使徒・使徒職
何かの使命を委託された私の下僕たちに、世間でいわれる幸せな一生を与えたことはない/
わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は(マタイ19・29)・・捨てる/
ペトロ/
1.聖書
2.使徒職
3.羊飼いたちへ
4.羊飼い
5.教皇
6.十二使徒
7.人々に神を運ぶ者の喜悦
8.憐れみ
9.殉教
10.あなたは生まれる以前にもう 招かれていた
11.教会を一致させるのは私の仕事です、あなたは私を運ぶ者となるだけです
12.自分たちの仕事から退いて 私に従う人びとは幸せです
13.霊たちは使徒たちと話し
14.聖母から司祭へ
15.そしておまえたちの灯りは、今すぐでも出発でき、あるいはやってくる人を迎えられるように火をつけておけ
16.サンダー・シング
17.三人の弟子が他の者よりもさらに多く記されている理由
18.教えられた後で、それらを教える者たち
1.聖書
ルカ12・35−48
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸を叩くとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
2.使徒職
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P208
イエズスがケリオットのユダに:
「ユダ! ユダ! 女は一人の人間をこの世に与えるために九ヶ月間の準備をします。おまえはこの世に神を知らせるのを、いま以上に早くしたいのですか。これは九ヶ月はおろか何千月もかかります。月齢のたびごとに月は生まれ、満ちると欠けた形で現れ、産まれたり死んだりすると同じように、この世のある限り宗教の満ち欠けが続きます。宗教は死んだように見えても、生きています。月がないときもあるように。宗教のために働いた人は多くの報いを得ます。この世には、忠実な霊魂たちの少数派しか残らないにしても。さあさあ!勝利の時の単純な高揚、敗北の時の簡単な幻滅は、どちらも禁物です」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P52
ケリオットのユダ:「おまえはこの話をまだ続けるつもりなのか」
羊飼いのイザク:「そう。きょうも明日もあさっても。だれかが聞いてくれる」
ユダ:「こんなやっかいな仕事をどれくらい続ければいいのだろうか」
イザク:「それは分らないが、私のことばを信じてほしい。前も後も見ないで続けること、一日一日積み重ねればよいのだ。夕方になって何か成果があれば“神様ありがとう”なければ“明日のためにあなたの助けを望みます”と言うだけで十分なのだ」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P42
‘89・11・16
私どもの手を決して放さないように、イエスの肩ごしに見ようと求めてはなりません、私どもと歩調を合わせていらっしゃい、イエスを礼拝し 愛をもって彼のために伝道なさい、彼を信頼し、明日を思い煩わないように、明日のことは明日に任せばよいのです、左も右も見ないように、主はご自分の聖なる面影を反射させる完全な者とあなたがなるように 全く明け渡しをお望みです、この聖なる面影をあなたの時代は見失ってしまいました。 イエスと私は裁くために メッセージを通して「降って」来たのではありません、裁くためでも非難するためでもありません、あなた方皆を連れ戻し 皆を、聖なる存在として形造るために 大きな愛と慈悲をもって訪れたのです ♡ あなたを祝福し、ともにいます ♡
御身も祝福されますように、聖なるお母さま、アーメン。
マリア・ワルトルタ48・7/天使館第1巻P428
ヨハネがペトロに:
「わたしたちはこうも言った。『先生、あなたはわたしたちを召し出してくださいました。でもわたしたちは皆、文無しです。何をあなたに持参したらよろしいのでしょうか?』と。すると、まさに天の国を味わわせるような微笑を浮かべて、こう答えられた。『わたしはあなたたちからあるすばらしい宝をもらいたい』。そこで、『でもわたしたちが文無しだとしたら?』と答えると、彼は言われた『七つの名をもち、この世で一番惨めな貧乏人でも持つことができ、一番の金持ちでも所有できない一つの宝物を持参してほしい。あなたたちはそれを持っており、わたしはそれが欲しいのだ。その七つの名はこれだ。愛徳、信仰、善意、正しい意向、克己、表裏がないこと、犠牲精神だ。あなたたちはそれを持っており、わたしはそれが欲しいのだ。わたしに従う者に、わたしはこれを、これだけ望んでいる。そしてあなたたちには、それがある。まだ冬の土塊(つちくれ)の下に眠っている種子のようだが、わたしの春の太陽がそれを七倍の穂に育てるだろう』。こう言われたのだ」。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P143
主がマリアのことを:
「そうです。いまは母も一人の弟子として加わったので、ここまで連れてきたのです。加わったのは最後ですが、忠実な使徒としては先頭に立つものです。わたしが生まれる前にもう私のことを伝道してくれていました・・・」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P213
イエズスがアンドレアに:
「これはまことの使徒の賜物です。私の友よ、おまえの生活も使徒たちの未来の生活も、いつもこのようなものになります。おまえたちは時々“だれかを救った”と実感しますが、たいていは救いたいと切に望んだ人々を、そうとは気づかずに救っています。天においてのみ、おまえたちに救われた人々が迎えに来るのを見、天国にいるというおまえたちの喜びは、救った人に比例して大きくなります。その喜びを、ある時はこの世でも知ると思うが、それは新しい伝道のためのもっと大きな奮起を促すために私が与えるものです。だが、自分の義務を果たすために、このような励しを必要としない司祭は幸せです!何の成功も見ないで“何の満足もないからもう何もしない”と言って力を落としたりしない使徒は幸せです。伝道するための唯一の刺激として、期待できる使徒的満足は、その使徒がいまだ完成されていないこと、また、全く霊的なことである使徒職を人間の普通の仕事の水準にまで下げることです。使徒職さえも偶像として見てはいけません。拝まれるべきはおまえたちではなく、おまえたちの神、主のみです。だれかが救われたという光栄を神のみにささげ、私たちはただ救いの業を行い“救い主”と呼ばれる光栄は、天国の時を待つべきです・・・。」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩/下P99
イエズスがマリア・ワルトルタに:
「人間としての使徒たちに欠点がどれほどであったか。
私は自分の腕で弟子たちを天まであげようとしていたが、絶えずずり落ちようとする重たい石のようであった。ケリオットのユダのように、いつかこの世の大臣になるという野望を抱いたり、ことによっては私の代わりに王座に昇ろうと考えたりしないまでも、やはり他の使徒たちも光栄を渇望していた。私のヨハネとその兄ヤコボでさえ、天について、まばゆい蜃気楼のように人の目をくらませる光栄をあこがれていた時期もあった。私があなたたちに望むことは、天国に対する聖なるあこがれである。いつかあなたたちの聖徳が世に知られるという人間的な望みではない。そればかりか、私にほんのわずかな愛を与えたことに乗じて、何はばかることなく天におけるその右の座を要求する両替屋や高利貸しの貪欲さがあってはならない。
子供たちよ、決してそうであってはならない。まずその前に、私が飲み干した杯を、すべて飲み干すことである。そうすることが何を意味しているかというと、憎しみの代わりに愛をもって応え、肉欲のいろいろな声に純潔をもって応え、さまざまな試練に立派に耐え抜き、神と兄弟たちとの愛のためのはん祭になることである。自分の義務をすべて果たした後に“私たちは役に立たない下僕である”として、私の父でありあなたたちの父である方の慈悲によって御国に住まいを与えられるのを待つべきである。総督館で私が身ぐるみはがれるのをあなたは目にしましたが、それと同じように、それと同じように、神の賜物である命に対して欠かせない尊敬は別にして、すべての人間的なものを脱ぎ捨てて、神が子羊の血によって清めた不滅の服を与えてくださるのを待つべきである」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P53
イエズスが:
「前進すべきです。私もそうしています。倦むことなく前に進みなさい。疲労は、人間の傲慢の根の一つです。あわてることについても同じことが言えます。なぜ私たちは敗北したとき心がおさまらず反感を抱き、成果が目に見えて上がらないときいらいらするのか。“私の言うことに背くのか。私に対してなぜぐずぐずするのか。そういう態度をとるのは神の使徒に対する尊敬が足りないからではないか”と、傲慢がささやくからです。」
イエズスに出会った人々1・P11
「何かの使命を委託された私の下僕たちに、世間でいわれる幸せな一生を与えたことはない。なぜかと言うと、このような使命は苦しみの中に苦しみによって行われるものだから。こういう人々は“人を贖うために苦しむ”という私に似た望みしか持っていないからである。」
『イエズス・たそがれの日々』・P7
マリア・ワルトルタに主が:
「おまえの苦労は終わった。今は愛と報いを味わうがよい。私の疲れを知らない声、おまえに平和と祝福あれ。ありがとう。おまえのイエズスが言う。『私は何時までも一緒にいよう。愛している人々とともにいることは私の喜びだからである。』」
『イエズスに出会った人々』2・P268
「私はいろいろな知識や学説にまだ染まっていない人々を選ぶために、おまえたちを選びました。おまえたちのような人々に私の教えがもっとも楽に浸透し、また、おまえたちが将来、まことの神を伝道すべきだから、おまえたちは各自もとの道を思い出して、こういうふうな人々を軽蔑せず、私がおまえたちをどれほどの思いやりをもって教え導いたかを思い出し、同じようにするためです。」
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P154
『そこへ行ってもだれも回心しない、と知って、あそこへは行かない』と思う使徒はあわれである。このような使徒は値うちの乏しい使徒である。
千人の中に一人だけでも救われるならば、そこへ行くべきである。使徒としての一日は、千人が回心したかのように、かの一人によって実り豊かである。なぜなら、その人は自分にできることすべてを尽くしたので神はその努力に報いを与える。回心させたい人が、サタンにあまりにも捕らわれているので、使徒の力だけで及ばない場合は、神自身が干渉しうるということも考えるべきである。そうしたら、だれが神に抵抗できるか。
使徒が絶対に実行すべきもう一つのことは愛である。“見える”愛、心の中に隠れた愛だけではない。それは、もともと良い兄弟たちのために足りる。しかし使徒は、神に召されたもので、自分の生活は祈るだけにとどまらず、実際に活動すべきである。彼は愛をもって、大きな愛をもって働くべきである。きびしさは、使徒の働きと、光への霊魂たちの歩みを麻痺させる。きびしさではなく愛! 愛は使徒が情欲の炎に噛まれないように守る石綿の服である。一人の霊魂を取得するために愛すること、これを知るべきである。一人の霊魂を取得するために愛に導かれるべきである。罪に対しての自分のあわれな愛を捨てて、善を愛すること。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P89
そう、だから私も他人に対する批評を聞きたくありません。あなたたちは、私が伝道を続けるために世間にいる間、あのユダとも、また、それと違う人々とも接しなくてはならない。相手が変わっているからこそ、彼らをも主の子羊とするために我慢してつき合わねばならない。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P120
今まで度々言ったように、自分の生き方によって、互いの親切によって、また迎えてくれた人への感謝をもって、神の教えを広めねばなりません。少なく食べ、忍耐強く話し、慎み深く行動し、あなたたちから香りのように正義が立ち昇るのを見たい。
(中略)
人々の苦労に苦労を重ねるようなことをせず、だれの躓きにもなってはいけない。躓きは人の心を迷わせ、離れさせ、弱めさせます。霊魂の躓きとなる使徒は、自分の先生または隣人、そして神に対して、神の羊たちに対して、罪を犯すことになります。私はあなたたちを信頼しています。今でも十分重い私の苦しみを、あなたたちから来る苦しみによって、これ以上重くしないように気をつけなさい。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P49
人間的な利益を霊的なことと混同しない使徒としてシモン、おまえの言う通りです。しかし人々が光から遠ざかるのを見て喜ぶことは、使徒として間違っています。すべての霊魂を光に導くことが私の喜びであると分かれば、先ほどのような話し方はしないと思います。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P251
行きなさい。天の国は“非常に”近いと告げなさい。病人を治し、らい病人を清め、心と体の死人を甦らせ、生命である私を探すよう宣べ伝えなさい。自分たちがすることのために驕り高ぶってはならない。仲間同士の、または我々を愛していない人々との口争いを避けなさい。あなたたちが何をしてもその代償を求めてはならない。異邦人とかサマリア人よりも、イスラエルの家のさまよっている羊を探しなさい。それは異邦人を軽蔑するのではなく、彼らを回心させる能力が、あなたたちには、まだ備わっていないからです。
聖母から司祭へ1980.8.15
このように、かれ[悪魔]は、どんな手段に訴えても、落とし穴をしかけます。これは、しばしばあることですが、あなたがたにもっとも近い人々や、あなたがたからもっとも愛されている人々のあいだにいて、あなたがたと戦うのです。それは、あなたがたを失望させるために他なりません。かれは、こうして、あなたがたの使徒的活躍に対する熱心さと、情熱をさまそうとするのです。
マリア・ワルトルタ/天使館第3巻上P(主の祈り増補版P32)
・・・あなたたちは、長い間、永遠の大祭司であるわたしが手塩にかけて準備した祭司たちです。しかし、一人一人が主なる神に供える生贄として、ますます広範囲になってゆく仕事を果たしてゆくには、あなたたちだけではとても不充分です。そこでわたしは、今のまま留まる弟子たち、山の麓でわたしたちを待っている弟子たち、もうすでにより高く上っている弟子たち、イスラエルの地に散在する弟子たち、それから地上のあらゆる地点に散在するであろう弟子たちをあなたたちに加えます。彼らの任務はあなたたちのそれと同一です。使命は唯一つしかないからですが、世の目に映る弟子たちの地位と、神の目に映る弟子たちの地位とは異なります。それゆえ使徒たちや使徒たちからも知られず、目立たず地味で、神のみもとに霊魂を導きながら聖なる生活を送る弟子は、使徒という肩書しかなく、人間的な目的で使徒の品格を貶める名高い使徒よりも偉大とされるでしょう。
マリア・ヴァルトルタ/もう一つの使徒職/ヴァルトルタ自叙伝より/天使館/天使のパン/第7号P31
人は望めば、いつでも使徒になれます。そして華々しく使徒職として認められなくても―それは誇りと人間的な気晴らしを伴っているかも知れません―慎ましく、隠された、神のみに知られた、その行動よりもその苦しみによって確認される使徒の栄光をいつも手にすることができるのです。
そうです、善なる主は、私の使徒のパンくずに捕えられるほど近づいて来る小魚を忍耐強く待ちながら、私が密かに投げた網の中にたくさんの魂を捕えることを私に許してくださったことを認めます。使徒のパンくず。実際、私は、それを禁止するだろう母の注意を引かないようにそれを粉々にしなくてはなりませんでした。そんな風に仕事をしなくてはならないことは、ご存じのようにとても疲れることです!・・・
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P251
異邦人とかサマリア人よりも、イスラエルの家のさまよっている羊を探しなさい。それは異邦人を軽蔑するのではなく、彼らを回心させる能力が、あなたたちには、まだ備わっていないからです。
3.羊飼いたちへ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P35
私も虐げられていることに変わりはない。だが、おまえたちは決してしおれることのない花を咲かせる愛をもって、信仰と希望とをもって、私が探し求めているものを与えてくれる。おまえたちは何の疑いも抱かずに、私を信じて待っていてくれた。そして、私はここに来た。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P38
おまえたちは、自分にできるだけのことをすれば良いのです。世間の人々におまえたちが信じてもらえるかどうかは約束できません。私自身、あざけられ打たれたことがあるので、おまえたちも同じような目に遭うと思います。しかし期待してこれまでの年月を正しく強く生きてきたのだから、私のものとなったこれからは、なお一層そうであってほしい。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P48
この世を得心させるためには、どれほど話さなければならないか!
4.羊飼い
天界の秘義342
『レビ』は仁慈を意味し、(創世記29・32,33,34)それでまたレビの種族は祭司職を受けて、『羊を牧う者』を表象したのである。
天界の秘義343
『羊を牧う者』は仁慈の善を行う者であることは何人にも明白であるに相違ない。なぜならこれは旧新約聖書の聖言の親しい象徴であるからである。導いて、教える者は『羊飼い』と呼ばれ、導かれ、教えられる者は『羊』と呼ばれている。仁慈の善へ導かないし、またそのことを教えない者は真の羊飼いではないし、善に導かれないし、また善いことを学びもしない者は羊の一匹ではない。(中略)
イザヤ書には―
アラビヤの羊の群はことごとくあなたのもとに集められ、ネバイオテの雄羊はあなたに仕えるでしょう(60・7)。
羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである。なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。
5.教皇
聖母から司祭へ1992.5.13
教皇は、信仰の真理のうちに教会を守る使命を持っているのです。
6.十二使徒
主が弟子たちに:
「人間よ、私はおまえたちを愛しています。私がこの手で選んだ十二人のわが友、イスラエルの十二の部族があり、人類の十三の動脈のあるおまえたち! 私はすべてをおまえたちにおいて集め、そして、おまえたちの中にすべてが集まっていると私は見ている・・・すべてが」
天界の秘義・第三部(創世記22章)序言(2759の次)
[3]十二人の使徒は、イスラエルの十二の種族のように、こうした信仰のあらゆるもの以外には何ものをも表象しなかったのである(577,2089,2129,2130番の終わり)。
ペテロは信仰そのものを、ヤコブは仁慈を、ヨハネは仁慈の善を表象したのであり(創世記18章の序言参照)、同じくヤコブの最初に生まれた息子たちであるルベンもシメオンもレビも表象的なユダヤ、イスラエル教会ではそのことを表象したのであり、そのことは聖言の無数の記事から明らかである。
ペテロは信仰を表象したため、問題の言葉は彼に言われたのである。このことから文字に応じてあらゆる事柄を説明する者らは、たとえばペテロに対するこれらの言葉をそのように説明し、かくして人類を救う力を主から奪って、自分自身に僭取している者らは、例えばペテロに対するこれらの言葉をそのように説明し、かくして人類を救う力を主から奪って、自分自身に僭取している者らはいかような暗黒の中へ自分自身を投げ込み、また自分と共に他の者を投げ込んでいるかが明らかである。
7.人々に神を運ぶ者の喜悦
マリア・ワルトルタ95・1
主がヤコブに:
人びとに神を運ぶ者の喜悦は、間もなく、あなたの欣喜を地球の今際の際において、天の永遠において満ち満ちる忘我の境に到達するまで増すだろう、とわたしは確信しています。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・10
[4]自分の受けるよいことをすべて神のおかげと思う人は、人間がおたがいに授けたり受けたりする名誉などは求めないで、ただ神から出る光栄(さかえ)だけを望む。そして自分や諸聖人において神が他のすべての物に超えて賛美せられたもうことをこいねがうが、これこそかれらの力を尽くす唯一の目的なのである。
8.憐れみ
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P152
「私は、その時にマグダラのマリアに一言も言わなかった。一瞬、彼女にまなざしを送り、それからそこを去った。私は救うつもりであった“生きる人々”に戻った。彫刻の大理石かののように、命のない物質のような彼女に対して表面的な無関心を現わした。しかし私がその時言ったこと、行ったことすべては私があがないたかった、かのあわれなマリアの魂のためだった。そして最後の言葉『私はだれも軽蔑しない。侮辱するな。罪びとのために祈りなさい』という言葉は、ずっと前に山上で言った言葉で『ゆるしが遺恨よりも役に立ち、あわれみは厳格さに勝る』の実践だった。こうしてかのあわれな女は、愛の香りのする、ビロードのように、やわらかく包まれた。神に対しての愛に満ちた奉仕が、サタンに対しての残酷な奴隷とどんなに違うかを感じとった。
主は、計らいにおいてどんなに忍耐強いかを考えよ。神は突然な回心を要求しているのではない。人間の心から絶対的なことを無理に要求しない。神は、待つことを知っている。そして迷った者は道に戻り、狂気のものは理性に戻るのを待っている間、かの混乱に陥った母が与え得ることで満足する。
私は彼女に『あなたがゆるしうるか』と聞いただけである。人間のように考えるならば、その老母が奇蹟を受けるにふさわしい者となるように、もっと多くのことを要求しえたが、しかし私はあなたたちの力を“神的に”計る。憤慨と苦しみに混乱していた、あの、あわれな母が、ゆるすにいたりえたならば、もう充分だった。そして、あとで彼女に息子を返していった。『聖なる人であれ、そして、あなたの家を聖ならしめよ』しかし苦しみの極限に裂かれている彼女に、罪の女へのゆるしだけを望んだ。すこし前まで闇の虚無の中にいた人に“すべてを”望むべきではない。その母は、のちにかの妻と子供たちと一緒に全くの光に至るだろうが、しかし、その時曙、神の日の暁、ゆるしを届かせるべきであった。
そこに集まっていた人々の中で―ユダと私の他の弟子を別にして― 一人だけが[奇跡で治った男]光に至ることはなかった。このような敗北は、使徒職の勝利につきものである。使徒がむだに苦労するだれかがいつもいる。しかし、このような敗北のために勇気と奮発を失うべきではない。使徒は“すべてを”手にすることを、あえて望むべきではない。使徒に対しては、さまざまの名前の反対の勢力が働き、怪物のようなその触手をもって自分から奪われた獲物をまたとり返そうとする。使徒の功徳は、成功を別にして同じく残る。『そこへ行ってもだれも回心しない、と知って、あそこへは行かない』と思う使徒はあわれである。このような使徒は値打ちの乏しい使徒である。
千人の中に一人だけでも救われるならば、そこへ行くべきである。使徒としての一日は、千人が回心したかのように、かの一人によって実り豊かである。なぜなら、その人は自分にできることすべてを尽くしたので神はその努力に報いを与える。回心させたい人が、サタンにあまりにも捕らわれているので、使徒の力だけで及ばない場合は、神自身が干渉しうるということも考えるべきである。そうしたら、だれが神に抵抗できるか。
使徒が絶対に実行すべきもう一つのことは愛である。“見える”愛、心の中に隠れた愛だけではない。それは、もともと良い兄弟たちのために足りる。しかし使徒は、神に召されたもので、自分の生活は祈るだけにとどまらず、実際に活動すべきである。彼は愛をもって、大きな愛をもって働くべきである。きびしさは、使徒の働きと、光への霊魂たちの歩みを麻痺させる。きびしさではなく愛! 愛は使徒が情欲の炎に噛まれないように守る石綿の服である。一人の霊魂を取得するために愛すること、これを知るべきである。一人の霊魂を取得するために愛に導かれるべきである。罪に対しての自分のあわれな愛を捨てて、善を愛すること。
私は、マリアの霊魂を望んだ。そのために師としての私の教壇から話すにとどまらなかった。罪の道の中に彼女を探しに下った。彼女を私の愛をもって追い、虐げ、迫害したのである。甘い迫害! 清さそのものである私は不浄であった彼女のところに入った。
私は、自分のためにも他人のためにも、つまずきを怖れなかった。私の中には、つまずきが入るはずはなかった。私は、あわれみだから。そして、あわれみは罪のために泣くが罪のためにつまずかない。つまずく牧者はあわれである。このような人は、一人の霊魂を見捨てるためにこのような屏風のうしろに自分をかくす。人の霊魂たちはからだよりもよみがえりやすく、そして『姉妹よ、あなたの幸せのためによみがえりなさい』と言う“あわれみと愛のことば”は、しばしば奇跡を行うのを知らないのか。私は、他人のつまずきを怖れていなかった。善人の目は、私のすることが分かっていた。その代わりに、腐敗した内部から悪意を醗酵させる悪意の目は“値うちがない”その目は神の中にさえも罪を見る。自分自身だけが完全だと思っている。そのために私はそれを気にしていなかった」
「人の救いのために働くには、特に三つのことに注意させたい。
他人に反駁されるという恐れなしに話せるように“申し分のない人”であること。そして大勢の群集を相手に話しても、また話す言葉が、闇の中に横たわって真理を知りたいという関心のない人々にまで至るように。
これは、固い土地を覆うかさぶたを割って種を受ける準備をするための第一の仕事である。これをする人にとっても、これを受け入れる人にとっても、いちばんきびしいものである。なぜなら、話す言葉は、するどい鋤べらのように土地を切り開くべきだからである。そして、まことに言うが、土地を開くためには傷つけなければならない。苦しみのためによい使徒の心は傷つけられ血の涙を流す。無毛の土地は使徒の血と涙とによって豊穣となる。
もう一つは、自分の使命をよく理解していない使徒だったら“逃げる”ところでも働くべきである。もはや鋤の入った、そして、その中に太陽のように神の力と慈悲とを輝かせるために、使徒は、笹と茨をひきぬくために骨を折るべきである。
もう一つは、自分の過去を考えて泣き、“沈黙”の中で後悔し、受け入れられないと恐れて、恐る恐る使徒のところへあえてやって来た人に対して、“海よりも広い”心“母の心よりもやさしい”心、“熱心な”心をもち、愛情の波が入り込むように、自分の心をすべて開くべきである。
愛である神が、あなたたちの中におられるならば、自分のところへやって来る人々にどんな言葉を言うべきか用意に見つかるだろう。神はあなたたちの中に、あなたたちをとおして話し、そして蜜蜂の巣から流れる蜜のように、壷から流れる香油のように、その愛は、罪に刺された心にまで至り、なぐさめとよい薬となろう。霊魂たちの医者となるべきであるあなたたちは罪びとたちに愛されるようにせよ。彼らは、あなたたちの中に天の愛の香りを感じて、他の糧をもう要求したくないほどそれを慕うようにせよ。
あなたたちの中にあるはずの愛は、彼らからすべての恐れを追い出すようにせよ。ヨハネの手紙にあるとおり(ヨハネ第一の手紙4・18)。しかし恐れを抱かせる人にも完全な愛はない。それで“どうしたのか”と言うな。“さあ、ここを去れ”と言うな。“お前のような人は、よい愛に対しての趣味を持っているはずがない”と言うな。その代りに、私の名前でこう言え。“愛せよ、そうすれば私があなたをゆるす”“おいで。イエズスの腕が開かれている”と。“天使のパンとこの言葉を味わい、地獄の瀝青とサタンの嘲りを忘れよう”と言え。
使徒は、自分と他人の十字架といっしょに自分と他人の弱さを背負うべきである。そして、傷を受けている羊を背負って私のところに来る時に、このさまよった人をこう安心させて“今からすべてが忘れられた”と言え。
そしてまた“救い主を恐れるな。彼は天からあなたのために、本当にあなたのために来られたのです。私はあなたを待っている。あなたを聖なる牧場に連れて行きたい。彼のところにあなたを渡す橋にすぎないのである”。
以上の言葉は、よい牧者にいつも誠実であったあなたたちにあまり関係ないかもしれないが、しかし、あなたの心に信頼を大きくし、多くの人にとって私に来るように励ましとなり、しおれかかった花の再生に役立つ露となるであろう。顔を上げよ。天は上の方にある。マリア(著者のこと)平和に行け。主は、あなたとともにおられる」
9.殉教
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P193
その代わりに、その使命を従順に受け入れ、義務を喜び、全くのいけにえにするならば、それは非常にまれな真珠になる。“使命を、どんな留保もなく果すならば、それは燔祭、殉教、光栄である”それは涙、汗、血がしたたる王制の冠となる
10.あなたは生まれる以前にもう 招かれていた
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P230
こう書かれている、主を畏れる霊魂、この霊魂が 魂も体も、自らを創造主なる、私に明け渡し、今や私の一部となった後は、この霊魂は「新妻のように迎え入れられる。」そして私は、花嫁を悦ぶ伴侶として彼女に何も不足がないようにと面倒をみる。 次の層(レベル)では、彼女のあまりにか弱い霊魂を養い始め、それと同時に、絶妙な仕方で彼女を整えてから、一つの誓いを与えて 守らせる、それは無条件で伴侶に従うというもの。 私の行く先々 どこへでもついて来るという誓い。
それから私は 花嫁を愛する伴侶として、地上では見いだせない、天の蔵の、最も貴重な宝石を 我が花嫁の身に飾らせて、我が聖なる愛を示す。 私は、我が親密な一致のうちに、私自身をもって彼女の身を飾り 霊魂を生き生きとさせる、こうして、互に 忠実と理解に至るように。 突然、彼女の目の前から 全世界が薄れ去っていく。 彼女は自由を見いだした・・・自らの神を見いだした・・・そして自由へと飛翔しながら こう宣言しよう:
「今やこの世界は 追放の地、私はその中にいません その近くにもいません。 わが霊魂は、人類の恋人よ、あなたの支配へのたえまない思慕に圧倒されます。今はもう、わが霊魂の愛しいお方よ、心は定まり 無条件でみ跡に従う用意ができました。」
そのときはこう答えよう、「共に歩くがよい、そうするなら我が正義の規則を学ばせよう。 ほかの誰でもなく私が 教育係りとなる。 私は 目には見えず達し得ない ものごとすべての由来を耳もとにささやこう しかもこれらは あなたの師である神の教えによって 見えるようになり 達し得るものとなる。 いのちの言葉は、無償で与えられよう・・・」
正義を教えられた後は 霊魂を次の層(レベル)に引き上げる。 その層に あなたは生まれる以前にもう 招かれていた、ここで聖霊は恵みによってあなたを引き上げ 我が救いの計画を一部担わせて 使徒とする。 そのレベルでは 我が受難(パッション)に向う道をあなたに示す。 私に仕えるうえは、あなたは 情熱(パッション)をもって仕えよう。 あなたを世界に送って見回らせ 真理を宣言させる。 この非キリスト教化した世代をキリスト教化し バベルの塔を打ち壊して、その中でバアルを拝んでいた背教者たちを皆 悔い改めへと導くようにあなたに頼もう。 あなたはこの全てを 片手に十字架 片手にはロザリオを持って 成し遂げよう・・・
11.教会を一致させるのは私の仕事です、あなたは私を運ぶ者となるだけです
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P262
ヴァッスーラ、私のために、我が教会を一致させてくれるか?
私はあなたの前にいる そして指図を与えているのは私、ただついてきなさい ♡ 私は全教会に一致してほしい ♡ 司祭たちには私の今までになし遂げたわざと 使徒たちの持っていた素朴さとを思い出してほしい。 初代教会のキリスト教徒の身につけていた謙遜と忠実の心を ♡ 来なさい、心の最も内奥の望みを打ち明ける、あなたのうちにそれを刻印させてほしい 小さな者よ ♡
このとき、本当に絶望的な感じがしました。主は、望んでおられる非常に多くの重要な事柄を語られ、書き下ろさせておいでですが、私は麻痺したまま、その上にあぐらをかいています。主のお望みを果たしていないように感じています。何も変わっていないのですから。しかし、どう変わり得るでしょう。本当にこういったことを誰も、殆ど何も知らないのですから。私は主に逆らい、最も望まれていることをしないで、主の機嫌を損ねているように感じます。これをジェームズ神父にはお見せしましたが、神父さまもそれを読んで助言すること以外、何ができるでしょう。イエス? (百人以上の人がこれらの啓示のコピーを持っています。けれど、それは十分ではありません!)
♡ 私です、平和に生きなさい ♡ 私が我が教会を復興する、私の言葉を ヴァッスーラ あなたの上に記すことだけをさせてほしい、愛している、私も愛して 我が誉れとなりなさい、教会を一致させるのは私の仕事です、あなたは私を運ぶ者となるだけです、違いが分かるか? 私の教会を刷新しなさいとか、一致させなさいと言う時でさえ、ヴァッスーラ、それはあなたに直接向けられたものではまったくない ♡ 今に分かってこよう、私とともにする仕事が一部だけでも分かってきたであろうか?
はい、主よ、分かってきました。
今に分かろう ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P112
‘88・1・24
(イエスは悲しみのうちに 頭を片方に少し曲げ 聖心に手を挙げられました。しばらくこうしたままでした。とてもお美しいお姿で。)
私は我が教会の外にいる多くの人びとを訪れている、そう、・・・みじめな霊魂たち(*)、・・・改心させて 私に熱心に従わせ、使徒とし、聖人にした、それでいて、教会の多くの権威ある人びとはこうした私のわざを見落とし 無視する、この霊魂たちを全く認めようとはしない、知ろうともしない、彼らの分け隔てによって多くが拒まれてきた。「神は修道服をまとった敬虔な霊魂たちにしか訪れない」という理論は間違っている。あなた方は大きな誤りを犯している!
* こう言われた時、イエスのお声は優しく悲しみを込めたものでした。
(穏やかな悲しみを湛えたイエスは 今は苦渋に満ちておられました。)
♡ どれほど多くの霊魂に近づいたか あなた方が知ったなら、この人びとは必ずしも修道服を着ていなく、私に献身的でさえなかった ところが聖人に変えられた!
(それからジェームズ神父の目をまっすぐとのぞき込むようにして、イエスはしみ透る眼差しを 投げかけられました。)
愛する者よ、香りによってあなた自身が私の現存を識別したことを 本当に忘れてしまったか? 我が香りであなたを包み 祝福したのを! さあ、今に学ぶであろう ♡ 私は多くの霊魂を我が平和と愛のメッセージで回心させ、失われた仔羊たちは戻って来て 腕に飛び込んできてくれた、喜びなさい 霊魂よ! 迷子の仔羊が主人を見つけるほど 大きい奇跡があろうか! 羊飼いにとっても 迷子の羊を再び見出す以上の喜びがあろうか(*)! 私の誉れとなりなさい ジェームズ・・・私のわざに栄光を与えなさい 愛する者よ・・・私の種子を蒔きなさい、私の誉れとなり 平和と愛の十字架を担いなさい、羊飼いの呼びかけに気づいて、我が救いの奇跡を 兄弟たちに知らせなさい! 隣り人たちに告げなさい! よい知らせを告げなさい、私のわざを知らせなさい! 私のわざが知られ、奇跡が知られるように。 私はあなたを訪れ あなたの燭台に油を注いだ、我が光を与えた、あなたの床の下にこの明りを隠してしまわないように、そうしたら役に立たない、さあ、台の上で輝くようにあなたの燭台に油を注いだのだから喜びなさい 兄弟よ、皆がその明りを見て 私からのものであることを知るように ♡ 私はあなたを訪れた 霊魂よ、あなたには私が分かった 霊魂よ、私を招き入れてくれて 私はあなたの食事を分かち合った、喜びなさい! 私の神聖なわざを宣言し、皆に見えるよう 我が光を屋根の上に掲げて私を讃えなさい ジェームズ、皆が見えるようにしなさい、この明りを見たなら、皆ははるばる遠くから集まってくる、私がどうやってあなたを訪れ この明りを与えたかを知らせなさい ♡ 私の平和を持つように、♡♡♡
*イエスは、いくらかテノールがかったお声でこう仰る時、喜びに溢れていらっしゃいました。
12.自分たちの仕事から退いて 私に従う人びとは幸せです
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P74
‘87・2・18
ヴァッスーラ、自分たちの仕事から退いて 私に従う人びとは幸せです。 あなたは本当に沢山の時間を私と一緒に書くために捧げている、しかし ほかにも言わせてほしい。 私はあなたが働き 小さな務めを果すのを見るのも好きです、大して重要でない務めであっても、愛をもって行うなら。 あなたの行うすべての小さな仕事は、どんなに小さく無意味なものであっても 私の目には大きく映り 私を喜ばせる。 これら小さな行いが愛をもってなされるなら。 祝福を受けなさい。
13.霊たちは使徒たちと話し
霊界日記4770
後で、教会の中にいる無神論者の仲間が現れた。それが消え去ると、多くの者により、以下のことが言われた。すなわち、諸国民の或る所で、天界から或る啓示が起り初めている、と発表されている、すなわち、霊たちと天使たちとがかれらと話し、天界の教義を教え、とくに主について教えており、そこの者たちがそれをかき抱き、かくして天界から新しい教会が起りつつあるのである、と。そのさいかれらはこのことについて話し、以下のように言われた、そのようにして、新しい諸教会が前に設立されたのであり、すなわち、ユダヤ教会は、奇蹟により、またモーセとシナイ山から話す生きた言葉により、かくて霊たちと天使たちとを用いてユダヤ教会が設立され、基督教会は奇蹟により、また人間が霊たちと話すことにより設立されたのである。なぜなら霊たちは使徒たちと話し、さらに、その奇蹟の他に、多くの者はまた外国語で話したからである。そこから天界に喜びが起った。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P203
5.また、わたしは、真摯な心でわたしを探し求める者たちに、わが言葉(聖書)をもって自らを現わしめている。わたしが人を救うために人の姿をとったように、霊であり命であるわが言葉もまた、人の言葉で書かれている。つまり、霊感的要素と人間的要素がそこで一つにされている。
だが、人はわたしを理解しないのと同じく、わたしの言葉を理解していない。ヘブライ語とギリシャ語の知識でそれを理解することが必要なのではない。必要なのは、預言者と使徒たちにそれを書かしめた聖霊との交わりである。聖書の言葉は、疑いもなく霊的であり、世の批判に通じている者であれただの子供であれ、聖霊によって生まれた者のみが、よくそれを感得しうるのである。霊的言語は人の母国語でもあるため容易に理解できるはずなのだ。だが、この世の知恵しかもたないものは、聖霊を受けていないため、それを理解することはできない。
14.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1983.3.5
その第一の段階は、放棄、自分を捨てることです。自分自身を、そして、すべての乱れた愛着と邪欲と野望をうち捨てねばなりません。あなたがたの使徒的な活動においてさえ。成功や人間の賛成を探し求めてはなりません。かえって、かくれた生活や沈黙、謙遜と、毎日の務めを忠実に果たすことによって行う使徒職を愛するように。
聖母から司祭へ1983.3.5
あなたがたは司祭的な使徒職のうちに、決して自己満足や何かの利益を探さないでください。ただ、つきることのない愛の力をもって、たえずすべての人に奉仕しなさい。この場合、忘恩も、無理解も、無関心も問題にしてはなりません。また、人が応えてくれないからといって、疲れてはなりません。なぜなら、人々の霊魂が恵みのいのちと救いを、あなたがたによって得られるのは、ちょうどこのあなたがたの司祭的な苦しみのおかげだからです。
15.そしておまえたちの灯りは、今すぐでも出発でき、あるいはやってくる人を迎えられるように火をつけておけ
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P42
キリストの英雄、天の英雄。皇帝たちの権勢は、おまえたちの尊い司祭職と比べれば、ちりにすぎない。ガリラヤの貧しい漁師であるおまえたち、知られざるユダヤ人のおまえたち、今、存在する人間の中での小さい数にすぎないおまえたちは、この世にある、または未来にあるであろう皇帝、すべての皇帝たちよりもっと知られ、もっと慕われて尊敬されるであろう。近い未来、そして最も遠い遠い時代、世の終わりまで知られ祝福されるだろう。
私は、おまえたちをこの崇高な運命に招く、正しい意志を持っているから。そして、その使命にふさわしく生きられるように、使徒としての、おまえたちの条件の主なる輪郭をここに知らせよう。
まず、絶えず警戒してどんなことにも覚悟して、腰には、いつも帯をつけているようにせよ。そしておまえたちの灯りは、今すぐでも出発でき、あるいはやってくる人を迎えられるように火をつけておけ。そして、実際おまえたちは死によって止められるまで、さまよっている人を探す、疲れを知らない旅人であれ。死がそれを消すまで、キリストの柵に向かって、さまよっている人々に道を示すためにおまえたちの灯りは高く挙げて燃えているものでなければならない。おまえたちをこの奉仕に選んだ主人に対して忠実であるべきである。
16.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P237
真の奉仕と義務の遂行のためには、わたしの下僕たちは命そのものさえ捧げる用意がなくてはならない。それは、雪の降りしきる厳寒の中で、凍りついて死ぬまで持ち場を離れず、他の見張りたちが暖をとるために持ち場を離れても、まるで銅像のように立ち尽くしたあの忠実な兵士にも似ている。王が来て死ぬまで忠実に立っていたこの兵士をみたとき、王は自分の冠を脱いで兵士の頭にかぶせ、こういった。『このような忠実な兵と下僕こそわが冠の名誉と栄光に相応しい。彼が生きていれば、わが王国の頭に抜擢したろうに』。わたしから託された奉仕においても、わが忠実な下僕たちは同じようにしなければならない。このような信仰と勇気をもって仕事を果たした者たちに、わたしは朽ちることなき不滅の王冠を授ける。
17.三人の弟子が他の者よりもさらに多く記されている理由
黙示録講解411ニ
ここの『ペテロ』はペテロを意味しないで、(前に引用した記事におけるように)主から発した神的真理を意味しており―なぜなら主の弟子たちは凡て共になって教会を表象したからである―彼らの中の各々の者は教会を構成している何らかのものを表象したのであり、『ペテロ』は教会の真理を、『ヤコブ』はその善を、『ヨハネ』は行為における善を、即ち、業を表象し、爾余の弟子たちは、丁度イスラエルの十二の種族と同じく、それらのものから派生した諸真理と諸善とを表象したのである。
それがそうであることは以下の記事に認められるであろう、そこにはその種族と弟子たちとが取り扱われているのである。このことがこの三人の弟子が他の者よりもさらに多く記されている理由である。(中略)
こうした告白のために『ペテロ』は教会における主から発した神的真理を表象し、そうした理由のためにかれは『岩(ペテラ)』と呼ばれ、『あなたは岩(ペテラ)であり、この岩(ペテラ)の上にわたしはわたしの教会を建てよう』と言われており、そのことは主から発した神的真理の上に、またはそれと同じことではあるが、善から発した諸真理の上に、を意味しているのである、なぜならそれらの諸真理の上に教会は建てられるからである。『ペテロ』が教会におけるこのことを表象するために、彼は主から『岩(ペテラ)』と呼ばれたのであり、そのことはヨハネ伝に明白である―
イエスは彼を見つめられ、彼に言われた、あなたはヨナの子、シモンである、あなたはケファスと呼ばれるでしょう、それは訳すると岩(ペテラ)である(ヨハネ1・42)。
ケファスはシリアの言語では岩を意味しており、それでペテロはその訳書では凡ゆる所で『ケファス』と呼ばれており、さらに、その同じ語はヘブル語では(エレミア4・29、ヨブ30・6に明白であるように、そこでは『岩』は複数形で記されているが)、岩を意味しているが、しかしペテロはギリシャ語とラテン語では岩(ペテラ)とは呼ばれていないのはその名は彼に個人的な名として与えられたためであった(14)。
主は『ヨナの子シモン』と言われ、後に彼は『岩』と呼ばれたのは、『ヨナの子シモン』は善から発した真理を、または仁慈から発した信仰を意味したためであり、善から発した真理は、または仁慈から発した信仰は主から神的真理の中にいる者たちにのみ与えられ、ペテロはそのとき主を告白したように、彼は『岩』と呼ばれているが、人物としての彼自身ではなくて、その告白において彼のもとに在る主から発したかの神的真理がそのように呼ばれたのである。
これは主から発したことは主の御言葉、『肉と血とがそれをあなたに明らかに示したのではなく、天におられるわたしの父がそれを明らかに示されたのである』により意味されており、『天にいます父』は、父は主の中に、主は父の中におられ、二人は一人であられたからには(ヨハネ14・7−11、10・30、38)主における神的なものを意味しているのである。
『シモン』は意志における真理を意味していることについては、それに引き続いて記されている章を参照し、『ヨナ』が意味しているものである『鳩』は霊的善を意味していることは主における神的なものを意味しているのである。『シモン』は意思における真理を意味していることについては、それに続いて記されている章を参照し、『ヨナ』が意味しているものである『鳩』は霊的善を意味していることについては「天界の秘義」(870、1826,1828)を参照されたい。
従って『ヨナの子シモン』は善の真理を、または善から発した真理を意味している。地獄は主から発出している神的真理に反抗する力は何一つもってはおらず、または主から神的真理がその者の中に存在している人間に反抗する力は何一つもってはいないため、それで主は『地獄の門はそれに反抗しては勝たない』と言われているのである。
黙示録講解820イ
全般的にペテロ、ヤコブ、ヨハネは信仰、仁慈、仁慈の業を表象したのであり、このことはこの三人の者は他の者たちにまさって主に従った理由であり、マルコ伝には彼らについては以下のように言われている−
イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを除いてはたれ一人イエスについて行くことを許されなかった(5・37)。
これら三人の使徒はこうした意義をもっていたため、彼らは他の使徒たちよりも多く主について行ったのであり、そのことはマルコ伝に認めることが出来、そこには以下のように言われているのである−
イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟のヨハネを除いてはたれ一人イエスについて行くことを許されなかった(5・37)。
こうした理由のためペテロは、主によりアンデレを通して呼ばれた最初の者であったのであり、『アンデレ』は信仰の服従を意味しており、後にヤコブとヨハネとが呼ばれ、これら二人の者に主は新しい名を与えられたのである。
啓示による黙示録解説79
主の弟子たちにより主から教義の善と真理を教えられる者たちが意味されているが、しかし使徒たちにより、教えられた後で、それらを教える者たちが意味されている、なぜなら以下のように言われているからである―
イエスは神の国を宣べ伝えるためにその十二人の弟子たちをつかわされた、そしてその使徒たちは、帰ってくると、そのお行ったことを凡てかれに告げた(ルカ9・1、2、10、マルコ6・7、30)。