あなたがたは世の光である

マタイ5・14

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.サンダー・シング

5.ヴァッスーラ

6.聖母から司祭へ

 

1.聖書

 

マタイ5・14−16

 

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義1861

 

 「見よ、煙の炉と火のたいまつを」。『煙の炉』は最も甚だしい誤謬を意味し、『火のたいまつ』は欲念の燃える熱を意味していることは、『煙の炉』の意義が甚だしい誤謬であり、『火のたいまつ』の意義が欲念の燃える熱であることから明白である。『煙の炉』と言われているのは、真理を知ってはいるが、それでもそれを承認はしていないで、心の中でそれを否定しており、実にその生活を真理に反した事柄の中に過ごしている人間は、とくにそうした教会の人間は煙の炉のようにしか見えないためである、すなわち、その人間自身は炉として、その憎悪から発している誤謬は煙としてしか見えないためである。誤謬が発してくる源泉である欲念はそのような炉から発している火のたいまつとして現れており、そのこともまた他生における表象的なものから明白である。(そのことは814、1528番に経験から記されているところである)。このようなものとして現われ、またこのようなものになるものは、憎悪、復しゅう、残酷、姦淫の欲念であり、この欲念に詐欺が混合するときはそれはさらに甚だしくなるのである。

 

[2]聖言では『炉』『煙』『火』によりこうしたものが意味されていることは以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―

 

  人はことごとく偽善者であり、邪悪な者であり、口はことごとく愚かなことを話している。邪悪は火として燃え、茨と刺とをやきつくし、森の茂みの中で燃え上がり、彼らは煙が立ちのぼっているようにのぼっている。万軍のエホバの憤りの中に地は暗くなり、民は火のための糧『火のもえぐさ』のようになり、人はその兄弟を容赦しようとはしない(9・17−19)。

 

 ここでは『火』は憎悪を意味し、そこから発する『立ちのぼる煙』はそうした誤謬を意味し、憎悪はたれもその兄弟を容赦しないことにより記されている、なぜならこうした人間は天使たちから眺められると、ここに記されているようにしか見えないからである。

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P39

 

おまえたちは何だろう?どういうものになるべきか?おまえたちは地の塩である。塩は肉とか他の食物とかを腐敗から守る。しかし、塩自身、塩気がなければ塩漬けができるだろうか。私は、天の味を受けるように、おまえたちをもって、この世を塩漬けしたいのである。しかし、自分にあるべき味を失うならば、おまえたちは、どうして他人を塩漬けできるだろうか。

 

 おまえたちにあるべき天の味を失わせるものは何か。“あまりにも人間的であると言うこと”である。真の海の水はあまり塩辛くて飲めない。それでも海の水のコップ一杯を甘い水(真水)の樽に注ぐならば、それを飲めるようになる。それはなぜかというと、海の水は薄められてその辛さを失ったからである。人間性は、おまえたちの天の辛さに混ざる甘い水のようである。そしてまた、海の水の一筋をこの湖の水に入れるとすれば、のちに塩辛い海の水の一筋を識別することができようか。いいや。これほどの甘い水の中にとけこんでしまうからである。おまえたちが、自分の人間性を自分に与えられる使命に入れる時に同じようなことが起る。おまえたちは、人間であるのを私はよく知っている。しかし私はだれか?私はすべての力を持っている者である。そして私はどうするか?

おまえたちを選んだ以上、おまえたちの中に、この力を注ごうとする。しかし私が注ぐこの力をおまえたちは、あまりに人間的な感情、肉体的な邪欲の中に散らしてしまうならば何の役に立つだろうか。

 

 おまえたちは、この世の光であって、そうであるべきである。人間の中の神の光である私は、おまえたちを選んだ。これは私が父のもとに戻ってからおまえたちが、この世を続けて照らすためである。しかし、おまえたちが、消えた、それとも煙ばかり出している灯りであるならば、光を与えることができるだろうか。否、消えつつある小さい灯が、その煙りでもってするように、おまえたちは人の心にまだ残っている、そのかすかな光さえも暗くするだろう。神を知ろうとして使徒たちを求め、そして光の代りに煙しか見つからない人々は何とあわれなことか。そこにはつまずきと死しかない。しかし、ふさわしくない使徒は呪いと罰に値する。おまえたちの使命は偉大である。しかし同時に偉大な恐るべき任務(つとめ)、責任でもある!多く与えられた人は、多く与える務めがあるのをよくよく心得よ。おまえたちには、知識と賜との最高のものが与えられている。おまえたちは、神のみ言葉である私に教えられ、そして“弟子”すなわち、神の子の継続者であるという賜を神から受ける。

 

 私はおまえたちに、自分の選択を絶えず黙想し自分自身を知るように自分の心の中を探ってもらいたい。そしてもしだれかが、自分はただ一人の信仰者としてはふさわしいものであるが、しかし自分の中に使徒の真髄を感じないならば、その人は退くべきである。世間はそれを好きな人にとって広く、美しく、いろどりで心を満たすかのように見える。世間は腹と感覚とにふさわしいすべての花と、すべての実をささげる。それに対して私は一つのことしか与えない。“聖徳”を。これはこの世で最も狭い、貧しい、けわしい、とげだらけの虐げられるものである。天では、その狭さは普遍性に変わり、その貧しさは富に、そのけわしさはゆるやかな楽な道に変わり、その荒いとげは花咲く絨毯、その虐げは平和と至福に変わる。しかし、この世では聖であることは英雄の苦労である。そして私はこれしか約束しない。

 

 おまえたちは、私と一緒に残りたいか。それはできない、と感じるか。おお、驚きと苦しさで自分を省みるな。私の口から、今後もまた何回もこういうふうな質問を聞くだろう。そして、これを聞く度ごとにこの質問をする私の心が泣いていると考えよ。なぜなら召し出しに対してのおまえたちの鈍さに傷つけられているからである。その時に自分を調べよ。そして真実に正直に判断してどちらか決めよ。亡びるものとならないようにはっきりと決めよう。『先生、友だち、仲間たちよ、私はこの道を歩くのにふさわしいものではないと分かった。あなたたちに別れの挨拶を送り、私のために祈ってくれと頼む』と言え。裏切るよりもこの方がよい。・・・この方がよい。

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/下巻/天使館/P81

 

「ああ、キリスト者たちよ。完全な愛を目指しなさい。世俗の一切のものに価値を認めず、神のみを崇拝しなさい。あなた方が望みにおいてその謙虚さに達するなら、あなた方は比べるものがないほど豊かになるでしょう。神があなた方の霊の面倒を見てくださるからです。つまり、神はまずあなた方の霊を教え導き、次にその霊を引き受けてくださるのです。あなた方は自分の霊と共に、父、子、聖霊のもとに高く昇って行きます。そして、聖三位を知り、永遠の浄福の中で聖三位を愛するでしょう。あなた方は兄弟たちのために聖三位の恵みを手に入れるでしょう。私たちが兄弟のもとを去ったあとは、以前と同じように彼らのために働くのではなく、神の光と一体である光になるのです。」(])

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P311

 

(主がマリア・ワルトルタに)

ご自分のお母様のいろいろな苦しみを照らす、エピソードを集めた小さい本の編集のためにイエズスの訓戒は、次のことばで終わる。

「・・・私の贈物を単純な心と信仰とをもって受け入れる人々は、祝されよ。この人々には、御父が望む火が、より盛んに燃えるだろう。世間は、自分の残酷さを変えることはあるまい。もうすでに、あまりにも堕落しているので。しかし、先に言った人々は、今のヴィジョンを読み、黙想して慰められ、聖徳の泉である神への渇きが、自分の中に成長すると感じるだろう。

小さなヨハネ、平和に行きなさい。あなたのイエズスは、あなたに感謝し、祝福している」

 

4.サンダー・シング

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P199

 

8.木炭の一片をとってみよ。あなたがそれをどれほど洗おうと、黒さは決して消えないが、一度火に通せば黒い色は消え失せる。それと同様、罪人が火の洗礼すなわち聖霊―それは父とわたしからくる。父とわたしとは一つであるから―を受けるとき、罪の汚れはことごとく洗い流されて、彼は世の光となる。炭の中の火と同じく、わたしは子らの中におり、彼らもわたしの中にいる。そしてわたしは彼らを通して自らを世に現わす。

 

 

5.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P112

‘88・1・24

 

(イエスは悲しみのうちに 頭を片方に少し曲げ 聖心に手を挙げられました。しばらくこうしたままでした。とてもお美しいお姿で。)

 

私は我が教会の外にいる多くの人びとを訪れている、そう、・・・みじめな霊魂たち(*)、・・・改心させて 私に熱心に従わせ、使徒とし、聖人にした、それでいて、教会の多くの権威ある人びとはこうした私のわざを見落とし 無視する、この霊魂たちを全く認めようとはしない、知ろうともしない、彼らの分け隔てによって多くが拒まれてきた。「神は修道服をまとった敬虔な霊魂たちにしか訪れない」という理論は間違っている。あなた方は大きな誤りを犯している!

   こう言われた時、イエスのお声は優しく悲しみを込めたものでした。

(穏やかな悲しみを湛えたイエスは 今は苦渋に満ちておられました。)

 

♡ どれほど多くの霊魂に近づいたか あなた方が知ったなら、この人びとは必ずしも修道服を着ていなく、私に献身的でさえなかった ところが聖人に変えられた!

(それからジェームズ神父の目をまっすぐとのぞき込むようにして、イエスはしみ透る眼差しを 投げかけられました。)

 

愛する者よ、香りによってあなた自身が私の現存を識別したことを 本当に忘れてしまったか? 我が香りであなたを包み 祝福したのを! さあ、今に学ぶであろう ♡ 私は多くの霊魂を我が平和と愛のメッセージで回心させ、失われた仔羊たちは戻って来て 腕に飛び込んできてくれた、喜びなさい 霊魂よ! 迷子の仔羊が主人を見つけるほど 大きい奇跡があろうか! 羊飼いにとっても 迷子の羊を再び見出す以上の喜びがあろうか(*)! 私の誉れとなりなさい ジェームズ・・・私のわざに栄光を与えなさい 愛する者よ・・・私の種子を蒔きなさい、私の誉れとなり 平和と愛の十字架を担いなさい、羊飼いの呼びかけに気づいて、我が救いの奇跡を 兄弟たちに知らせなさい! 隣り人たちに告げなさい! よい知らせを告げなさい、私のわざを知らせなさい! 私のわざが知られ、奇跡が知られるように。 私はあなたを訪れ あなたの燭台に油を注いだ、我が光を与えた、あなたの床の下にこの明りを隠してしまわないように、そうしたら役に立たない、さあ、台の上で輝くようにあなたの燭台に油を注いだのだから喜びなさい 兄弟よ、皆がその明りを見て 私からのものであることを知るように ♡ 私はあなたを訪れた 霊魂よ、あなたには私が分かった 霊魂よ、私を招き入れてくれて 私はあなたの食事を分かち合った、喜びなさい! 私の神聖なわざを宣言し、皆に見えるよう 我が光を屋根の上に掲げて私を讃えなさい ジェームズ、皆が見えるようにしなさい、この明りを見たなら、皆ははるばる遠くから集まってくる、私がどうやってあなたを訪れ この明りを与えたかを知らせなさい ♡ 私の平和を持つように、♡♡♡

 *イエスは、いくらかテノールがかったお声でこう仰る時、喜びに溢れていらっしゃいました。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P61

‘88・10・25

 

わが主よ?

 

私です ♡ 娘よ! 歓びなさい!あなたの理解をはるかに越える愛をもって 永遠の昔から 愛してきた! 偏愛をもって。 あなたを創造したのは あなたの愛で我が霊を悦ばせ 我が心を満たすため、あなたの涙によって我が怒りをなだめ 傷を和らげるため。 あなたを創造したのは 疲れた時の 憩い 忘れられた時の 話し相手として。 夢中であなたを愛している! 愛する者よ、 我が聖心の望みを知ってもらい、我が持てるすべてを分かち合うために あなたを選んだ。 我が光の子となりなさい。 私はあなたを最も愛する者 最も祝福する者。 私があなたに抱く嫉妬深い愛は その小さな心を燃え上がらせ 光の松明とし、ほかの心をも私を愛するように 燃え立たせるであろう。 私の愛が点る 祭壇となり、この炎を広げ 石の心をも生き生きとさせて 私の熱心な弟子にさせなさい。 肌の色や教義で区別しないように、あなた方は皆 私の似姿につくられ 私の十字架は 全てのくに民のために捧げられた。 我が聖なる名のもとに 一つとなりなさい。 被造物よ 私は 夢中で愛している! 生き返りなさい 被造物! あなた方のさ中に 私が現存すると信じて、皆を癒すことができるよう あなた方の心に入らせてほしい。

花よ、私を望みなさい、我が掟を重んじ 私を喜ばせなさい、私を第一におき 全てのものに優先させなさい。 地上的なものはすべて 嫌悪するように、この世でなされた すべての悪を埋め合わせるには 莫大な償いを必要とする、他の人びとに代って償うように、ヴァッスーラ、決して見捨てない。私の教えに導かれて あなたは我がもとに来た、私とあなた、あなたと私は、代々終わりなく結ばれている、私の平和を受けなさい ♡ 来なさい ♡

 

 

6.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1987.4.16

 

 また、こうしてはじめて、あなたたちは、多くの有毒な食物をおしとどめる貴重な塩となるのです。

 そうです。そうすることによってのみ、あなたたちは、教会と全人類をなやませているこの深い悶えの夜に、燭台の上に灯された焔(ひかり)となるのです。

 

 

聖母から司祭へ1987.4.17

 

 この世紀の暗い夜に、今なお、かれが栄光のうちに戻ってこられることへの希望と確信に燃えて、光を灯しつづけるのです。