富士見丘教会は,1935年、開拓伝道に熱心に取り組んでいた伝道者並びに信徒達により
当時未だ開発途上にあった、ここ下北沢の地に発足し,翌、1936年教会堂建設後,
日本組合教会に正式に所属することとなった。
初代牧師は,発足に至るまで信徒達の指導に当っていた山本忠美牧師である。
富士見丘と言う教会の名称は,文字通り当時そこから富士山を見ることが
できることから付けられた。
その頃教会の多くは都心部にあり、一方教会員には郊外に住むという不便さがあり,
小田急線と新設された井の頭線(1934年開通)が交叉する便利な地点を選ぶことで、
教会員が遠方の教会に通う不便さを解消したいとの考えであった。
1951年山本牧師が,自ら設立に関わった中目黒教会の牧師として招聘を受け,後任として倉敷教会牧師の東方信吉牧師が赴任して来た。
東方牧師は(1)地域に根を下ろす教会を目指す(2)信仰によって生かされ,
神から人間が愛されていることを具体的に述べ伝える,という点を軸として教会活動を行った。
地域との繋がり重視の第1の柱として,地域に根ざす為の幼稚園開設構想の具体化を進め,
1953年4月教会堂の施設を活用し「愛児園」が開設された。
1955年代後半,日本の高度経済成長の始まりの時期に,東方牧師は,
日本基督教団の役職を兼務していたが,当時,教団活動の三本柱は、
(1)伝道(2)教育(3)社会との関連でなすべき奉仕活動,
が挙げられていた。
自ずと,富士見丘教会においても、これらに沿った教会活動が推進された。
愛児園の拡充,教会学校の充実等であるが,1960年代前半には,松永希久夫伝道師
(故元東京神学大学学長),野村幸男神学生(現西条教会牧師)が加わり
教会伝道への貢献はもちろんのこと,青年会の活動,教会学校全般にわたり,
子供や若者への宣教に大きな役割を果たされた。
当教会の今日までの歩みを振り返る時,協力牧師(伝道師を含む)と神学生の働きが
いろいろな意味で牧師と教会の支えになってきた。
協力神学生としては,その後,東方敬信(1967年~:現当教会牧師),
伊藤悟(~1994:現青山学院大学),林完赫(~1999年:現在ドイツ・ハイデルベルグ大学在学)
諸兄を与えられ,その後は米田芳生,佐野純、兼子洋介、田所義郎諸氏が活躍された。
ハンドベルを通じての「キリスト宣教」に熱心な小澤淳一(現聖ケ丘教会員)も
1996年から1999年まで協力牧師として更には教会学校,青年会などの分野で
地道な活動ながら大きな貢献をされた。
さて当教会は,心身障害児を預かる「止揚学園/福井達雨園長」と40年近くにわたる
長く関係の深い交わりを続けている。
1963年,東方牧師が設立後間もない止揚学園への教団からの財政援助の実現に努力
したことを契機に当教会に「保母さん招待プロジェクト」をスタートさせ、毎年1回,
止揚学園の保母さんを数日間ではあるが東京に招待するようになった。
愛児園の母の会と共に今日まで続いており40名余の保母さんが当教会と
ささやかな関わりを持っている。
「保母さん招待プロジェクト」は,当教会が戦後間も無く始めた「教会バザー」による
収益金に支えられている。
「教会バザー」は,
この他,愛児園園舎の増改築や愛児園への補助などの資金に
使われているが、現在では、愛児園母の会との共同事業として
毎年11月3日に行われている。
1960年代後半は,当教会にとって「教育の時代」と位置付けられる。
愛児園のお母さんの中から受洗される人がでてき,又愛児園の卒業生の多くが、
そのまま教会学校に進級し教会学校の活動が大変活発になってきた時期である。
その一環としての教会学校の夏期学校は、色々の変遷を経て,
現在では御殿場にある「東山荘」で一泊二日の研修を持っている。
現在、愛児園児とその親たち,教会学校生徒とその親たちと教会員とが一堂に会し,
相互の距離を少しでも縮め,教会,信仰,祈りと言ったキリスト教の香りを
親たちに伝えたいとの目的を加え,「全体礼拝」を年1回行っているが、
これは、1970年代前半から始まった教会学校との合同での「野外礼拝」の新たなる展開である。
当教会では,「婦人会」「壮年会」「青年会Aグループ」「青年会Bグループ(ビッビア)」等の部会があり,それぞれ目的を持って活動しているが,婦人会による外部奉仕活動について
少し触れたい。
1967年からの止揚学園の「保母さん招待プロジェクト」は、婦人会が主体であるが,
更に1975年代後半に入り,他の障害者施設への奉仕活動を具体化させた。
詳細は省略するが
①重障児センター(社会福祉法人・全国重症心身障害児(者)を守る会の一部門)の
月刊誌『両親の集い』の袋詰め作業の手伝い
②有隣ホーム(千歳船橋)のオムツ畳み奉仕
③JOCS(日本キリスト教海外医療協力)の「使用済み切手回収運動」への協力である。
「信仰の深化」はキリスト者にとっては大切なテーマであり生涯にわたり
模索し続けるべきものであり,「信仰の為の生涯教育」は強い重みを持っている。
教会内部の聖書に関する学びは,当教会の創立以来様々な形で引き継がれているが,
1954年より始められた「教会修養会」は,現在では『全体修養会』として毎年夏,
宿泊を共にしながらキリスト者としての抱える様々な課題に焦点を当て,
信仰の深化と宣教の業の実現に向けた学びが継続されている。
1975年代後半に入って「昇天者名簿」に記載される人数も40人近くになり,
教会墓地建設への希望の高まりに対応し,1983年11月八王子市所在の「上川霊園」内に
教会墓地を建設した。
1991年4月より,東方信吉牧師は実質的に第一線を離れ,東方敬信牧師が後任となり
青山学院大学教授と兼任での牧会者となった。2002年4月に若い米田芳生牧師を主任担任教師として
迎え入れ、2006年4月米田芳生牧師の三重県伊賀上野教会転出に伴い、秋葉恭子牧師を主任担任教師としてお迎えした。東方敬信牧師は担任教師として引き続き奉仕に当たられている。
教会の会堂も献堂以来60年以上を経過し、その間必要に応じた補修等は行ってきたが、各所での建物の劣化が激しくまた耐震性にも問題があり、教会員一同の議論の結果、会堂改修を決議し、2002年12月のクリスマス礼拝は
新装成った会堂で祝うことができた。
改修に当たっては、特に資金調達面で愛児園の父母、教会学校父母、他教会他から多大なご協力をいただいた。
当教会は,1997年に創立60周年を迎え,これを記念して「富士見丘教会60年の歩み」
副題「地域の教会をめざして」が編集、発行された。
このページは、それを参考としてまとめたものである。
当然のことながら60年の歴史の深さ,重さは限られた紙面では伝えることは
不可能である。
我々,富士見丘教会員は,神のみ手に支えられてきたこの教会の60年の重みを感じ,
この様な歴史と伝統を大切にし、21世紀に向けて優れた信仰の継承が行われるよう
精一杯努めていきたいと思います。
2003年(平成15年)9月19日、富士見丘教会が国登録有形文化財に登録されました。富士見丘教会につらなる者として大変名誉に思うとともに、教会の創設より現在に至るまでの信仰の諸先輩を覚え、この地での更なる伝道の継承に励みたいと思います。
世田谷区内では3件目となる登録で、この度、「せたがやの文化財」016--平成16年3月30日発行--にもその概要が掲載されました。詳細については、ここをクリックください。