信仰と良心とは不可分離

 

信仰良心

 

 

 

1.信者でない者は一人として信仰を持つことは出来ない

2.信仰を持つことは良心に属している

3.信仰は良心とは不可分離であり、信仰というも、良心というも、それは同じことである程にも不可分離

4.良心は宗教的な信念を自分自身の中に受け入れるに応じて形作られる

5.信仰の諸真理により(即ち)その諸真理を心の中に受け入れるに応じて形作られる

6.良心を持っている者たちはその話すことを心[心情]から話し、その行うことを心から行っている

7.良心に反抗して行動することはこの意志に反抗して行動すること

8.良心の呵責

9.善いものの良心と公正なものの良心

10.良心の何であるかの例

11.良心を持たない者の性格

12.世で良心を受けなかった者は救われることは出来ない

13.現今のキリスト教徒は殆ど宗教を欠如している

14.良心に反して考えることは不可能

15.良心無しに考える者は欲念と幻想から考えており、かくて地獄から考えている

 

 

 

1.信者でない者は一人として信仰を持つことは出来ない

 

 

天界の秘義896

 

「ノアは箱舟の蔽いを取りのけて見た。」

 

これは幾多の誤謬が除かれると、信仰の諸真理の光が存在し、それを彼は承認し、またそれに対する信仰を持ったことを意味することは、蔽いを除くことの意義から明白であり、それは光を遮っているものを取り去ることである。『箱舟』により再生することになっていた古代教会の人間が意味されているため、『蔽い』により天界を、または光を見させないように遮り、妨害しているもの以外には何ものも意味される筈はない。妨げたものは誤謬であった。それで彼は『見た』と言われている。聖言には『見る』ことは理解し、信仰を持つことを意味している。ここではそれはその人間が諸真理を承認し、その諸真理に対する信仰を持ったことを意味している。真理を知ることはそれを承認することとは異なっており、それに対する信仰を持つこととは更に全く異なっている。知ることは再生の最初の事柄であり、承認することは第二の事柄であり、信仰を持つことは第三の事柄である。知ることと承認することと信仰を持つこととの間にいかような相違のあるかは以下の事実から明白である、即ち、ユダヤ人や尤もらしい理論により教義的な物を破壊しようと試みる者のように、最悪の人間でも知ることは出来ても、承認しないのであり、信じない者でも承認して、ある状態では説教もし、確認もし、熱意をもって説きつけさえもするが、しかし信者でない者は一人として信仰を持つことは出来ないのである。

 

 

 

2.信仰を持つことは良心に属している

 

 

天界の秘義896[2]

 

信仰を持ち、知り、承認し、信じる者たち、これらの者は仁慈を持っており、良心を持っている、それ故信仰はたれにもこれらの事柄がその者に真のものとなっていない限り、属性付けられることは決して出来ないのであり、即ち、彼は信仰を持っているとは言うことは出来ないのである。それ故このことが再生することである。単に信仰に属したことを知ることは、その者の理性からも同意されなくては、人間の記憶に属したものである。信仰に属したものを承認することは或る原因により、また或る目的のために生まれた合理的同意である。しかし信仰を持つことは良心に属している。即ち良心を通して働かれる主に属している。このことは他生にいる者達から非常に明白である。単に知るに過ぎない者の多くは地獄にいるのである。承認している者の多くの者もまたそこにいるのである。それは身体の生命の中では彼らが承認したのは或る状態の中にいた時のみのことであって、他生で彼らがかつて他の者に説教し、教え、説きつけもした事柄が真であることを知ると、非常に驚き、それが彼らが前に説教したところのものとして、その記憶に甦る時にのみそれを承認するためである。しかし信仰を持っていた者たちは凡て天界にいるのである。

 

 

 

3.信仰は良心とは不可分離であり、信仰というも、良心というも、それは同じことである程にも不可分離

 

 

天界の秘義2325

 

 「ロトは見た」(創世記19・1)。これは良心を、即ち、仁慈の善の中にはいるが、しかし外なる礼拝の中にいる者たちの良心を意味していることは、『見る』ことの意義から認めることが出来よう。『見る』ことは、聖言では、理解することを意味しているが、(897、1584、1806、1807、2150番)、しかし内意ではそれは信仰を持つことを意味しており、その意義については、私たちが29章の32節に来る時、主の神的慈悲の下に述べよう。ここの『見る』ことは良心を意味していることは、信仰を持っている者はまた良心を持っているためである。信仰は良心とは不可分離であり、信仰というも、良心というも、それは同じことである程にも不可分離である。信仰により、仁慈が存在する手段であり、また仁慈が存在する源泉であり、かくて仁慈そのものである信仰が意味されている、なぜなら信仰は仁慈がなくては信仰ではなく、信仰は仁慈がなくては在り得ないように、良心もまた仁慈がなくては在り得ないからである。

 

 

 

4.良心は宗教的な信念を自分自身の中に受け入れるに応じて形作られる

 

 

天界の秘義9112

 

良心とは何であるかを今述べよう。良心は人間の中にその者の宗教的な信念[確信]から、即ち、その宗教的な信念を自分自身の中に受け入れるに応じて形作られるのである。

 

 

 

5.信仰の諸真理により(即ち)その諸真理を心の中に受け入れるに応じて形作られる

 

 

天界の秘義9113

 

教会の人間にあっては、良心は聖言から発している、または聖言から引き出された教義から発している信仰の諸真理により(即ち)その諸真理を心の中に受け入れるに応じて形作られるのである。なぜなら人間が信仰の諸真理を知り、その者自身なりにそれらを把握し、後になってそれらを意志し[欲し]、行う時、その時良心がその者の中に形作られつつあるからである。心[心情]の中に受け入れることは意志の中に受け入れることである、なぜなら人間の意志はその者の『心[心情]』と呼ばれるものであるから、

 

 

 

6.良心を持っている者たちはその話すことを心[心情]から話し、その行うことを心から行っている

 

 

天界の秘義9114

 

それで良心を持っている者たちはその話すことを心[心情]から話し、その行うことを心から行っている。このような者はまた分割されない心を持っている、なぜなら、彼らは彼らが真であり、善であると信じていることに従って、またその理解していることに従って行動するからである。従って信仰の諸真理を他の者にもまさって明るくされ、他の者にもまさって明らかにそれらを認識している者たちのもとには、それほど明るくされてはおらず、認識も明確でない者の場合よりも、さらに完全な良心が作られることが出来るのである。

 

 

 

7.良心に反抗して行動することはこの意志に反抗して行動すること

 

 

天界の秘義9115

 

主から新しい意志を受け入れた者たちは良心を持っている。この意志はそれ自身が良心である。それで良心に反抗して行動することはこの意志に反抗して行動することである。そして仁慈の善がその新しい意志を作るため、仁慈の善もまた良心を作るのである。

 

 

 

8.良心の呵責

 

 

天界の秘義9116

 

前に言ったように(9113番)、良心はまた新しい意志と仁慈のように、信仰の諸真理により形作られるからには、信仰の諸真理に反抗して行動することは良心に反抗して行動するということが生まれてくる。

 

 

 

天界の秘義9117

 

 主から発している信仰と仁慈とが人間の霊的な生命を形作るため、良心に反抗して行動することはこの生命に反抗して行動することであるということが生まれてくる。

 

 

 

天界の秘義9118

 

それで良心に反抗して行動することは新しい意志に反抗し、仁慈に反抗し、信仰の諸真理に反抗し、従って、人間が主から得ている生命に反抗して行動することであるため、このことから以下のことが明白である、即ち、人間は良心に従って行動する時、彼は平安の静謐(の状態)に、内なる祝福(の状態)にいるが、良心に反抗して行動する時は、静謐でない状態におり、また苦痛を舐めもするのである。この苦痛が『良心の呵責』と言われているものである。

 

 

 

9.善いものの良心と公正なものの良心

 

 

天界の秘義9119

 

 人間は善いものの良心と公正なものの良心とを持っている。善いものの良心は内なる人の良心であり、公正なものの良心は外なる人の良心である。善いものの良心は内なる情愛から信仰の教えに従って行動することに在るが、公正なものの良心は外なる情愛から社会的な、道徳的な律法に従って行動することに在る。善いものの良心を持っている者たちはまた公正なものの良心を持っているが、公正なものの良心を持つに過ぎない者は善いものの良心を受ける能力を持っており、教えられると、更にそれを実際受けるのである。

 

 

 

10.良心の何であるかの例

 

 

天界の秘義9120

 

良心の何であるかはまた例により説明することが出来よう。もしある人間が他の者の財産をその他の者に知られないで手もとに持っており、それでそれを法律の恐れも無しに自分のために取って置くことが出来るにも拘らず、それが自分のものでないためにそれをその他の者に返すなら、その人間は良心を持っているのである。なぜなら彼は善いことを善いことのために、公正なことを公正なことのために行っているからである。更に、もしある人間が高い地位を得る力はあるものの、他の者が―その者もまたその地位の候補者に上げられているが―自分よりも国に更に役に立つことを認めて、国の益のためにその地位をその他の者に譲るなら、彼は良心を持っているのである。他の凡ての場合でも同じである。

 

 

 

11.良心を持たない者の性格

 

 

天界の秘義9121

 

 これらの例から良心を持たない者の性格を推測することが出来よう。彼らはそれとは対立したことから知られるのである。彼らの中で、自分自身の利益のために公正でないものを公正なものとして見せ、悪いことを善いものとして見せかけようとする者は、またその逆に公正なものを公正でないものとして、善いことを悪として見せかけようとする者は何ら良心を持っていないのである。彼らの中で、自分の行うことは不正であり、悪であることを知りつつも、それを行う者は、良心の何であるかを知らないし、教えられるにしても、知ろうとはしないのである。凡ゆることを自分自身と世のために行う者らはこうしたものである。

 

 

 

12.世で良心を受けなかった者は救われることは出来ない

 

 

天界の秘義9122

 

世で良心を受けなかった者らは他生で良心を受けることは出来ない。かくて彼らは救われることは出来ない。なぜなら彼らは面(プレイン)を―その面の中へ天界が(即ち主が天界を通して)流れ入って、それによって働き掛け、かくして彼らを天界自身へ引き寄せることが出来るが、そうした面を―持っていないからである。なぜなら良心は天界の流入を受ける面であり、またその容器であるからである。それで他生ではこうした人間は何ものにもまさって自分自身と世とを愛している者らと共に結び付くが、こうした者らは地獄にいるのである。

 

 

 

13.現今のキリスト教徒は殆ど宗教を欠如している

 

 

霊界日記5855

 

私はしばしば、他生にいる者らについて、彼らは良心とは何であるかを知らず、かくて千人の中殆ど一人さえもそのことを知ってはいないことを認めもし、聞きもしたのである。天使たちはそうした無知が何処から発しているのか、と怪しんだが、しかしその理由が明らかにされたのである、即ち、教会の人間は、善を、引いては、業を無意味なものとしており、そうしたものを無意味なものとしている者は決して良心とは何であるかを知ることは出来ないのである、なぜなら良心は、人が神の戒めに反したことを行ったために、また人がその戒めに反したことを考えたために悲しむことであるからである。このことから現今のキリスト教徒の性質が明らかであり、それは殆ど宗教を欠如しているのである、なぜなら宗教を持ち、神的な事柄を愛する者は良心を持っているからである、なぜなら彼は、もし彼が何か神的なものに反したことを考え、意図したとするなら、ましてや、そうしたことを行ったとするなら、苦痛を経験するからである。

生命を目的としない者は、信仰のみを目的としているため、良心とは何であるかを決して知りはしない、彼は良心とは何であるかを尋ねはするが、それでも把握はしない、なぜなら彼は、善い業は救いには何ら貢献はしない、と信じているからであるが、それでもそうしたものは生命のものであり、信仰の知識は、信じられていると考えられてはいるものの、もしそれがそれを意志し[欲し]行うことにより生命に植え付けられていないなら、単に記憶の中に在るに過ぎないのである。

 

 

 

14.良心に反して考えることは不可能

 

 

天界の秘義2515

 

「彼に言われた」(創世記20・3)。

 

これはそこから発した、即ち、認識から発した思考を意味していることは、『言うこと』の意義から明白であって、それは認識することであり、また(2506番に示されたように)考えることである。認識から発した思考があったとここに言われているため、思考はいかようになっているかを簡単に述べた方が良いであろう。認識から発している思考があり、良心から発している思考があり、何ら良心がない状態から発している思考がある。認識から発している思考は天的な者たちのもとにのみ、即ち、主に対する愛の中にいる者たちのもとにのみ存在しており、こうした思考は人間のもとに存在している最も内なるものであり、それは天界における天的な天使たちのもとに存在している。なぜならそれは主から発している認識であって、それによりまたそこから彼らの思考は存在しており、認識に反して考えることは不可能となっているからである。良心から発した思考はそれよりは低いものであって、霊的な者たちのもとに、即ち、生命[生活]と教義との方面で仁慈と信仰との善の中にいる者たちのもとに存在している。更にこれらの人々にとっても良心に反して考えることは不可能となっている、なぜならそれは彼らに良心を通して主から口授される善と真理とに反抗して考えることになるからである。

 

 

 

15.良心無しに考える者は欲念と幻想から考えており、かくて地獄から考えている

 

 

天界の秘義2515[2]

 

しかし何ら良心を持たない状態から発した思考は自分自身が善い真のものにより内的に導かれることに甘んじないで、単に悪い誤ったもののみによって、即ち、主によらないで、自分自身によって導かれることに甘んじている者のもとに存在している。こうした人物は自分は良心と認識から考えている者たちと全く同じように内的に考えていると信じてはいるが、それは彼らは良心とは何であるかを知ってはおらず、ましてや認識とは何であるかを知ってはいないという理由によっているが、しかしその相違は地獄と天界との相違のようにも大きなものである。良心無しに考える者は何であれ何らかの欲念と幻想から考えており、かくて地獄から考えており、それがそのように見えない時は、それは名声を得るための外なる体裁から考えているのである。しかし良心から考える者は善と真理とに対する情愛から考えており、かくて天界から考えているのである。しかし主の思考については、それは人間の理解をことごとく超絶していたのである、なぜならそれは神的なものから直接発していたからである。