東海道 箱根越え ( 小田原 − 箱根 − 三島 31.2km )  2009.1.3



【PHOTO & 記録 東海道 箱根越え 6】

甲石坂 (兜石坂) は写真のようなササに囲まれた坂道。箱根馬子唄の碑から芦ノ湖までを除き、 箱根峠まではほとんど登りだったので、下りが嬉しい。
また、太陽が暖かい日差しを届けてくれ、気持ちが良い。
この時期、そしてこの時間帯、道のぬかるみを心配したが、特に問題なし。
かつて、兜石があった場所を示す碑を過ぎ、快調に下っていくと、再び国道1号線に合流。 しかし、またすぐ先で山道に入ることになった。

国道から再び山道に入ると、 すぐに兜石がある (写真)
本来、先ほどの甲石坂にあったもので、昭和の初め、国道1号線の拡幅工事の際、この場所に移されたものとのことである。 この兜石はその形から名付けられたという説と、豊臣秀吉が小田原征伐の時に休息した際、 この石の上に兜を置いたことから名がついたとの説があるようだ。

続いて念仏岩を右に見ると、その先 5分ほどで展望が開けた。 遠くに町並みが見える。再び樹林に入って、道は その後またまた国道1号線に合流した。

国道を横切り、再び写真のような山道に入る。
石畳も復元されており、また石畳についての解説もそこかしこにあって、勉強になる。
一応時間的には大丈夫とは思うが、できるだけ時間を短縮しておくべきで、急ぎ足で進む。
国道1号線にまたまた合流する手前に、下の写真のような変わった石碑 (実はお墓) があった。

この墓は 『雲助徳利の墓』 と呼ばれており、 松谷 久四郎という元西国大名の剣道指南役だった人の墓らしい。墓のそばにある解説によれば、久四郎は、剣道指南役を勤めていたものの、 大酒飲みのために事件を起こして国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入ったとのこと。 雲助をいじめる武士を懲らしめたり、雲助達に対し手紙の読み書きをしてやったり、色々相談に乗ったりしているうちに雲助達から親分以上に慕われるようになったとか。 ただ、普段は酒を飲んでゴロゴロしていたので、命を縮めることになったとのこと。 この墓は雲助達がお金を出し合って久四郎のために造ったものだとのことである。

国道を渡ったところが、山中城跡。
まずは駒形諏訪神社の鳥居が目につく。この神社は山中城の守り神だった神社だそうである。 社殿前まで進み、左折。樹齢 500〜600年と推定されている大きなカシの木の横を通り、山中城跡へと進む。
この山中城は、小田原に本城があった北条氏が永禄年間 (1558−1570年) に築城した城と言われ、 1590年に豊臣秀吉によって落城させられたとのこと。 前回 全部を見て回ったので、今回は一番見晴らしの良い西の丸、西櫓を目指す。
写真は二の丸からの二の丸虎口と元西櫓への掛け橋。

西櫓の端から愛鷹山を眺める。 富士山はこの愛鷹山の右手だが、 この時は雲の中。
ここに城があった時は、毎日 富士山を眺めながら生活していたのであろう。羨ましい限りである。

西櫓を後にして、田尻の池、三の丸堀を通り、国道際の駐車場に出た。 ここで再び国道1号線を横切り、旧東海道の石畳道へと入る。この旧街道の左手にも山中城の遺構があるようだが今回はパス。



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