『僕たちの建て替え奮戦記』

[完成後の家・全景]

はじめに
 僕達の家の建替えが大変難航したことは多くの方がご存じの通りです。
 何せ、期間が足かけ3年にわたっていますし、困難に遭遇する度に職場や組合の仲間、地域の友人に愚痴ったり、助言を求めたりしてきていましたから、この「事件」は結構広まっています。ただ、話は断片的にならざるを得ませんでしたし、ほとんど具体的なことはお知らせしていない方もあります。
 大体、完成の目処がつき始めた頃、この文章を書き始めました。ご心配をおかけした皆さんへのご報告とお礼のため、そして、一般化はできないかも知れませんが、これから家を建てる計画のある方には参考にしてもらえるかと思い、キーを打ちました。私達自身の覚え書きでもあります。
 一応無事建築が完了した今となっては、憤りや恨みは逓減していって、「日本経済の現状との関連で考えると…」等と言える余裕が出たりしています。誰が加害者なのかがよく見えない時代なのでしょうか。
 SPECIAL THANKS TO … という風に書くと、きりが無いほど多くの方にご心配とご迷惑をかけ、援助と励ましを受けました。本当に有難うございました。
 艱難辛苦と感動が詰まったこの新居に、是非、立寄り、ご見学下さい。
                                       弘志&恵子  【96・9・23】

  
第1章 部材確保、佐久への緊急出動
 ようやく床工事が始まった。このまま新年に引き継がれればと、
 期待の96年幕開けだったが…
 足掛け3年(94年春〜96年夏)に及ぶ今回の建替え騒動にはいくつもの山場があるが、なかでもその最大のものは建築資材保全・搬送の数日間であった。この行動は、そのドラマ性、広域性、ネットワーク(人々の支援)で、他のどの局面より印象深く、今回の事件の象徴的出来事であったと言える。また、この行動を通じて多くのことを学べたという意味でも私達にとって貴重な体験となった。
 この行動は前半戦の終わりを示す事件であったから、時期は96年当初まで下ることになる。95年年末ようやく、工事再開。8月の初めからそれまでの5ヵ月近く、地下と基礎のコンクリートのまま放置されていた建築現場に根太が張られ、とにかく矩体だけはグローバルハウスが完成させ、後を土井住宅産業がバトンタッチするという見通しで新年を迎えることができていた。この年末は例年にない積雪もあり、工事に手間取ったものの、そして、たった5日間という短期間(だから、1階の根太まで)であれ、山崎さん(東京)・滝沢さん(岩手)の二人が遠路はるばる駆けつけてくれ、工事が始まったということは画期的なことだった。この二人に、新年も来てくれることを期待しての家族挙げてのもてなしをしたことは言うまでもない。
[95年大晦日の日。根太部分がほぼ完成]  年末にも、宮崎さん(後述するが、実質上のグローバルハウスの責任者)から電話があり、なんとか無事に年を越せそうな状況であることを聞き、ほっと胸を撫で下ろしていた。ただ、新年の工事計画は「彼ら(山崎、滝沢)と打ち合せをしてから」と聞いたままになっていたが、まあ、色々事情もあるから、新年に連絡をくれればそれでいいか、と思っていた。越年のための諸活動で疲れてそれどころではないとしても不思議ではなかった。
 新年の仕事初めは、常識的には5日くらいからだろうか。しかし、その日に東京のグローバルハウスに電話しても不在。翌6日は土曜日、この日も不在。滝沢さんは東北の人だし、週明けの月曜、8日からスタートすることもあり得ることだと考えたが、少し不安を覚える。衝撃的であったのは、その8日に電話しても不在であったことではなく、長野の工場に電話し、出られた粕谷さん(すでに一人だけになっていたようだが、工場長)が「私も宮崎さんと連絡がつかずに困っている」と言われていることだった。明らかに、一線を越えていた。これまでも危険を抱えていたグローバルハウスに異変が生じていることがはっきりしていた。よくは判らないが実質「倒産」は間違いなさそうだった。
 パネル化された我々の部材を確保し、搬送することが緊急の課題
 いろいろなルートで準備開始、目が回る3日間
 となると、大変な事態になることは判るが、とにかく、被害を最小限に食い止めることが当面の課題になる。長野の工場には、設計図に基づいてパネル化された部材がある。それを保全し、とにかくこちらに搬送することが先決だった。倒産ということになれば、ドラマなんかでよくあるように、債権者がそれらを含めて値打ちのあるものは何でも片っ端から持っていってしまうということは十分考えられるだけに、急がねばならなかった。大学時代の後輩でこの間相談に乗ってもらっていた森弁護士からも「急いで行動した方がいい」というアドバイスだった。幸い、昨年の10月に恵子と大亮がその部材の状況を現地へ行って確認し、「引き渡し確約書」をもらってきていたので、粕谷さんはそれを忘れていず、確保しておくから早く来てほしいという意向だった。大変不安な様子が電話の向こうから伝わってくる感じで、東京も大阪も電話が通じないなか、長野には次々と電話が入って、何が起こるのか判らないという状況のようだった。
 こうして、8日から慌ただしく対策を講じることになるが、何せ、初体験のことばかりで、戸惑いながらの作業になっていく。先ず、搬送の依頼。電話帳で運送会社に電話するが、名の通った会社(日通、西濃運輸等)はこういうことには不向きだった。こういう会社はパックされたものを幌付きのトラックで運ぶことが前提になっているから、こういう形状のものを運ぶとなると、追加料金がかさむことに気付かされるまでにだいぶ時間がかかった。運ぶ部材の量さえ正確に言えないのだから、馬鹿にされるような状況で、時には喧嘩腰になることさえあった。結局、「重機」部門の運送会社を探すしかなく、これも電話帳で高槻に行陽陸運というのがあり、聞いたこともない名前だったが、対応はよく、この数日大変お世話になることになる。手慣れたもので、倒産絡みであることも了解した上で、後は、日時とトン数、台数をどうするかを、係の吉川さんと電話連絡することになる。これ以降、「餅は餅屋」を実感することしきりとなる。
 こういう事態だから、業者のみなさんに任して、「よろしく」では済まず、我々が現地に出向かねばならないことは明らかだった。ただ、3学期が始まったばかりのこの時期に、どうやり繰りを付けるのか。私達夫婦のどちらも、当初はまだ事態の深刻さが解っていなかった。現地は長野県南佐久郡。そう簡単に行けるところではなかった。その上、例年になく降雪が多い年だった。大阪でも珍しい積雪があり、その勢いは止まない見通しだった。ただ、当初はこのことが今回の行動に幸いするとは思ってもみなかった。この雪の中、車で出向くことは危険であった。プロのドライバーでも難儀していることが伝えられていた。鉄道で行くしか方法はなかった。そこで困ったのは、工場がどの辺りにあるのかが正確には判らないことだった。恵子も大亮も、以前出向いた時にはグローバルハウスの宮崎さんの車に同乗していたし、帰りも車で塩尻まで送ってもらったので、最寄りの駅が判らない。
[後日、建設途上に訪れてくれた木内夫妻]   そこで思いついたのが、木内だった。弘志の大学時代のゼミ仲間で、中小企業金融公庫で働いていて、転勤が多いが、今は西宮にいる。1年ほど前ゼミ仲間で家にも行っていた。彼が南佐久の出身であることを思い出したのだ。電話すると「その辺のことなら何でも判る」と言うだけではなく、「そういうことなら、もっと早く電話をくれれば、相談に乗れたのに。向こうへ行くならお役にたてそうな人がいるから、また連絡を」ということだった。その時は、あんまり迷惑をかけるのも厭だったし、自分たちが頑張るしかないと思っていたので、「地域の有力者」みたいな人に大きな関心を払っていはしなかった。最寄りの駅が小海線の臼田ということが解っただけで取りあえず十分だった。
 後は、誰がいつ行くか、だった。粕谷さんが居てくれなければどうにもならないから、その交渉もあった。相当動転されているから、自宅の電話を聞き出すののも大変だったが、恵子が拝みまくってやっと教えてもらい、「12日なら」となっていた。グローバルの営業だった有園さん(8日にやっと連絡がつき、年末でグローバルを退職されたことを知る)にも同行を要請するが無理ということでそちらから粕谷さんに依頼をしてもらったりもした。10日が丁度弘志の学校の創立10周年式典で、市民会館から電話連絡をすると同時に、時間割りの振り替えで休む手筈を整えていった。大亮は年度末の試験で身動きが取れず、当初は11日に恵子が先着し、12日に弘志が追い付くという予定だった。しかし、木内からも「こういう業界にいるから判るけど、不安定な事態になると債権者の動きは早い。ゆっくりしていたら取り返しがつかなくなる」というアドバイスが入った。摂津教組の楠さんからは「女性一人で行くのは危険、対応できなくなる可能性がある」と忠告。結局、急遽10日夜に予定を変更し、11日に弘志・恵子の二人で、とにかく現地へ向かうことにする。そのための授業変更は複雑を究めた。職場の同僚は事態の粗方を知って居てくれたからと言うものの快く協力してもらい有り難かった。大阪教組の合宿は12日だったのでこの方は早くにキャンセルの連絡を取った。13日が第2土曜だったので、成人の日まで3連休だから、結果的には5連休になった。
 行陽陸運とのやり取りも時々刻々変化したが、吉川さんも快く対応してくれた。とにかく量の把握が現地へ行かないと判らないから発注すべき台数が不明確。その上、降雪は激しくなっていたので、調達も難航。台数が多くなると、業者のネットワークで調達するから、台数の変動は混乱をもたらす。運び出しの日時も正確に定まらない。週末はトラックの調達が難しいという事情も加わった。何度電話連絡を取ったことだろう。
 とにかく何が起こっているかわからない現地・佐久へ
 ネットワークの強み、強力なサポーター現れる
 とにもかくにも、現地に行かないと始まらない、という気分で早朝から出発したのが11日。ただ、不案内の土地だけに不安は大きかった。そこで、心強いサポーターになるのが木内の紹介してくれた新海さんだった(大雪でなかったら木内にも電話さえしていなかったのだが)。電話で話のあった臼田地域の有力者。文字通り力の有る方で、湊総業の会長で、湊組土木・湊燃料等もあり、地域のミニコンツェルンの総帥のような方だった。実際に対応してくださったのは弟さんで専務の正則さんだった。木内の遠縁にあたり、中小企業金融公庫としての取引もあったようだ。佐久へ向かう途中の新幹線の中から電話であいさつをし、依頼する。問題のグローバルハウスの工場というのは別会社になっておりトーツーコーというのだが、その斜め裏手に湊組土木の作業場があることもわかって、なんという奇遇。また湊燃料が灯油を納品しており、社員に聞いたら粕谷さんは真面目ないい方だという評判まで入っていた。専務さんに乗り換えの小淵沢から電話したら、粕谷さんから「早く来てほしい」という電話が入っているとのこと。12日でないと困ると言われていたのだが、事情が変わったようだ。
 6時ごろ家を出たが、列車を乗り継ぎながらの佐久行きは時間を取り、臼田駅に着いたのは1時前だった。雪は止み、天候は急速に回復し、小海線に乗り換える小淵沢駅からは富士山も見えるくらいだった。湊総業の事務所からトーツーコーへは車で1分もかからない近さだった。弘志には初めて、恵子には2カ月半ぶり2度目の工場だった。初め無人に見えたが、やがて粕谷さんが窓から顔をだされ、工場内に入り作業手順の相談が始まった。可成の広さだったが、ウチの部材以外にそれほどたくさんの資材があるわけでもなかった。しかし、「この部材は○○のものです。無断で持ち出せば法的措置を取ります」というような貼り紙をしているものもあった(こんな貼り紙にいかほどの効力があるのか判らないが)。今のところ、暴力団まがいの人々が乗り込んでくるような気配はなかった。作業の途中、青森から大型トラックが運転手さん一人だけで差し向けられ、10トントラックに7割程度の積み荷で平和裏に帰っていったくらいだった。
 取りあえず、この工場から運びだし、湊組土木の作業場へ運ぶ作業を開始しなければならなかった。専務さんが指図してくれるので、我々は手作業を手伝うだけだった。湊総業のクレーン車(ユニックという)を使い、粕谷さんが運転するフォークリフトが動き回り、手で運ばねばならないものは専務さんと我々が運んだ。作業が始まった頃、年末に来てくれていた大工さんの山崎さんが現われ、驚く。粕谷さんに電話したら来てほしいということなので、佐久まで来たと言う。年末の給料ももらっていないままなのに。しかし、精神的にも参っている粕谷さんには絶好の相談相手、協力者で、心なしか粕谷さんも明るくなっていたようだ。山崎さんには、これから始まる高槻の工事で判らないことがいっぱいあるのだから、ぜひ来てほしいと、頼んだが、「まだ体の調子(喘息)も良くないので、様子をみて連絡する」というままだった。それから1ヵ月ほど後に急死されることなど知る由もなかった。
 冬の日の暮れは早い。積雪が邪魔になることはなかったが、いかに斜め裏とはいえ、部材の積み降ろしは大変だった。最終盤には湊組土木の仕事帰りのユニックが加わったが、すべての作業が終了したのは5時間ほど経った6時半だった。日があるうちに終わらねば大変面倒なことになるところだった。こうして搬出が終れば、後はこれを高槻の土井住宅産業の資材置場に運び込む作業だった。土井住宅の田中さん(後述するが、現場監督)とやり取りをして、とにかく運び込めるスペースを確保してもらっていた。もっとも、土井さんも降って湧いたような話に困惑され、場所の変更とかもあっが、運送業者が高槻なので話は通りやすかった。ただ、行陽陸運に一旦12日で手配を頼んだトラックはキャンセルしていた。現地へ行かなければ判らないし、現地での調達の方が経済的という判断もあった。新海さんの知り合いの運送業者も来てくれたがこういう積み荷は背が高く無理なことが判る。結局再度手配を行陽陸運に依頼したが、各社にキャンセルした後で、「もう1日待ってもらわないと無理」の返事。
 こうして、新海さんの車で中込駅前の佐久グランドホテルまで送ってもらい、長い1日は終った。夕食の信州名物ほうとうに舌鼓を打った。そして、翌12日はトラックの手配が出来ないので、ポッカリと空く1日になった。13日の為にフォークリフトと運転の手配だけを新海さんにお願いし、12日は、行陽陸運と土井住宅との詰めだけが残った。
[ポッカリあいた1日、佐久の旅。蓼科山と小海線]  そういう訳で、12日は「結婚25周年・佐久の旅」になる。天気もよく、浅間山と蓼科山を眺めながら千曲川で遊び、佐久を散策することになる。太鼓楼・近代美術館を巡り、百萬里温泉ゴールデンセンチュリーホテルという大層な名の温泉付きの宿舎に泊まった。色々な風呂が用意されていて、国道添いで外で仕事をした人も疲れをとっていくようなホテルだが、料金先払いで、そのためもあって何と部屋に公衆電話があるのには驚いた。だが、これは連絡を頻繁に取らなくてはならない僕達にとっては打ってつけのシステムだった。
 遂に、重機専用トラック5台で高槻へ部材搬送
 「餅は餅屋だ」、プロの仕事に舌を巻く
 13日は午後からトラックが来るという約束なので、午前中、会長の新海湊さんのご自宅を訪問し、お礼の挨拶をし、のんびりと歩いて湊組土木の現場へ向かった。会長さんといってもまだお若く、気さくな感じの人で「あんたら木内さんと同じ大学なら賢いんだろうけど、騙されちゃって…。マア、先生してるなら人を信用するのが仕事だから仕方ないか、ハッハハ」と慰め(?)られた。現場でトラックを待ちながらパンでも食べようかと思っていたら、何ともう何台かトラックが来ていて、作業が開始されている!すでにフォークリフトも運ばれ、運転手さんも作業中だ。休日なのに専務さんも来てくださっていた。パネルの形状が複雑なためパレットで立て、残りをセットしたり、ツーバイフォー材が長くかつ重く、上手く積み荷にすることは結構難しい作業だった。何度か積み替えもした。12時過ぎには、行陽陸運のトラックも着き、そのリーダー格の人が指揮してくれてある程度目処がついてきた。ただ最後に少しだが残りそうな気配で、この際もう1台頼むくらいなら、コンパネだけは放棄しようとも考えた。専務が「こちらは置いていってもらうのは困るなぁ」と言ってくれ、結局何とか全部材の搬出は終りそうだった。 [粕谷さんが造ってくれたパネルを積み込むトラック] [パネル以外の材木も積み込む10トン車]
 それにしても、長距離トラックのこの部隊を見ていて感心してしまった。先ず、この何台かは混成部隊で、名古屋、滋賀、堺、そして高槻なのだが、まるで知り合いのように打ち合せをしながら作業が進む。それも、押しつけ合うのではなく、「内の方は少し高いものが積めますから、これはこちらに積みます」という具合に協力的なのだ。長年の作業経験がそうさせるのか、スムーズだった。そして、積み方も上手い。見ていて「この人たち賢いなぁ」と感心。人柄も、予想以上に穏やかで、紳士的だった。堺の人は少し荒くれっぽいところがあったが、話してみるとずいぶん善良そうな人だった。積み荷を終えてロープを張ると、現場を離れていくので、もう行っちゃったかなと思っていると、1時間ほどすると「いいですか」とあいさつしてスタートする。その間にシートをかけているのだ。その辺も手慣れたもの。こういう仕事は一匹狼的だが、協力態勢もあり、結構面白いのかもしれないと感じ入った次第だ。
 翌日と翌々日は連休なので、この間に届けてもらうと却って休日料金を取られるが、平日(16日)に届けてもらうとその必要はない。受け取り側の土井さんの都合からしても、その方が望ましいことだった。早くトラックが到着した分だけ早く作業が進んだのか、4時過ぎにはほぼ積み出しの目処がつき、来たのと同じ経路でこの日のうちに帰れる電車に間に合いそうだった。暮れかかった臼田までの道を大急ぎで歩いた。5時前、切符を買うのに手間取って危うかったが、小海線のワンマン列車に飛び乗ることができた。こうして、色々な人の援助を受けながら、搬送の行動は一応無事終了する目処がついた。目一杯ではあれたった3日間だったが、長いものに感じられた。高槻にはその日の24時前には着いていた。翌々日の15日、田中さん・有園さんと搬入について打ち合せ。撮ってきた写真で嵩を示しながら収納場所を検討してもらい、結局本社近くの駐車場に野積みで置いてもらうことになった。いくら何でもこれ以上職場を休むわけにもいかず、かと言って土井さんに任せっぱなしにすることもできず、駐車場への搬入には友人の荒木・北村の両氏に手を貸してもらうことにした。16日、久しぶりに出勤する我々の車の前を我が家の資財を積んだ行陽陸運のトラックが横切っていった。勿論、偶然の出来事である。
 この行動で運んできた部材の価値は荒っぽい見積もりで約470万円分。この行動に必 要だった経費は行陽陸運への支払い48万円等、約80万円。差し引き、約400万円の価値 ある行動だったことになる。

第2章 何故困難に遭遇したのか
 建替えは何故必要だったのか
 どうして輸入住宅を選択したのか
 さて、一番最初に戻って、この建替えのそもそもの起こりであるが、それは恵子からの提起で始まる。途中一、二度、弘志は「このままでいいんじゃない?」と思う局面があった。前の家でそんなに不満は無かったし、むしろ気に入っていた。それと、前の家は幸か不幸か違法建築(増築による)だから家の建坪そのものは意外と大きく、建替えによって却って建坪は小さくなるのだった。しかし、恵子の言い分には納得するものがあり、その提案を受け入れることになる。それは、このまま一生この家がもつのかということだった。それが無理で、いつか建替えするのなら早い方がいい。その理由。
 @歳を取ってからの借金は厳しい。
 A同じ住むなら自分たちの好みの家に住む期間が長い方がいいに決まっている。
 B今の家でいいと言うが、風呂やトイレが台所にくっついていたり、歩の部屋にまっ たく窓が無かったり、客間が無かったり、改善すべき所はいっぱいある。
 C子供達がやがて出ていくとしても、この家に思い出が残っている方がいい。そのた めにも早くその部屋を作った方がいい。
 提案者が積極的にプランを考えるのは自然の成り行きだった。そういう意味では、一貫してリーダーは恵子の方だった。早くから住宅関係の雑誌を読み、展示場を見学し、その種の講演会で話を聞いたりという日々が続いた。その中で、絞られていくのがミサワホームと輸入住宅関係だった。ミサワはそのセンスの良さ。輸入住宅はフローリングとペアガラスの窓に魅力があった。先ず先行したのはミサワだった。土地の計測から始まって、第1弾の設計見積もりはミサワからだった。しかし、いまいち惹かれるものがないまま、ミサワは脱落していくことになる。その理由。
 @価格的には高くないが、その分、結局ありふれたものになる。
 A無垢材のフローリングやペアガラスの窓にすることはできるが、その分価格がアッ プし、坪単価80万円程度になる。それなら輸入住宅の方が却って割安。
 B担当者が悪かったのかもしれないが、こちらの言う通りの設計しかしない。プロな らプロのアドバイスがあってもいいのに、工夫が見られない。
 C本格的な設計見積もりをするには、50万円の設計料が必要。契約しない時には返す とはいえ、抵抗感が大きかった。
 こういう理由で、本格設計前にミサワは一旦ストップする。平行して輸入住宅の研究が進む。一番初めに見学に行ったのはノルディスカ・ヒュース・ジャパン。豊中にモデルハウスがあり、行ってはみたが、土地の広さや予算を聞いて、係の人も「それは他を探した方がいい」と言わんばかりの対応。ここは北欧系で高価。北米系にするしかない感じ。さて問題のグローバルハウスとの引き合いが始まったのは、94年の夏ごろだろうか。恵子が資料請求のハガキを出していたから、どうですか?という電話が入り始めたのは、5月頃だった。電話があった時いつも恵子が居ず、弘志が「いずれにしても、息子が浪人中なのでそれに一定の目処が付かないと本格化しないですから、また電話して下さい」という対応で終っていた。初めて有園さんがセールスに来たのは7月中旬だった。見込みがあると思われたのか、7月の末には宮崎さん(父)も同行して詳しい説明を受けている。7月29日に宝塚、8月14日枚方、23日奈良のグローバルの物件の見学をしている。可成、この方向に傾いていることが判る。ただ、同時平行でインポートハウジングにも引き合いをしており、8月23日の奈良のグローバルの物件を見たその足でインポートの建築中の物件も見学しているし、9月23日にはインポートの増山さんという人のセールスを受けている。最終的に、10月6日にグローバルとの終盤の交渉を行ない、9日に契約に至った。時期的に急ぐ必要はなかったが、大亮が大学合格決定後(2月下旬)すぐ解体作業を始めるとすれば、色々な打ち合せもあるので、年内の早いうちの契約は好ましい線だった。早くから準備をしておいて早期着工・早期完成を目指していたのだったが。
 グローバルハウスを選んだ理由
 3分の2もの大金を先に払ってしまった!  それなりの理由が無いわけではなかった
 なぜ、グローバルを選択したのか。
@インポートの見積もりは荒っぽく、坪単価がまずあって、それに特別なもの(オプション)を付加していくという計算方式。グローバルの方は一から積み上げていく方式。この方が透明で、今後、仕様や材質を変更した時に、プラスマイナスがはっきりする。
Aインポートの企業としての体制が好ましくなかった。社長の態度が横柄で自信過剰。東京にしかスタッフは居ず、連絡も取りにくそうだった。社長のお兄さんは関西在住の大工さんで、奈良で会ったが頑固そうで、希望を言うのが困難のように思われた。グローバルの方は有園さんが大阪に営業担当で居り、対応も誠実な感じで色々と好都合と思われた。実行は現地の大工さんになるから、若干の不安が無いわけではなかったが、すでに何件も建築の実績があり安心できた。3軒の現場を見学していたし、そこでの顧客の反応も良好だった(有園さんとの関係を含めて)。
B価格や、構造(特に地下室の天井の高さ210センチ、床合板の厚み28ミリ)は、いく つかの比較やすりあわせの結果、ほぼ同じくらいになり、グローバルの最終の300万円 程の値引きで、インポートに比べ100万円程低くなっていた(後から考えるとグローバ ルは契約欲しさにこの辺は相当無理をしていたようだ)。
 契約の10月9日には当然、宮崎専務が来られ、これも今から思うと、普通以上の喜び方だった。成約が喜ばしいことは自然としても、特段の感慨があったようだ。最終的に4095万円で契約したが、こういうものは施主の資金計画、懐具合に寄り掛かって決まっていく側面があって、これもそういう産物であった。だから値引きの理由とされた円高還元、完成後モデルハウス的に見せる、というのもどれだけの意味があったのかよく判らない。
 ただ、このころ急激な円高が進んでいたことは間違いなかった。こういう客観情勢が、「僕達の失敗」のベースにあったのだ。今回の困難(損害)の元凶は「請負代金の払い過ぎ」にあるのだが、取引の常識を逸脱したこの対処の決定は契約成立後のちょっとした雑談の延長上でなされた。資金計画はこうなっていた。
◆自己資金約1400万円+住宅金融公庫借入3200万円で合計4600万円。
◆グローバルへの支払い約4100万円+その他費用(解体費用、税金等)400万円  +雑費100万円しめて4600万円。
 支払い計画としては、契約時550万円で定額貯金の解約を充てて支払った。後は、日 教済の年金共済の任意積立の解約が間に合わないので12月末に900万円払う予定だっ た。これだけなら、契約金額の約3分の1で常識的な線だった。ところが、宮崎専務から「円高差益を還元させてもらっているが、今後の円高傾向を考えると、輸入資財の調達を効率的に行なうために、資金を調達しておきたい。住宅金融公庫からの融資は決定しているが、実行は検査の関係で定かでない。こういう時に繋ぎ融資がある。銀行とかが貸してくれるので、それを借りてもらえないか。利子は当社が負担するので迷惑にはならないから、お願いしたい」という提案があった。まさか事態がこのようになるとは予想していなかった我々はいとも簡単にこの提案を了解した。大幅な値引きをしてくれているし、円高をうまく活用できるのは輸入住宅ならではのメリットなのだから、何となく事情は理解できた。それに利子がグローバル持ちなのだから、痛くも痒くもないと思ったのだ。土地が抵当に入るからその手続きなど面倒ではあったが、それ位の協力は惜しまない心積もりはあった。  そして、10月27日、土地の評価(実勢価格の7掛け?)に基づいて2150万円が繋ぎ融資として実行された。融資元は後から大騒ぎになる住専のひとつ日本住宅金融で、弘志の母親も同席して契約が交わされた。利率は6.7%、利子先払いという今から思えば条件は良くない借入だったが、自分が負担するわけでもないので、この時は気にもしていなった。担当の川島さんと子供さんが小学生だったりして、学校教育の話をのんびりしていたが、川島さんは日住金の行方を知っていたのだろうか。この年の年末に先の日教済の解約分900万円を日住金に払込み、繋ぎ融資は1250万円に減り、先払いだっ た利子相当分は返却されたが、勿論それはグローバルに振込んだ。
 こうして、基本的な契約関係の事務作業は終了し、後は大亮の入試が終り、進学の目処が立てば引っ越し。解体作業、建築開始と続くはずだった。設計の細部の詰めも何度か行なったが、楽しい作業だった。早々とリビングに置くテーブルを買ったりして(結局2年近く預かってもらう羽目になる)仮住居への引っ越しを待つ日々だった。
 地下工事と3階建てに不安を抱く隣家との交渉に手間取る
 基礎・地下工事が終った時には、当初の完成引渡し時期(95年8月)が来ていた
 これと平行して、隣家との建築に関わる交渉が浮上してくる。無論、解体工事に入る前に向う三軒両隣に挨拶を済ましていたが、両隣の反応はあまり良くなかった。3階建てであることと地下室工事を行なうことが不安・不満のもとだった。もとより、法的な制限はクリアーしている。建蔽率、容積率、日照、いずれもクリアーしなければ建築確認が下りないのだから、ギリギリとは言え、OKだった。南側のお宅は何度も市役所に出向き、クレームをつけ、市役所でも有名になったようだが、設計そのものはどうしようもない。ただ工事の進め方等について交渉の余地はあり得た。そういう話し合いを何度も持った。工事時間、曜日、大工仕事の仕方、電波障害等について覚え書きを交わした。それ自体は特別我々に不利益の有るものではなかったが、問題は地下室と南側さん側の窓だった。本当かどうか知らないが、高槻市内で地下室があるのは三軒だけで、工事による隣家の傷みについては予想できない。ということで結局、隣地に近接しないよう北側さん側の地下室部分を狭めざるを得なかった。南側さん側の窓は二階より上は極力窓を設けず、設けたものも目隠しをする、ということで合意せざるを得なかった。形状や色にまでクレームをつけられそうだったが、途中、調停役として入って下さった三英設計の板橋さんが「ここまで配慮された屋根の形状(小屋裏状とドーマ)で文句を言ったら恥ずかしいですよ」とたしなめられて、一件落着した。地下室の広さは今も残念ではあるが、致し方ない。窓も実際に住み始めて風通しがどうなるか判らないが、天窓で一応解決を図った。私達は色々と悩んだが、近代社会に在りがちな揉めごとの解決方法として「交渉と覚え書き」は止むを得ないと考えた。逆の立場に立てばそういう不安も解らないでもない。もっとも、その後始まる恵子の母宅の近くのマンション工事の騒音に悩まされながら、交渉さえ持てず、泣き寝入りしてしまうのだが。やっぱり執念の力は強い。因みに、調停に入ってくださった板橋さん(設計家協会の役員)は、南側さん達の依頼で来られたのだが、営利目的でなく第三者に撤しておられ結果的には私達が却って助けられる事態になった。その後、11月には摂津峡での大野遊祭(在日韓国朝鮮人団体主催)でばったりお会いしたり、グローバルハウスが一層危機になった時にはこちらから相談に伺ったりしてお世話になった。そして、土井さんのモデルハウスのオープンの日に出かけたら、そこに居られ、土井さんの仕事もされていると聞いて世間は狭いと驚いた次第だ。
 [半年以上放置されることになった基礎兼地下室]この交渉が済めば早速工事にかかれるものと思っていたが、そうはならなかった。工事の最初は地下室と基礎のコンクリート打ちだったが、見積もり額でやれる業者を探すことで難航しているようだった。これは最初から分かり切っていたことだが、263万円 強などでできる工事ではなかった。問題はどの程度のオーバーで発注できるかだったのだろう。結局、1ヵ月程を空費した後、村田工務店が請け負い、掘削が6月に始まり、完成したのは7月末だった。この工事自体は大変な作業だったが、地下故に必要な防水もきちっと施され、完成したコンクリート壁も厚いところでは20センチほどあり、頑丈な造りで、遅れながらも、ここまでは完璧な仕事だった。掘削の前には、ボーリング調査も行なわれ、ここは地質としては大変良好で、水が出ることのない保証もあった。
 この時点で、契約時に明記した完成時期に達していた。契約書によれば3月10日着工、8月5日完成。それも、こちらの引っ越しが早ければ、7月末完成ということになっていた。引っ越しは解体工事の遅れでズルズルいっただけのことで、早く行なったことになっているから契約は7月末完成ということになる。
 しかし、震災の影響もあったし、隣家との少しややこしい交渉もあったし、地下工事の発注の難しさも解らないではないし、ここまでは言わばリーゾナブルな遅れだったと言える。8月に入って、うわものの工事にかかれれば、晩秋から初冬にかかる頃には完成し、新年は新居で迎えられるから、この程度の遅れは許容の範囲内と思われた。ただ、弘志の母の家賃、恵子の母の家の家賃相当分、家族それぞれの精神的苦痛、を補償してもらうことでグローバルとは確約ができる(全く捕らぬ狸の皮算用になるのだが、月40万円で計算することになっていた!)。盆過ぎても工事に入れず、その理由は、設計の手直しに時間がかかってしまったということで、これで後は施工業者を探すだけという段階にきていた。後から考えれば、これが一番の難関なのだが、この時はそんなことが判るはずもなく、着工近しと思っていた。夏休み終盤の組合行事、秋の学校行事に忙殺されていった。

第3章 危険な会社グローバルとつきあう
 人から預かった金さえ、流用せざるを得ない会社であることが発覚
 関連会社が円高でピンチ、金はそこへ流れていく模様
 事態が相当深刻であることを知らされたのは、1本の電話からだった。我々が契約した後、その「選択の理由」をもとに、恵子の同僚の三崎(仮名)さんもグローバルと契約していたが、着工の遅れは同じだった。最終的に施工業者との請負契約が成立するのかどうか、が問題となっていて、それは三崎さんも、後で判るのだが茨木の人も同様だった。その三崎さんの家に、解体業者から突然電話があり「解体の時に灯篭を壊したことの補償をどちらがするかでもめてはいるが、解体費用を全く払ってもらえない。電話で追及しても、とにかく現金がないということで埒が明かない。三崎さんに言うことではないが、三崎さんがグローバルに払った金がこちらにきていないのだから、施主からも何とか言って欲しい」という電話が入ったのだ。これはグローバルの資金繰りが極度に悪化していることを如実に示している。預かった金を自社に流用せざるをえないというのは相当なものだ。円高の中で輸入住宅は追い風と思い込んでいたが、初めてグローバルの会社自体を問題にせざるを得なくなった。三崎さんが知り合いの銀行員に可能な範囲で調べてもらったら、グローバルハウスの業績そのものはそう悪くないが、関連会社の業績が良くなく資金繰りが苦しいようだという情報が入った。
 何度かの電話でのやり取りの後、9月23日には、三崎さんと共同で宮崎・有園さんから事情を聞く。専務の宮崎さんは病気で来られず、相当以前から娘婿の宮崎始さんが実質責任者として対応するようになっていた。事情聴取の結果は、
@施工の工務店が見つからないのは支払い条件で折り合いがつかないからだ。「完成時半額、残金は分割払い」という条件なので、これまでに付き合いのある工務店でないと難しい。
A既に払ってもらっている2700万円(三崎さんは1800万円)は関連会社に流れたと明確には言えないが、関連会社が厳しい状況であることは確かだ。
Bグローバルハウスの元々の本体は、日本橋工業所で、これは今島根に移転している。精密機械の部品を作っているが、輸出関連のため円高に対応できず、島津製作所の下請けなどしてきたが、円高で島津がオーストラリアに工場を建設して、取引がストップしたりしている。今再建中で、軌道に乗るだろう。宮崎システムは岩手にあるが、これは業績順調。グローバルハウスは15年程前倒産した会社を宮崎グループが吸収したもの(これも初耳だった)。有園さんも日本橋工業所からグローバルに移ったそうだ。
Cグローバルを初め住宅関連はトーツーコー、中央技研、北陽だが、こちらの業績は全般に良くない。受注はいくつかあるが、維持していくのは大変。宮崎さんが病気で倒れたのも不振の原因。
Dグローバルの克服策として、施工業者主体にし、グローバルは営業・設計に絞る方向でスリム化する。当面の資金繰りとしては岩手の工場の遊休地を売却してしのぎたい。Eもし、今解約するとすれば、支払った金は即金では払えない。分割払いになる。
 支払条件が最悪な中で、施工してくれる工務店を探し求めて…
 最後の望みだったヤマモト技研工業にも最終的に断られる
 前述した森弁護士の事務所にも三崎さんと一緒に相談に行ったりしたが、「結局取れるものは全て他の債権者に押さえられているから、今解約しても仕方ない。少しでもグローバルに仕事をしてもらうことが得策ではないか」というアドバイスだった(労働弁護ばっかりやっていると思っていたが、森君も結構民事もやれることに感心した)。これ以降不安を持ちながらも、工務店探しに寄り添う形で10月が経過する。この時点では専らヤマモト技研工業(解体工事をしてくれた会社。今までにグローバルとの請負で施工の実績がある)に的が絞られ、その交渉を逐一聞き、支払い条件を良くするよう我々がグローバルに要請するということの繰り返しになる。ヤマモトの担当者の服部さんに直接電話で事情を聞くこともあった。その対応は悪くなく、期待を抱かせるものだったから、あと一歩という感触もあった。しかし、煮詰まりそうで煮詰まらず、遂に10月18日、グローバルの浜田社長が来阪し、トップ交渉をするというので、我々も近くで待機し、条件的に折り合わないなら、当面、内が資金の保証(分割払い分)をすることを申し出てでも一気に決着を付けようとした。阪急宝塚線の中山駅まで弘志、恵子で出向き、有園さんと車で東京から来る宮崎・浜田両氏を待つ。何せ資金不足のため高速を使わず来るのだから大変な行動ではあった。遅れてイライラしたが、直接先方へ行っていることが判明。有園さんを送った後、我々はファミリーレストランで待機。この行動も大きな山場だった。弘志は21日から修学旅行だったから、安心して出発したかった。しかし、このレストランに現われた浜田社長はピントの外れたことしか言わず(「震災以降パネル工法の良さが評価されてきている、云々」。今更僕らに営業してどうするんだ!)、宮崎さんから「今日の段階では返事はノー。明日以降、別の条件を提示して交渉継続する」という報告を受けたので、取り合えず高槻に帰り、三崎さんも加わり対策を協議。この日から連日、夜1時、2時迄の三崎さんを含めた対策会議が持たれることになる。
 ヤマモト技研工業との交渉は最終的に不調に終った。支払い条件の分割払いの回数を8回から5回にするというような問題ではなく、グローバル総体の信用が維持できなくなっているということだった。この会社が宝塚にあって震災関連の受注がいくらでもあるという状況も災いしただろうが、事態はそこまで行ってしまっていた。服部さんが事情は解るから協力してあげたいと言ってくれても、どうしようもなかった。こういう結論は弘志は修学旅行の宿舎からの電話やファックスで聞くことになる。この段階では最悪の状況になった(まだもっと最悪がやがて訪れるのだが)。この間にグローバルの経理担当の緒方さんも高槻に来てもらい、資金計画について要請、追及する場面もあったが、結果的には、その約束も反古になっていく。
 こうするしかなかったが、グローバルハウスに賭ける決断
 矩体まではグローバルに、後は土井住宅産業に引き受けてもらう。
 この段階で、三崎さんと我々は同一行動をとらない事になる。三崎さんの場合、ご両親との同居になるが、その仮住居の期限、病気が優れず心配をかけられない、というような事情で、3月末完成が絶対条件だった。これ以上不確かなグローバルに付き合うことはできないと判断するギリギリの時期が来ていた。解約し納入金の返済を求めることになり、後はその分割払いの条件の交渉に移っていく。緒方さんとの話し合いもそれに関することだった。我々の方は、ここ迄来たら、グローバルをかませながら、建設開始を追及するしかなった。幸い、弘志の母も覚悟を決め、仮住居の延長はあまり気にしていない。弘志の修学旅行中に、先にも書いたが恵子と大亮が部材が確かに在ることを現認してきていることを生かす。そうなれば、グローバルの信用力では工務店を見付けられないのだから、我々が工務店を探すしかないという結論だった。いつまでもグローバルに関わっていていいのかは賭けだった。三崎さんとも話したのだが、この別々の道が吉と出るか凶と出るか判らなかった。
 早速、修学旅行の代休日には高校時代の同窓生である土井住宅産業の社長である文雄氏に会い、事情を全部話し、後を引き継いでもらえないか、要請した。まだ、この段階では1000万円を2月には支払うという約束が緒方さんと交わされていたが、それが不可能になった場合でも我々が責任を持って支払うことを条件にお願いした。土井住宅産業は本業が材木の販売だが、5年ほど前から建築にも手を染めており、顧客(大工さん)が在来工法であるため、バッティングを避けるためツーバイフォー工法でやっているから、輸入住宅を引き継いでもらうには好条件であった。26日の段階では、@ツーバイフォーと言っても色々あるから技術的にどうか。A職人さんの手配がどうなるか。B金銭的な面で折り合いがつくか。等が課題として提示された。それらを検討するためにも設計図を見せてほしいということで、勿論、翌朝には届けることになる。現場監督としてこの後田中さんを紹介される。建築の方は弟さんがやっておられるので、そちらとの相談もあるようだった。その頃、高教組の方も定時制問題で臨時大会があったりで、頭が混乱しそうだった。要請してから2週間後の11月10日、土井社長が自ら来訪するという連絡が入った時には、「やはり駄目なのか」と悲観的になったものだった。
 しかし、土井社長が来訪したのは、引き受ける用意はあるが、次の条件を了解してほしいということだけだった。とにかく輸入住宅を手懸けるのは田中さんにとっても土井住宅にとっても初めての体験なので、それによる若干の問題は覚悟してほしいというだけのことだった。具体的には、@作業手順が解らないために理解する迄時間がかかったりするから、工期については余裕を見てほしい。A輸入材を使うので、不足した時は国産ものを使うなどの対応はあり得ることを了解してほしい。B着工についても大工さんの手配がスムーズにいくとは限らないので、急ぎはするが確かなことは今言えないことを了解してほしい。C金額的なことも、こういう引き継ぎ的な工事でかつ輸入住宅であることから、予想しない出費もあるのでそれも了承してほしい。我々としてはこれくらいの条件は当然のことだった。こういうややこしい仕事を引き受けてもらうのに贅沢なことを言える筋ではなかった。こうして、土井住宅との基本合意ができ、やっと安心することができた。ただ、いずれにしろ、矩体を仕上げることが条件であることは、グローバルに通告することにした。土井社長も「その方が内も仕事がしやすくていいし、グローバルに少しでも仕事をしてもらうという点でもいい条件だ」とその方向を勧めた。
 この仕事の境界線でグローバルも了解した。後は、グローバルがいつ矩体を完成させてくれるかだった。その後に土井住宅が入って内装を中心に進めるのだが、そのための大工さんの手配がいるから、もうグローバルと我々だけの関係ではなくなる。グローバルが遅れると大工さんの手配が無駄になる。しかし、了解したものの実行は一朝一夕にいかなかった。よくは分からないが、宮崎さんは全国のもめごとの処理に回っているらしく、その合間に、こちらに差し向けることができる「手」を探しているし、そもそも持ち駒がほとんどない状態のようだった。有園さんも大阪にいても新たな引き合いはないらしく、東京本社に詰めるようになっていた。以前一度だけ高槻に来た小川さんは早くに辞め、設計の時に相談した田中さんも退職していた。東京の事務所に居たらしい女性も出なくなっていた。確かにスリムになっていた。そういう中で、高槻に人が差し向けられるのか。何度となく、宮崎さん、有園さんに催促し、人と部材の手配を要請するが、なかなか目処は立たなかった。とにかく、ここを乗り切れば、我々の損害はそんなに大きくなくて済むはずだったから我々も必死だった。地下と基礎で実質500万、窓・ 建具類で400万、部材600万、フレーミング工事(矩体までの工賃)で300万、設計料100万、合計1900万。これで、約束通り2月末に1000万円が用意できれば、お釣りが来るくらいだった。この時は、違約金(補償)さえ取れるかも知れないなどという甘い考えも少しはあった。「もうそれはいいんじゃないか」「いや、やはり約束は約束だ」等という今から思えば全くおめでたい議論をしていた
 そういうやり取りを経て、12月22日に、3人が長野を出発したというファックスが入った時は、またしてもひと安心だった。そして、冒頭に書いた95年年末から96年初めのあの一大事件につながっていくことになる。先には書かなかったが、岩手から来た滝沢くんは、岩手で採用され、コンピューターによる設計システムであるCADを勉強したかったらしいが、先ず現場を勉強、ということで、この1ヵ月運搬みたいなことで忙殺され、重労働ゆえにまだ貰っていない初給料を期待していた。ところが、高槻での年末の仕事を終えて東京に帰っても、賃金は得られず、そのまま倒産という最悪の使われ方をしたことになる。

第4章 計画変更、しかしコンセプトは生き
 倒産で約1300万円の損害が確定、約1000万円の借金増額
 大阪労金からの借り入れも難航、3ヵ月かかり、利率もアップしてしまった
 さて、苦闘の結果、部材は確保でき、最悪の事態だけは回避したものの、倒産によって被る我々の被害は95年末に考えたシナリオを遥かに超えていた。シュミレーションとして、いくつか考えたケースにあるにはあったが、それが現実のものになると厳しいものがあった。結局、お金を余分に調達するしか方法はないし、なにはともあれ土井さんが後を引き継いでくれることが確定した今、それだけが課題であった(倒産した時に、支払い済みの金の補償をする保険があると聞いたのは、取り返しがつかなくなってからだった)。先ずは、家族全員が自分の貯金を出し合うことから始まった。福祉の専門学校に進学が決まった娘の歩もアルバイトを始めており、その賃金やお年玉を貯めた分から全財産に近い20万円を拠出してくれた。しかし、そんなことだけだ賄える追加資金の量ではなかった。当初、ひとまず考えたのは「ある時払いの催促なし」で追加的に借金できる先だった。それは、今のところ全く資金援助をしてもらっていない弘志の母と「独身貴族」の立川(仮名)さんだった。しかし、当分の融通はいいとして、最終的には、借金の借り増しをするしかなかった。住宅金融公庫はこれ以上の増額は無理だったから、他の金融機関に変更するしかなかった。このころ金利が超低水準になっていたことも、その方向に駆り立てることになった。色々な銀行が低金利で宣伝していたが、やはり安心感があるのは大阪労働金庫だった。「いざ」という時に無理が聞いて貰えるのではないかという期待もあった。
 一体いくらの借金増額が必要か。換言すれば、どれだけの損害を受けたか。この計算は難しい。入手したものをどう評価するかは、色々の計算方法があり得る。例えばグローバルの利益分を見込むのかどうか。新たに購入する資財を定価で計算するのか、有園さんの紹介で安く入った価格で計算するのか、等。マア、ラフな計算で1300万円の損害といったところだろうか。当初の資金計画で多少の余裕をもっていたから、結局3200万円の借入を4200万円に増額することになる。金融機関は建設資金から計算するのではなく、担保価値と支払い能力で貸出を決める。担保には弘志の母の所有である土地が入るし、教員の共働きなら、4200万は貸してくれない金額ではなかった(ただ、30年払いで、78才迄借りることになるから、そんなことはあり得ない。後で「退職金で払う」ことを組合の委員長の保証の下、一札入れることになる)。
 12月末に借り替えの相談を始めたが、当初は詳しい事情抜きで、「金利低下故に高い金融公庫をキャンセルして労金で」、という線で話をすすめたが、いよいよ調査開始となると、施工管理者を聞かれる。見せている契約書はグローバルとのものだが、1月に入っていたから、そんなところに電話しても誰も居ない。迷惑をかけるだけだから、全部洗いざらい話すしかない。融資担当の神村さんは、親切に対応してくれたが、金額が大きいだけに、本店の審査があり、そこからは色々な書類、計画メモ等の提出を求められることになる。確かに住専問題がクローズアップされ始めた頃でもあり、杜撰な融資は許されなくなっていたのだろう。しかも、請負業者の倒産が絡んでいるのだから、慎重になるのは解った。ただ、いけないと思ったのは、本店審査に必要な人間が出張だとか研修だとか休んでいるだとか、話がスムーズにいかないことだった。そのために当初の金利が再び上がり始め、0.5%アップ、毎月の返済額にして1万円増になってしまった。勿論金利変動はあり得ることで、逆に契約が遅れるために金利のダウンということもあるのだが、割り切れないものを感じざるをえなかった。
 労金からの融資で最後にネックになったのは、グローバルの現状の確認と、なんと最初に書いた部材確保の行動だった。前者に関しては帝国データーバンクみたいなところに調査を依頼するしかないが、その料金はこちらの負担である上、時間がかかり融資が遅れる。後者もこういう倒産絡みにはありがちなことなのだろうが、厄介な問題だった。こういうことなのだ。もし、破産宣告され、管財人が決まれば資産の保全を行なうことが彼の最初の仕事だ。我々の行動が不当な資産の持ち出しに当たると認定される可能性もあるというわけだ。その場合、返却の命令も出る。「我々は債務者じゃなく、債権者なんですよ」と何度か言ったが、しかし、筋としてはそういうことも全く無いとは言えない。粕谷、宮崎連署の部材引渡し確約書も社印がないのは弱い、と言う。さらに、今の状態が問題で、95年末に、解約の書類を作成しかけてそのままになっていたから、契約関係が継続しているとなれば、引渡しまでは今ある物件は施行業者のものになる。ということは債権者の処理に委ねられることになってしまう。これに関しては、直ちに解約通告を内容証明・配達証明付きで送付した(配達証明は取れないと思っていたら、岩手が転送先になっていて届けられた)。
 こういう問題でやり取りしていたら、融資は先延ばしになってしまう。そこで、労金側の指摘する問題は所詮「金で解決」を図るしかない問題だから(返却といっても、内の家のために加工したものなど一般的には価値のあるものではないのだから相当分を金で支払うことになる)、その分を支払う用意があり、その負担能力があることを証明することで融資実行を要請した。負担能力は弘志の母の預金の写しだった。岡支店長と神村さん同席で話し合いの結果、それが認められ、ようやくゴーサインが出そうになったのは2月27日、実際に融資が実行されたのはその1ヵ月後の3月27日だった。この1ヵ月は全くの空費だった(前述した労金側の事情)。
 なにはともあれ、土井さんの下、工事は始まり、途切れることなく進み始める
 現場監督、アドバイザー、大工さんに恵まれ、いい感じの毎日
[スピーディに1階部分が建ち始める]  話は前後するが、土井さんとの当初の約束が変わらざるを得ないことになるのは当然だった。矩体工事は年末に1階の床を張りかけたところでストップし、グローバル倒産。計画が根本的に変わったのだから、対応に手間取るのは当たり前だった。こうなると有園さんの存在は貴重だった。矩体から始めるとなると余計に解からないことが多かった。輸入住宅と普通のツーバイフォーとでは微妙に違うことが結構あるようだった。そういう時にアドバイザーとして有園さんの役割は有り難かった。96年初め、グローバル関係者が雲隠れした時、同時に彼女とも連絡を取れなくなったから、その時は「ぐるみ」の雲隠れかと思ったものだったが、そうではなく、単なる帰省だった。そのことが分かるのは8日の夜だった。それまで必死の思いで彼女を捜し求めることになる。彼女が一番連絡がつきやすかったし、ここが切れてしまうことは致命的だと思われたからだ。建築確認書の入手から始まって、田中さんや大工さんへの工法の説明(特に窓やドアの取付け)、輸入資財の調達(これが経済的に助かることになる。グローバルに卸していた価格で受注してくれる。いかに見積もりより安いかが判り、儲けのからくりもよく解った)、色や柄の選定の相談と、田中さんが「苦しい時の有園さん頼み」と言われる程だった。住宅関連関係から就職を誘われることもあったが「今はもうしたくない」と言う気分が続いて、求職中だがなかなか簡単には見つからないで雇用保険受給中。そのためもあって、折に触れ来てもらえた。15年間この道で飯を喰ってきただけのことはあり、我々が聞いても異星人のような会話を田中さんと交わす有園さんだった。しかし、専門用語というのはなるほど便利なものだと尽々思わされた。そして、田中さんも謙虚に耳を傾けて下さり、大変良好な仕事関係が進んだことは好ましいことだった。
[頑丈さを実感できる柱部分を点検?]  そういう打ち合せを何度かやりながら、大工さんの手配がつくようになり、土井さんの下で着工したのは、2月6日だった。それから1ヵ月、3月9日には上棟式が行なわれた。この間は、これまでと違って、見る見る内に、立体的に建造物が仕上がっていくので、嬉しさもひとしおだった。そのベースには、佐久のトーツーコーの工場で粕谷さんが2ヵ月程にわたって作り続けてくれたパネルとカットされた根太があった。カラーマーカーで色分けされた設計図も1月に佐久で貰ってきていたから、それに基づいて、マジックで「1−12」(1階の12番)などと書かれた部材が接合されていった。設計変更がきちんと伝わっていず、元の設計図のままにパネル化されていたりして、「これは違う」という箇所もないではなかったが、概ね大きなミスはなかった。すでに、佐久からパネルを運ぶ時に、粕谷さん自身も、新海さんも、運転手さんも言っていたように、「頑丈で、ごっつい」フレームが組み立てられていった。普通のツーバイフォー以上に重ね合わせの材木が多い感じだった。根太も深いし、床合板もこだわった通り28ミリで作業は大変だったようだが、がっしりしたものが出来上がっていった。
 上棟が終れば、後は屋根。そして瓦工事が終れば、雨が降っても仕事に影響が無い状態にようやくなっていった。それは3月の終わり頃だった。ところで、グローバルの倒産如何にかかわらず、費用節約の意味もあって、水周りは恵子の同僚の夫である井上さん、電気工事関係は恵子の叔父岡田さんにやってもらうことになっていた。ただ、本来ならそういう人々のコーディネイトは有園さんあたりがやってくれるところだが、それはできない相談になってしまい、我々が田中さんとつなぎながらやらざるを得なくなって、そういうことでも結構時間を喰ってしまった。
 ここまで来たら、「資財」や「設計」を基本的に変更しないで完成へ
 誰がやっても大変な建築だったが、日数はかかってもいいものを
[地下室の床下に敷かれた炭]
 「損害を被ったから経費節減のために設計や仕様を変える」、そいうことはしたくなかった。一生悔いを残し、その度に今回の事件を思い出さざるを得ないというのはいやだった。もちろん、総てを総点検し、例えばパーマストーンを張る箇所を4面でなく3面だけに(ほとんど見えない北側をカット)したりした。しかし、輸入住宅にこだわったからこそ遭遇した災難なのに、その良さを消してしまうようなことはしたくなかった。とは言っても、そういう難題を田中さんが快く引き受けてくれることが幸いした。
[手間のかかるフローリングの作業]  こだわった資財のひとつだった「アンダーソンの窓」はその大半は95年の12月にグローバルハウスの手配で土井さんの倉庫に搬入されていたが、英文の説明書と有園さんの援助によって、3月の上棟式の後には順次据え付けられていった。流石にいい品物で質感があって満足のいくものだった。大型の窓などはすでに三崎邸で実証済みだったが4〜5人の手が必要だった。もう一つ、こだわったフローリングも4月には張られ始めた。これも手間のかかる仕事で、7〜8センチ幅の乱尺材を一枚一枚張っていくのだから、ワンフロワーを完成させるのに4日程かかっていた。更に、手間のかかる仕事だったのは3階の天井だった。すべてパイン材で、屋根の勾配に沿った(ドーマ部分が加わって)斜め部分が入り組んで、複雑な仕事だった。5月の上旬いっぱいが費やされた。棟上げの後は、基本的に二人の大工さんに大工仕事は委ねられ、こういうややこしい仕事を嫌がることなく進めて下さったのは宮本さんと若い中島君だった。この宮本さんが温和で、大変柔軟で、かつ仕事が丁寧で大助かりだった。気が短ければとっくに匙を投げていたに違いない。有園さんも電気の岡田さんもべた誉めで「今時、大阪に10人と居ない」と言うほどだった。その上、打ち合わせのミス(宮本さんは元の設計図通りに作業されただけ)で、少なくとも3回はいったん造ったものを取り外してもらうことまでお願いすることになったが、それも了解してもらった(さすがに快くではなかったが)。 [コーナーに暖炉。冬はこれのみで全室の暖房が可能]
 これは、恵子がこだわったものだが、デンマーク製の暖炉(ストーブ)も無事据え付けられた。外壁の1階部分のパーマストーンも高価ではあったがそのままにしたし、ストーブ周りの内壁もカルチャードブリックが張られ、個性的な仕上げになった。洋室の腰壁にレッドシダーが張られたことは言うまでもない。
 ほぼ毎日(毎夜)、その日の「作品」を見に行く日々だった。細かい注文を田中さんにお願いすることもしばしばだった。ここでもファックスが活躍した。口では伝えにくいことは図入りで説明。その度に、田中さんは現場に走ってくださった。
 当初約束していた6月入居はとても無理なことは僕達にも解った。工期はとやかく言わない約束だったが、段々厚かましくなって、遂に「7月26日引越し」の線でお願いする。7月上旬のことだった。この3週間は突貫工事さながらの様相を呈する。左官屋さん、ペンキ屋さん、クロス屋さん、それに水道屋さん、ガス屋さん、電気工事と、重ね合わさるように、3階から地下室へ流れて同時並行で作業が進められた。もちろんその間に、建具屋さん、畳屋さんの作業も進んだ。皆さんいい職人さん達で、追い立てられるような工事だったがスムーズに進行した。引越しの日も、その後の残工事は行われたが、26日、例のファースト引越社の手で取り合えず新居への入居を終えることができた。
 引っ越し後の日々と工事完了、多くの好意に支えられ、支払い終了
 グローバルハウスのその後
 「お金がない」ということもあるが、ポリシーとしても可能であればクーラーは入れたくなかった。一応一夏過ごしてみて、無くても何とか凌げそうだ。たくさんの大きな窓と隣接する「服部連塚」の緑のお陰だろう。とりわけ、ルーフウインドウが風を入れてくれることが大きい。その分、雨が振りだしたら大騒ぎだが、それもいい運動としよう。
[地下室。手前の部屋から奥の部屋を望む]  まだ片付いていないが、地下室もいい居住性が確保できそうだ。一回の床が高いので基礎の部分に窓が設置でき、明かりと通気で助かっている。噂どおり「夏涼しく冬暖かい」ことになりそうだ。冬はまだ未体験だが、夏はすこぶる涼しかった。書庫になっているが、夏は避暑室(?)になりそうだ。
 3階からの眺望も素晴らしい。隣の唯徳寺(これが教会だったらまるでヨーロッパだという人もあるが)越しに摂津峡が望める。2回のリビングでは塚にある樅の木と桜の木が窓を飾ってくれる(同じ固定資産税ではずるい!と言われるほどの借景効果)。
[感謝をこめて宮本、中島、田中さん、土井社長をご招待]  支払いも一応済ませることができた。本体の土井住宅産業さんをはじめ、その下請け業者、水回り、電気関係、すべての皆さんが「こういう事情ですから」と採算を度外視して低い価格で決算して下さった。多くの方のご好意を肝に銘じたいと思っている。

 丁度、引っ越しが完了した頃、山崎法律事務所の差し出しで封書が届いた。9月4日に「ミヤザキグループ」の債権者集会が開かれるという案内だった。関連会社一括で開くこと、債権者が合計で200人以上居ること、負債総額は70億円に近いこと、資産は殆ど無いこと、等が書かれていた。その後、集会の報告が送られて来て、当日宮崎さんが出席し、事情説明と謝罪をしたことが記され、その内容が文章化されていた(すでに私達が掌握していることから大きく出るものではなかった)。3回目の文書では各社に対する抵当権設定者の一覧が送られてきたが、よくここまで貸し込んだものだと思われるくらいの抵当権の設定が行われていた。素人が見ても、大して担保価値の無いものまで抵当に入れて貸し込んでいる。それも大手都市銀行が、である。注目されたのは、グローバルハウスだけは不渡りを出していないので再建に努力したいが、具体的方策は立っていないということくらいだった。もしそういうことが可能なら、是非頑張って、利益を出して、少しでいいから私達への返済をと願うが、そういう日が来るのだろうか。

Copyright © 2000 MIKAMI HIROSHI