神を畏れる・聖い恐れ

 

 

 

1.塩

2.あなたがたは地の塩である。(マタイ5・13−16)

3.ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった(創世記19・26)

4.聖母から司祭へ

5.マリア・ワルトルタ

6.ヴァッスーラ

7.サンダー・シング

8.地の塩である人びとは、火による試練を受けない

9.塩で味つけされていない食物

10.デボラ

 

 

 

1.塩

 

 

天界の秘義1666

 

なぜなら誤謬を生み出さない欲念は到底あり得ないからである。欲念の生命は炭火に、誤謬はそこから発してくる薄暗い光にたとえることができよう。火は光無しには有り得ないように、欲念も誤謬無しに有り得ないのである。欲念はことごとく醜悪な愛に属している、なぜなら愛されるものは欲求され、かくて欲念と呼ばれ、欲念そのものの中には問題の愛の連続したものが存在しているからである。この愛または欲念を支持し、またはそれに同意するものはことごとく誤謬と呼ばれるのである。ここから『塩海』という言葉が『シデムの谷』という言葉にここに附加されている理由が明白である。

 

 

 

天界の秘義1666 []

 

欲念と誤謬とは人間を剥奪し、または荒廃させるものであり、即ち、人間から善の愛の生命と真理の生命をことごとく剥奪するため、剥奪は多くの記事の中で塩により記されている。

 

 

 

天界の秘義1666[4]

 

モーセの書には―

 

  全地は硫黄と塩である、燃える所である、そこには種はまかれない、芽も出ない、いかような草もその中には生えないであろう、ソドムとゴモラ、アデマとゼボイムがくつがえされた時のようになるであろう(申命記29・23)。

 

 『全地は硫黄と塩、燃える所』は剥奪された善と真理を、『硫黄』は善の剥奪を、『塩』は真理の剥奪を意味している、なぜなら欲念が善を破壊し、誤謬が真理を破壊するように、旱魃と塩とは地と地の産物を破壊してしまうからである。『塩』は剥奪された状態を意味したため、破壊された都にそれが再建されないように、塩をまくことが慣例とされたのである(士師記9・45)。『塩』はまたその対立した意義に用いられて、肥沃性を与えるもの、いわば滋養を与えるものを意味したのである。

 

 

 

コロサイ4・6

 

いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

 

 

 

2.あなたがたは地の塩である。(マタイ5・13−16)

 

 

マタイ5・13−16

 

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

 

 

天界の秘義9207

 

「あなたらの息子は孤児となるであろう。」 これは、そのとき同時に真理も死滅するであろう、を意味していることは『孤児』の意義から明白であり、それは真理の中にはいるが、未だ善の中にはおらず、それでも善を渇望する者であり(9199番)、ここでは真理の中にいるが、善を渇望しない者であり、かくてそのもとに真理が死滅しつつある者である、なぜならそれはその息子が孤児となる悪い者らについて言われるからである。善を渇望しない者らのもとでは真理は死滅してしまうことは、善と真理との連結についてすぐ前に言ったことから明らかである(9206番)。この連結についてはさらに以下のことを言わなくてはならない。即ち、善と連結した真理は善いことを為そうとし、同時にそのことによってそれ自身を善に更に密接に連結させようとする渇望をその中に絶えず持っており、または、それと同じことではあるが、真理の中にいる者たちは善いことを為し、かくて己が真理に善を連結させようと常に渇望しており、それで自分自身が真理の中にいると信じてはいても、善いことを為そうと渇望しない者らは真理の中にはいないのであり、即ち、彼らは自分自身がその真理の信仰の中にいるといかほど考えるにしても、その中にはいないのである。

 

 

 

天界の秘義9207[2]

 

 このことは主により『塩』により示されており、主はマタイ伝に以下のように言われている―

 

 あなたらは地の塩である、しかしもし塩がその風味を失ってしまったなら、何をもってそれに塩味をつけようか。もはや無用のものとなって、投げ棄てられ、人の足下に踏みにじられるのみである(5・13)

 

 これらの言葉を主はその弟子たちと民とに言われたのである。『地の塩』により善を渇望する教会の真理が意味され、『風味を失った塩』より善を何ら渇望しない真理が意味され、こうした真理は全く無益なものであることが『その風味を失った塩は無用のものとなって、投げ棄てられ、その足下に踏みにじられること』により示されているのである。善を渇望することは善いことを為し、かくして善と連結しようと渇望することである。

 

 

 

天界の秘義9207[3]

 

 マルコ伝でも同じである―

 

 凡ゆる者は火で塩づけられるであろう。[火で塩味をつけられなくてはならない]、凡ゆる生けにえは塩で塩づけられるであろう。塩は善いものである、しかしもしその塩がその塩味を失ったなら、あなたらは何をもってそれに風味をつけようか。あなたら自身の中に塩を持ちなさい、そして互に他に対し平安を抱きなさい(9・45,50)。

 

『火で塩づけられること』は善が真理を渇望することを意味し、『塩で塩づけられること』は真理が善を渇望することを意味されており、『塩味を失った塩』は善を何ら渇望しない真理を意味しており、『己が自己の中に塩を持つこと』はこうした渇望を持つことを意味している。

 

 

 

天界の秘義9207[4]

 

 ルカ伝にも同じく―

 

 あなたの中で自分の持っているものを凡て捨て去らない者はことごとくわたしの弟子となることは出来ない。塩は善いものである、しかしもしその塩にその風味が失われたなら、何をもってそれに味をつけようか。それは地にも、肥やしにも適しない。それは捨て去られるのである(14・33−35)

 

 ここでも同じように『塩』は善を渇望する真理を意味し、『風味を失った塩』は善を何ら渇望しない真理を意味し、『それは地にも肥やしにも適しない』は、それは善悪を問わず、いかような役にも立たないことを意味しているのである。こうした真理の中にいる者らは『生ぬるい』と呼ばれ、そのことは前に言われた言葉から明らかである、即ち、『自分の持っているものを凡て棄て去らない者はたれ一人として主の弟子となることは出来ない』、即ち、何ものにもまさって主を愛さない者は(主の弟子となることは出来ない)、なぜなら同じ程度で主を愛し、また自分自身を愛する者らは『生ぬるい』と呼ばれ、善いことにも、悪いことにも役立ちはしない者らであるからである。

 

 

 

天界の秘義9207[5]

 

 モーセの書には―

 

 あなたの素祭の捧物はすべて塩で味をつけなくてはならない。またあなたの神の契約の塩をあなたの素祭の上に絶やしてはならない、捧物の凡ての上に塩を捧げなくてはならない(レビ記2・13)。

 

『凡ゆる捧物の中に塩がなくてはならない』は、善に対する真理の、また真理に対する善の渇望が凡ゆる礼拝の中に存在しなくてはならないことを意味したのである。従ってこの『塩』は『神の契約の塩』と呼ばれている、なぜなら『契約』は連結を意味し(665、666、1023、1038、1864、1996、2003、2021、2037、6804、8767、8778番)、『塩』は連結に対する渇望を意味しているからである。

 

 

 

天界の秘義9207[6]

 

 その一方が他方と連結することを交互に渇望するとき、すなわち、善が真理と、真理が善と連結することを渇望するとき、そのときは善と真理とは互に他を相互に顧慮しているが、しかし真理がそれ自身を善から切り離すときは、各々が他方に顔をそむけ、後の方を、また自分自身の後を眺めるのである。これがロトの妻が塩の柱になったことにより意味されているのである、例えばルカ伝には―

 

 たれでも家の上にいて、その器が家の中に在る者は、降りて来て、それを持ち去ってはならない、またたれでも畠にいる者は凡て自分の後の物を振り向いてはならない。ロトの妻を憶えなさい(17・31,32)。

 

(これが自己の『後を見ること』であり、または『振り返ること』であることについては、3652、5895、5897、7857、7923、8505、8506、8510、8516番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義9207[7]

 

『塩』が真理の渇望を意味していることは、塩は地を肥沃にし、食物の味を良くするためであり、また真理の中には善を求めると同時に、連結を求める熱烈な渇望が在るように、塩の中にも火のような烈しいものと同時に、連結するものが在るためである。『塩の柱』は真理から分離することを意味しているのである、なぜなら『塩』はその対立した意義では真理の破壊と剥奪とを[真理を破壊し、剥奪することを]意味するからである(ゼパニア2・9、エゼキエル47・11、エレミア17・6、詩篇107・33、34、申命記29・23、士師記9・45、列王記下2・19−22)。こうした事柄を引用したのは『孤児』と『やもめ』により意味されている、善に対する真理の渇望により意味されていることを明らかにするためである。

 

 

 

3.ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった(創世記19・26)

 

 

天界の秘義2453

 

26節「彼の妻は彼の後を振り返って見た、それで彼女は塩の柱になった」。『彼の妻は彼の後を振り返って見た』は、真理が善から離れ去って、教義的なものを注視したことを意味し、『彼女は塩の柱となった』は真理の善はことごとく剥奪されてしまったことを意味している。

 

 

 

天界の秘義2454[]

 

 教会の人間が自分はいかような種類の生活を送っているかを最早心に留めないで、自分はいかような種類の教義を持っているかを心に留める時、真理は善からそれ自身を背けて教義的なものを注視すると言われているが、しかし教会の人間を作るものは教義に従った生活であって、生活から分離した教義ではない、なぜなら教義が生活から分離する時は、生命[生活]のものである善は荒廃してしまうため、教義のものである真理もまた荒廃してしまうのであり、即ち、塩の柱となってしまうからであって、このことは、教義のみを注視してはいるが、生命[生活]を注視していない者が、自分は教義から復活を、天界を、地獄を、実に主を、またその他教義に属したものを教えられてはいるものの、自分はそうしたものを信じてはいるか否かを考察してみる時、たれでも知ることが出来よう。

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1987.4.16

 

 また、こうしてはじめて、あなたたちは、多くの有毒な食物をおしとどめる貴重な塩となるのです。

 そうです。そうすることによってのみ、あなたたちは、教会と全人類をなやませているこの深い悶えの夜に、燭台の上に灯された焔(ひかり)となるのです。

 

 

聖母から司祭へ1995.3.22

 

 わたしの最愛の多くの子らから祈りがますますなおざりにされているのを見るにつけ、わたしの苦しみはどんなに大きいことか。

 もう祈らないのです。

 多くの司祭は一日中、だらしなく、乱雑に過ごしています。そして世俗的精神にどっぷり浸かり、味のない塩、すでに消えた光になっています。

 

5.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/P61

 

‘43年7月23日

イエズスは言われる。

「時が到来するであろうとき、打ち勝つためには、霊魂の光を減少させる必要があるルシフェルのとぐろによって、多くの星が薙ぎ倒されるだろう。

 それは起きうるだろう。なぜなら一般信徒だけではなく聖職者たちも、神の光の圏内にとどまるために必要な、信仰、愛徳、力、純粋さ、現世の誘惑からの離脱などの毅然さを失ったし、ますます失いつつあるからだ。

 わたしがここで語る星が誰を意味しているか、貴女は理解しているだろうか? それはわたしが地の塩として、世の光として定義づけたもの、すなわちわたしの奉仕者たちだ。

 サタンの鋭い悪意の計画は、これらの星を薙ぎ倒すことによって、大衆にわたしの光を反射する光であるこの無数の灯火を消すことである。司祭的教会はまだ多くの光を放ちつづけているが、霊魂たちはますます闇のなかに沈みこもうとしており、わたしの空から数多くの星が消え去るであろうとき、どんな闇が大衆を押し砕くか容易に理解できる。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P110

 

あなたたちはの塩であり、世の光です。しかしもしあなたたちの使命が欠如するなら、味気の無い、役に立たない塩になるでしょう。あなたたちはそれを贈物として頂戴しながら、それを人間性という気の抜けた汚れた水で塩抜きし、官能の腐敗した甘味料でそれを甘ったるくし、の生っ粋の塩に塵芥(ちりあくた)を、傲慢、貪欲、暴飲暴食、色欲、憤怒、怠惰、嫉妬という塵芥を塩の一粒が、それぞれ七つの悪徳を七倍するように混ぜ合わせたのだから、はそれを再びあなたたちに与えることは出来ないし、最早何ものもあなたたちに再び味をつけることは出来ないでしょう。その時、あなたたちの塩は方向を失った惨めな塩粒の石、歯の下で耳障りな音を立て、口中に土の味を残し、料理をまずくし、口から吐き出される石以外の何ものでもなくなります。食用外での使用にも適さないとすれば、人間的任務に対しても、七つの悪徳の中に振りかけられた一つの知識はどんな害を及ばすでしょう。その時、その塩は地上に振り撒かれ、民の無頓着な足で踏みつけられるしかありません。どれだけの、どれだけの民はこのようにしての人びとを踏みつけることでしょう! なぜならこの選ばれた人たちは、選ばれた者の、天的な者の味を持つからこそ受け入れられるのに、最早その実質が無い単なる屑となり、無頓着に踏みつけられることを民に許したのだから。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P34〜

 

ティベリアデ湖で、イエズスはマグダラのマリアに会う

 

 イエズスは、十二人の使徒とともに二隻の舟に分かれてガリラヤのティベリアデの湖を行く。舟は涼しい風に乗って静かな水の上をすべるように走り、後に糸のような一筋の泡を起こす。二つの舟は、わずか離れて平行して進む。両方から話し交わしている言葉から察すると、ガリラヤ人たちがユダヤ人の仲間に、湖に面している主な場所、その商業、出発点から到着点までの距離、カファルナウムとティベリアデの間の距離などをいろいろ説明している様子である。二隻の舟は漁をしているのではなくただ人を運んでいる。

 

 イエズスはへさきに腰かけて、自分をとりまいている美しさとその静けさ、空と水とのその清い色を楽しんでいるように見える。湖の岸には、緑の中にところどころ白い小さい村がちらばっている。イエズスはへさきの、たたんだ帆にもたれて弟子たちの話に加わらず、サファイアのような水の底をのぞいて、そのいかにも清らかな水の中に生きているものに関心を持っているかに見えるが、しかし何を考えておられるのだろうか。太陽はかなり高く昇って、まだ燃えるような暑さではないが、日ざしは強く、ペトロが、その太陽を気にしていられるか、とイエズスに聞き、もう一度は他の人と同じようにパンとチーズを召し上がるかと聞く。しかし、イエズスは幕屋もパンも何もほしくない。ペトロはそのまま引き返す。

 

 紫色の天蓋とやわらかいクッションで豊かに飾られた遊びのための小舟何隻かが漁師たちの行く手を横切り、辺りかまわず音楽と嬌声と脂粉の香りをまき散らす。それは美女たちと、ローマとパレスチナの遊び人で満ちあふれている。しかし、パレスチナ人は少数で、ほとんどがローマ人であるが、中には幾人かのギリシャ人もまじっている。それは一人の若者の言葉から推測することができる。この若者はやせてひょろ高く、ほとんど熟しているオリーブの実のような顔色で、着ている赤い短い服の裾に重いギリシャ風の山形のかざりと金銀のかざり職人の傑作と見える帯をつけている。

「ギリシャは美しい。しかし私のオリンパス、私の祖国にさえもこのような青空とこのような花はない。女神たちは、ここに来るためにその国を去った。ユダヤのこの女神たちの上にバラの花びらを降らせよう」

 そして自分の小舟の女たちの上にみごとなバラの花びらをまき、またそれを隣りの舟に投げつける。一人のローマ人が答える。

「ギリシャ人め。バラなどいくらまいても、ヴィーナスは私と一緒にいる。私は、花びらをまくよりもこの美しい口からバラを拾う。その方がもっと甘い」

 そして、クッションにほとんど横になってローマ人のひざに金髪の頭をもたせかけているマグダラのマリアの笑いに、なかば開いている口に接吻する。これらの小舟は、重い漁師の舟にほとんど触れんばかりに近づき、漕ぐ人々の経験不足か風のせいか衝突寸前である。

「命が惜しいなら気をつけろ!」とかんかんに怒ったペトロが衝突を避けようとして力一ぱい櫓を押して舟をよけた。男たちの、ののしり合いと女たちの恐怖の叫びは舟から舟へひびく。ローマ人たちは、

「ヘブライ人の犬め。道をあけろ!」といって侮辱する。その侮辱に対してペトロと他のガリラヤ人たちは怒り、とくにペトロはおんどりのように真っ赤になる。彼は舟の端に立って、ローマ人もギリシャ人もヘブライ人の男女たちだれにも遠慮せずに悪口のありったけを投げつけ、特にヘブライ人の女たちに向かって、ペンに残す光栄を躊躇するような形容詞を贈る。

 

 この口げんかがお互いに舟の離れるまで続く。イエズスは姿勢をかえず腰かけたまま、そこにいないかのように小舟に対しても、それに乗っている人々にも言葉もなく見向きもしない。ひじにもたれて何事もなかったかのように遠く岸を眺めつづける彼に向かって、一輪の花が投げられた。なまめかしいふくみ笑いとともに投げられたそれは、だれからとも分からないが一人の女からのことは確かである。しかし、イエズスは何の反応も示さない。その花は顔に当たって舟底に落ち、烈火のごとくに怒っているペトロの足の方に行ってしまう。

 小舟が離れようとした時に、マグダラのマリアは端に立って彼女の友だちが指している方、すなわち遠くに見えるイエズスの顔の方へその美しい目を凝らすが、イエズスの顔は、この俗世から何と遠いことか。

 

「ねえ、シモン」とケリオットのユダが呼びかける。

「私と同じユダヤ人であるあんたは答えられるだろう。ローマ人が抱いていた、あの美しいブロンドの女。さっき端に立った彼女は、ベタニアのラザロの妹ではないか?」

「私は何も知らない」と熱心者のシモンはそっけなく答える。

「私は最近“生きる人々の世界”に戻ったばかりだし、あの女は若い・・・」

「あんたはベタニアのラザロを知らない、というつもりか。彼はあんたの友人で、先生と一緒に彼の家へ行ったのを私はよく知っている」

「そうだったら?」

「それらならラザロの妹の、その罪の女もあんたは知っているはずではないか。墓にいる人さえも彼女を知っている。彼女が、あのようにふしだらに生きるようになって人のうわさに上ってからでも十年はたっている。四年前からあんたが“死者の谷”にいたにしても、そのスキャンダルを知らないはずはない。全エルサレムは彼女のことをうわさしている。そのために、ラザロはベタニアにひっこんだ。考えれば彼はそうしてよかった。彼女が出入りしていたシオンの自分の壮麗な邸に、聖人である人が足を踏み入れるはずはなかろう。田舎では、まあまあいろんなことがあり得るが、彼女は、もはや自分の家以外どこにもいる・・・。今は、たしかマグダラにいるのだろう。だれかの新しい恋人と一緒に・・・。答えないのか。私の言うことは嘘だと反発できるか」

「反発はしない。ただ話したくない」

「そんなら、やっぱり彼女なのだな。あんたも彼女だと分かったのだろう」

「私は、彼女をかつて清らかな少女として見たことがあった。さっき久々に目にしたが彼女だと分かったのは、聖女みたいであった、その母の姿に生き写しだったからです。だが清らかさを失った」

「それなら、あんたの友だちラザロの妹であることを、どうして言いたくなかったのだ」

「われわれの傷、また愛する人々の傷はできるだけ隠すものだ。とくに正しい人だったら」

 ユダは苦笑いをする。

「シモン、あんたの言うとおりだ。あんたは正しい人間だから」とペトロが言葉をはさむ。

「あんたも彼女が分かっただろう、ペトロ。魚を売るために、あんたもマグダラに行くはずだから何回も彼女に出会ったにちがいない」

「まじめな商売のために腰が疲れて痛くなる時には、女に興味を持つひまなどない。自分の妻、自分の家を愛するだけだ」

「そうか。しかし美しいものはだれでも好きだ。少なくともそれを眺めるために」

「じゃあ、おまえの食卓のための食べ物ではないというつもりか。この湖と職業から私は、いろいろなことを習ったが、その中の一つはこれだ。“甘い水の魚は塩辛い水のためではない”」

「と言うと?」

「ただ犬死にしたくないなら、一人はだれでも自分の立場を守るべきだ」

「じゃあ、おまえはマグダラのマリアのために死ぬところだったか」

「いや、私の皮膚は固い。しかし、おまえこそ具合が悪かったろう」

「私? 私は彼女を見ようとさえしなかった」

「うそつきめ! 彼女にもっと近づきたくて私のこの舟に乗り込んだのだと賭をしてもいい。彼女の近くにいるためには、私のそばにいることさえも耐え忍んだのだろう。私の言うことに間違いはない。何日もの間私に話しかけたことがないのに。彼女のおかげで、おまえの声を聞く光栄が与えられた!」

「ふん。彼女は、私の方にまなざしを送るはずがなかった。絶えず先生を見つめていたからだ」

「ハッハッハ。彼女を見ていなかったというのに、その目の方向をどうして知ったのだ」

 ペトロのその言葉にケリオットのユダ、イエズスと熱心者のシモン以外の皆がどっと笑った。それを聞いているとも見えなかったイエズスは、そのくだらないおしゃべりをうち切ってペトロに尋ねる。

「向うに見えるのはティベリアデか」

「そうです先生。今からそこへ舟を近づけます」

「ちょっと待ちなさい。あの静かな入江にはいれるか? おまえたちだけに少し話したい」

「底を計ってみましょう」

 そして、ペトロは長い棒を下ろして、ゆっくりと岸に近づける。

「できます、先生。もっと岸に近寄りましょうか」

「できるかぎり。そこには、ちょうどよい日陰と静けさがある」

ペトロは岸辺の下まで行く。陸はせいぜい十五メートルしか離れていない。

「今だったら、そこに止められます」

「ではここに止めて。そして、おまえたちはできるだけそばに来て聞きなさい」

 

 イエズスは、今までの席を離れて舟べりから他の舟べりに渡してある板に腰かける。まん前には、もう一隻の舟があって、彼の舟の人はイエズスをとり囲んでいる。

「皆、聞きなさい。私は、時としておまえたちの話に気を配らず、そのために自分の弟子を見守っていない怠け者の先生の印象を与えるかもしれない。しかし私の心はおまえたちを一瞬も離れることはないと知ってもらいたい。まだ病気のいろいろな徴候だけで病名のはっきりしない病人を世話している医者を見たことがあるか? その医者は病人を診察した後、昼も夜も朝も晩も、沈黙の時にも話す時にも彼に気を配る。なぜなら彼に関することは何もかもわきまえた上で、その隠れた病気をつきとめ、それに従って適切な治療を施すためである。私は、おまえたちに対して同じようなことをしている。私は、おまえたちに、非常に敏感な目に見えないほど細いくもの糸のようなもので結ばれて、それは、おまえたち各々の最も軽い震動を伝える。おまえたちは、全く自由で監督者の目を逃れていると思っているかもしれないが、実際はそうではない。おまえたちは幾人かのグループで一つの団体にまとまっている。私は、それをまとめて行くために角をとり、その多様的順応性を成長させ、できるだけ完全な一つのものとするために一人ひとりのさまざまな特徴を研究する。私は、おまえたちが寝ている時さえもおまえたちを研究している。おまえたちは何だろう? どういうものになるべきか? おまえたちは地の塩である。塩は肉とか他の食物とかを腐敗から守る。しかし、塩自身、塩気がなければ塩漬けができるだろうか。私は、天の味を受けるように、おまえたちをもって、この世を塩漬けしたいのである。しかし、自分にあるべき味を失うならば、おまえたちは、どうして他人を塩漬けできるだろうか。

 

 おまえたちにあるべき天の味を失わせるものは何か。“あまりにも人間的であると言うこと”である。真の海の水はあまり塩辛くて飲めない。それでも海の水のコップ一杯を甘い水(真水)の樽に注ぐならば、それを飲めるようになる。それはなぜかというと、海の水は薄められてその辛さを失ったからである。人間性は、おまえたちの天の辛さに混ざる甘い水のようである。そしてまた、海の水の一筋をこの湖の水に入れるとすれば、のちに塩辛い海の水の一筋を識別することができようか。いいや。これほどの甘い水の中にとけこんでしまうからである。おまえたちが、自分の人間性を自分に与えられる使命に入れる時に同じようなことが起る。おまえたちは、人間であるのを私はよく知っている。しかし私はだれか? 私はすべての力を持っている者である。そして私はどうするか? おまえたちを選んだ以上、おまえたちの中に、この力を注ごうとする。しかし私が注ぐこの力をおまえたちは、あまりに人間的な感情、肉体的な邪欲の中に散らしてしまうならば何の役に立つだろうか。

 

 おまえたちは、この世の光であって、そうであるべきである。人間の中の神の光である私は、おまえたちを選んだ。これは私が父のもとに戻ってからおまえたちが、この世を続けて照らすためである。しかし、おまえたちが、消えた、それとも煙ばかり出している灯りであるならば、光を与えることができるだろうか。否、消えつつある小さい灯が、その煙りでもってするように、おまえたちは人の心にまだ残っている、そのかすかな光さえも暗くするだろう。神を知ろうとして使徒たちを求め、そして光の代りに煙しか見つからない人々は何とあわれなことか。そこにはつまずきと死しかない。しかし、ふさわしくない使徒は呪いと罰に値する。おまえたちの使命は偉大である。しかし同時に偉大な恐るべき任務(つとめ)、責任でもある! 多く与えられた人は、多く与える務めがあるのをよくよく心得よ。おまえたちには、知識と賜との最高のものが与えられている。おまえたちは、神のみ言葉である私に教えられ、そして“弟子”すなわち、神の子の継続者であるという賜を神から受ける。

 

 私はおまえたちに、自分の選択を絶えず黙想し自分自身を知るように自分の心の中を探ってもらいたい。そしてもしだれかが、自分はただ一人の信仰者としてはふさわしいものであるが、しかし自分の中に使徒の真髄を感じないならば、その人は退くべきである。世間はそれを好きな人にとって広く、美しく、いろどりで心を満たすかのように見える。世間は腹と感覚とにふさわしいすべての花と、すべての実をささげる。それに対して私は一つのことしか与えない。 “聖徳”を。 これはこの世で最も狭い、貧しい、けわしい、とげだらけの虐げられるものである。 天では、その狭さは普遍性に変わり、その貧しさは富に、そのけわしさはゆるやかな楽な道に変わり、その荒いとげは花咲く絨毯、その虐げは平和と至福に変わる。しかし、この世では聖であることは英雄の苦労である。そして私はこれしか約束しない。

 

 おまえたちは、私と一緒に残りたいか。それはできない、と感じるか。おお、驚きと苦しさで自分を省みるな。私の口から、今後もまた何回もこういうふうな質問を聞くだろう。そして、これを聞く度ごとにこの質問をする私の心が泣いていると考えよ。なぜなら召し出しに対してのおまえたちの鈍さに傷つけられているからである。その時に自分を調べよ。そして真実に正直に判断してどちらか決めよ。亡びるものとならないようにはっきりと決めよう。『先生、友だち、仲間たちよ、私はこの道を歩くのにふさわしいものではないと分かった。あなたたちに別れの挨拶を送り、私のために祈ってくれと頼む』と言え。 裏切るよりもこの方がよい。 ・・・この方がよい。

 

 互に何を言っているのか? だれを裏切るか、と言うのか? だれを? 私を・・・。神が私に与えた使命を裏切るということである。そして私を裏切ると自分自身も裏切り、自分の魂をサタンに与えるのだ。おまえたちはヘブライ人として残りたいのか。そして私はこれを変えよ、と無理じいはしない。しかし裏切るな。自分自身の魂、キリスト、神を。私も私に誠実を守った人々には、おまえたちを非難せず、または誠実に残ったおまえたちに軽蔑を浴びさせようとしない、と誓って言う。少し先に、おまえたちの一人の兄弟は“大”なる言葉をいった。『われわれの傷、また愛する人々の傷をできるだけかくしておきたいと努める』そして離れて行く人は、われらの使徒の団体の中に生まれた傷“壊疽(えそ)”であるが、いつの間にか壊疽は落ちる。そして、見苦しいしるしを残す。しかし私たちはそれをできるだけかくしておきたいものである。

 

 いやいや、より良いものであるおまえたち、泣くな。泣くな。私は、おまえたちのこれほどの鈍さを見て憎んだり、嫌ったりはしない。おまえたちは、今捕らえられたばかりで、今すぐおまえたちの完全さを私はあえて期待はしない。しかも百回も二百回もの時、無駄に同じことをくり返してのち、何年たっても要求すまい。そればかりか、何年かたったら、おまえたちは弟子になったばかりの今の熱心もいくらか失う。生きるとはそのようなものであるし、人生もそうである。最初の奮発の後に飛躍を失ってしまう。しかし―ここにイエズスは突然立ち上がる―私は勝利を得るであろうと、おまえたちに誓う。自然淘汰によって選抜され、超自然の調合によって強められ、より良いものとなったおまえたちは私の英雄となろう。キリストの英雄、天の英雄。皇帝たちの権勢は、おまえたちの尊い司祭職と比べれば、ちりにすぎない。ガリラヤの貧しい漁師であるおまえたち、知られざるユダヤ人のおまえたち、今、存在する人間の中での小さい数にすぎないおまえたちは、この世にある、または未来にあるであろう皇帝、すべての皇帝たちよりもっと知られ、もっと慕われて尊敬されるであろう。近い未来、そして最も遠い遠い時代、世の終わりまで知られ祝福されるであろう。

 

 私は、おまえたちをこの崇高な運命に招く、正しい意志を持っているから。そして、その使命にふさわしく生きられるように、使徒としての、おまえたちの条件の主なる輪郭をここに知らせよう。

 まず、絶えず警戒してどんなことにも覚悟して、腰には、いつも帯をつけているようにせよ。そしておまえたちの灯りは、今すぐでも出発でき、あるいはやってくる人を迎えられるように火をつけておけ。そして、実際おまえたちは死によって止められるまで、さまよっている人を探す、疲れを知らない旅人であれ。死がそれを消すまで、キリストの柵に向かって、さまよっている人々に道を示すためにおまえたちの灯りは高く挙げて燃えているものでなければならない。おまえたちをこの奉仕に選んだ主人に対して忠実であるべきである。死が不意に来ても、聖寵の状態にある僕は報いを受ける。『私は若い。あれこれするにはひまがある。もっとたってから主人のことや、死や霊魂のことを考えればよい』と言うことはできないし、言うべきではない。老人と同じように若者も、強い人も弱い人と同じように死ぬ。そして老人も若者も強い人も弱い人も同じように誘惑の攻撃を受ける。

 霊魂はからだの先に死ぬことがある。そして、おまえたちは意識せず、腐敗した霊魂を運んでいるということがありうる。霊魂の死は肉体に感じられない! 花の死と同じように一つの叫びもなく、もがきもしない・・・。疲れた花びらのようにその炎を垂れて消える。時としてはすぐあとに、時としてはずっとあとに、身体は自分の中にうじだらけの屍(かばね)を運んでいるのに気がついて恐怖のために気が狂って、その共存を避けるために自害する、ということもある。しかし、逃れることはできない! 自分のうじだらけの霊魂とともに蛇のうごめく地獄の底に落ちる。

 

 正反対の常連客のどちら側にも媚びる仲立ち人、あるいは理屈っぽい弁護士のように不道徳であるな。またはあれこれの人に『友だち』といって実は敵である政治屋のように偽りであるな。二心を持つな。神は、からかえるものではなく、まただませるものでもない。人間に対して、神に対してするようにせよ。なぜなら人間に対してする不正、侮辱は、神に対して行ったのと同じことである。人間に見られたいように神に見られるのを望め。

 謙遜であれ。おまえたちの師にはそれがないととがめ得ないだろう。私は、おまえたちに模範を与える。私がするようにせよ。謙遜、柔和、忍耐深くあれ。世間を征服できるのは、これをもってである。暴力あるいは権力をもってではない。自分の悪徳に対しては強く暴力をふるってそれを根こそぎにせよ。しかし、おまえたちにはこれはなかなかできない。私はいう、淫乱にふける人となるよりも邪欲の目をひきぬいて盲目になる方がましである。真実であれ、私は真理である。気高いことにおいても、人間的なことにも。私はおまえたちにも二心がないことを望む。偽りを抱えて私、あるいは兄弟、隣人へとなぜ行くのか。なぜ、偽りをたわむれのようにするか。何? おまえたちはそれほど自尊心が強いのに、『私はうそつきと言われたくない』とどうして誇りをもっていえないのか。何よりも神に対してありのままの自分でありなさい。皆に見せびらかす長い、さまざまの祈りをもって神をだませると思うのか。おお、あわれな子らよ! 神は人の心を見る。

 

良いことを行うには清くあれ。施しをする時でも。一人の税吏は回心する前にすでにそうしていた。そして、おまえたちにはできないのか。そうだマテオ、私とおん父だけが知っていた毎週のその清い寄付のためにおまえをほめる。そして、おまえの模範を皆に知らせること。これも一つの清さである。自分の心の良さをむき出しに衆目の前にさらさずにおきなさい、処女の娘を裸に・・・群集の目の前にさらしたくないと同じく。

おまえたちは、神からの召し出しの忠実な配偶者でありなさい。おまえたちは二人の主人に仕えることはできない。同時に神とサタンと床をともにすることはできない。黄金の飢えと同じように肉体の飢えを避けよ。肉体の飢えと同じように権力の飢えを避けよ。サタンはもっぱらこれを提供する。おお、彼の富は何と偽りのものか! 栄光、名誉、出世、権勢、財産、これはおまえたちの魂という貨幣をもって買える猥褻な取引きである。小さいことで満足せよ。神は、おまえたちに必要であるものを与える。これで足りる。空の鳥にこれを保障しているように、おまえたちにもこれを保障する。そして、おまえたちは空の鳥よりもずっと偉大なものだ。しかし、神は、おまえたちから信頼と清さとを望む。おまえたちに信頼があったら、神はおまえたちを幻滅させない。おまえたちに清さがあれば神の毎日の贈り物で足りる。

 名前としては、神のものでありながら不信仰者であるな。神のような者とみられるために黄金と権勢を望んでいる人は、神のものではない。聖であれ! そして永遠において神に似たものであるように。

 

譲歩を知らない頑固者であるな。皆、罪びとであるから自分が他人に対して、してほしいように他人に対して同情とゆるしに満ちたものであれ! 裁くな。 おお裁くな! おまえたちが私と一緒にいるのはまだ長くないが、どんな罪もない私はどれほどたびたび不正にも裁かれ、存在しない罪のために非難されたことか。悪い裁きは侮辱である。そして侮辱をもって侮辱に答えようとしない人々こそ本当の聖人である。侮辱されたくなければ、他人を侮辱するな。こうすれば愛徳と聖なる謙遜にそむかない。謙遜と純潔こそは、ともにサタンの敵である。他人を、人をゆるせ。いつもいつもゆるしなさい。『私の限りない罪のために、あなたにゆるされますように。おお、父よ。私はゆるします』といえ。

 

 一瞬一瞬、忍耐、豪気、英雄性をもって自分をよりよいものとせよ。しかし、よりよいものとなることは苦しくはない、と言える人があるだろうか。いや、決して。これこそ、すべての苦労に勝る大きい苦労である。しかし報いは天である。そのためにこの苦労に自分をすりへらし、すべてをつくすべきである。

 そして愛せよ。おまえたちの心に、この愛を刻むためにどんな言葉を使ったらよいか。サタンがけしかけるおまえたちあわれな人間に、その愛を理解するために説明する適当な言葉がない。それなら私は いおう。『父よ。清めの時を早めてください。この土地、また、あなたのこの羊の群れは、渇いて病気である。しかし、この群れをうるおし清め得る一つの露がある。おお、私は願う、その露の泉を開けよ。私を開けよ。私を。父よ、私はあなたの望みを果たす望みに燃える。それは永遠の愛、また私の望みである。父よ、父よ、父よ! あなたの子羊を見よ』そして、その羊をささげるものとなりなさい」

 イエズスは実際にインスピレーションの態度をとっている。十字架の形に両腕を開いてまっすぐに立ち、顔を天の方に向けて後に湖の水色、麻の服に包まれて祈る大天使のようである。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/P61

 

‘43年7月23日

イエズスは言われる。

「時が到来するであろうとき、打ち勝つためには、霊魂の光を減少させる必要があるルシフェルのとぐろによって、多くの星が薙ぎ倒されるだろう。

 それは起きうるだろう。なぜなら一般信徒だけではなく聖職者たちも、の光の圏内にとどまるために必要な、信仰、愛徳、力、純粋さ、現世の誘惑からの離脱などの毅然さを失ったし、ますます失いつつあるからだ。

 わたしがここで語る星が誰を意味しているか、貴女は理解しているだろうか? それはわたしが地の塩として、世の光として定義づけたもの、すなわちわたしの奉仕者たちだ。

 サタンの鋭い悪意の計画は、これらの星を薙ぎ倒すことによって、大衆にわたしのを反射する光であるこの無数の灯火を消すことである。司祭的教会はまだ多くの光を放ちつづけているが、霊魂たちはますます闇のなかに沈みこもうとしており、わたしの空から数多くの星が消え去るであろうとき、どんな闇が大衆を押し砕くか容易に理解できる。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P84

 

 では、あなたたちは、私も彼女を祝福するとあの人に伝えておくれ。私に代って子供たちを愛してくれるようにとね。あなたたちは蜂蜜とパン菓子のためだけでなく、あのよい婦人を愛しなさい。私の名で子供を愛している人は、その名が天に書かれるのだから、あなたたちも彼女に倣いなさい。私の名で水の一杯を与えても、あわれみの心は天の報いを受けます。子供に対してのあわれみ、子供たちを飢えや渇きや寒さばかりでなく、世間の腐敗から救っている場合は、無限に報いられると知りなさい。

 

 

6.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P349

 

♡ ああヴァッスーラ、私の指示に従う多くの人たちがいる、自分を生けにえとして、謙遜に慎ましく生き、互いに愛し合い、我が仔羊たちを養っている、この人たちは地の塩、我が霊魂に愛された者、私のアベルたちです ♡

この人びとは我が傷の香油であり、痛みを和らげてくれる ♡ 悲しいことに、中にはカインもいる、私のからだにとって矢となり、危険で、虚栄に満ちていて、眼が見えなく、悪意に満ち、そして卑しい傾向を持っている、この者たちは頭の棘となっている、その罪は無数で中心に偽善があり、我が聖なる義はこの者たちに対して燃え上がる ♡ 手を取りなさい、娘よ、そばにいなさい そうしたらそれらの棘を指し示す。あなたを神聖な力をもって我がからだの一番奥まで連れていき、槍の刃を見分けるようにする ♡ 私はカインを容赦しない、ヴァッスーラ、彼らは与えるものが何もない。 その手は空であって 我が仔羊たちに与えるものが何もない、公の場で自分を見せびらかすことを好み、丁重に挨拶されることを愛している、この者たちは味を失った塩のようだ、まことに言う、娘よ、この者たちは今日のファリサイ人です!

 

ああ、神よ、これは恐ろしいことです。

 

♡ ヴァッスーラ、それゆえに、隠されていたものはすべて明るみに出て 覆われていたものの覆いが取り除かれる、これが私の意思なるがゆえ ♡ さあ来なさい、我が現存を忘れないように。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P145

‘90・4・22

 

(聖母)

恐れずに立ち向かい 私と一緒に戦いなさい: 祈りを通して戦うのです。 あなた方の祈りはサタンに対する最も強力な武器です。 従順と謙遜は悪魔を退散させます。 神はご自身の愛という贈物を下さっています。 慈しみの呼びかけに応えて下さい。 神が語っていらっしゃいます そして時が迫っているために 神と私は地上の隅々にまで呼びかけているのです。まこと小さな子どもたち、小さく素朴なままでいなさい、小さいままでいて 地の塩となりなさい あなた方はまことに世の光だからです、 私どもの心に特に愛された霊魂です・・・そして天の国は子どもたちと非常に小さな者たちのものだからです。 神の光に心を向けるよう 私はさまざまなくに民に今日出現しています。 霊魂を回復させたいのです、皆御父のものであると思い出させたいのです 御父は聖なるお方ですので あなた方も聖い生活を送るようにと。 けれど気を落さないように 一歩ずつ教えるためにここにいます そして必ず祝福を与えると約束しましょう、一歩一歩を祝福します。 許してくれるなら、永遠の光を反射する者とならせたいのです 神と出逢う時には活動する神の力の 曇りない鏡のようになり 神の聖さと善良さの象りとなっていますように。 今日は教会の刷新、主の再臨のために 熱心に祈るようにと皆を招きます: 第二の聖霊降臨のために。 皆にこの到来を準備させようと イエスと私は方々のくに民を訪れているのです。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P228

 

愛に基づく我が教えと 我が掟を守り、地の塩である人びとは、火による試練を受けない、私を彼らの神とし、私をいのちの主として受諾したがゆえ。 彼らはすでに試され、もはや私の一部として至高の神と一致し 絶え間なく我が聖なる光のうちに存在する。 そしてあなたも言ったように、娘よ、ノアの時代には 我が訪れと共に 天は大雨を降らせた。 そして今地上は 火によって炎に包まれ こうして試される。

 

 

 

 

7.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P222

 

 十二人の使徒がいて、パンは五切れしかなかった。だが、彼らがすすんで差し出したときに、全員を食べさせてもまだ余るほどパンがあることを、彼らは知った。われわれが自分の力を明らかに使い果たしているときにこそ、“彼らは利己的ではない。救われている”と人は考え始める。われわれは地の塩である、と主はいわれている。塩は溶けるときのみ、他に塩気をもたらす。御飯を炊いている釜の中に塩を落としたとしよう。それがもし溶けなかったら何の役に立つだろうか。だが、溶ければ、釜の中の何万個という米粒に塩気が広がる。目には見えずとも、味わえば塩の存在はすぐにわかる。同じように、われわれもまた、自分を失うことによってのみ、他を救うことができるのである。そうでなければ、われわれは、この世への執着から塩の柱と化したロトの妻と同じようになるだろう。溶けぬ塩が何の役に立つだろうか。

 

 

 

 

8.地の塩である人びとは、火による試練を受けない

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P228

‘02・6・1

 

愛に基づく我が教えと 我が掟を守り、地の塩である人びとは、火による試練を受けない、私を彼らの神とし、私をいのちの主として受諾したがゆえ。 彼らはすでに試され、もはや私の一部として至高の神と一致し 絶え間なく我が聖なる光のうちに存在する。 そしてあなたも言ったように、娘よ、ノアの時代には 我が訪れと共に 天は大雨を降らせた。 そして今地上は 火によって炎に包まれ こうして試される。

 

 

 

天界と地獄491

 

直ぐ天界に挙げられる者は世で再生し、従って天界に入る準備をしていた者たちである。再生し準備していて、ただ身体にある自然的な不潔なものを斥けさえすればよい者たちは天使によりすぐ天界へ連れて行かれる。

 

 

 

天界と地獄491

 

直ぐ天界に挙げられる者は世で再生し、従って天界に入る準備をしていた者たちである。再生し準備していて、ただ身体にある自然的な不潔なものを斥けさえすればよい者たちは天使によりすぐ天界へ連れて行かれる。

 

 

 

 

9.塩で味つけされていない食物

 

 

 

天界の秘義3718

 

全般的に言って、恐れには二種類のものがある。即ち神聖でないものにおける恐れと神聖なものにおける恐れである。神聖でないものにおける恐れは邪悪な者がその中にいる恐れであるが、神聖なものにおける恐れは善良な者がその中にいる恐れである。この後の恐れは即ち善良な者たちがその中にいる恐れは敬虔なまたは神聖な恐れと呼ばれて、神的なものに対する私たちの驚異と渇望の結果であり、また私たちの愛の結果である。敬虔なまたは神聖な恐れを欠いた愛はいわば風味を欠いており、または塩で味つけされていない食物のようであり、従って味気ないものであるが、しかし恐れを伴った愛は味つけされてはいるが、塩味のない食物のようなものである。

 愛の恐れは主を何らかの点で害いはしないか、または隣人を何らかの点で害いはしないか、かくて善い真のものを何らかの点で害いはしないか、従って愛と信仰の神聖なものを、またそこから生まれてくる礼拝を害いはしないかとの恐れである。しかしこの恐れには種々のものがあって、人により異なっているのである。全般的に言って、善と真理の愛の量が大きくなるに応じて益々善と真理とを害いはしないかとの恐れが大きくなっており、しかもそれと同じ釣合いでこの恐れは恐れであるようには見えなくなっているが、それに反し善と真理との愛の量が少なくなるに応じて、益々善と真理のために恐れる思いが少なくなり、また益々その恐れは愛であるようには見えなくなって、恐れのように見えてくるのであり、そこからこのような者のもとには地獄の恐怖が生まれてくるのである。善と真理との愛が何ら存在しない時は、敬虔なまたは神聖な恐れは何ら存在しないのであり、単に名誉を、利得を失いはしないか、それらのもののために世評を失いはしないか、また刑罰を受けはしないか、死にはしないかとの恐れに過ぎないのであり、この恐れは外なるものであって、主として身体と自然的な人とその思いとに影響しているが、それに反し前の恐れは、即ち敬虔なまたは神聖な恐れは主として霊に、即ち、内なる人とその良心とに影響しているのである。

 

 

 

 

10.デボラ

 

世のひかり社/デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻上P147

 

イエズス:「いっしょにマタイ5章、13−16節を黙想しよう。そうだ、私の子供たち、地の塩としてあなたがたを定めたのに、もしそれに味がなかったら、何を収穫できるだろうか?」