山本忠美牧師

 

山本牧師は、佐世保教会を皮きりに,幾つかの教会の設立に情熱を傾けた。昭和初年頃には,組合教会の大きな伝道の柱でもある「朝鮮伝道」の為に京城に渡り,京城教会の発足に尽力した。南大阪教会を辞任後,上京し海老名弾正牧師の斡旋により世田谷の地での教会新設に向けての歩みを始めた。又,昭和25年頃には盛んに家庭集会を開き,その関係から中目黒教会の設立に関わり,完成後その教会の牧師として招聘された。

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東方信吉牧師

 

東方牧師は,1943年から1951年までの8年間倉敷教会の牧師を勤め,同時に東中国教区長でもあった。富士見丘教会着任の第一歩は,地域の人達に教会の存在を認知してもらうことだった。町内会に入るのには一苦労があり,制約もあったが,地域の青年会に寄付金を出したり,町内の夜回りをする基地として教会を使ってもらったり,牧師自身が拍子木を持って夜回りをするなどして地域社会との関わり合いを増していった。

1964年まで教団の主事を務める。その前半は教育委員会,社会委員会,教会学校委員会の主事として働き,後半は教育委員長,そして教団書記を勤めた。教育委員長として,各地において教会学校の教育と一般社会の教育との接点,相違について講演を行う。

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東方敬信牧師

 

東方敬信牧師は,青山学院大学経済学部,東京神学大学卒業後,銀座教会、経堂緑岡教会の主任牧師を長期にわたり務めた。1984年度から,出席牧師として毎月一回第3日曜日の説教を担当することとなった。1990年3月から協力牧師となり,東方信吉牧師に代り実質的に当教会の主要な職務を担当することとなった。青山学院大学教授を兼務。1995年春に大学側から『在外研究』の為の渡米要請が出され1996年4月から1年間ノースカロライナ州のデユ-ク大学で研究生活を送る。教会の歩みに戻る

富士見丘教会