歌そのものという感じでした。日本で言えばさしずめ美空ひばりに当たるようなアマリア・ロドリゲス(この方は今は高齢で引退されているようでしたが)のCDを買い求めましたのでよければ聞いて下さい。
 フラメンコもファドも、僕のような愛煙家には最高の雰囲気で、そこらじゅうに灰皿が置いてあり、紫煙の中で歌い、踊るのが当然という感じで、いいじゃありませんか。ちょっと退廃的な雰囲気でもあるわけです。
 1、2点と書いた割にはついキーが走って、長くなりましたから、これを元に旅日記にしてもいいなという気分になってきましたが、明日は授業もあるので今日はこれくらいにしておきます。学期最初の授業でもこれだけは言っている闘牛の話があるのですが、それはまたの機会に。気が向けば続編をお送りするかも知れませんし、このマンマということもあり得ます。(1999.8/24)

 さてその続きですが、元に少し戻って、ファドを聴きに行く夜のこと。リスボンという街は、正味二日しか居なかったのに偉そうなことは言えないのだけど、長崎やナポリと同じように「坂の街」のようです。ファドが聴ける店が集中しているのは坂の上。この地域へはきっとバスも走っているのでしょうが、ロシオ広場というリスボンの中心に当たるところからほど近くケーブルカー(グロリア線と言うのですが、要するに平地と坂の上を結んでいるだけの線です)と、結局これには乗れなかったのですがエレベーターとがあるのです。そのエレベーターに乗って上がろうと思い、近くへ行ったら何やらファドらしきモノが聞こえてくるのです。「あれ、坂を上らなくても平地にもファドが聴ける店があるのかな」と思ったのですが、露地で暗いのでよく見えなかったのですが、何とおばさんが一人で歌っているのです。僕はエレベーターが動いているかどうかを確かめに行ったので、知らないのですが、妻の報告によれば、何人かの人が聴いていて、歌い終わったらコインをプレゼントし、はにかみながら一応受け取っておられたとか。実は、3人の一致した見解としてはその後に聴いたプロのファドよりあの人の方が上手かったということになります。どんな人なのか知る由もありませんが、元プロなのか、趣味的に街角で歌えるほどの人がいるのか、…。
闘牛場での体験
[闘牛場に押しかけたデモ隊] さて、昨日予告した闘牛の話。授業でゆっくりこの旅の話をする余裕はないし、「海外旅行のすすめ」みたいなことは、2年生の時に話しているので重複するのでやめにしているのですが、この闘牛の件だけは特別です。これも無知を曝すことになるのですが、闘牛についてホントに僕自身よく分かっていなかったようです。
 今、スペインで闘牛は色々な都市で行われているようですが、いずれも日曜日のみというような限定的な開催のようです。たまたま、バルセロナの2日目が日曜日でしたから、「ヤッパリ、スペインに来たら闘牛は一応見ておかなくては」と軽い気持ちでプランに入れました。後でどこかの街で日本人に「闘牛って当日急に見ようと思ってもチケットが手に入らないと聞きましたけど、どうなんですか?」と尋ねられましたが、そんなことはありません。入ってから判ったことですが、大都会バルセロナでも結局満席にはなっていませんでした。バルセロナでも以前は2つ闘牛場があったようですが、今も開催しているのはモニュメンタル闘牛場という所だけのようです。この建物は、地下鉄を降りると直ぐで目立つのですが、ガウディ等と同じ時代の建物でなかなか趣はあるのですが、その一階部分のチケット売場で並べばいいだけです。ただ、7時開会でも日没が10時ですから日本の感覚でいえばまだ3時頃の陽射し。日陰の席をゲットしないと大変なだけですが、それは何とかなりました。列が結構長いのと、何だか席をどれにするかのやり取りが長いようで、待ち時間は結構ありました。途中で列の外から「英語話せる人居ますか」みたいな声がかかったのですが、その人はゲットしたチケットが要らなくなって、売ってくれているようでしたが、聞いてみたら1枚しかないようなので、再びしばらく並びました。
 そうこうしているところへ、デモ隊が現れたのです。「STOP」というような文字の入ったプラカードを持ち、よく見たら、先頭に闘牛士の服装をした人が骸骨の仮面をかぶり血に滴った剣を持っている。そうです、闘牛反対のデモなのです。「アチャー」と思いました。そう言えば確かに警備の警官が多過ぎたのです。この事態に備えての配備だったわけ。少しひるまざるを得ませんでした。でも暑い中ここまで待って、放棄するのも残念だし、デモ隊の言っていることも一理ありそうだし(もちろんスペイン語ですから詳細は判らないのですが概ね見当はつきます)…。
 だから少し後ろめたい気持ちで「マア、とにかく見てみないと判らないから」テナ理由を付けて入りました。因みに料金はほぼ最低のランクで3000ペセタ。ところが、少しガイドブックで学習していたのですが、ヤッパリ牛をキッチリ殺すんですね。それも一回のショーで6回ほぼ同じ事をしますから、6頭は確実に殺す。殺した後は勝ち誇ったように馬3頭くらいでこの牛の死骸を引きずって楽隊の音に合わせてグランドを廻るというわけです。これも何となくそんな風に聞いてはいたのですが、余りにも卑怯なショーなのです。何が卑怯かというと人間がです。知ってました?元気な牛と闘牛士がサシで勝負するのではないことを。まず、元気な牛を暴れさせておいて、暫くしたら馬に乗った人物が現れてその馬の胴体部分には頑丈なプロテクターを着け、そこにぶつかってくる牛の背中の急所を槍で刺すこと2回。このときに大量の血が滴り落ちます。ローマ時代はその血を鮮明に見るために地面に白砂をひいたそうですが、今はそこまではしませんから、牛の皮の色、グランドの土の色も黒っぽいですから余り目立ちはしませんが、相当な出血が見て取れます。そこに3人ほどのアシスタント闘牛士みたいなのが2本ずつ飾り剣みたいなものを同じ急所に刺します。もうここまでで十分牛は息絶え絶えです。後は最後の一撃を待つばかりです。もう殆ど瀕死状態。そこに格好良く登場するのがかの闘牛士。僕たちが見た時もそうでしたが、牛はもう元気がなくなって、かかっていく余力もないのです。それではショーになりませんから、何とか最後の力を振りしぼらさせて、トドメを刺すという具合なのです。
 まあ、考えてみれば元気な牛と闘牛士がまともに闘えば人間が勝ちっこないのでしょうから当然なのかも知れませんが、ヤッパリせこい、卑怯。それを6回もやるか、というのが印象です。もうイイワと思って出ようと思ったのですが、証拠写真のような積もりで、もう1ゲームだけビデオと写真にとって途中退場しました。出てきたら、まだあのデモ隊が居るではありませんか。ワー抗議され罵られるのかと覚悟したら、何と拍手で迎えられました。「よくぞ途中で出てきてくれた」という感じ。調子に乗ってそのデモ隊に近づいて「あなた達の言ってることは本当だ。卑怯で残酷だ」というようなことを英語で言ったのですが、通じません。そしたら、若者の一人が「ちょっと待っといて」という感じでひとりのおばさんを呼んで来てくれました。何とそのおばさんは「もう日本語は余り覚えてないけど」と日本語が少しできるのです。それと英語が少し。日本語と英語のチャンポンで、おばさんと約束したのです。「日本に帰ったら必ず闘牛の残忍さと馬鹿らしさを伝えます」
 これが初めに書いた特別の理由という次第です。入る時のあの後ろめたさから解放されて、少し晴れやかな気持ちで、且つ、時間もできて、そこから歩いて10分ほどの例のガウディのサグラダ・ファミリア聖堂にもう一度向かい、その近くのレストランで豊かな気分になり(?)夕食をとったものでした。
 今日はここまでにします。直ぐに感想を頂いたのでとりあえず続きを書いてみました。(1999.8/25)

 前のメールでの感想に「やりかけて中途になっているスペイン語をやりなおす」とありましたが、そうなんだ。僕は現地で少し簡単な辞書風のものをパラパラ見たのですが、イギリス語からある程度連想できるものと全く違うものがありますね。全く違うものが多いような気がしましたが、マア、これは他のヨーロッパの言語でも同じでしょうネ。若かりし頃にでもスペイン語にチャレンジしたんですか?
 さて、元々、ほんの一つか二つ、特に印象深かったことだけを書くつもりだったのに、何だか冗長になっていますが、これは自分自身の備忘録的なものに変わりつつあるようです。たった2年前のポーランド・ドイツ・イタリアの旅でさえ、直後にはあんなに印象深かったことが段々と記憶の彼方に遠のいていっているような気がしますから、たまたまこのメールの文章を書き始めてしまったので、記録として残ることはいいことに違いないと思い始めています。モノ忘れの早さが顕著になる年代ですから余計です。それと、うまくいけば、8月末までに目鼻を付けられれば、職場とかで新学期に本格的に出会う同僚とかへの報告も「これをまず読んで」と言えそうだし、昨日も授業が終わってから「もっと聞かせて」と言う生徒がいたのですが、その生徒達にも同じ事から出発できそうです。
旅での贅沢…現地で関連した本を読む、読みながら考えたこと
 第3信目の冒頭で新たな目論見を整理することになったのですが、そういう訳で、話は時系列に沿ったものにならないことを許して下さい。マア、それもいいのかも知れません。話はガラッと変わるのですが、僕が旅で贅沢と感じるのは、その国や地域で、そこにまつわる本を読みながら旅をすることです。少しの時間だけどそういう余裕を持てると大変豊かな気持ちになれます。一昨年のイタリアの時も『物語イタリアの歴史』を。この3月の中国(これはパックツアーだったけど)では『中国路地裏物語』、ひとり旅をした合州国東海岸では『アメリカの保守とリベラル』と言った具合です。最近では余り出かけませんが国内でも花巻では宮沢賢治にまつわるものを読みながらとか。
 出発が近づいて合間を見つけて本屋さんに出かけると、大抵適当な本がゲットできるのです。特に中国ではヒットでした。北京を廻りながら、この人々の暮らしの背景にこういう事情が潜んでいるのかと思うと何だか風景が立体的に見えるような気分になれたものです。この本は大阪外大出身の毎日新聞の北京支局長だった上村さんという人のレポートで読み応えがある上に、出発の1ヶ月ほど前に刊行されたものだったのです。もちろん今回もそういうヒットを狙って本屋さんに入ったのですが、不思議と今回は店頭ではいいものが見当たりませんでした。きっと斯界の権威にでも聞けばいいものが刊行されていたのかも知れませんが、大抵直前にやろうとするので間に合わないことになってしまうのです。結局、新しい目の本(もちろん言い忘れましたが、文庫か新書が限度です)は諦めて、スペイン現代史では古典とも言える『スペイン戦争』(斉藤孝)を買って持っていきました。
 念のために言うと、ホントはシッカリ準備する人はもっと早くに基礎知識を仕入れるのでしょうし、その方がいいに決まっているのですが、僕の場合「時間切れアウト」みたいなところでしょうか。この本だけで判断するわけではありませんが、思えばスペイン(ポルトガルも)は複雑な歴史を持っていますから、旅行中もこちらも複雑な気分を引きずったままでした。あれだけ壮絶な内戦を経験した国民というのも近代では希有でしょうが、それがファシスト軍対人民戦線政府という構図であり、斉藤孝氏があえて書名を『スペイン戦争』(市民戦争とか内乱でなく)とされたように、フランコ軍をナチスドイツやファシストイタリアが非公然にある時は公然と支援したので、本質的に正統なスペイン政府対ドイツ・イタリアの戦争という側面があり、ヒトラーにとっては第2次大戦の前哨戦であったとすれば、予想に反してマドリッド防衛を持続したそれこそ「人民」の悲劇というのは想像を超えるものがあるではありませんか。こういうことはその昔若かりし頃に学んだようなのですが、茫漠としています。スターリン主義の犯罪性とか、統一戦線の難しさとか、散々考えたようなのですが細かいことはみんな忘れてしまっていました。1年ほど前、元気のいいイギリス映画を代表するようなケン・ローチの『大地と自由』もこの戦争を描いていましたが、余りリアリティを持って観ていなかったようです。こんなことをクダクダ書いていたら、何の話かわからんようになるので止めますが、もっと悲しいのは、この本が66年に出版されており、この時点では、何とフランコ(ファランヘ党)の独裁が続いているのです(改訂版も出ないで95年で33版を重ねているこの本も凄いのか何なのかよく分からない本ですが)。
 あれだけ壮絶な闘いを繰り広げたスペイン人民なのに、71年のフランコの死迄民主主義を奪還できなかったことの悲しさはもの凄いものがあると思いませんか。71年と言えば僕が教員になった年ですが、そういう事態を知識では知っていても実感していなかった不明を今更ながら恥じ入ったりしてしまいます。あれだけ厳しく苦しい闘いをドイツやイタリアの陰があったとは言え、結局同じ国民同士が闘わねばならなかったことの後遺症はチョットやソットのものでは無かったのでしょうね。だって、両方の側にとてつもなく厭な思いを残しているんですから。戦後のナチスの責任追及とはまた違う側面がありそうです。だからフランコが死ぬまでは再びあんな戦闘はご免だという厭戦気分があっても責められないでしょうネ。でも悲しいことです。この辺から汲み取るべき事柄はいっぱいありそうに思えます。
 ただ、残念ながら、そういうことを今のスペインの人々に直接問いただすことはいち旅行者に出来るはずもありませんでした。言葉の問題もありますが、2週間そこそこでそうウロウロも出来ませんからね。初めて海外旅行をしたギリシアで、当時政権を取ったばかりのパパンドレウの事務所を尋ねて行ったけど何を話したらいいのか判らず、記念写真を撮って帰ってくるという大変日本人らしいことをした経験はありますが、今ならもう少し話が出来たかも知れません。それも時間が許せばですが。
トレド、アルカサルのひどい展示のこと [トレドのアルカサルの地下にある「反共」のプレート] 
 
ただ、これにまつわる話が二つほどあります。一つはトレドでのことです。トレドは例のエル・グレコで有名な古い街並みがそのまま残っている所で、その景観が一望の下に見られるので余計人気の高いところですし、その景観は最高のビューポイント(それが何処かを書き出すと論旨から外れますから止めますが)を見つけて十分に堪能しました。トレドにはこの旅の最終盤に訪れたのでゆったりでき、印象深いということもあります。が、それと同時に重要なことはこの街の位置です。今回もマドリッドから電車で出かけたのですが、南西に2時間弱の距離です。世界のリベラル・進歩派(例えばヘミングウェイ)が「マドリッドへ!」と義勇軍の国際旅団に加わった、そのマドリッドの攻防にとって、この街はどちらの軍にとっても重要な戦略拠点であったに違いありません。この街にメリハリをつけている建物が二つあります。一つはお決まりのカテドラル。もう一つがアルカサルです。マア一種の宮殿みたいなものですが、ここが、この戦争で凄い破壊に遭ったことはここにも展示されていました。詳しい戦史は知らないのですが、ある種の前線司令部が置かれても不思議ではありません。そのためか、ここは今軍事博物館のようになっていて、そういう展示が多いのです。スペインの古くからの軍服姿や武器の類が陳列されているのです。何でこんなものを嬉しそうに展示してるネンと思いますが、地下室とかもあってそこだけテープが流されている部屋がありました。それはフランコ派の大佐の部屋で、電話してきた共和国軍軍人とのやり取りなのです。もちろんスペイン語ですから内容は耳では判らないのですが、ここだけは何と、各国語でそのやり取りが掲示されているのです。最初、中国語を見つけました。漢字ですから概ね判ります。電話でのやり取りの概要はこんな感じです。フランコ軍の大佐に政府(共和国)軍が「息子を人質に取っているからここを明け渡せ」と言っており、大佐は息子を電話口に出させます。息子も気丈なようですが、大佐は「国家のためにスペイン万歳と言って死ね」と言い、この要求を拒否するというわけです。その後この大佐や息子がどうなったか迄は書いていなかったのでよく分かりません。いずれにしてもフランコ派を讃える美談です。こんなものが堂々と残っているのです。マア、事実であればこの程度のことはやむを得ないのかも知れませんが、どうしても許せないのは電話のやり取りの掲示の表現です。政府軍・共和国軍のことを「共産匪軍」と書いています。実は中国語の後に日本語のものも見つけたのですが流石にここでは「共産軍」となっていましたが、それにしても非道いではありませんか。確かに統一戦線ですからこの時にフランコ軍に対峙していたのが共産党系の軍隊だったかも知れません。でもそれは明らかに正統なスペインの政府軍なのです。いくら考えてもこれは偏った掲示ではありませんか。この博物館の管理がどうなっているのか判らないので誰に文句を言ったらいいのか判りませんし(判ってもチャント真意が伝えられるかどうか自信はありませんが)、そんなことはスペインの人はとっくに問題にしているのかも知れません。でも日本と同じで歴史論争というのはこういう辺りでも問題になるのかなと感じ入った次第です。
 ついでに書いておくと、この地下室の廊下に、「フランコ頑張れ」のようなプレートが並んでいるのです。これもゆっくり見ている暇はなかったのですが、漢字のものがあると目立ちます。それは勿論、中華民国からのもので「為反共而奮闘」との銘板が読みとれました。「レッドチャイナ」と闘う蒋介石にとってはフランコのスペインは盟友であったのでしょう。
 何だか延々と続きそうになってきましたが、今日はひとまずここまでにします。送信の時刻が間違っているわけではないので、確かに深夜に送信しているのですが、今はいつ寝ているのかその日によって違うというような不規則な生活ですから、睡眠不足になっているわけではありませんので、ご心配なく。(1999.8/27.2:20)

バルセロナの「幻のオリンピック」
[バルセロナのオリンピックスタジアム正面入り口の顕彰プレート]  さて、前のメールで2つほどあると書いたもう一つの話。数年前に出版された『世界人権の旅』(過労死裁判で活躍する川人弁護士の編著)という本が海外に出かける時結構役立ちます。そこに載っていたので敢えて見に行ったのですが、「幻の人民オリンピック」という話。丁度人民戦線政府が成立し、同時にフランコとかの策動が始まっていた頃。1936年頃。あのオリンピック史上の汚点(あれが本質だという声もありそうですが)とも言うべきベルリンオリンピックが開催される。国威発揚、アーリア人の優位を顕示するヒットラーの下での開催。それを見抜いた世界のリベラル派知識人はそれに対抗して、スペインで人民オリンピックを企画。都市は奇しくもバルセロナ。ところが、開催数日前にフランコ派のクーデター勃発。日の目を見なかった。そして代表者であった時のカタルニア州首相ルイス・コンパニスはその後フランコ軍の追及を逃れフランスに亡命。しかし、フランスに侵攻したナチスに捕らえられ、フランコ派に引き渡され、処刑された。こんな史実知ってました?その上、92年のバルセロナオリンピックの時にメイン会場に彼の顕彰プレートが作られたなんて、僕は全く知らなかった。バルセロナに限らず、あまり真面目にオリンピックなんて観ないもんだから、よく知らないんだけど、メイン会場というのはバルセロナの西方のモンジュイックの丘にあります。ここへはフニクラで昇るんですが、この旅4日目で、この後、例の闘牛場へ向かうことになる日で、結構暑い午後でした。ミロの美術館があるのでこのためだけに登ったのではないのですが、この美術館は日曜日だけ2:15閉館というケッタイな時間設定のため断念しなければならず、この丘はこのスタジアムだけのために行ったようなものになりました。流石にもう7年前のことですから、聖火台とかでそれと直ぐ判るものの、観光客はそう沢山は居ませんでした。でも、100人位は居たかな。問題のプレートは直ぐ見つかりました。入り口の壁にあるんですから。日本流に言えば畳一畳分くらいのもの。さり気なくというのか、素っ気ないというのか、白いプレートに36年の人民オリンピックとカタルーニャ首相ルイス・コンパニスの名前があるだけで、詳細は何も書いていません。写真があるわけでもないし、とにかく目立たないのです。スペイン語ですからよく分からないとしても、英語と似た言葉もありますから何となく僕たちは読んでいたのですが、他の人は振り向きもしない感じでした。通りすがりで詳しいことは判るはずもないのですが、スペインでは近現代史をどう学んでいるのだろうと少し考えさせられました。
イスラム教勢力とキリスト教勢力のせめぎ合いと融和
 スペインの歴史を考える時、このスペイン(市民)戦争と、もう一つは勿論イスラム教勢力とキリスト教勢力のせめぎ合いが特徴的に浮かび上がります(大航海時代にスペインが歴史に刻印した功罪も大きいモメントでしょうが)。後者についてはご存じの通りですからゴタゴタと書くことはしませんが、未だによく分からないことが沢山あります。この旅の間それを考えさせられていたのですが、こういうことです。例のゲルマン(やノルマン)の民族大移動の頃から少し落ち着いてやがてヨーロッパの原型ができあがりますよね。勿論それ以降も色々な変遷があるのでしょうが、元々どの地域に誰が住むのが正しいとか間違っているとか言い出したらキリがないほど複雑になります。パレスチナ問題はその典型のようなものでしょうが。そこでスペインです。イベリア半島はイスラム勢力の拡大でジブラルタル海峡を渡った人々によって後ウマイア朝が成立(756年)し、その後色々な王朝の変遷を経ますが、結局最終的にレコンキスタ(国土回復運動)が終了するのは1492年。この800年程の間イベリア半島は南からイスラム勢力が北上し、その後キリスト教勢力が南下する歴史なんでしょうが、イスラム勢力がキリスト教勢力を放逐した時、スペインの人々はどうなっていたのか。そしてどこからキリスト教勢力として現れ、レコンキスタを実現していったのか(尤も、8世紀といえばヨーロッパ中心部でもキリスト教勢力が安定的支配を確立していたわけではないのでしょうが)。これだけ複雑な地域を歩いているとそういうことがこんがらがって、よく分かりません。 [ライトアップされたアルハンブラ宮殿 21:45頃] 
 そういうことを考えていたら、丁度、グラナダのアルハンブラ宮殿を眺めるにはベストスポットとされているサン・ニコラス展望台でライトアップされている宮殿を眺めていた夜9時半頃、突然「こんばんわ、日本の方ですね」と誰かがお義母さんに声をかけられたのです。あまりの流暢さに、日本人かと思ったくらいですが、それもそのはず、聞いてみれば30年間も日本に居られたとか。松江と少しだけ葉山に。今はローマに居られ、出身大学がグラナダなので、今ここに来られているとか。シスターとして日本に居られたようです。これはチャンスと思い、今書いた疑問を質してみました。「それは、私たちスペイン人とは何かということに突き当たります。レコンキスタの頃にスペイン人というものがあったのかどうか。押したり引いたりの中で、混血が進んだでしょうから、私の中にもイスラムの人々の血が流れているでしょうし、私の親戚の中にもイスラム風の名前を持った人も居ます。だから簡単にイスラム教徒、キリスト教徒と割り切れないのではないでしょうか」という答えでした。もっと聞いてみたいことはあったのですが、夜はここにあまり来ないタクシーが来たので、「また日本に来られたら是非ご連絡を」と告げてお別れした次第です。
 キリスト文化とイスラム文化の折衷されたものをムデハル様式ということは今回知ったのですが、スペインにはそういうものが一杯であることは言うまでもありません。また、ヒターノ(いわゆるジプシー)の源流がここにあるのでしょうが、これに至ってはインドが源流と言われているそうですから、折衷はもっと広がりそうです。と言うことはあのフラメンコもそういう性格を持つことになります。しかし、いずれにしても、今のスペインにはキリスト教勢力側から見た歴史解釈だけが罷り通っていることになりますよね。スペインに残るイスラム的なるものを見るイスラム系の人々の感慨やいかにと思ったものです。 [アルハンブラ宮殿内のライオンの庭]  [ヘネラリフェ(夏の離宮)] 
 そういう点では、アルハンブラ宮殿は格別の趣があることになります。ここは世界有数の観光地ですが、見る人の立場がどうであれ、特別の哀感があるのはイスラム文化の最後の燃え上がりとその後の放逐を物語っているからなのでしょうね。勿論、ここだけではなく、例えばコルドバだって、セビーリャだって、イスラムのモスクの中にキリスト教会があったり、モスクを改造してキリスト教会にしたりという建物がいくらでもあります。でもグラナダのアルハンブラ宮殿は少し違います。コルドバのメスキータ(イスラム寺院という意味だそうですが)はその規模とかで群を抜くものですが、そのバカでかいイスラム寺院のど真ん中に張り合うように、と言うよりそれをしのぐ壮大さでカテドラルがあるのです。元々偶像崇拝を厳しく禁じるイスラム寺院は装飾が簡素になりがちですから、相対的に装飾の多いカテドラルの壮大さが目立つことになります。アルハンブラ宮殿だって敷地内にカルロス5世宮殿もあり、キリスト教会(この教会はド派手で見るに耐えないものなのですが)もあるし、僕たちが泊まった唯一4ツ星のパラドール(旧跡を改造したスペイン国営のホテルグループ)も元はと言えばサンフランシスコ修道院なのです。でもそれは引っ付いてはいるが別個の建物なのです。コルドバのように突然キリスト教的なものが現れることはありません。僕は不勉強で詳しいことは知らないのですが、ここがレコンキスタの最終点で余裕があったのか、その素晴らしさに敬意を表したのか知りませんが、まとまってイスラム的なものがヨーロッパで唯一残ることになったのはいいことだったでしょうね。背後に冬にはスキーもできるというシェラ・ネバダ山系を持ち、前に盆地を見下ろせるという地形も、戦略的に有効であると同時に、景観も素晴らしいものにしているようです。夏でも雪解け水で自然のクーラーのような「水の階段」を備えたフェネラリフェという離宮も近くにあり、これも勿論破壊から免れています。

[プラド美術館の着衣のマヤ・裸体のマヤ] [サン・パウ病院からの街路。サグラダファミリア]    スペインと言えば、ガウディやプラド美術館、ピカソ美術館やソフィア王妃芸術センターにある彼のゲルニカ、ミロやダリ、といった美術、芸術作品が思い浮かぶところです。無論、それらの殆どは、前に書いたミロの美術館が閉館になっていたなんてこともありましたが、見ることができました。それぞれに素晴らしいものでしたが、その感想を一々書き出したらキリが無さそうだし、それにこれは普通言われている感想とそう違いがある訳でもないので書くほどのことでも無さそうですね。
 前のメールのタイトルにあった「ここまで来たら突っ走れ」の通り、何とか8月末にひとまず終了できるように、後一回くらいでフィニッシュへ走ります。スペイン語は例のボリビアからの留学生の関連があったのですね。その節はお世話になっていながら失礼しました。今日は、旅先で知り合った息子の友人がスペインに約1年間語学留学していて8月に帰ってきたのでその体験談を聞いたりして大変面白い一時を過ごしました。彼女はスペイン語を活かすなら次は南米かなとか言ってましたが、結構アンビシャスな若者もいるようです。(1999.8/29)

リスボン、シントラの素晴らしい眺望
[ムーア人の城壁からシントラ市街を見下ろす]  最後にリスボンの印象。夜行で往復したことになるのですが、パスポートコントロールも何もなく、僕のパスポート上はポルトガルに行った証拠は残っていません。ファドの所で書いたので付け加えることはあまりないのですが、着いた日が丁度また日曜日でした。リスボンだけかポルトガル全体か知らないのですが、リスボンでは美術館や博物館は日曜日は午後2時までは無料なのです。こういうサービスは嬉しいし、国民にとっても素敵なことですね。それとスペインでは美術館の類は65才以上は割引(大半は半額)ありが多かったです。お義母さんが72才ですから結構恩恵に浴しました。これは前から感じていることですが、日本の美術館などに比べて入場料が格段に安いヨーロッパで更にこういうサービスというのは文化政策の問題なのでしょうか。モロッコで少し知り合いになったカナダ人一家が言っていた「日本に旅行したくてもtoo expensive!」というのはこういう面からも言えるのかも知れません(これまでも何度かこのセリフを聞きましたが)。
 リスボンから電車で1時間ほど行ったところにシントラという街があります。ここは世界遺産にもなっていて人気の観光スポットです。ここから更に小1時間バスで西に進むとユーラシア大陸最西端と言われるロカ岬があるのですが、僕たちは時間の関係もあってシントラ止まりでした。ここも国王の離宮か何かで、まるでおとぎの国のようだとか言われるそうですが、それはさておき、そこから更に登るとムーア人の城跡が在ります。凄い曲がりくねった道をバスが運んでくれるのですが、ここからの展望は超一級です。ムーア人というのはベルベル人のことでアフリカ北西部(モロッコ辺り)の人々のことですが、そんなことはどうでもいいのです。この旅に限らず、人は見晴らしを求めるものですから色々な眺望を体験していますよネ。今回でも、マドリッド王宮から、グエル公園から、サグラダファミリアから、タンジェのカスバから、グラナダのアルハンブラさえ見下ろせるサン・ミゲル・アルト教会前から、セビーリャのヒラルダの塔から、そして、リスボンではベレンの塔や発見のモニュメントの上から(坂の街らしくここは色んな所からの眺望が素晴らしかったのですが)、そして、この後になりますが前に書いたトレドの街全体を見て取れるトレドのパラドールから、と枚挙にいとまがないほどの眺望を堪能したのですが、文句無しにザ・ベストはこのムーア人の城跡です。ここは特に何かの建物が残っているわけではないのですが、万里の長城みたいな壁が残っているだけで、そこを登っていくと展望台みたいになっていて270度くらいの展望が開けるのです。真下にシントラの街、右手にリスボン市街やテージョ川、左手の彼方に大西洋という訳です。そそり立っているような地形なので少し怖いくらいなのですが、別に転落の危険はありません。
ジブラルタルを渡ればそこはタンジェ
[タンジェ(モロッコ)の街路の朝]   もう一つ最後にモロッコのタンジェ。ここを旅の中盤にしたのは正解でスペインの旅の小休止にぴったりでした。ジブラルタル海峡は是非渡ってみたかった。でも予想に反して結構豪華なフェリーで驚きました。アルヘシラスから2時間半。ジブラルタル海峡はアフリカとヨーロッパを結ぶだけならもっと近い距離なのですが、船はかなり東から西に走るのです。昨日書いた彼女の話によれば、タンジェはモロッコの中でもヤバイ街の筆頭でサッと通過したそうですが(留学中の終盤にモロッコへ旅行)、僕たちの印象はそれほどでもありませんでした。もっとスペイン化されているかと思ったのですが、そこはキッチリとイスラム・アラブ世界でした。確かにこの人達は何をして暮らしているのかと思うほど人は町に溢れていたし、昼間から男がたむろしていると気味のいいものではありませんが、そんなことは例えばナポリだって同じです。こういうところに限って暇だからでしょうが道など尋ねようものなら何人もの人が我先に教えてくれます。しかし、今書いたように、メディナという旧市街は人が一杯で、市場や商店街は狭い路地でも、チャントした店以外に露店があって、そんなモノ売っていて生活できるの?と思わせるくらいずっと人が並んでいるのです。残念ながらまだイスラム・アラブ世界に足を踏み入れたことがないので初体験でした。ホテルの近くにグラン・モスクもありましたから例の日の出前から起こされるという体験もしました。さすがに女性がみんな目だけ出しているということはなく、服装も少しバリエイションがありましたが、可成りの人はこの暑い時にジャバラという上着を着、何らかのスカーフを巻いていました。タンジェにはキリスト教の教会もあるので、余計にミックスが当然なのでしょうが、やはり不自由な感じは否めませんでした。物価は更に安く、3つ星ホテルの上級でトリプル3600円という感じ。いくら両替すべきか随分迷いました。人々はなぜか誰でも僕達を見ると「コンニチハ、サヨナラ」と声をかけてくれるのですが、自称ガイドが減っているとは言え、ガイドの押し売りに会わないかという警戒感が先に立って、ちょっと戸惑いの多い1日半でした。
 文章ではピンとこないことも多いでしょうね。また機会があればアルバムとかも見て下さい。その他役立つ情報はホントに旅に出かけられる時にでも。お陰で何とか8月末に間に合ったようです。(1999.8/30)




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