コンピュータとのかかわり
 ある個人史 AgainstからForへの変遷

 はじめに
 最近の言葉で言えばIT(情報技術)についての態度は人によって様々です。Dog Yearと呼ばれるコンピュータの発達スピードのせいもあり、それも当然ですし、ゆっくり議論したらいいと思います。
 もうこのサイトに到達している人には言うまでもないことかも知れませんが、以下の一文は私自身のこの10年ばかりの大きな変遷(懐疑派から推進派へ)を振り返ったものです。
 1998年の夏に、社会へのコンピュータの浸透に疑問をもったり、それへのかかわりに拘りを持っている人に、「僕も以前はそうだったんですよ」というメッセージとして書いたものです。
 以前の職場の同僚にも謝罪の意味で送ったりしました。
 これを書いてから、状況や自分自身の取り組み具合も随分変化しました。そのことについては補足として追記するつもりです。
 従って、98年の文章に手を入れずにそのまま掲載します。固有名詞もその方達への敬意をこめてそのままにしました。

  
自身の変貌ぶりに驚きながら、振り返る  今年(98年度)、3年生でコンピューターの授業(文系の数学の1時間を活用。ティームティーチング)を担当している。初めてのことなので、メインは数学の人がやって、僕は補助的だが、マア慣れれば、僕がメインをやれないわけでもなさそうだ。色々な事情で授業ではワープロソフトは「松」を使っているので、一太郎に慣れている僕にとっては勝手が違うこともあるが、ワープロとしての共通性はあるし、自分自身が一太郎やその前の文豪ミニで苦労してきた経験を生かして何とか対応できている。この後、表計算や簡単なプログラミングに入ったら経験不足が露呈するかも知れないが、何とかこなせそうな気がしている。
 これも偶然の要素はあるが、昨年から総務を担当し、この年からホームページ作りが始まり、総務部が主坦分掌ということになって、むろん僕が一からやれる筈もないのだが、補助的にではあれ、その制作に携わっている。
 大冠高校では、他に2年、3年で情報処理が選択科目として早くから実施されているから、コンピュータールームはフル稼働している状態だ。コンピュータルームのパソコンの更新の候補になっているが、この機会に今のパソコンの払い下げを受け、もう一つコンピュータールームを作ることを教務の西田さんと相談したりしている。教育課程審議会が打ち出した「情報」必修化の詳細は知らないが、そういうこととも規を一にしていることになる。
 というわけで、そんなにコンピューターに習熟している訳ではないが、少なくともコンピューター教育推進に立つ一人になっている。そんな自分をフト客観的に見ると何とも不思議な気がしてならない。もちろん、その変貌ぶりに我ながら驚くのだ。アゲインストからフォーまで変わったのは何故なのか、振り返っておきたい。

コンピューターが学校に入り始めた時期の記憶  生徒にも、コンピューター授業で自己紹介する時は「ワープロ歴8年、パソコン歴2年」と言っており、年数的にはその通りなのだが、それまでに色々な経過があった。
 ワープロやコンピューターが普及し始めたのはもちろん僕の吹田東高校時代のことだ。まず威力を発揮し出すのは入試の成績処理だった。それまで入試カードをパンチで切り落としたりしていたのが、コンピューター処理に変わっていく。その頃は、データーの保護機能が弱かったのか、入力する時に大変緊張したのを覚えている。記録もテープレコーダーのテープを使っていたような記憶もある。当時吹田東にはあまりパイオニア的な人がいなかったようだが、生物の山中さんという人が大学院でもコンピューター処理による生物学の研究をしていたような人で、新任で入ってきて刺激を与えることになる。彼の副担任をしたこともあり、色々話をしたが、その当時は自分でパソコンをさわるようなことにはならなかった。印象に残っているのは、僕が教務代表をしている年に彼を含めて3人くらいで入試の成績処理を泊まりでした夜、「コンピューターと人間の未来」みたいなことを語り合ったことだ。もう一つ印象的なのは、1年の学年行事になっていたスケート講習会で、教員は、一緒に滑ったり本を読んだりしていたが、彼は何かしら長いプログラミングを眺めたりしていたことだ。彼は、コンピューターをどの分野に活用できるかにも興味があり、経済学も面白いと、数学的手法が特徴の置塩信雄氏(僕の大学時代の指導教授)を知っていて、僕の紹介で助教授の中谷君に会いに行ったくらいだ。野暮用にかまけて、どういう話をしたのか聞くこともないまま、経済学部への大学院進学には至らず、京都府大の生物関係の大学院へ移って行った。
 入試の成績処理は、所詮少数の人間が携わるだけなので、あまり問題にはならなかった。問題になるのはより多くの人が絡んでくる普段の成績処理だった。山中さんの影響を受けた磯部さん(英語)なんかがプログラムを組んで、成績処理をコンピューターでやりだした時には、色々な議論が興った。その頃、定期考査や学期末の生徒の成績の集計をコンピューターで行うかどうかは「学年の意向」に任されていた。そういうことに詳しい人が居るかどうか、学年団(吹田東の場合、副担任も含まれていた)の意見分布によることになる。

当初、消極的・否定的立場をとった理由  当初、僕自身は、そういう処理に消極的或いは否定的な立場をとっていた。その理由は組合運動で言う「反合理化」の姿勢にあった。それも少し硬直したものであったのかも知れない。当時の僕の考えは、
(1)機械化が労働を軽減することがあっても、新たな労働を付加されることになったりして直ぐ取り返され、結局労働密度が濃くなったりするだけだ。だから、労働強化をもたらすことになる。
(2)最悪の場合、そのことが人減らしにつながることもあり得る。特に、その頃高校の事務室でコンピューター化による定員削減が行われたことがそういう不安を抱かせた。
(3)教育的に考えても、点数を入力することで済ませることになれば、教科担当者と担任とのコミュニケーションが希薄になっていくのではないか。
(4)更に、コンピューターが得意とする数的処理に馴染まない教育の営みを切り捨てることにならないか。本来、評価のあり方を巡る多くの議論があっていいはずなのに、既にそういう議論が後景に退いてしまっている。そのことに拍車をかけないか。
(5)キー操作などを不得意とする人達へのプレッシャーになりはしないか。そういうことが蔓延すれば、高齢者などに退職圧力になる危険はないか。
 こういうことを漠然と考えながら、発言するものだから、奥歯に物の挟まったような言い方になったり、「慎重な検討が必要」という姿勢になったりする。しかし何を慎重に検討するのかは自分でもよく分かっていなかったから、却って人を苛立たせたりしたかも知れない。
 こういう僕の姿勢が影響したのかどうか定かではないが、当初吹田東ではあまりスピーディに成績処理のコンピューター化は進まなかったようだ。学年でこういう作業に慣れた人が一役買う積もりでも、慎重にと言われれば、ジャア何も苦労を買って出てまでしたくないという気持ちになるのは当然だったし、それでつぶれることもあったような気がする。
 吹田東での終盤は、所詮、数的処理をするならコンピューターの方が効率的なので、やればいいではないかという立場に変わって行っていた。ただ、上記の(5)はこだわりがあったから、入力を全教員に強制せず、入れたくない人は学年の誰かが入れたりする余地は残していた。そういう役を自分で買って出たりもしていた。
 もう一つは、授業の問題だった。その頃どういう内容の授業をしていたのか知らないが、数学の選択科目でコンピューターをする科目が始まっていた。職員会議で議論になったのは少人数編成にすることの了解を求められた時だった。当時吹田東では、先進的に「国語表現」を選択で設けていて、選択希望者が多かった。にも拘わらず、いや、それだから余計にかも知れないが、国語表現は少人数編成が行われていなかった。作文指導を中心とするこの科目はその添削など大変なことを皆知らないわけではなかったが、止むなしとなっていた。そこへ、この数学の提起があったので、「数学だけ特別扱いされていいのか」という不満が噴出した。それは否決され、数学の推進派はふてくされ、普通サイズで授業を進めたようだ。
 それと、この科目は一体何なんだという根本的な議論もあった。今から思えば、ずいぶんと観念的な話だが、学校教育で担わねばならない教育内容とは何か?というような議論をした記憶がある。それはそれで今も重要な課題なのだろうが、その当時、「単なる産業界の要請に応えるだけで良いのか」という否定的トーンで見ていたようだ。
 否定的トーンを補強するような事例もあった。授業で何をしていたのかを知る由もなかったのだが、伝え聞くところでは、ミスタッチをするとピッと鳴る、その音が怖くて、恐怖症になってしまった生徒が居た。今から思えば、罪な警告音だが、確かに、授業を受けていて、自分の所だけピッピッ鳴ればその音に恐怖を覚える気持ちはよく解る。それを鬼の首でも取ったように、「これこそ、現代の技術がもたらす危険な側面だ」みたいに結論付けた。

転機の90年、幾つかの状況が変化を促した  職場はそんな雰囲気でグズグズしていた。では、僕個人はどうだったか。ワードプロセッサーの開発が進んでいた頃、日本語の漢字みたいな複雑なものがこの機械で処理されるなんて考えもしなかった。マア、精々ローマ文字、平かな・カタカナまでだろうとタカをくくっていた。漢字ワープロが出てきても、文字のあのギザギザが許し難い感じがしていた。そして、一定の普及を見てからでも、あれは悪筆の人には福音だが、文字を書くことに(そして、レタリングにも)自信のあった僕は、まだまだ、ワープロに興味を示さなかった。ただ、そういう中でも、吹田東の社会科の同僚だった岡本さんから前歴がコンピューター関連だったこともあって、「三上さんのような文章をよく書く人にはピッタリやのに」と何度か言われていた。それと、大学の後輩で、政治団体の専従をしていた前田君がもっぱら文書をワープロで送ってくるようになり、彼なんかは字が読みやすい人なのにもったいないな、と不思議に思ったりしていた。彼に聞くと、「今や、もう肉筆で文章を書くなんて考えられない」と、その便利さを少し話してくれたりした。
 そういう状況の積み重ねがあったのかも知れないが、転機が訪れるのは1990年だった。この年は、僕にとっては幾つかの点で重大な年だった。ひとつは、ソ連・東欧の激変を迎える年であった。もうひとつは、府高教が民主的手続きを踏みにじって日教組からの脱退を決め、この年の初め(1月21日)に今の大阪高教組を結成する。これらが僕のワープロ歴に大きな影響を与えることになる。前者について言えば、ソ連・東欧の激変に対応して、その時々に自分の考えていることを書き留めておこうという気持ちになり、あるきっかけで文章を書き始めたのだが、人に読んでもらうにはなぐり書きは好ましくなかった。その文書をワープロに打つことから僕のワープロ歴はスタートする。その後、論争することも多くなったが、その場合もワープロは威力を発揮する(この辺りの事情は『社会主義論の再検討−激動の3年間に考えたこと(私家版)』に書いた)。後者に関しては、当時の委員長鎌田・書記長冨井はいずれも相当な悪筆家で、ワープロのお陰で本人も周りも救われたが、僕の場合は情宣部で文章を書く必要に迫られた。当時の高教組の情宣部はいち早く全員がワープロを駆使できるようになり、当時としてはまだ珍しかったフロッピーでの出稿を実現することになる。

ワープロ専用機での出発の功罪  ただ、ワープロ専用機かパソコンかは、かなり迷った。この道に詳しいNTTの毛利さんに相談したりして、現在の必要度から言えばワープロということになり、機種は学校世界には強かったNEC、グレードの高い文豪ミニ7を購入することになった(高教組本部に初めて入った機種がこれだったことも大きい)。高教組結成後初めての大きな学習会があった90年の3月3日に電電タウンまで出かけ、車で買ってきたことを思い出す。その頃、適当なアドヴァイザーが居るわけでもなく、ホントに独学だった。ただ、救われたのは、今なら珍しくもないヘルプ機能があって、マニュアルを引かず画面で操作方法等が学べたことだった。
 まだ、時代は急速なワープロブームの直前で、吹田東の社会科でワープロを購入している人は居なかった。それをいいことに、社会科にワープロ購入の予算が認められた時も、自分と同機種のものを購入してもらったりした。しかし、ワープロとパソコンにはまだ距離があり、文書はワープロ、成績処理はパソコンという感じで事態は進んでいた。互換性とか、共通ファイルという発想は余り無く、皆それぞれにワープロをやりだした時代だった。僕が大冠に転勤する時に、それまでやっていた生徒会関係の文書類をフロッピーで残してきたが、それも文豪でだった。ただ、今のワープロもそうなっているのだろうが、文豪ミニは優れもので、表計算や名簿管理も簡単なものはできた。だから、そういう機能もある程度使えるようになっていたので、自分の科目の成績処理等は文豪でしていて、パソコンもこんなもんだろうなという予測はできた。文豪でもTEXTファイルに登録することも出来始めていた。
 時代的制約で仕方なかったのだが、見通しを誤ったことが二つある。一つはそもそもワープロを選んだことだった。僕なんかは使用目的の大半は文書作成だから、ワープロでいいのだが、一太郎とかワードがここまで進化するとは思っていなかった。とりわけ、我慢ならなかったドット数や字体(フォント)が飛躍的に改善されたように思う。もしスタートからワープロを購入していても容量の関係で機種を更新しなければならなかっただろうが、パソコンはソフトを入れ替えることで機能の面でバージョンアップが図れるが、ワープロはそれができない。後にパソコンに換えた時、煩わしく思えたマウスも、今は、離しがたい。
 もう一つは、入力システム(キーボードの配列)だった。NECが開発した「ローマ字快速」というのがあり、これは素晴らしいと思った。ホームポジションで左手の位置がすべて母音になるという合理的な配列。日本語入力なのだから子音・母音が交互に現れることが多いのは当たり前だから、これなら両手がバランスよく使えて、大変便利だ。だから、ローマ字入力するなら将来はこれが普及するに違いないと読んだのだが、これが間違い。そんなことができるなら、英文タイプライターも含めてとっくの昔に改善されていたことだろう。いったん定着すると、いちNECごときに仕組みを変えられるはずがなかった。当時、富士通の親指シフト等、同様のシステムが敗退していた。僕が汎用性という点でこれはまずいなと思った頃には、既に2年ほどが過ぎていて、換えるのに随分と苦労した。

大冠への転勤、そして、パソコンへの乗り換え  こういう僕自身の変化の中で、大冠に転勤することになる。大冠高校は創立以来、情報処理教育に取り組んでおり、その道の先進校だった。僕が転勤したのは創立8年目で、当初のパイオニアみたいな人の何人かは転出されていたそうだが、職場でコンピューター処理の全体的な力量を高めようとする姿勢の感じられる学校だった。成績処理が完全にコンピューター化され、進路指導部のデーター処理がコンピューター化されていたが、調査書がコンピューター入力になるのは3年後だったから、マア「並の上」くらいの進み具合だったかも知れない。ただ、教職員向けの講習会が時折開かれ、その成果か、職員室にあるコンピューターで入力している人の姿は比較的多い方だった。そして、これが底力かも知れないが、情報処理を教えるメンバーが数学や理科に特化していないことが特徴だった。国語や体育も人を出していた。その道のベテランもつまらない質問にも親切に答えるという雰囲気があった。
 しかし、転勤当初の僕は、いずれにも無関係で、教職員用の講習会にも顔を出そうと思いながら、野暮用に追われ、半端に終わっていたし、情報処理も誰かがやっているという感じで無関心だった。この頃NECは7シリーズを5シリーズに統合し始めていて、転勤を機にラップトップの5シリーズを購入していたが、相変わらず文豪ミニでのワープロだった。
 再び転機が訪れるのは1996年の年末ということになる。以前から少し考え始めていたパソコンへの乗り換えを実行することになる。理由は2つあった。一つは先にも書いたがパソコンのワープロソフトの飛躍的な改善。それと、パソコンの飛躍的な普及があるのだから各自のワープロで対応していては互換性が無く、仕事をする上で困難を伴う。汎用的なものが必要だった。もうワープロから脱却しなければ、と思い始めていた。もう一つは、個人的成績処理で使っていたワープロの表計算機能の容量の限界だった。試験の成績を入力していても、3学期に入ると「システム資源不足」の表示が出て、どれかのデーターを削らなければ作業ができなくなってしまうのだ。この分野は圧倒的にパソコンが強いに決まっている。
 ただ、いつから、乗り換えるか。気持ちの上で余裕がないとその気にならない。96年の夏に踏み出しそうになったが、踏み止まった。半年でハードの価格は少し下がり、一太郎のバージョンは6.3から7になっていた。結局、初めて担任した9期生が間もなく卒業する96年の年末に購入することにした。僕にとって、ワープロへの乗り換えは上記のような理由だったから、当面の課題はワープロソフト・一太郎と表計算ソフト・ロータス123に習熟することだった。いくらワープロ歴7年を数えていても、やはり初物は手強い。いくつもあるマニュアルを片手に、そしてヘルプを参照しながら悪戦苦闘することになる。NECヴァリュースター13が届いた時期も悪かった。冬休み直前だったから、やり始めた時は冬休み真っ最中。この道の先輩に教えてもらおうと思っても、休み中では面倒。結局さっき書いたような苦闘を強いられることになる。しかし、パソコンに限らず、そういう苦労は無駄ではなく、回り道をしているようでも何か得るところはあるようだ。冬休みが終わる頃には概ね一太郎は扱えるようになっていた。ロータスの方は成績処理をする1月末で十分だったし、必要とする数字を扱った方が真剣になれるし、無駄を省ける。
 とは言うものの、折角パソコン(ウィンドウズ95搭載)を購入したのだから、インターネットもやってみようという気にはなる。もっと落ち着いてからやればよかったのだが、96年の年末28日頃からアクセスを試みることになってしまった。これはよくなかった。何せ年末年始だから、NECのサポートセンターも混んでるし、サービスセンターは休みときている。この道の先輩にもこのシーズンは電話もしにくい。その分苦労は多かったと言える。しかし、これも何とか接続できた。尤も、NECならBIGLOBEをプロバイダーにすると簡単だから、ちょっとしたミスがなければ苦労はなかったのかも知れない。

新しい世界へ泳ぎ出す  こうして、97年は僕のパソコン元年として始まることになる。文豪というワープロに閉じこもっていた僕は、新しい世界を見、何とか泳いで行けそうな気分を得る。今自分にはできなくても、パソコンにはこういうことができるということがおぼろげながら解る。それが世界が広がるということだった。2つワープロソフトが解ればすべてが解りそう。だから、約1年後情報処理を担当し、そのソフトが「松」であっても何とかなるだろうという楽観視が可能だった。データーベースソフト「桐」だって、操作は全く解っていないが、必要に迫られればきっと習熟できるだろうという気持ちになれる。インターネットだって今は気持ちや時間に余裕がないからあまり触れないが、その気になれば色々ネットサーフィンできるという気持ちになれる。Emailも、ウェールズに出かけた田口さんとのやり取りや、中南米からの大亮との送受信に役立っている。最近では辻元清美関係の会議録もこれで送られてくる。高教組も文豪時代は終わり、一太郎8とインターネットの時代に入っているし、組合機関紙もABC工房への送稿はインターネットでという時代に入りつつある。
 初めに書いた大冠高校のホームページ作製も、「だれでもできるホームページ作成の操作マニュアル」をこの道の先輩の入江さんや西田さんに聞きながら、僕が作った。色々な方法が可能だから、オーソリティは却ってこういう半端なものを作れないのだろうが、とにかくビギナーはこうすればいいという簡単マニュアルだ。ややこしいことになると相変わらずお手上げだが、「簡単ですから、皆さんやって下さい」と、ある部分(例えば、生徒会や同窓会のページ)の入力を呼びかけている。西田さんなんかは府教委の研修でホームページの作り方みたいな講座の講師をされているから、「三上さんも自分のものを作ってみては」と勧めてくれる。今精神的に余裕がないが、その内チャレンジしても良いと思ってはいる。

最近思うこと、ひとつふたつ  この10余年の歴史を振り返るとこういうことになるのだが、最近、コンピューター教育について思うことの一部だけを書いておく。三上お得意の連ドラ評論に絡めて言うと、「WITH LOVE」(98年4〜6月放映)が結構面白く、これがインターネットラヴを描いている。詳細は省くが、当人同士(役者は竹之内豊と田中美里)は知り合いで、かつあまり良い関係ではないのだが、インターネット上ではそれと知らずにメールのやり取りをしていて、恋愛感情を抱く。僕は「新しい文字文化の出現だ」と、このドラマの宣伝をしたのだが、要するにインターネットは口語文化ではなく文字文化だという当たり前のことを言ってるに過ぎない。活字離れが喧伝される現代に、「文字に託された想い」、とか、「行間を読む」とかいうことが再び課題になる。
 それと、「文章の書き出しで悩むことからの解放」を実感するし、それは世の作文嫌いの子ども達にとって大いなる福音ではないか。書き出しで悩んで「原稿用紙を前にいつまでも鉛筆を握りしめる」というような光景は消えるし、消えていいではないかという訳だ。いくらでも追加、削除、入れ替えが可能なのだから。その為には、小学校からの情報処理教育が進まねばならないが、すでにその模索は始まっているようだ。その際に僕の10数年前のようなネガティヴな対応をする教職員は多いだろうなと思うと、複雑な気分ではある。

当初のこだわりについて今思うこと  コンピューター教育の「光と陰」みたいなことは既に多くが論じられている。手放しで礼賛するのではなく、冷静な検討が必要なことはいうまでもないが、この雑文の範囲を超えるし、そういうことを論じるほど、僕にはキャリアもない。ただ、初めの方に書いた、僕自身の「こだわり」を今どう考えるかだけ書いておく。
(1)(2)〔2ページの列挙〕労働強化、人員削減へつながるおそれについて。少なくとも教育現場ではそういうことは起こらなかった。それで仕事が遙かに楽になったかと言えば、そうでもないのだが、少なくともコンピュータ処理の進行が原因で労働強化になったり、人が減らされたことはない。民間の領域と比較しにくいのは、教育現場はその環境が刻々と変化するからそれによるしんどさの増大と相殺されても簡単に数量的把握はできないことだ。ハッキリしていることは成績処理や文書作成(考査問題、プリント類、調査書等)にかかる時間は短縮されていることだ。その分の時間的余裕がどこに回っているのか。多分その他の仕事をしているのだろうが、それは命令されたりしてのことではない。プリントの工夫に回ったり、生徒の懇談に回ったりしていれば、楽にならなくとも、マアいいのではないか。少しでも仕事が進むことで、教育労働者自身のストレスが減るという効果はあるかも知れない。
(3)教科担当者と担任とのコミュニケーション。これもコンピューター処理とはあまり関係なく、コメントをメモで渡す場合(様式を作って一斉に行うこともある)もあるし、口頭で情報をやり取りすることもある。
(4)数的処理に馴染まない教育の営み。これは、コンピューター処理とは、また別個の問題として残り続けることになるだろう。確かに、数値化されたものが大手を振って罷り通るという状況は変わらない。しかし、これは、学級や学校の生徒数とかに変化が起こらねば解決の難しい問題かも知れない。生徒について文章で表記するというような入試方法も考えられるようになって来れば、教員の負担は大きいが、何らかの改善が進むかも知れない。
(5)不得意とする人へのプレッシャー。当初心配したほどには大きくはなかったようだ。これも、民間などの悲惨な状況とは違って、教育現場には寛容な雰囲気があった。民間では、コンピューターも触れない中年は排除されるような事例も聞かれたが、先にも触れたように上から命令されて何が何でも強行されるという具合にはならなかった。あくまでも、自発性に依拠して進んだ。この自発性への依拠は大変重要だった。コンピューター化を先駆けて推進していた人達は相当な個人的負担や苦労を背負い込むことになったが、それは経済的な利益に誘導されたものでも、出世と引き替えというようなものでもなかった。幸いというべきか、学校には教科の関係でそれなりの専門的知識を持ち合わせる人もおり、そういう人達を中心にもっぱら興味・関心でフロンティアスピリットを発揮してくれた人がいた。
 そういう「熟成」とも言うべき手法で事態が進んだことが無用なコンフリクトを生まずに済んだのかも知れない。もしこれが、ソフトの会社が入り込んで色々な指示を出したり、教育委員会の命令で進んだり、ましてや、このことで居辛くなる人がいて退職に追い込まれるようなことでもあれば、きっと、僕自身のこの変貌もなかったに違いない。
 この夏、全国教労研の交流で、埼玉でも情報処理が普通科で導入されているが、担当は新採の商業科の人がやっていると聞いた。この方式なら導入時の現場での抵抗は少ないだろうが、そのかわり「お任せ」になってしまい、職場全体のコンピューターに関する力量は高まらないだろう。そして、この方式なら、またしても、僕のような変貌は無かったに違いない。将来的なことを考えても、大阪方式が大変よかったのではないかと改めて思った次第だ。
1998.8.25
   
 それからのこと
 上の文章を書いてから2年半が経ち、21世紀の初頭に入っています。この間のことを簡単に追記しておきます。
 99年度は
 ソフトが一太郎に
 普通教科「情報」の試行を決定
 LAN教室リニューアルされる
 98年度と同じく3年生数学のティームティーチング(TT)を担当。さすがに「松」では余りにも汎用性がないだろうということでワープロソフトは「一太郎」に変わる(但しこれは1年限りになる運命)。 これはむしろ好都合。予想通りTTで主担に。
 この年、むしろ問題になったのは、新カリキュラムで導入される普通教科「情報」に対応して、前倒しして試行するという提案を巡る議論だった。どこかの教科で引き受けられないかという情報処理委員会からの呼びかけに応じたのは社会科だけだった。
 1年の「現代社会」(4単位)の1時間を使うプラン。これは当然TTになるから、人の配置が必要で、ゆとりのある教科から応援に入る可能性があるという提案になる。これが意外な不安感を生み、職員会議も若干紛糾。結果的には社会が過員気味であったことからほぼ全時間を社会科教員が担当し、杞憂に終わるのだが。
 社会科で最もコンピュータに詳しい野々村さんが色々と資料や教材を準備してくれた。もう一つこの年に明らかになったことは上の文章の初めに書いていたコンピュータルーム(LAN教室)のPCの更新が年度末に行われることが確定し、そのワープロソフトは「ワード」になることだった。
 だから、この試行の有無に関わらず、「松」、「一太郎」と続いた大冠のオリジナルのワープロ用教材(「ワード」)の準備は不可欠だった。次年度選択科目「情報処理」を担当することが確定していた野々村さんはその準備に追われた。
 過渡期であるため、3年生の数学の時間のPC授業と1年生のこの試行が並行する。これも初めに書いた第2コンピュータルームは予算等の関係で実現せず、年間通してはLAN教室を使えないという問題を抱えていた。少なくとも2学期はこの試行は教室で行う(業界用語で言えば「座学」)ことになる。これは全く未知の世界で、この準備が急がれたが、余りスムーズには行かなかった。
 2000年度は
 ソフトがワードに
 普通教科「情報」の試行開始
 2年選択科目「情報処理」も担当
 いよいよ、その試行がスタートする。科目名は「情報社会」。1単位だから、実に飛び飛びの授業になる。7クラスで、主担は3人。4クラスを僕がメインで担当することになる。
 この年度の数カ月前から僕の「ワードへの乗り換え」が始まった。僕は“反独占”で「マイクロソフトのソフトを何故そんなに使うのか?国産の一太郎を守ろう!」とこの領域では明確なナショナリストだった。が、授業でこれを使うしかない羽目に陥っては降伏せざるを得ず。最初こそ「やっぱり日本語は一太郎だ」と言うことの多い日々だったが、慣れは恐ろしく、スッカリ「ワード」に染まっている昨今だ。
 担当する3人に、先の野々村、サブで入る津田、キャリアや興味から特別にサブで入ってもらう数学の西田の各氏を加え、6人で情報社会研究会を作り、2000年度の授業準備が始まった。
 詳細は、この年度が終了した段階で学校でも報告せねばと考えているのでその機会に譲るが、実習的授業はこれまでの蓄積があり、そう心配はなかった。ソフトが少しくらい変わっても、PCの機種が変わっても概ね対応できることはこれまでの経験から予測がついていた。
 問題は初めての経験になる「座学」だった。幸い、津田さんが昨年3年の選択科目の「現代ビジネス論」(時事問題。就職希望者用の科目)で試みた教材があり、これをベースにすることになった。これは、実は『痛快!コンピュータ学』を種本にしており、その道のオ−ソリティーである坂村健東大教授の著作。さすがに良く解っている人ほど説明が解り易いと感心させられる内容で、私達のバイブルとなる。
 それと、西田さんが色々提供してくれる資料も随分参考になる。それでもいざ授業をするとなると、細かなことから、大きな問題まで解らないことはアマタあり、その都度先学の教えを請いながらワイワイがやがや、結構緊張しつつも学ぶことの多い日々だった。2000年の最後、この座学を締めくくるペーパーテストをしたが、そこでの感想欄も、予想以上に好感度が高く少し安心した。
 僕個人に関して言えば、これ以外に大冠の特色でもある2、3年での選択科目「情報処理」は未体験ゾーンで、これも持ってもいいかなと思っていたが、持ち時間の関係で2年だけだが担当することになった。情報社会と違うのは2単位であること。従って、やれる領域が大きい。しかし、今年だけはまだ1年で全くコンピュータを触っていない2年生なので、最初は「情報社会」と同じワードをやればよかった。次に表計算ソフト「エクセル」と進む。こちらの方は教科書や副読本を採用しており、実教出版のものだったがなかなか良くできていてやり易かった。エクセルは深さで言えば全く素人同様だったが、昔自分が使っていたロータスの古いバージョンなんかから随分進化しているので感動したりした。グラフ等も実に簡単に作れる。
 情報処理は、初めは軽い気持でサブから出発するならと引き受け、一講座は西田さんのサブだったが、もう一講座は僕単独で少し戸惑った。しかし、西田さんでも解らないことは解らない(実習的なことでは)と解り、何となく自信を持てている昨今だ。3学期は、この「HIROのページ」の作成自体がそのことへの準備だったという経緯があることはトップページに書いたが、西田さん作成のオリジナル教材を使ってのWebサイト作成へ入っていくことになっている。
 これも、2000年度が終わってからの課題になるのだが、2、3年の「情報処理」の授業内容は来年度は変更せざるを得ない。既に1年でワードなどは済ませているのだから、その分、何ができるのか。このことを研究することが、そもそも先取りの趣旨だったのだから、計画を詰める段階に来ている。