単行本感想[7]

*単行本の価格は購入時のものです


クロノクルセイド(1〜)/森山大輔 未来のゆくえ/やまむらはじめ
余の名はズシオ(1〜)/木村太彦 地球の午后三時/さべあのま
すみれの花咲く頃/松本剛 ラブひな(1〜6)/赤松健
しあわせ団地(1〜)/蓮古田二郎 GENERAL MACHINE/夢野れい

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クロノクルセイド(1〜)/森山大輔

 まんがも人もそうだけど、わたしの第一印象はあてになりません。とりわけ悪いほうの第一印象はそうです。なんじゃこいつはとか思った相手が好漢だったというのはこれまでもけっこうあったし。
 コミックドラゴンで連載が始まったとき、このまんがの第一印象は「なんかヘルシングのパクリみたいな設定だなあ」というものでした。だって教会でモンスター退治でアクション付きとなれば似てると思うでしょう、思わないかなあ。ちょうどヘルシングが評判になっていた時期だったし。しょうがないと思うんだけど。
 うそ。わたしがとんまなんです、ごめんなさい。怒られる前に謝っときます。

 舞台は1920年代のアメリカと設定されているようです。主人公のひとり・ロゼットは、悪魔祓い専門の修道会所属のシスターであるところの少女。もうひとりのクロノは、一見ただの少年と見せながら、実はその力を封印された悪魔。種を割ってもかまわないと思うので割ってしまうと

(わあ読む前に種割らないでと逃げ出すならトップページへ

‥割ってしまうと、クロノの力はロゼットとの契約により封じられていて、ロゼットは封印を解くことはできるし、実際やむを得ない理由でときどき解くけど、代償に自分の寿命を消費する。そういうことになっています。
 んでもってそのロゼットがどうしようもないおてんばで、ものは壊すわ銃はぶっぱなすわ怒るわ殴るわ寝こけるわ。わたくし基本的にはキャラ萌えしないたちなんですが、ロゼットにはもうからきし弱いというのはそりゃあんた女性の好みとしていささか不都合なんじゃなかろうかというのはわたし個人のことなんでどうでもいいのだけど、おてんばロゼットと振り回されるクロノ及び周囲の人たちによるドタバタアクションコメディです。女の子がかわいくて(まだ言ってる)キャラクターがとんではねて、肩が凝らずに楽しく読めて。そういう話だと言ってしまえば、それはそれで大きく外れているわけではありません。
 んがしかし。作中にもロゼットが独白する場面があるとおり、たびたびクロノに力をつかわせているロゼットは、そう長くは生きられやしないのです。祭りがいつか終わることを自覚しながら楽しむ祭りのように、読者はそれが長く続かないことを意識しながら、いや、登場人物たちがそれを意識していることを意識しながらドタバタを追っかけることになります。ほんとはどんな物語にだって終わりがあって、どんな登場人物だっていずれ老いて死ぬのだけど、多くの場合読者はそれを忘れて物語を楽しみます。自分や自分の周りの人がいずれ老いて死ぬことを、ふだんは忘れているように。このまんがの設定はそのことをいやおうなしに読者に思い出させます。祭りはいつか終わるのだと。

 んでもってこのまんがの魅力は、そういう設定であるにもかかわらずいっこうに辛気くさくならないところです。とんではねて物を壊すロゼットにひっぱられて、しょっちゅうお笑いのほうに針が触れます。むつかしい話は抜きにしてもとりあえず読んで楽しいまんがです。そのうえヒロインが。しつこい。

・角川書店・ドラゴンコミックス  (1)ISBN4-04-926143-X C0979 900円(本体)(以下続刊)

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未来のゆくえ/やまむらはじめ

 このページの短編感想に載っけてある感想をごらんになった方は、あるいは日ごろのわたしの言動をご存じの方は、やまむらはじめのこの短編集をわたしがどんだけ待ち望んでいたかおわかりいただけるかと思います。そんな待望の1冊だったにもかかわらず、読後の第一印象は「あれ?」というむしろとまどいに近いものでした。以下はまんがの感想というより、そのとまどいを消し去ろうとあがいた形跡であります。

 なにより驚いたのは、初読時にあれほどのインパクトを受けた「肩幅の未来」をあっけなく読み流してしまったことでした。あれから1年以上経っているのは確かだし、初読時と再読時でインパクトに差があるのは当たり前ではあるけれど、でもこんなに違うもんかなあというほどの差がそこにはありました。
 これは媒体のサイズ差(掲載誌はA4、単行本ではA5)に起因するに違いない。そう思ったわたしはこの仮説が正しいか試してみるべく、残っていた掲載誌をひっぱりだしてきて読んでみました。結果としてこの仮説はほぼ正しかったのだけど、それは大きいから絵が映えるというよくいわれる(そしていささかあいまいな)理由ではなく、横長の特殊なコマ割りを使用したこのまんがは、どうやら一定以上のページ幅による視線の移動が発生してはじめてほんとうに生きてくるのであって、ページ全体がぱっと視野におさまるA5サイズでは、単なる変わったコマ割りのまんがになってしまうようなのです。この本をお持ちの方は、だまされたと思ってA4サイズに拡大コピーして試してみてください。もしかしたらほんとうにだまされたと思うかもしれないけど。
 なお「ほぼ」正しかったと書いたのは、強いインパクトの理由が雑誌掲載時のラストのアオリにもあったことが確認できたため。雑誌のアオリってじゃまなだけなことも多いのですが、これに関しては個人的にどんぴしゃりでした。

 そうはいっても数からいえば、そんなに印象の変わんなかった作品のほうが多かったです。不親切でよくわからん「最後の夏」なんかはこんどもやっぱり不親切でよくわからず、その特異な存在感はかわらなかったし、雑誌掲載時にそんなにおもしろくなかった「まつりの季節」なんかはやっぱりそんなにおもしろくなかったのだけど、雑誌では「よくもなくわるくもなし」という感じを受けた「OUR DAYS」は、雑誌で読んだときよりもずいぶんいい感じでした。たぶんこれは、順番を単行本の最後にもってきたことの成功でしょう。珍しく穏やかなハッピーエンドのお話だけに、きれいなしめくくりになっています。
 少なくともわたしはいままでそれほど意識してなかったのだけど、特に短編の場合、そのまんがから受ける印象は、「何にどんな形式で載ってるのか」にずいぶん左右されることもあるに違いありません。たぶん読んだ場所や季節や時間や、あるいは体調にも。そして−こんなことはいわずもがなだけど−それ以上に大きいのは、たぶん読んでるほうがどういう人としてそのまんがを読んでるかでしょう。かつておもしろかった/つまらなかったまんがを年月を経て読んだときにつまらなく/おもしろく感じるのは、まんがが変わったからであるはずもありません。

 いまでもかなりいい短編集だとは思っているのです。それでも、予想していた読後感と実際の読後感とのギャップが、わたし個人の中でのこの作品の評価を不当に低からしめているかもしれない。そんな気がしています。
 もし収録作品をひとつも読んだことのないわたしがこの短編集を読んだら、どんな感想を持っただろうか。それはわたしにとってとても興味のある、そして決して答えが出ることのない疑問なのです。

・少年画報社・ヤングキングコミックス  ISBN4-7859-1955-8 C9979 495円(本体)

・補足

 この短編集のなかで特に特徴的な「最後の夏」と「肩幅の未来」については、吉本松明さんが丁寧な読み込み作業を同人誌で発表しています(「やまむらはじめ『未来のゆくえ』を読む」、2000年2月13日発行)。感覚的でいいかげんなわたしの感想とは違い実に丁寧で、作品の構造研究としてもおもしろいです。やまむらはじめに興味のあるかたは是非ご一読を。個人的には視線の移動をうんぬんしたのがそんなに外れてなかったかとうれしくもありました。

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余の名はズシオ(1〜)/木村太彦

 木村太彦っつうのは要は石川恵三です。余ってのはズシオ。姉はアンジュ。自分が一時期勘違いしてたので念のため断っておくと、山椒太夫というか安寿と厨子王とはなんの関係もありません。ないはず。これで実は関係あったなんて言われたら腰が抜けます。腰が抜けるの反対は腰が入るなのかな。腰の入ったスイングって言うしな。

 内容は‥なんだったけ。ズシオは大陸を統べる帝国の第一王位継承者だったけど、帝国がいきなり滅んだので王位もへったくれもなくなってしまったのだけど、姉のアンジュが王にならないと殺すというからしょうがないので王になろうとします。王になろうとする、といっても都をめざす以外になんの計画性もありません。
 とりあえず1巻では、姉のアンジュはまだ出てきません。川にどんぶらこ流れてたズシオを助けだばっかりに巻き込まれた男のかっこした女の子とか、封じられていた棒をズシオが抜いたんで復活したのもつかの間逆玉手箱でガキと化した竜王とか、土偶の格好や全身タイツ(ほんとはなんていうんだろうあれ)を身にまとった元召し使いとか、変なもん食ったせいで腹から生まれた怪生物とか。登場人物ばっか増えて話は進んでません。どうなったら話が進んだことになるのかもわからんですが。

 えーと、もうすこし冷静に眺めるとこれはギャグまんがです。ギャグまんがにもいろいろあるけど、どっちかっつうと‥というよりも明らかに技より力で押すタイプ。なんというか手当たり次第にビーム攻撃をかましているようなそんな風情です。
 ビームなので命中範囲はピンポイントだし、そもそも根本的にあらぬ方向へ向かってのビーム攻撃なので、そっちに的を持ってない人にはちっともおもしろくないはずですこのまんが。的を持ってる人でも外れてしまったビームはおもしろくないはずです。ただ当たってしまったギャグは、みぞおちに一発くらうくらいの破壊力があります。電車の中で読んではいけないまんがであります。泣くほうではなくて笑うほうで。いや、世の中広いからこのまんがで泣く人もいるかもしれないけど、それはこのまんがと同じくらい変な人に違いありません。
 2巻以降このまんががどうなるか知らんけど(連載読んでるから知らんわけでもないけれど)1巻で元はとれたからいいや。いいやってなにがいいのかよくわからんけど、的持ってた人間としてはそう思う次第です。

 帯の裏表紙側の内藤泰弘の推薦文が名文であります。こういうの名文というと怒られるかもしれないけど名文つったら名文です。ニコニコ出版物ってえのはいったいなんだ。

・角川書店・角川コミックス・エース  ISBN4-04-713325-6 C0979 540円(本体)

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地球の午后三時/さべあのま

 いつも乗ってる電車でふと視線を感じたばっかりに、変な女の子につきまとわれる羽目になった主人公。彼女は奇矯な言動とマイナスの感情をむき出しにして主人公にからみ、世界は今日の午後三時に滅びるのだという。そして世界を滅ぼす爆弾は自分の胸の中にあるのだと。好奇心もあって彼女におつきあいすることにした主人公の前で、最初の威勢はどこへやら、彼女はだんだん無口になっていきます。2時35分、突然逃げ出す彼女。主人公は当然おいかけます。そして‥

 「地球の午后三時」はいまを遡ること18年、1982年に出版された、さべあのまのたぶん第二単行本です。古本で購入したのは間違いないんだけど、いつどこでどういう理由で買ったか、今となっては記憶に残っていません。さべあのまという変わった名前がいつのまにか記憶に残っていて、それがきっかけだったんだろうなとは思います。
 この短編集、タイトル作のほかに「三時の子守歌」「3番目の季節」とタイトルに三のつくのが三編おさめられているけれど、今でも一番印象に残っているのは冒頭であらすじを紹介した「三時の子守歌」です。これはもちろん世界をどうこうという話ではなくて、自分の恋愛感情をもてあました女の子の死と再生のものがたり、もっと普通に言えばふっきれるまでのおはなしなのだけど、印象に残っているのはたぶん、個性的な女の子と、こころの動きをきれいにすくってまとめた手際のよさに理由があるのでしょう。
 さべあのまのまんがは、このこころの動きをすくい取る手際のよさに特長があります。それは必ずしも女の子の心だけではなくて、この短編集で言えば「地球の午后三時」では主人公は少年だし、「I LOVE MY HOME」では結婚して子供もいる女性だし。少年の、というより子供のものがたりは長編「ネバーランド物語」へとつながっていくし、女の子ではない女性の話としては名作「ミス・ブロディの青春」があげられるけど、いずれもその手際のよさというか鮮やかさには変わりありません。さべあのまのまんがの魅力は、なによりそのあたりにあるのだと思います。のちに童話の挿し絵作家に転身した絵の魅力は、それはもちろん確かなのだけど。

 この本に限らず、さべあのまの本は古本屋にもあまり置いてません。えらそうなこと書いてるわたしも未だに「モト子先生の場合」が見つからないままです。もともと発行冊数が少なかったのか、買った人が手放さないのかはわからないけど、もし興味をもたれたなら、見かけたときに買ってください。次はいつ見つかるともしれないので。

*この感想を書いてからしばらくして、林誠さんが「モト子先生の場合」を送ってくださいました。ありがとうございました。

・朝日ソノラマ・サンコミックスストロベリーシリーズ  ISBN4-257-91713-X C8279 350円

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すみれの花咲く頃/松本剛

 なかなか古本屋で見つけられなかったこの本を、みつけて渡してくださったWestRiverさんに、あらためて感謝の気持ちを記しておこうと思います。ありがとうございます。
 本の内容は‥教えてあげません。自分で読んでください。

 ‥ともいかないので。
 全5話のタイトル作と短編が5つ。登場人物は高校生−小学生−高校生−中学生−小学生、最後は高校生と小学生。
 タイトル作に出てくるのは、宝塚志望の少女と、弱小演劇部の部長である少年。それからもうひとりの演劇部員の気のいい女の子、少女のクラスメートで委員長タイプの娘。短編の1つめは、ゲイラカイトの欲しいガキと引っ越してきた女の子。2つめが盗癖のある優等生と、巻き添え食った新入生。3つめは教科書の落書きにまつわる少女と少年−すこしだけ変な少年の話。4つめはクラスメートの女の子の名字が突然自分と同じになってしまった男の子の困惑と混乱と。最後の短編は受験生のいとこと、いとこを大好きな子供と。それに子供の正義感と残酷さと悔恨の涙と。ふたり合わせてのかしわ手と。

 少年少女のいやなところ、ガキのガキであるところ。松本剛はそういうものをきちんと描いて、なおかついやな少年少女やガキなだけのガキは描きません。あちこちで齟齬をきたしつつ、登場人物たちの気持ちは通じていくのだけど、最後には気持ちが通じる、ということを描いてるのではもちろんなく、気持ちが通じるそのときを選んで描いているにすぎません。それでも確かに、そのときを選んで。
 もし、あえてひとつ選ぶとしたら、3つめの短編「教科書のタイムマシン」が一番好きです。思いだす、という気持ちを蒸留したような。読み返すたび、鼻の奥が痛くなります。

 ‥冒頭の教えてあげないは、もちろん書けないからにすぎません。登場人物の性格や背景や、過ぎていくできごとや、しぐさや表情。それらもろもろの微妙なものを、自分の言葉で固定してしまうことは、いち読者としてもったいなくてできないのです。ごめんなさい。
 読まないとなにも伝わらない。そういう種類のまんがであり、そういうまんがだと思ってください。少なくともわたしは、このまんがが読めてほんとうによかったと思っています。

 転校、入学、名字の変更、受験。変化するなにか。そういうテーマが共通してることだけ、付記しておきたいと思います。

・講談社・ヤンマガKCスペシャル  ISBN4-06-102290-3 C0379 500円(本体485円)

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ラブひな(1〜6)/赤松健

 ここをご覧になってるかたの中で、このページではメジャー作品については書かないことにしているんだろうと思ってるかたは、ひょっとしたら多いのかもしれません。実際には別に書かないことにしてるわけではなく、なぜかセレクションがそっちに行ってしまうだけだったりします。いままで感想書いたなかでいちばんメジャーなのは文句なく「ヒカルの碁」だろうけど、あれは偏った立場というか視点で書かれたもので、ならばラブひなについて書くのもむかし温泉街に住んでたとかそういうなにかがあるのかというと、何もありません。つとめて買わないようにしていた1巻につい手を出して、一週間で6巻まで読んでしまったという、単純にそういうことであります。

 ラブひなは典型的じれったい系ラブコメと言っていいでしょう。言っていいでしょうもなにもあらためて言及するまでもないけど。サービスカットがてんこもりで、情けない男主人公がいてかわいい娘がいて、好きなんだか好きでないんだか告白したんだかどうだかはっきりせんかい的展開が繰り返されて、まわりにひとくせあるキャラクターを揃えてのどたばたで。考えられる限りのお約束がつっこまれていてというか描かれてるのはすべてお約束というか実際はそんなこともないんだろうけどそんな感じで。
 そーいうまんがにはまってしまうというのはこれはおのれのラブコメ属性が高い‥変な日本語だな。つまりラブコメにめっぽう弱いからかといっときは思ったんだけど、おのれの好みの作品とそうでない作品を振り返ってみると、どうもそういうわけではなさそうです。世にラブコメはあまたあれど、買いあさって止まないわけでもないし。
 ではなんでこれに限って。それはもちろん絵のせい、とかたづけるのは少々悔しいので、スラップスティックとしての楽しさをあげておくことにします。例えば、この作者が野郎ばっかのばかばかしい男子校ものとか大学生ものとか描いたとして、それはそれで楽しいものになるんじゃないかな。はたして作者がそういうの楽しんで描けるかとか編集部がOK出すかとかどれくらい人気がでるかとかそういう現実的なあれこれを措けば、次回作あたりでそういうが出てくるとおもしろそうです。

 余人は知らず、わたしはこのまんがを主人公・景太郎に感情移入しては読んでません。後方斜め上の背後霊がいそうな位置でながめています。それがに計算されたものであろうとも、読んでるときは話のなりゆきにいれこんで。
 同じ視点からながめていて、同じ一つ屋根の下のじれったい系で、やっぱり同居人が曲者ぞろいとなると、真っ先に思いだされるまんががひとつあるのはいうまでもありません。めそん一刻がいいならラブひなだっていいじゃないかと言い切るのは乱暴でしょうか。乱暴かもなあ。でもここはひとつ乱暴を。
 ラブひなを読んだときにめぞん一刻にないこっ恥ずかしさを感じるのは、ヒロインである管理人さんと成瀬川なるの違いというより、端的に言ってしまえば主人公の思いにどれだけセクシュアルなものが顕在しているかの違いでしょう。このまんがを嫌う人の嫌いな理由にそのあたりが欺瞞だというのがあるかもしれないけど、このまんがの主人公が抱いてるような、ひとつところでぐるぐるぐるぐる回ってるようなうぶな恋愛感情を低く見る気持ちは個人的にはなかったりします。おくてな少年のそういう感情が現代においてどのくらい残ってるのか絶滅寸前なのかは、ふだんそういう世代と接触がない身としては知るよしもないけれど。

・講談社・ヤンマガKCスペシャル (1)ISBN4-06-312670-6 C9979 390円(本体)
 (2)ISBN4-06-312681-1 C9979 390円(本体)
 (2)ISBN4-06-312705-2 C9979 390円(本体)
 (2)ISBN4-06-312739-7 C9979 390円(本体)
 (2)ISBN4-06-312776-1 C9979 390円(本体)
 (2)ISBN4-06-312805-9 C9979 390円(本体)(以下続刊)

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しあわせ団地(1〜)/蓮古田二郎

 誰が決めたか知らないけれど、日本では古来より団地は四角いものだと決まっています。白かベージュで四角くて、3階建て以上5階建て以下で、エレベーターがない。この条件を満たさないものは団地ではありません。最近はこれに該当しないくせに団地を詐称するケースが増えていて、うちから歩いて15分くらいの地域にもそういう建物群が見受けられるけど、あんなもん団地じゃありません。マンションです。
 もうひとつ、団地には「同じ階段」という特有の概念が存在します。急勾配の内階段があって、フロアの数だけ左右向かい合わせに住戸があって、そこに住んでいるひとが外出または帰宅する際には必ずそこを通らなければならない。好むと好まざるとにかかわらず、そこはひとつの共同体になっています。団地に住む人が「何階のだれだれさん」と言えば、同じ階段のその階の人を指すのが普通です。
 そういう団地が舞台でないとこのおはなしは成立しなかった‥というのはうそです。このおはなしはそれほど汎用性の低いものではありません。ではあるけれど、同じような住戸の集合体である号棟が同じような顔で立ち並び、一種特有の閉じた空間を作り出している団地は、このおはなしの舞台としてはふさわしい場所と言えるかもしれません。

 このまんがには「貧乏脱出無縁若年夫婦駄目駄目小咄」という、たぶん担当さんがつけたサブタイトルがついてます。主人公である21歳の夫と19歳の妻は確かに貧乏脱出無縁で確かに若年夫婦で、でもっておはなしは実に駄目で小咄です。ポリシーがあるからそうしてるんだかポリシーをあとからひっつけたんだか、家にいるときはいつもすっぱだかでそのうえスキンヘッドで、でもって仕事もせずにごろごろしている(ぶらぶらすらしてない)夫は一目瞭然で駄目なんだけど、パートで家計を支える健気さと夫の駄目さ加減にカモフラージュされつつ、妻は妻でけっこうしばしば駄目だったりします。などと言うとあんな駄目な人と一緒でどうしろというのと怒られそうでそれはまことにもっともで、バカとけんかするとバカになるように、駄目な人と一緒にいるとひきずられるように駄目なことになるのはしょうがないのだろうと思います。
 このまんがのおもしろさのおもてっ側は、このふたりの駄目さ加減のおかしさにささえられているのだけど、このまんが、おかしいまんがではあっても笑えるまんがとは微妙に異なります。それはこのおはなしが小咄ではあってもギャグではないというのと同じことで、ギャグまんがでは登場人物が絶望したり死んだりするけれど、小咄ではそういうことはなくって、それは登場人物が読み手聞き手にとって疑似的な知り合いだからです。知り合いが死んでは笑えません。
 このギャグと小咄との差異は、そのまんま「こいつら(特に妻のほうは)なんで一緒に住んでるんだ?」という、読んだ人が抱くもっともな疑問の答えとして引っ張ってくることができます。同じ質問を妻に尋ねたら、この人のこどもみたいな純粋さがどうだとか言うかもしれないけど、こどもみたいに純粋でもっとましな人は掃いて捨てるほどいるはずです。
 おそらくは、そういう理由をつけて説明しようとする行為じたいが的外れであるに違いありません。このふたりのお互いへの感情は恋愛ではなく、性愛ではもちろんなく、情愛であるだろうから。たとえ出来が悪くても親は子供がかわいい(ことが多い)のと同じように、くされ縁だろうが友は友である(こともある)ように、なんでかわからんけどふたりはお互いを必要だと思い、なおかつお互いがそう思ってること察知してるのです。

 夫婦で駄目で苦労するのと、独り身で暮らすのと、どちらがしあわせか。一見して後者のほうが気楽でよさそうだけど、実際のところどうなのかわたしにはさっぱりわからんし、こっちのほうが幸せだと断言する人がいたとしても、そんなことを断言する人はちっともあてになりません。しあわせというのは元来なんだかよくわからんもんなのです。たぶん。

・講談社・ヤンマガKC (1)ISBN4-06-336871-8 C9979 505円(本体)(以下続刊)

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GENERAL MACHINE/夢野れい

 ほんの100年か200年前まで、人間には知らないことがたくさんありました。自分たちはどのようにこの世に現れたのか。どんなふうにできていて、どうして成長して老いてやがて死ぬのか。なぜ一度死ぬと甦らないのか。この世界はいったいどうやってできているのか。そして宇宙は。
 そのような時代の物語、それから人間たちが謎を解き世界を広げていく物語は、まだ生まれてないころの話なのに、知るよろこびと不思議な懐かしさを感じさせてくれます。このまんがもそういう物語のひとつです。ただし未来の。

 そこにはすでに人間たちの姿はなく、そのかわりにロボットたちが、かつての人間たちと同じような生を送っています。誕生して育ち、結婚して子供を持って(買ってくるのです)育て、やがて老いて死ぬ。そしてかつての人間たちと同じように知らないことがたくさんあり、知りたいと思い、少しずつ世界を広げていきます。やがて宇宙に出るそのときまで。
 不思議に人間的で、そして人間より純真なロボットたちは、かつての人間たちのように熱を帯びることはなく、でも人間たちよりまっすぐに未来へ向かっていきます。それはもしかするとかつて人間たちが手にしてそして今は失った物語で、ひとりの人間も出てこない未来の話なのに、だからこのまんがには不思議な懐かしさがあります。この世界の緑がかった空の色も、ロボットたちの作り上げた町の景色も、どちらも見たことなどないのに。

 ページ数にして100ページ弱の物語で、読み終わるまで30分もかからなかったのだけど、途中から先に進むのがもったいなくってしょうがありませんでした。せめてつとめてゆっくりと、ひとコマひとコマ確認するように。そんなふうにして読んだまんがです。
 とうぶんこのまんがは本棚にしまわずに、手近に置いておこうと思います。ふとあいた時間や長くなりそうな夜に、いつでも手にとって眺めることができるように。

・B.S.P/美術出版社 ISBN4-568-73011-2 C0079 1500円(本体)

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