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旭川の足跡

                               昔を偲ぶものは何もありませんが、大力の影を追ってみました。
 
 
大力詩碑 常磐公園 旭川文学資料館裏
この詩碑は没後50周年を記念して1985年に建てられました。すぐ側に生前親しかった小熊秀雄の碑があります。
 
居住跡(1) 1線4号 現・花咲町5丁目 レストランペペサーレ
駅から師団まで敷かれた馬鉄の待合所が、大力たちの旭川最初の住居でした。
 
居住跡(2・3・4) 2条19丁目右10号・4条21丁目・ 6条20丁目右10号
ウッカヤオマナイで澱粉工場の経営に失敗して旭川にもどった大力一家の生活を支えたのは母のいねよです。近くには縄工場が何軒もありました。
 
居住跡(5) 1線1号 現・旭町1条1丁目
旭橋たもとの大力の上京後、両親が「大力餅」「菊まんじゅう」を商った場所。 99年に教育委員会の手で居住跡の表示板が建てられました。
 
上川第三尋常小学校跡 旭町1条9丁目 教育大学 
上川第三小学校は、北門小学校と校名が変わり、現在は教育大付属小学校です。その付属小学校もここにはなく、春光町に移っています。
 
小熊秀雄住居跡 9条15丁目右8号 現・崎本宅
大力の家に近く、親しいこの家を再三訪ねていたことでしょう。小熊夫人実家の持ち家。建物は変わっていますが今も親戚の方がお住いです。
 
北都毎日新聞社 8条9丁目左6号 現・きものの里すぎを
昭和4年、五十嵐久弥の紹介で記者として勤務していました。しかし、ここでの記者生活は1年と続かず、中央の要請をうけ再度上京します。
 
北海日日新聞社(第1次)跡 1条12丁目左4号 現・橋本表具店
大力が16歳の時勤めた新聞社。1年足らずで辞めた。後に、中村計一が勤務していたのは、7条7丁目(現 森産科婦人科病院)の北海日日。昭和3年、体調をくずした大力は、黒島伝治の紹介状を持って、黒島と同郷の中村を訪ねました。
 
下村文庫跡 5条6丁目左5号 最近まで ニュー北海ホテル(現在空地)
醸造業の下村精之助が蔵書を元に開いた私設図書館。大力は「旭川にはたった一つの図書館である下村財団があっても、貸し出をせぬのと、古いのしかない」と嘆きました。
 
岩沢眼科跡 5条10丁目右1号 現・旭川郵政健康管理センター
入院中の甥を見舞いに来た大力が、看護婦だった丸本久子に出会った所。昭和4年、大力は北都毎日の記者時代です。
 
旭川新聞社跡 5条10丁目右6号 現・駐車場空地
これまで年譜等に16才の時、給仕として就職したと伝えられていますが、この時、大力が勤めたのは北海日日新聞です。小熊秀雄が記者をしていました。
 
旭川郵便局跡 4条9丁目 現・北洋銀ビル
17才から23才まで7年間勤めています。大力の仕事は小包係でした。
 
旭屋跡 3条8丁目右2号 現・富貴堂
大力の通った本屋。本を手にいれるために、郵便局の非番の日は縄工場でアルバイトをしました。
 
上川病院跡 2条8丁目右5号 現・拓殖市場
ウッカヤオマナイで弟2人とともにジフテリアに罹り、弟たちは相次ぎ死亡、大力はかろうじて一命をとりとめる。その時、入院した病院です。
 
牛朱別川堤防
詩の中に何度も出てくる牛朱別川堤防は、家からも近く、大力の好きな散策路だったのでしょう。流れは旭橋の所で石狩川と合流しています。

旭川文学資料館 常磐公園内
第一展示室に小熊秀雄とならび今野大力のコーナーがあります。http://www.abs-tomonokai.jp/

2001/5/11

s-hisara@mti.biglobe.ne.jp