水中写真とは?自然写真とは?
人工物・やらせ・嘘、、、の話。
光を反射させる人工物を生物の背景に置いて色とりどりの玉ボケを出して綺麗な背景の写真を撮る、がキラメル写真。陸上のイルミネーションのような綺麗な写真が撮れます。
キラキラ綺麗だし、誰でも簡単にチャレンジ出来るので、流行りました。と共に、「人工物のキラメルてどうよ?有りなの?」「綺麗だからいいんじゃねぇ〜」「いや、ありゃだめだろ〜」みたいな話も盛り上がったのでした。
実は、こういう人工物を入れた写真はキラメルで始まったのではなく昔からあったんです。被写体の後に青い板を置いて青抜きもどき写真を撮る、白いレジ袋を置いて、白砂飛ばしもどきを撮る、などです。
まぁいい機会だし、真面目に、水中写真について考えてみようっと〜
昔、絵画は情報伝達であり、記録でした。絵文字・洞窟の壁画、あっ古すぎですか?
人相書、肖像画、地図、あっ、信長の時代?まだ古すぎですね。
新聞の挿絵、文字では伝わらない見知らぬ世界を精緻なスケッチで伝えていたのです。新聞に写真が初めて掲載されたのは、1880年3月4日。1826年に誕生した写真が、情報伝達と記録という役目を絵画から奪った時とも言えるでしょう。その後、絵画は情報伝達・記録という役目を急速に失い、現代では、法廷画くらいしかありません。
写真は、情報伝達・記録手段となったのです。役目を失った絵画は、芸術として生き残るのです。
今また写真は、動画に情報伝達・記録という役目を奪われつつあります。動画は写真の連射であり基本的には同じものですが、静止画よりははるかに情報量が多いです。音声情報も付けられます。
例えば魚の図鑑の写真は、魚の婚姻色は伝える事が出来ますが、動画であれば色と形以外に婚姻行動が伝えられます。写真で伝わらない、動き、泳ぎ方、速度、求愛方法、頻度すべてが伝わります。
動画が写真から役目を奪えなかったのは、動画を見る媒体がTV・PCなど限られていたからです。雑誌・新聞・チラシなど携帯可能な紙媒体には、動画は載せられないからです。大きなデータ量を持て余していたからです。編集が素人には困難だからです。
そして今、まさに2017年の今、紙媒体は絶滅の途中です。スマホをみんな持っています。以前は財布に子供の写真を入れていました。「ほら、これ、うちの子、かわいいだろ〜」と写真を見せていました。今はスマホに子供のlive
photo(iphoneのショート動画)を入れていませんか?スマホでニュースを見れば、そこには動画があります。
動画自体は以前からありましたが、今、高速通信とスマホが、動画の欠点をなくしてしまっています。
近い将来、いや数年後?写真は、情報伝達・記録という役目の大半を動画に奪われてしまうでしょう。静止画自体、動画のキャプチャー画像になるでしょう。実はファッション雑誌の小さな写真はもう動画のキャプチャーが使われているそうです。
カメラで撮られた静止画は、動画そのキャプチャーの静止画に、追い出されるのです、昔の絵画の様に・・・
写真の行き先は・・・やはり昔の絵画と同じ、芸術でしょう。そして水中写真も・・・
ああ〜〜そういえば今年のモルディブ旅行で、コンデジでの水中記念撮影はもう動画が多かったです。陸上でも短い動画をスマホで沢山撮りました。気合入れて写真を撮ったのは、綺麗な夕日・・・。
ああっ、このHPも動画多用しています。
水中マクロ写真は図鑑写真が主流でした。フィルム時代は、ピントが合わせられるか?で必死だったのです。フィルム36枚の勝負で、何枚ピントの合った魚の写真が撮れるか?をやっていたのです。頑張って黒抜き・青抜きまでです。たまに、ボケた写真に挑戦する時は、全滅覚悟でした。自分のダイビング記録が、主な目的だったのです。
デジカメになり、TTLが使えるようになり、AFが使えるようになり、水中写真も、みんなが『綺麗に撮る』事が出来る時代になってきました。みんな試行錯誤し、色んな綺麗な写真を撮りだしました。
そこで人工物キラメルのような写真が出てくるのは、自然な流れだと思います。そして、「人工物のキラメルてどうよ?有りなの?」という話が出るのも自然な流れでしょう。今までと変わってきたのですから、その変化はどう?と思うのは当然です。
個人的な考えを書いてみます。
皆さんも、一度考えてみて下さい。自分はどういう写真を撮るのか?目指せ完璧な図鑑写真なのか?かわいい自然写真なのか?綺麗な写真なのか?前衛的な創作写真なのか?水中写真を材料にした写真芸術なのか?
水中写真に対する自分のスタンスを考えて置けば、撮影の時、絵コンテ作る時わかりやすいと思います。。
僕は図鑑写真からかわいい自然写真まで。自然写真の範疇でアートっぽい写真も撮って遊ぶ。不自然じゃないぎりぎりまでが僕のスタンス。まぁ、これは、変わっていくし、変わってもいいんだと思います。今のスタンス。
「人工物キラメルはだめだ。」「青い板を置くのはルール違反だ。」etcなど、善悪・良し悪しを言うのは、やめた方が良いと思います。なぜなら僕にせよ、あなたにせよ、写真とは何か?を決める立場にないからです。そもそも善悪・良し悪しは相対的なもので時代と共に変わります。自分が絶対的判断の基準ではないのですから、そういう事を言うのはなんかピント外れです。そういうのを見ると・・・僕はいつも思います。
お前は写真の神か〜って(^O^)
しかし、みんなが自分の意見を言う事は良い事だと思います。言うべきだと思います。そういう一人一人の意見が集約されて水中写真の全体的な流れを、時代を作っていくのだと思うのです。
●人工物キラメルはどうも好きになれない。だから自分は撮らない。
●えっ、綺麗じゃない、綺麗だからいいじゃん、私撮るよ〜100均でグッヅ探すんだ〜
●陸上写真なんてイルミネーションは人工物だろ〜人工物の何が悪い、あっ夜景全部人工物じゃないか〜
とかね。
まず、「水中写真として無し・だめ」なものなど何も無いと思います。何でもありです。だって、芸術ってそういうもんじゃないの?今の芸術と言って飾られてる絵とか像とか、僕にはほとんど訳わからんもん〜〜
キラメルに限らず人工物を持ち込んでの水中撮影は、綺麗だと思います。誰かが撮ってる写真を見ても特に抵抗感は無く、綺麗ですねぇ〜と思います。
しかし、個人的には、わざわざ海の中でやらなくてもいいかなぁ〜とも思います。だから海で自分では撮らないです。僕のテリトリーを超えてるかな?と思います。楽しく見ています。嫌だとか否定的な感情はないです、アート写真だから。
人工物写真はアート写真として有りだけど、自然写真としては無しだと思う。
これは、みんなもそう思いません?
岩の上に置いたキンチャクガニやカルイシガニやメンコヒシガニの写真は自然写真なんだろうか?
やらせである事は確かです。
瓶の中のナカモトイロワケハゼは?たまたま落ちていた瓶なら、自然?ガイドがナカモト用に置いたならやらせ?青い瓶は?
ガイドが持ってきて置いた貝殻にいるナカモトは自然?やらせ?
ウミウシカクレエビを、本来居ないであろう小さなウミウシの上にのせて撮るのは?反則?でも岩の上のキンチャクガニだって、やらせなのは同じです。
イソコンペイトウガニもガイドが、やらせで見やすい所に出してます。
さて、何が良くてないが駄目なのか?意外に深くて難しい話。
個人的には、3つに分類すると分かりやすい気がします。
●自然写真としては、人工物は無し。色温度などの修整も最低限。やらせはなし。
●図鑑写真・記録写真としては、やらせは有り。生態図鑑写真だと、より自然写真に近い方が好ましい。しかしやらせ自体は、許容する。図鑑にも水槽内の写真がある。キンチャクガニもナカモトもメンコヒシガニもやらせ無しでは撮れない場合、図鑑写真・記録写真を撮るためのやらせはOK。
●アート写真としては、人工物キラメルもぶんぶくんもHDRもなんでもすべて有り。
実は、人工物・やらせ・修整自体は、問題ではないのかもしれません。写真に嘘の要素が混じっているかどうか?が基準のような気がします。
●嘘の無い修整・修整が程々で自然の状態を正しく表現出来ているなら、自然写真・図鑑写真・記録写真。
●嘘の有る大きな修整・修整で実際の海の色から逸脱してくると、だめ。婚姻色の色が変わると明らかに嘘。自然写真・図鑑写真・記録写真としてはダメ。そう見えちゃうとダメ。
●嘘の無い大きな修整・自然の状態を逸脱しても、誰も勘違いしない・間違わないなら、そこに共通認識があるなら、どれだけ大きく修整しても嘘はない。白黒写真を見て色が無い魚だとは誰も思わない。魚の写真を主題に修整で作りこんだ写真は、自然写真・図鑑写真・記録写真とは誰一人思わない、だからこそ、アート写真として作意として見れる。
●嘘の無いやらせ・メンコヒシガニ・キンチャクガニは、石の下から出して撮ったという共通認識が撮る側にも見る側にもあるので、余り違和感がない、というかやらせが誰でもわかるようにあるのではないでしょうか?みんながやらせだと思うから嘘はない。図鑑写真・記録写真として見る事が出来る。
●嘘の有るやらせ・小さいウミウシに大きなウミウシカクレエビって、乗せた時点で嘘の要素が強い。やらせなのにまるで自然写真のように見せようという騙す意思を感じる。だから強烈な違和感。
しかも、自然界では、ほとんどあり得ないけど、超ラッキーならあり得るかもしれない。その超ラッキーをやらせで作るのは・・・嘘・騙しを感じる。しかもその超ラッキーな瞬間に撮った劇的な写真の存在を殺してしまいます。しかも、元から生息しないものに置いたらすぐベラに食われて死ぬ。
ほんとに劇的な素晴らしい写真を殺してしまうし、生物も殺してしまう、そんな写真を撮りたいとは僕は思いません。皆さんは?
●嘘の無い人工物・ブンブクの殻に穴開けて顔作って、被写体の横に置いて撮るぶんぶくん、コップのフチ子さん、フィギュア置いた写真などは、みんなやらせだとすぐわかるから、嘘はない。だからそういう面白写真として見る事が出来る。勝負はどこまで笑えるか?
●嘘の有る〜無い人工物・人工物キラメルは、人工物だと分からないと騙された感と嘘を感じる。だから出始めに議論になったと思います。しかし、人工物です、自然写真でも図鑑写真でもありません、でも綺麗でしょ?という共通認識がみんなの間に出来ると、嘘の要素が無くなる。そして、アート写真として成立する。今は好きな人が撮ればいいというところに落ち着いている感じ。僕も自分では撮らないけれど見ていて違和感は感じない。
●嘘の有る人工物・いかなる人工物でも、人工物では無いといった瞬間、嘘。
見る人が違和感を感じるかどうかは、そこに嘘があるかどうかではないでしょうか?
僕は自分の違和感を見て、そう思います。
で、、、微妙な状況もあります。分かりやすく青い板を置いた写真で考えると・・・。
●嘘の有る人工物・青い板を置いた写真で、これは自然写真です、と言ってしまうと嘘。
●嘘の無い人工物・青い板を置いた写真で、これは青い板を置いた写真です、自然ではありませんと明言すれば嘘は無い。見ていて違和感は無い。
●嘘の?な人工物・青い板を置いた写真で、何も言わない。写真に注釈をつける必要は無いです。ただ、青い海の写真と勘違いされそうな写真であるならば、何も語らないのは、不作為の作為で、これも嘘じゃない?
じゃぁ・・・ならば・・・
その写真を自分のSNSやブログに乗せる時、いちいち人工物使って撮りましたと、注釈をつけなければならないかというと・・・それも付ける『必要』はないと思います。写真はやはり写真が語るべきで注釈などない方が本筋だと思うからです。
ただ、見る人が勘違いしやすいような人工物写真の場合、注釈付けてくれると間違い難くてありがたいなぁ〜と思います。それに人工物で綺麗に撮ったカメラマンにとっては自然写真と間違われるのは、作意では無いはずです。自分の作品を勘違いされて評価される事だからです。だから間違いやすい場合は自分の作品を大事にするためにも注釈付けた方が良いのになぁと思います。勘違いを黙って見過ごすのは絶対、不作為の作為。
ちょっと考えちゃいますねぇ〜〜〜
それにこれにも正解なんてなくて個人個人がどう思うか、です。自分の意見です。人によってばらばらでいいんだと思います。
皆さんはどう思います???
僕には嘘が判断基準みたい・・・。
人工物キラメルや青い板写真は、見ている人は自然写真とは思わないでしょう。撮っている人もそんな事思っていないだろうと思います。ならばもっと自由に、古い考えに囚われないで撮ってみたらいかがでしょうか・・・
そのような写真を見ても前景の被写体が、なんか普通なんです・・・。既存の自然写真っぽいんです。自然写真ぽいと中途半端だし、嘘を感じます。
アートならもっとアートしてほしいなぁ・・・
もっと、自然と人工物を作り込んで、ミックスした人工物キラメル進化バージョンが見たいなぁ〜〜
『なにこれ?どうやって撮ったか分からない〜でも綺麗〜すごい〜〜』って奴を・・・
僕もちょっと技術的なお手伝い。玉ボケ&キラメルlab
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