第59回藝能史研究會大会
日時

        2022年6月12日(日)  午前10時~午後5時
         ※終了しました。
 

会場

            Zoomによるオンライン
  


大会のお知らせ

 2022年度の第59回藝能史研究會大会を、下記の通り開催いたします。
 昨年度と同様にオンライン開催の予定です。
 



プログラム

10:00~10:10 
代表あいさつ、総会結果報告

一般報告
 各報告40分(質疑応答含む
【発表要旨はこのページの下にあります。】


10:10~10:50 
笹村 和子氏「瀬戸神社 橋供養の舞楽について」

       10:50~11:30
 片山 詩音氏「名古屋の花街における芸能の変容について」

11:30~12:10  
宮本 圭造氏「徳川綱吉の能と礼楽思想」

12:10~13:10 昼休み休憩

13:10~13:40 
林屋辰三郎藝能史研究奨励賞授賞者発表

一般報告
 各報告40分(質疑応答含む)
【発表要旨はこのページの下にあります。】

13:40~14:20 
荻田 清氏「「当世役者/浮世芸者 風流見立競」の紹介
             
―寛政後期上方の諸芸能―」

14:20~15:00 
田草川みずき氏「佐渡古浄瑠璃人形芝居の研究と現在」

15:00~15:10 休 憩

講 演 

15:10~16:10 
熊倉 功夫氏「家元制研究の課題」

16:10~16:40 
アフタートーク

16:40~16:50  
閉会の挨拶



【お願い】

当日の録音・録画(スクリーンショット、動画キャプチャー、写メ等)はご遠慮ください。
配布資料等の無断複写、SNS・ウェブ等への掲載もご遠慮ください。
また配付資料等の新聞・雑誌のへの掲載につきましては、事前に事務局までご連絡ください。
なお、主催者の藝能史研究會が記録用に録画します。あらかじめご了承ください。


         第59回藝能史研究会大会 一般報告要旨

  
1 笹村和子

             
題目 瀬戸神社 橋供養の舞楽について

 北条実時は、瀬戸堤内の入江の殺生禁断を命令していた。瀬戸に橋が架けられたのは
嘉元三年(1305)、架け直したのは文和二年(1353)である。橋を架け直したのは、六浦妙法という人物で、竣功には瀬戸神社社頭・称名寺長老らによって盛大な橋供養の法要が執り行われ、舞楽も奏された。
 瀬戸神社にはご神宝として、抜頭と陵王の舞楽面が存在する。両面共に源実朝愛用のものとされ、建保7年(1219)に暗殺された後、北条政子が奉納されたと云われる。抜頭面内側には「運慶法印」「健保7年」などの記載がある。運慶系統の工房で鎌倉初期に制作されたと推定されている。陵王面は、面の額に覆いかぶさるような龍が中央に付き、このような形は慶派一派 四天王像の腹に見られる漆喰の形と共通することが指摘されている。これら2面は、鎌倉時代・慶派の代表的な舞楽面として位置づけられている。
 金沢文庫文書の中では、瀬戸橋の架橋は金沢貞顕の発願により、称名寺主体で行われたような内容のものが見られる。称名寺初代開山の審海の在世に着手したが、次代釼阿が就任するまで、寺の統率不安定が続き、橋の架橋事業も難航とした時期があったらしい。
 幕府側からの主導もまた見られ、幕府主体で寺側が資金調達~架橋の実務を執り行っていた。
 文和二年(1353)の瀬戸橋供養注文での記述にある舞楽の供養は、実際には左舞では賀殿 ?州 五常楽 散手 陵王 右舞では地久 林哥 長保楽 貴徳 納蘇利 計10曲、5番の沢山の種類のものが舞われている。初めの2番は、冠などは異なるものの襲装束で舞う演目で、長保楽も襲装束で舞われるが、その番舞の五常楽は、獅子の向かい合った絵のついた蛮絵装束で舞われる。後半の2番は1人で舞う走舞であり、それぞれが裲襠装束の別様装束で面を付けて舞われる、活発な動きの激しい舞である。
 雅楽の奏楽は、祭祀では激しい威力を持つと信仰される御霊系統の神輿の脇に付くこともあり、舞楽を多数舞うことによる、橋を懇ろに供養する呪術的意味合いの濃い部分もあったのかもしれないと考える。



   
2 片山詩音

            
題目 名古屋の花街における芸能の変容について

 
花街とは、宴席が設けられるお茶屋や料理屋等が集結する街のことを示し、そこで芸能を披露して客人を歓待する女性が芸妓・舞妓である。花街の形態や芸能の継承、芸妓のキャリア形成などについては、これまでにも地理学、民俗学、人類学、経営学等の観点から論じられており、花街の成り立ちや形態についての知見は蓄積されてきたが、その対象は東京や京都、金沢の主要部の花街が中心であった。また、日本芸能史における芸妓の位置付けの検討や、芸妓を芸能者として捉えてその芸態を考察した研究は少ない。花街における宴席が客人向けの閉じた空間であり、そこで実践される芸能も文字資料として残りにくいことが、その要因としてあげられる。
 本発表では、これまでに報告の乏しい名古屋の花街に焦点を当てる。現在、名古屋には一つの花街が存在するが、今に至るまで様々な歴史的変容を見せてきた。しかし、先にあげた要因もあり、その実態を記録した公的資料は乏しく、名古屋の花街史についての知見はきわめて限られている。そこで本発表では、取り扱う資料を芸能・花街資料に限ることなく、郷土資料も含め、新聞報道や芸能に関する公演資料にも広げることとする。また、名古屋の花街を中心に伝承される固有の芸能、お座敷芸の「金の鯱」や座敷唄の「名古屋甚句」にも焦点を当て、その起源や変遷をたどるとともに、現状についても言及したい。
 花街とそこで繰り広げられてきた芸能について、名古屋のような地域事例を取り上げることで、花街や芸妓に関する知見をより充実化させるとともに、これらを日本芸能史の中に位置付けるための予備的作業とする。今後、同様に他地域の事例を積み重ねていくことによって、各花街の芸能の固有性を収集し、花街史や日本芸能史における花街の芸能を位置付ける。将来的には、その希少性と時代的変化、また現在のコロナ禍において、存続の困難に直面しつつある花街の芸能の保存・継承に寄与する研究につなげていきたい。



  
3 宮本圭造

         題目 徳川綱吉の能と礼楽思想


 稀代の能狂いだった徳川綱吉は、能を自ら舞うことに熱中するだけでなく、多くの大名にも能を舞うよう半ば強制したほか、能役者の士分登用・追放を思いのままに行うなど、能界を大きな混乱に陥れた。その行き過ぎた能狂いぶりは、生類憐みの令とともに、綱吉の悪政の一つとして取り上げられることが多い。
綱吉の能好きは彼が館林藩主であった時期にまで遡るが、江戸城に入って五代将軍となると、その強大な権力を背景に、さらに能への傾倒を深めることになる。将軍就任から時を経ずして、江戸城中奥に新たに能舞台を作らせたという点にも、それはあらわれていよう。もっとも、天和・貞享初年までの綱吉と能との関わりは、御慰みの範囲を大きく超えるものではなかった。
しかるにその後、貞享末年から元禄期にかけて、綱吉の能は明らかに新たな次元に達する。なかでも、元禄元年に公家衆饗応能で〈翁〉を舞って以降、綱吉が江戸城でしばしば〈翁〉を勤めているのは画期的な出来事と言えよう。権力者自ら「天下泰平国土安穏」を祈願して〈翁〉を舞うという発想は、それまでの能好きの権力者には全くなかったもので、綱吉が能を通じた治天下を実現しようとしていた一つの現れであると考えられる。儒書の講釈と能の上演とを組み合わせた新たな儀式の形態が成立するのも元禄初年のことで、家臣邸への御成に際し、こうした新形態による能の上演が度々繰り返された。貞享末年以降、多くの諸大名が能の稽古に励むようになり、禁裏御所では貞享四年、約二十年ぶりに禁裏能が復活。元禄十年以後、春秋二季の禁裏能が定着するが、それは「大樹」すなわち綱吉の言上によって実現したものだった(『勧慶日記』)。
『徳川実紀』は、綱吉の治世を総括する中で、彼の能好きを評し「礼楽をもて天下を風紀するの遺意にもとづかせたまひしにや」と述べる。今こうして、貞享・元禄期の綱吉の能の取り組みを見てみると、その評言通り、彼が能を通じて君臣相和、公武融和を目指していたのではないかと思えてくる。本発表では、綱吉の「能狂い」の背景に、儒教の礼楽思想があった可能性を検討してみたい。



  
4 荻田清

       題目 「当世役者/浮世芸者 風流見立競」の紹介 ― 寛政後期上方の諸芸能 ―


 歌舞伎役者と「浮世芸者」を対にして、簡潔な評文でつなぐ形式の一枚摺である。歌舞伎役者については今日では比較的容易に調べることができる。しかし、「浮世芸者」の場合、その分野でよく知られた人物もあるが、ほとんど不明の人物も出てくる。列挙すれば、からくり細工の竹田縫之助、糸操りの藤井長之助、軽業の玉本小新、十五人芸の川嶋柳枝、講釈の吉田天山、綱渡りの無三飛新蔵、籠抜けの早虎平吉、長唄の鈴木萬里、梯子曲馬の木村与吉、おどけ狂言の芳川小吉、間の山のお杉・お玉、水からくりの伊藤彌八、祭文の畳屋小靏、宮古路文字太夫、顔似せ物真似の東清七、三味線曲弾きの増谷忠七、咄家の桂文治、素人浄瑠璃のさの、曲切煙草の東吉五郎、人形細工の大江宇兵衛、三味線曲弾きの玉川三吾、辻能の堀井仙助、素浄瑠璃の竹本染太夫、曲差し力持ちの品川ともゑ、大頭舞の柏木小雛、曲独楽の博田亀蔵、チンチンハウハウの本朝千里、咄家の松田彌助、女曲乗りの橘染吉、取たり見たりの大入蔵之助、枕の曲芸の花桐繁之助。人名ではなく芸の種類と思われるのが、女義太夫と長崎影絵である。
実はこの一枚摺の名は、前田勇編『上方演芸辞典』(昭和41年、東京堂出版)にしばしば出てきていた。しかし、所蔵者不明で全貌が見えなかった。今回、「錦影繪池田組」の池田光惠氏旧蔵の現物に接することができた。今日では役者評判記・番付など歌舞伎資料の整理は、辞典刊行当時に比べて格段にすすんでいる。役者研究も細かくなって、この一枚摺に書かれている短い評文の意味もかなり解釈しやすくなったと思う。前田氏が「寛政八年刊か」とされた刊年の考証、「長崎影絵」の問題などを中心に発表したい。



  
5 田草川みずき

         題目 佐渡古浄瑠璃人形芝居の研究と現在


 新潟県佐渡島には、説経節および文弥節による古浄瑠璃人形芝居が伝承されている。近世期の古態を残し、義太夫節では上演が途絶えた近松門左衛門の作品を、今も上演する佐渡の古浄瑠璃人形芝居は、明治四十四年(一九一一)年に東京で紹介されて以来、特異な芸能として研究者の注目を集めて来た。
 文弥節人形には、佐々木義栄『佐渡が島人形ばなし』(一九九六)など、地元の郷土史家の研究が備わり、説経節人形については、信多純一・松本孝三・團夕紀子といった研究者が、山本角太夫・井上播磨掾の上演作との関わりを論じている。発表者にも、佐渡古浄瑠璃の節付の中世的性格について言及した論がある。しかしこれらの成果は個々の研究にとどまり、佐渡古浄瑠璃の総合的研究は未だ成されていない。また、ここ十数年の新たな学術論文も皆無に等しい。佐渡島においても、佐渡古浄瑠璃人形芝居の担い手と指導者は減少・高齢化し、その伝承は今まさに岐路に立たされている。
 こうした状況に対して発表者は、佐渡古浄瑠璃人形芝居についての研究基盤を確立し、その伝承を確実なものとすべく、「佐渡古浄瑠璃の研究基盤構築とデジタル化保存に関する総合的研究」(科学研究費補助金・基盤研究(B))との研究課題名で、二〇二〇年度から佐渡古浄瑠璃の研究に取り組んでいる。今回はその中間発表として、佐渡古浄瑠璃人形芝居の語り本・上演作品・音声資料・映像資料・歴史資料などの一覧化を目指して作成中の、各種データを紹介する。さらに、このデータ作成過程で確認された事項や問題点について報告し、発表者が把握しきれていない資料の所蔵等に関して、大方の教示を得たいと考えるものである。
 なお、資料および佐渡の関係各所とのオンラインインタビュー等で得られた、二〇二二年時点の佐渡古浄瑠璃人形芝居の現況についても、『佐渡が島人形ばなし』の記録と比較する形で報告を行いたい。

           
    
    
 

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