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6時44分、第二ケルン (息=やすむ ケルン) に到着。
このケルンは、昭和12年12月に遭難した西阪 息 (やすむ) さんの供養、
そして遭難防止のために、父親である保治氏が建てものだそうである。プレートの字が右から読むようになっているのが、
如何にも時代を感じさせる。当時の装備はどのようなものだったのだろう。
ここでは、目の前に不帰ノ嶮が迫力ある姿で迫ってくる。
これだけ稜線がハッキリ見えると、どうしてもその上をなぞってみたくなる。久々の北アルプスは誘惑が一杯である。 |
やがて、
6時51分に八方ケルンに到着。このケルンは人の顔のようになっており、目は矢印、鼻は標高表示、口は地図となっている。
なかなか面白いが、実は このケルンは逗子開成高校遭難慰霊碑でもある。
昭和50年12月に、神奈川県逗子開成高校山岳部がこの八方尾根で消息を断ち、翌年の 5月、顧問教師と部員 5人全員が遺体で発見されたとのこと。
この事件は、学校側の管理責任を巡って民事裁判となったが、卒業生でもある徳間書店社長・徳間康快氏がこの問題の解決に尽力。
最終的に裁判所の和解勧告受け入れて学校側は管理責任を認め、遺族との和解がなったとのことである。
少し登って振り返れば、雲海の先に高妻山、
妙高山が見える。 |  |
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順調に足を進める。やがて、第三ケルンならびに八方池が見えてきた。
写真は八方池に不帰ノ嶮 I 峰が映っているところだが、白馬三山を池に映すところまで頭が回らなかった。
決して 芸術写真を撮るつもりはないが、絶景はものにしたいところである。
絶好のコンディションにも拘わらず、下調べ不足でチャンスを逃す。
時刻は 7時丁度。この第三ケルンの標高は 2,080mとのことであるから、
順調に高度を上げてきているようだ。 |
暫く裸尾根の道が続いていたが、
やがて道は樹林帯に入ることになる。
かといって視界はほとんど遮られることないので、快適に登っていける。
振り返れば、登り来たりし尾根に下からガスが上がってきている。よく見れば、左方の
五竜岳と
鹿島槍ヶ岳の間にも少しガスが漂っており、
白馬鑓ヶ岳の頂上直下にもガスが湧き始めている。
ただ、ありがたいことに前方には全くガスは見えない。
早いうちに唐松岳に着きたいものである。 |  |
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途中、今なお残る雪渓を左前方に見る。道は雪渓の下、あるいは上を行くのかと思ったら、雪渓を避けて右の樹林帯の中に入っていく。残念。
順調に高度を上げていくと、やがて樹林帯を抜け、先の方にまんじゅう型のピークが見えてきた。
ピークの上にはケルンらしきものも見える。恐らくあれが丸山ケルンであろう。
順調に砂礫とハイマツの斜面を登り、7時55分に丸山ケルンに到着。ここの標高は 2,430m。
ここからは五竜岳、
鹿島槍ヶ岳、
白馬三山は無論のこと、東方に高妻山、
乙妻山、妙高山も見える。
火打山は頂上部分が雲に隠れているようだ。
また、さらに左には雨飾山
(写真には写っていない) も見える。 |
道はまだまだ登りが続く。
ただ、ハイマツと砂礫の道で展望も良く、気分良く足が進む。
前方には、今までその頭の先っぽの方しか見えなかったピークがよく見えるようになってきた。
写真の右の三角形が唐松岳、そして真ん中に 2つのピークを挟んで左に少し見える茶色いピークが牛首岳であろう。
ようやく、目的地への道筋が見えてきた。 |  |