スウェーデンボルジアン
天界の秘義3427[2]
聖言の内意の実情は以下のようである、即ち、単なる知識の中にいて、『ペリシテ人』と呼ばれている者らは、また『ゲラルの谷間の羊飼い』と呼ばれて、単なる信仰の教義的なものの中におり、隣人に対する何らの仁慈の中にいない者らは、聖言の内意が在ることを否定しないわけにはいかないのである。その主な原因は、彼らは唇では主を告白するものの、心では主を承認しないということであり、また隣人に対する愛を口では告白しているものの、心では隣人を愛さないということであり、心で主を承認しないし、心で隣人を愛さない者は聖言の内意を否定しないわけにはいかないのである、なぜなら聖言はその内意では主に対する愛と隣人に対する愛以外には何ものをも取り扱ってはいないからであり、それで主はこの二つの戒めに律法と予言者とが、即ち、聖言全体がかかっていると言われているのである(マタイ22・37−40)。これらの者は聖言の内意を如何に甚だしく否定しているかもまた私は他生におけるこのような人物から認めることを許されたのである、なぜなら文字の意義に現れてはいない聖書の内意が在って、それは主と隣人に対する愛を取り扱っていることが彼らの前で単に口に出されるのみで、彼らによる否定のみならず、反感と嫌忌とが認められるからである。これがこの否定の主要な原因である。
天界の秘義3773
「彼らは再びその石をその井戸の口の上のその所に置いた」。これはその間それが閉じられたことを意味していることは、その井戸の口の上の石について言われたことから明白である(3769、3771番)。聖言が教会に開かれ、後に閉じられることについては実情は以下のようになっている、即ち、何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれるのであり、主はそのように配慮されているのである、かくて彼らは教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられていることを学ぶのである。この二つの戒めが目標とされるとき、聖言は開かれるのである、なぜなら律法と予言者の凡ては、即ち、聖言全体はこの戒めに依存しており、かくて凡ゆるものはそこから派生しており、それで凡てのものはそれに関わりを持っているからである。そして教会の人々はそのとき真理と善との原理の中にいるため、彼らは聖言に見られる凡ゆる事柄において明るくされるのである、なぜなら主はその時(彼らはそのことを知らないものの)天使たちにより彼らのもとに現存されて、彼らに教えられ、また彼らを真理と善の生命へ導き入れられるからである。
天界の秘義6400
教会の凡ゆる異端は聖言から多少の真理の中にはいるが、善の中にはいない者らから起こっており、彼らには異端は真理そのもののように見えているのである。こうしたものを広めた者たちは善の中にいないことは、彼らが仁慈の善を信仰の真理の遥か背後に押しやって、仁慈の善とは些かも調和しない物を部分的に考案しているという事実から認めることが出来よう。
天界の秘義8928〔2〕
先ず、霊的な教会に属している者たちは自分たちは光の中にいると信じてはいるが、しかし彼らは真理の神的なものについては明確ではなく、否、暗闇(の状態)に置かれていることは以下の事実から明白である、即ち、彼らは教会の言っていることが真であることを何ら内なる確認から知らないで、単に教会がそのように言っているという事実からのみ知っており、そのことをそれが誤っていようが、真であろうが、自分自身のもとで確認しているのであり、真理の神的なものを何ら内的に認識しない者は暗闇の中におり、または、それと同じことではあるが、彼には神的な真理は暗闇となっているのである。例えば、霊的な教会に属している者たちは聖言には何か内意が在ることを知らないし、また知ろうともしないし、何かのことでたまたまそれを信じるにしても全くそれはそれがそうであると内的に認めているからではなく、何か他の源泉から説得されてのことなのである。
天界の秘義9120
良心の何であるかはまた例により説明することが出来よう。もしある人間が他の者の財産をその他の者に知られないで手もとに持っており、それでそれを法律の恐れもなしに自分のために取って置くことが出来るにも拘らず、それが自分のものでないためにそれをその他の者に返すなら、その人間は良心を持っているのである。なぜなら彼は善いことを善いことのために、公正なことを公正なことのために行っているからである。更に、もしある人間が高い地位を得る力はあるものの、他の者が―その者もまたその地位の候補者に上げられているが―自分よりも国に更に役に立つことを認めて、国の益のためにその地位をその他の者に譲るなら、彼は良心を持っているのである。他の凡ての場合でも同じである。
黙示録講解1096[2]
人間に天界を開く最初の、また最も重要な考えは神についての考えであり、そのことは神は天界の凡てのものであられ、私たちが天界と言おうが、神と言おうが、それは同一の事であるとすらなっているのである。天界を構成している天使を天使とならせている神的なものが共に集められるとき神であり、このことが神について考えることが人間に天界を開く凡ゆる考えの中で最初のまた最も重要なものである理由である、なぜならそれは天的な、また霊的な凡ゆる真理と愛との頭部と総計である。しかし光から発している考えが在り、愛から発している考えが在り、光のみから発している考えは、神は存在しているという知識であり、それは承認のように見えはするが承認ではない。
黙示録講解1096[3]
光から発している考えにより人間は天界の中に臨席はするが、天界とは連結しない、なぜなら思考のみの光は連結しないで、人間を主と天使たちとの前に臨席しているものとして示すに過ぎないからである。なぜならそうした光は冬の光のようなものであって、その中では人間は夏の光の中におけるように同じ澄明さをもって見るものの、その光はそれ自身を地に結合させはしないし、いかような木にも、かん木、花、または草の葉にも結合させはしないからである。さらに、人間各々は己が内に神について考える能力を、また天界の光の中に神に関係しているいくたの事柄を理解する能力を植えつけてはいるが、しかしその光から発している考えのみは―それは知的な考えであるが―すでに言ったように、主のもとに、また天使たちのもとにその者を臨席させるにすぎないのである。
[4]人間が神について、また神にかかわる事柄について単なる知的な考えの中にいるときは、その者は遠方では天使たちには象牙か、または大理石の像のように見え、それは歩いたり、音声を発することはできるが、その顔とその声の中には未だ生命は全くない者のように現れるのである。また天使たちには、比較すれば、枝は裸になって、葉は無いものの、それでも、春の時におけるように、その光に熱が加わるときは、それは葉で、後には果実でおおわれるであろうとの多少の望みを抱かせる冬の時の木のように見えるのである。神についての考えは最初に天界を開くものであるように、神に反抗する考えは最初に天界を閉じるものである。
天界の秘義1162
『ハムの息子たち』によりこの分離した信仰に属した事柄が意味されていることは以下のことから生まれている。『ハム』により意味されていることが知られ、それ故『ハムの息子たち』によっても意味されていることが知られるためには仁慈から分離した信仰はいかようなものであるかが先ず知られなくてはならない。仁慈から分離した信仰は信仰ではない。信仰のないところには、内なる礼拝も外なる礼拝も存在しない。仮にも何らかの礼拝があるにしても、それは腐敗した礼拝であり、それ故『ハム』により同じく腐敗した内なる礼拝が意味されている。
仁慈から分離している、天的な事柄と霊的な事柄に関わる単なる記憶知を信仰と呼んでいる者らは誤った見解を抱いているのである。なぜなら時としては人間の中でも最悪の者でさえもこうした知識を他の者にもまさって持っているからである―例えば絶えず憎悪と復讐の中に、また姦淫の中に生きており、それ故奈落的なものであり、身体の生命の後には悪魔となる者らがそれである。こうしたことから記憶知は信仰ではないことを認めることが出来よう。しかし信仰は信仰に属した事柄を承認することであり、こうした承認は決して外なるものではなくて、内なるものであり、主のみが人間の中に仁慈を通して作り出されるものである。そしてこの承認は決して口先の事柄ではなくて、生命の事柄である。人間各々の生命[生活]からその者の承認はいかようなものであるかを知ることが出来よう。
信仰の幾多の知識の記憶知を持ってはいるが、仁慈を持ってはいない者らはすべて『ハムの息子ら』と呼ばれるのである。例えそれが聖言の内的な知識の記憶知であるにしても、聖言の神秘そのものの記憶知であるにしても、または聖言の文字の意義における凡ゆる事柄の記憶知であるにしても、または呼称のいかんを問わない他の諸真理の記憶知であるにしても―その記憶知からそうした事柄が観察されるのであるが―または外なる礼拝の凡ゆる祭儀の知識であるにしても。もしその者らが仁慈を持たないならば、その者らは『ハムの息子たち』である。『ハムの息子たち』と呼ばれている者はこうした性格を持っていることは今取扱われている諸国民から明白である。
ヨハネ6・36
しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
A.J.アパサミー/インドの聖者スンダル・シング/P213
「宗派というのは奇妙で、不必要なものです。神はただひとりです。それなのに、どうしてこんなに多くの教義があるのでしょう。平和と静けさは、キリストを知ることから来ます。その後に、意見の衝突が起きるはずがありません。しかし、それでも・・・」
彼はあきらめたようにいう。「これが地上です。でも喜びがないわけではありません。もしすべての宗派がひとつになったら、それはもはや地上ではなくなるでしょう。天国でしょう」
A.J.アパサミー/インドの聖者スンダル・シング/P218
「わたしはどの宗派にも属していません。わたしはひとりの単純なキリスト教徒です。宗派主義は『けんか主義』となります」
聖母から司祭へ1984.3.25
なぜ、わたしは奉献を願っているのでしょう?
何かが奉献されるときは、それをほかの目的のために使わず、聖なる目的のためにだけ使うことになります。それは、その人が、神への完全な崇敬を捧げるために召されるときです。そうすると、あなたがたの奉献の真の行為は、洗礼の行為であることがわかるでしょう。
イエズスが制定なさったこの秘跡によって、あなたがたは、恵みを受けるようになります。その恵みによって、あなたがたは、生活のもっとすぐれた段階である超自然的な段階に入れるようになります。こうして、あなたがたは、神性にあずかり、神との愛の交わりに入ります。したがって、あなたがたの行為は、神的なまことの価値を得て、あなたがたは、自然的な価値を超える新しい価値をうるようになるのです。
洗礼を受けることで、あなたがたは、聖三位に完全な光栄を帰するために召されます。
スウェーデンボルグ/真のキリスト教/677
<洗礼の第一の用は基督教会に導き入れられ、その結果霊界の基督教徒と連なることである>
洗礼は単に基督教会へ導き入れられることに過ぎないことは、以下の考察により明白である。(1)洗礼は割礼の代わりに制定された。而して割礼はこれを受けた者達はイスラエル教会に属したことを示す印しであったように、洗礼はこれを受ける者達は基督教会に属することを示す印である(前項参照。)而して二人の母親の子供達を区別し、その子供達が取り代えられないようにするために、これに異なった色の産衣を着せるように、この印は見分ける手段以外の何物でもない。(2)洗礼を授けられた幼児は木の若枝のように、その理性を用いて信仰を獲得することは出来ない。(3)基督教に改宗する者は老若を問わず、洗礼を受ける。而してこの洗礼は彼らが基督教を抱こうとの願望を表しさえするならば教訓を受ける前に行われる。これもまた使徒達は凡ゆる国人を弟子となし、これに洗礼を授けねばならないとの主の言葉に従い行なったところであった(マタイ28・19)。(4)ヨハネはユダヤとエルサレムから彼の許へ来た凡ての者にヨルダン川で洗礼を授けた(マタイ3・6、マルコ1・5)。彼はヨルダン河で洗礼を授けたのは、カナンの地へ入るにはヨルダン河を渡らねばならなかったからである。カナンは教会を意味したのである。それは教会が其処に在ったからである。それ故ヨルダンはその教会へ入れられることを意味していた。(黙示録の啓示285)この教会へ入れられることは地上に生ずるが、しかし、洗礼はまた幼児達をキリスト教天界と接触させ、天使達は彼処にかれらを守護することを主より命ぜられる。嬰児が受洗されると、天使はすぐ任命されてその子供達を主から信仰を受ける状態に居らせる。しかし、彼らは成長し、自分で考え且つ行動するようになるとその守護天使は彼らを離れ、かくて青年達は自分達の生活と信仰とに一致する霊達を自らの交友として惹き寄せる。それ故、洗礼はまた霊界に於けるキリスト教徒との連結へ導くものである。
秩序が在る所には主が現存されている
天界の秘義6703
主が現存される時は、凡ゆる物は主の現存そのものにより秩序づけられるのである。主は秩序そのものであられ、それで主が現存される所には秩序が在り、秩序が在る所には主が現存されているのである。その秩序そのものは今以下に記されている頁に記されており、それは諸真理が善の下に正当に秩序づけられるということである。
天界の秘義5066
右手の者の言った答え―
主よ、何時私たちはあなたが飢えておられるのを見て、あなたに食べさせましたか、または渇いておられるのを見て、飲物を与えましたか。何時私たちはあなたが他国の方であられるのを見て、お泊めしたでしょう。または裸であられるのを見て、お着せしたでしょう。何時私たちはあなたが病まれ、または牢におられるのを見て、あなたのもとへ来たでしょう。
この答えは、もしかれらが主御自身を見たなら、その各々の者はことごとくこれらの務めを行ったことであろうが、それでもそれは主に対する愛から行いはしないで、主が宇宙の審判者となられるために、恐怖から行ったであろう、ということを意味し、かくて主のためではなくて、かれら自身のために行なったであろうし、かくて内から、または心から行わないで、外から、ただ行為の上でのみ行ったであろうということを意味しているのである。これは人が偉大な、または富んだ者になることができるように、かねがねその恩恵を得ようと願っている王を見、それでその前に身を卑うする時のようなものである。聖い外なる礼拝を守っている者の場合もこれに似ている、かれらはその礼拝の中ではいわば主を見まつり、主の前に身をかがめ、かくして自分たちは永遠の生命を受けるであろうと信じてはいるものの、何ら仁慈を持ってはおらず、自分自身のためでないかぎり、たれにも善を行わず、かくてただ自分自身にのみ善を行うのである。かれらは外の形では非常な尊敬をこめてその王のごきげんをとるが、心ではかれを無視しているため、その命令を嘲っている人物のようである。こうした事柄、またそれに類した事柄が右手にいてそのような答えをしている者たちにより意味されていることであり、悪い者もまたそとの形ではそれに似た事柄を為しているため、それで、左手にいた者らもまたほとんど同じようなことを答えたのである。
天界の秘義3472
聖言には人間が文字から把握するよりも深い物が含まれていることを聞くことは全く人間の反感を買い、それには天使たちの知恵にのみ専ら適応しているところの、把握することの出来ない事柄が含まれていると言われる時は、更にその反感を買い、それには天使の理解をも無限に超絶している神的なものそれ自身が含まれていると言われる時は、実にそれ以上の反感を買うのである。基督教界は聖言は神的なものであることを実際承認はしているものの、それでもそれがこのような意味で神的なものであることを、唇ではなくとも、心では否定しているのである、このこともまた、人間が現今抱いている地的な思いは崇高な性格を持っている事柄を把握しないし、また把握しようとも願わないからには怪しむに足りないのである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P191
誰に対しても 厳かに尋ねよう、聖書を どうしてしまったのか? 聖書は 私を映す鏡。 どうして、聖書を知っていると言いながら、私の語り口が見分けられないのか? なぜそれほどにも簡単に 真理を否定するのか。 言っておく、今与えられている我が言葉の中で私を見分けられないなら、それはひとえに 聖霊が鍵である聖書を 知りもせず 理解もしていないため。
もし誰かがこう言う人が いたとする、 「私たちはこの預言的な啓示を必要とはしない、それに 耳を傾けたり読んだりする義務もない 聖書があれば十分で すべての知識はそこから学べる」と。 このように疑い深い者たちには 尋ねよう、「自分がどうして信じないかが分かるか そして なぜ無関心に心を閉ざそうとするのか 分かるか? その先を探し求めない理由が 分かっていようか?」 それはあなたが聖霊を持たないからで 聖霊は 闇から自らの光のうちへとあなたを甦らせ 霊魂を照らして 自らを顕している御父と御子が見えるようにして下さるはずだった。 聖霊は あなたのうちに復活の息吹を吹き込んで 活気づけ、こうして私のうちなるいのちを与えるはずだった。 死んでいる霊魂は 聖書を理解し それを実践できようか もし霊魂が生きていないとしたら?
私の肖(かたど)りを、鏡のように、映す聖書を 理解していたなら、「私にとって聖書だけで十分」とは 言わなかったであろう。 そう、我が友よ、聖霊を所有していないなら、聖書だけでは 不十分。 聖霊の光によってはじめて黙示録が理解でき そのときは聖書の、封印され 推し量りがたい神秘と見えたすべてが、知り得るものとなってはっきりしてこよう 聖霊が知識の鍵を与えてくれるゆえ ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P122
それから、別の司祭の反応はこうでした。「はい、それは神聖であって、神からのものですから、書き続けなさい」と。彼は、それが神のみことばであることを信じます。けれど、多忙すぎて、それを一揃いとして目を通そうとしたり、どのようなものか、見つけ出そうとさえしないのです。このことで、私は驚いてしまうのですが、もし、神があるメッセージを伝えようとしていらっしゃると信じるなら、何故もっと努力してそれが何であるのか、探り出そうとしなのでしょう?
異教徒たちに、あなたたちの生き方を見て、この人々には宗教がないとか、自分たちよりも悪いやつだとか考えさせることがないようにしなさい。あなたたちは神自身から律法をもらった民なのだから、それを守りなさい。あなたたちの征服者も、あなたたちの鎖の前にひれ伏させ、こう言わせなさい。
『この人たちは敗北した人々だが、私たちよりも偉大である』と。
この偉大さは数や金や武器によるものではなく、神の勢力からくるものです。聖なる完全な力強いまことの神の父性がここに輝き、その子らによって現されます。そうしたら、異教徒たちもまことの神を認め、誤謬を捨てます。神の民の中で、最も貧しく知識のない人でも、聖なる生活をもって異教徒たちにどのように生きるべきかを教えることができます。