無神論

 

 

唯物論自然主義狂気

地獄臨在現存

 

 

 

 

1. スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

3.サンダー・シング

4.聖母から司祭へ

5.しかも大半の者は自分は最高の存在を承認していると言う

6.世で神を否定する者は死後も神を否定する

7.宗教は単純な一般大衆を拘束する物に過ぎず

8.自己理知の誇り

9.蛙

10.見えないものは信じない

11.彼らは悪魔そのもの

12.何物をも罪として認めない

13.自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する

14.己れに反抗する者を見て憎悪し、これに復讐することを、例えそれが殺人を意味するにしても切望する。同じ理由から、彼は姦淫、詐欺、或は秘かな窃盗、涜神、或は偽証を軽んずる。何人でもこれを軽んずる者はその心においては無神論者。人間は生来小規模の地獄

15.神を否定して、天界と教会の物に反したことを自分の中に確認するに応じて、地獄の暗闇に入る

16.神の否定と、基督世界では、主の神性の否定とが、地獄を構成している

17.世で神を否定する者は死後も神を否定し

18.発狂する

 

 

 

 

詩篇35・16

 

神を無視する者がわたしを囲んで嘲笑い

わたしに向かって歯をむき出します。

 

 

詩篇73・11

 

そして彼らは言う。

「神が何を知っていようか。

いと高き神にどのような知識があろうか。」

見よ、これが神に逆らう者。

とこしえに安穏で、財をなしていく。

 

 

詩篇74・18

 

主よ、心に留めてください、敵が嘲るのを

神を知らぬ民があなたの御名を侮るのを。

あなたの鳩の魂を獣に渡さないでください。

あなたの貧しい人々の命を

永遠に忘れ去らないでください。

地の暗い隅々には

不法の住みかがひしめいています。

どうか、虐げられた人が再び辱められることなく

貧しい人、乏しい人が

御名を賛美することができますように。

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1072

 

「そして酔ってしまった」(創世記9・21)。

 

これは彼がそのことにより過誤に陥ってしまったことを意味していることは聖言の『酔いどれ』の意義から明白である。自分が把握する事柄を除いては何ごとも信じないでそうした理由から信仰の神秘な事柄を探求する者は酔いどれ[酔っ払い]と呼ばれている。

そしてこのことは、その人間の常として、記憶か、哲学か、その何れかの感覚的な事柄により行われるため、そのことにより過誤に陥らないわけにはいかないのである。なぜなら人間の思考は地的な、形体的な、物質的なものから発していて、そうしたものが絶えずその思考にまつわりついており、またそうしたものの中に人間の思考の観念が基礎づけられ、また終結もしているため、それは単に地的な、形体的な、物質的なものであるにすぎないからである。

それゆえこうしたものから神的な事柄について考え、論じることは自己を過誤と歪曲とに陥れることであり、このようにして信仰を得ることはらくだが針の穴を通ることが不可能であるように不可能である。こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。

 

 

 

天界の秘義1072[2]

 

霊たちは仁慈の信仰の中にいるか否かについては互に他から完全に区別されている。仁慈の信仰の中にいる者たちは信仰の真理については論じないで、その事柄はそうであると言い、また可能な限りそれを感覚と記憶の事柄により、理性の分析により確認はするが、しかしその真理が彼らから認められない、何か明確でないものが彼らの道に現れるや否や、それを脇に置いて、決してそうしたもののために自分が疑惑に陥るのを許さないで、自分達が把握出来るものは極めて僅かしかない、それで何かが自分達がそれを把握しないからといって真ではないと考えることは狂気の沙汰であると言うのである。これらが仁慈の中にいる者たちである。

しかし―その反対に―仁慈の信仰の中にいない者らは単に何かの事柄がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知ろうとのみ願い、自分たちがそれがいかようになっているかを知らない限り、それがそうであることを信じることは出来ないと言うのである。このことのみからでも彼らは何ら信仰を持っていないことがすぐさま知られるのであり、彼らは凡ゆる物について疑うのみでなく、心の中でそれを否定し、その実情のいかようなものであるかを、教えられてもなおその不信仰にしがみついて凡ゆる種類の反対意見を述べ始め、たとえそれが永遠に続いても決して黙従しようとはしないということが彼らの不信仰のしるしとなっている。このようにその頑迷さにあくまで固執する者らは過誤に過誤をつみ重ねるのである。

 

 

 

黙示録講解242ロ

 

そのとき以下のことが示された、仁慈と信仰とは一つのものとして、活動して、共になって人間の中に入り、かくて人間は仁慈の中にいるに応じて仁慈の中にいるのである、それは真理はその本質については善であるように、信仰はその本質については仁慈であるためである、なぜなら善は、姿をとって、または形をとって存在するときは、真理であるからであり、同様に仁慈は信仰である、なぜなら善は仁慈に属し、真理は信仰に属しており、さらに、一方は他方を愛して、自らをその他方に連結し、それで一方は他方がそれと共にならない限り与えられはしないからである。

このことは人間の理解に属しているその思考により人間の意志に属しているその情愛により解明されたのであり、情愛から分離して考えることは不可能である、なぜなら思考の本質そのものは情愛または愛であるからである。

人間は、確かに、教会の教義から知っている凡ゆることを考えることはできるが、しかし単に自然的な情愛から考えることができるのであり、それは栄誉、名声、名誉または利得を求める情愛または愛である。しかしこうした情愛は思考を霊的なものとはしないのであり、それは仁慈を要求するのであり、仁慈は霊的な情愛そのものである。

これが知識と連結するとき信仰が存在し、かくて人間がその情愛の中にいる限り、彼はその信仰に属している事柄を思考の中に見、それらは真理と呼ばれ、それらが彼の霊そのものから発しているため、かくて彼の霊的生命そのものから発しているため、それらを承認するのである。このこともまた解明と呼ばれるものであり、このことがたれ一人、真理に対する霊的情愛の中にいない限り、聖言から解明されることができない理由である。

解明のようなものが、信仰のみと信仰による義認の教義に属しているような事柄を確認した者らのもとに実に、存在してはいるが、しかしその解明は空虚な解明である、なぜなら誤謬は真理と同じく確認されることができ、そのことはユダヤ人のみでなく法王派の間にもひろがっているかの異端の凡てのものに似ているからである。

自然主義者と呼ばれ、神を、聖言の神性を、教会に属している他の凡ゆる事柄を否定している者らのもとにも、確認の後では同じような光があり、それは信仰のみによる義認を確認した者らのもとに在る光りに似たものである。(確認の光は自然的なものであって、霊的なものではなく、悪い者らのもとにもまた存在している、「秘儀」、8780番を参照)。

 

 

 

天界と地獄82

 

諸天界には神的なものについてはこうした認識があるため、天界から何らかの流入を受けている人間各々の中にも神を人間の形の下に考えることが植え付けられている。古代の人間たちはそのように考えたのである。教会の内外を問わず、現今の人間もそのように考えている。単純な者は思考の中で神を輝く光の中におられる故老として見ている。しかしこの植え付けられている原理は、自分自身の理知により、また悪い生活によって天界からの流入を斥けてしまった者凡てにより消滅している。自分自身の理知によりそれを消滅させてしまった者らは目に見えない神を持とうとするが、悪い生活によりそれを消滅させた者らは、何ら神を持とうとはしない。前の部類の者も、後の部類の者も、こうした思考の原理が自分たちのもとにないため、それが何人にも植え付けられていることを知っていないが、しかもそれは天界から人間のもとへ流れ入る神的な天界の原理そのものである。なぜなら人間は天界のために生まれていて、何人もその神的存在を考えなくては天界には入らないからである。

 

 

 

天界の秘義6197

 

その時私は、地獄ではたれ一人主を承認はしないで、能う限り、主を冒涜しつつも、宇宙の創造者なる父なる神のことが言われるのを聞くことを望まないわけではないという事実を反省することが出来たのである。

 

 

 

天界と地獄354

 

私は学者たちの多くの者と彼らが世から去った後話すことを許された、その或る者はすぐれた名声の持主であって、文学界ではその作品のために知れ渡っており、また或る者はそれほど有名ではなかったものの、しかしそれでも非凡な才能を持っていたのである。心で神的なもの[神]を否定した者らは、いかほど口では神を告白しても、非常に愚劣なものとなって、社会的な真理を殆ど何一つ理解出来ず、まして霊的な真理は何一つ理解出来なかったのである。彼らの心の内部は黒く見えるほどにも閉じられ―なぜなら霊界ではこうした物は目に示されるからである―それで彼らは天界の光には全く堪えることは出来ず、また天界からのいかような流入も許容することが出来ないことが認められ、また見られもしたのである。その内部に見られたその黒さは、科学と学問によって神的なものを強固に否認した者のもとでは更に甚だしく、またその範囲も広かった。こうした者は他生では誤ったものを凡て歓喜をもって受け入れ、それをスポンジが水を吸い込むようにも吸い込むが、真理はバネのきいた骨質の物がその上に落ちてくるものを跳ね返すように、跳ね返すのである。神を強く否認して、自然を確認した者の内部は骨のようになり、その頭もまた、鼻までも、象牙のように固く見えるとまた言われているが、それは彼らは最早認識を何ら持っていないことを示しているのである。こうした種類の者は沼のように見える泥の中に浸され、そこでその誤謬から変化してきた妄想のため絶えず不安の状態に置かれている。彼らの奈落の火は栄誉と名声を求める欲念であり、その欲念から彼らは互に罵り合い、奈落の熱意から、そこで自分を神として拝まない者を責め苛み、これを交互に繰返している。神的なものを承認することによって天界から光をそれ自らの中に受け入れなかった世の学問は凡てこのような物に変化する。

 

 

 

真の基督教382

 

「悪しき者は何等信仰を持たない。」

 世界が神によって創造されたことを否定し、従って神を否定する者は凡て悪しき者である。何故なら彼らは無神論的唯物主義者であるから。彼らは悪しき者であるのは単に、自然的に善であるのみでなく、また霊的に善である善は凡て神から発するからである。それ故神を否定する者は己が善以外には何等の善をも欲しない。さて、人間の自己性は肉の欲念であり、そこから発するものは凡てそれが如何に自然的には善に見えるにしても、霊的には悪である。これらは理論的に邪悪であるが、実際的に邪悪な者は十誡の神的誡命を無視し、無法者のように生活する者である。彼らの多くは唇をもって神を告白するけれど、心ではこれを否定する。何故なら神と神の誡命とは一であり、これが十誡の十の誡命は「エホバ其処に在す」(民数記10・35、36。詩篇132・7、8)と呼ばれる理由であるからである。我々は今この問題を以下の如くに説明しよう。(1)悪は地獄のものであり、信仰は天界のものである故、悪しき者は信仰を持たない。(2)基督教国にあって主と聖言を斥ける者は、たとえ道徳的な生活を送り、信仰に就いて合理的に語り、教え、また書くにしても、何ら信仰を持たない。

 

 

 

真の基督教612

 

 人間は生来凡ゆる種類の悪と欲念とに傾いており、可能な時は、これに惑溺する。何故なら、生来彼は他の者を支配し、その財産を所有することを貪り求めるからである。この二つの欲念は隣人への愛を破壊し、そのため彼は己れに反抗する者を見て憎悪し、これに復讐することを、例えそれが殺人を意味するにしても切望する。同じ理由から、彼は姦淫、詐欺、或は秘かな窃盗、涜神、或は偽証を軽んずる。何人でもこれを軽んずる者はその心においては無神論者である。かくの如きが生来の人間であり、それ故、人間は生来小規模の地獄である。さて人間は動物とは異なり、その内なる心の方面では、霊的に生まれ、天界に対して生まれている。しかし彼の自然的な即ち外なる人は、今述べたように、小規模の地獄であり、天界がその場所を占める以前に、地獄が除去されねばならないことが推論される。

 

 

 

真の基督教661

 

 自己への愛から支配することは、生来悪であって主とは正反対である自我性から行動することである。それ故、人間はその悪に深く沈むに従い、益々神をまた教会の諸々の聖なる物を否定し、自らと自然を礼拝するのである。この愛に溺れている者は自らを点検されよ。然すれば、その人たちは認めるであろう。この愛は抑制されない限りは、更に高く登ろうとの野望を生み、最早遠くへ行くことの出来ない時にのみ嘆くのである。政治家にあっては、それは全世界を支配し、王の王、主の主と呼ばれようとの欲望を作り出し、教職者にあっては神となり、天界を支配しようとの欲望を作り出すのである。このような人間は、以下に見られるように、無神論者である。

 

 

 

霊界日記4769

 

教会内の無神論者の数はいかに大きなものであるかが前に示された。身体の方面では生きているこれらの者の凡ては、その霊魂の方面では、他生にいて、そこで他の霊たちと交わっているが、そのことを彼ら自身は知りはしないのである。これらの霊は、すなわち、生きている人間の霊らが、右の方で、目に示されている。現今無神論者であるようなこうした者らのおびただしい群れがおり、数える事もできないほどにも大きい。それを部類で数えると、三百万にも達し、その他に、多くの者が、いわば、海から、すなわち、科学から立ち上がってくるように見えたのである。

 

 

続 最後の審判61/(静思社/最後の審判とバビロンの滅亡P127)

 

 人間はその両親から植え付けられた悪を、または遺伝的な悪を持っていることは知られているが、しかしそれは何から成っているかを知る者は少ない。それは支配を求める愛から成り、これに自由が許されるに従って、それはほとばしり出て、ついには凡ての者を支配し、しまいには神として祈られ、拝まれようとする欲念で燃え上がりさえするものである。この愛がエバとアダムとを欺いた蛇である。なぜならそれは女に次のようなことを言ったからである。

 

あなた方がその木の実を食う日には、あなた方の眼は開いて、あなた方は神のようになることを神は知っておられる(創世記3・4,5)。

 

それゆえ人間が手綱を緩められてこの愛に突入するに従って、彼は神に背を向けて、彼自身に向き、無神論者となる。そのとき聖言に属する神的真理は手段として仕えるかもしれないが、支配が目的であるゆえ、その手段は単に彼に役立つためにその心に在るにすぎない。これが支配愛の中間度と究極度に在る者が凡て地獄にいる理由であり、地獄にはこのような性質を持っていて、人が神について語るのを聞くに我慢の出来ない者がいるのである。

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58

 

 新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

神の摂理/326(イ)

 

 <神を承認することにより神の人間との結合と人間の神との結合が生まれ、神を否定することにより分離が生まれる>

 

神を承認しない者も、道徳的な生活をするなら、神を真に承認する者と同じように救われることが出来ると考える者がいるかもしれない。彼らは言う「この承認から何が生まれるのか。それは単に観念に過ぎぬのではないか。神は存在することを確実に私は知ったときに、私は容易に神を承認しないであろうか。私は神については聞いているが、神は見ていない。神を私に示しなさい、そうすれば私は信じるであろう。」これが神を否定する多くの者が神を承認する者と自由に議論することができるときの言葉である。しかし神を承認することは結合を生み、神を否定することは分離を生むことは、今、私が霊界で得た経験から説明しよう。

霊界ではもし誰かが他の者のことを考えて、その者と話したいと欲するなら、その者は直ぐに現れてくる。これは霊界の普遍的な法則であって、決して犯されない。その理由は霊界には自然界のような距離はなく、たんに距離の外観が在るにすぎないということである。他の特質は他の者についての或る知識と結合した思考によりその者が現れてくるように、他の者に対する或る情愛と結合した愛により結合が生まれるということである。この結合の結果彼らは共になり、親しく語り合い、同じ家または共同体に住み、しばしば会い、互いに親切をつくすのである。その反対もまた起こっている。例えば、もし誰かが他の者を愛さないならば、さらに彼らを嫌忌するならば、彼はかれを見もせず、またかれに会いもせず、彼らは互いに感じ合う冷淡または憎悪に比例して互いに遠ざかっている。実際、もし誰かが他の者とともにいて、その心に嫌忌が生まれるなら、彼はその者の視野から消えて行くのである。

 このわずかな事柄から、霊界の現存と結合の如何ようなものであるか、すなわち、他の者を思い出して、それと共にその者に会おうとの願いが生まれるとき、その者は眼前に現れてくるのであり、また愛の情愛から結合が生まれることが明白になったに相違ない。人間の心の中の凡ての物も同じである。それは無数の物を含み、その個々の物は一つの物の他の物に対する情愛または愛に従って連なり、結合している。この結合は霊的なものであり、全般的にも個別的にも類似した性質を持っている。それは主が霊界と自然界に全般的にも個別的にも結合されていることから起こっている。それ故誰でも主を知り、それにより主を考えるに応じて主は現れ給い、誰でも愛の情愛から主を承認するに応じて、主はその者と結合されるが、他方、誰でも主を知らない限り主はおられず、主を否定する限り、主から引き離されることが明白である。この結合の結果は主は人間を御自身に向けさせ、かくて彼を導かれるということであり、分離の結果は地獄が人間を地獄自身に向けさせて導くということである。これが天界の凡ての天使は太陽としての主に面を向け、地獄の凡ての霊は主に面を背ける理由である。これらの考察から神を承認する結果と神を否定する結果は明白である。更に世で神を否定する者は死後も神を否定し、かくて彼らは前述した記事に従って有機的に構成されるようになり(319)、世で得た有機体は永遠に存続する。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2/P116

 

プラウティーナ:「今の私たちの哲学者には十分満足できるような

教えがありません。その理由の一つはあの人たちの

生き方がの教えと一致していないからなのです。」

 

主:「自分たちの教えに沿うような生き方ができない」

 

プラウティーナ:「異教徒だからですね。そうでしょう?」

 

主:「いいえ、違います。無神論者だからです。」

 

プラウティーナ:「無神論者ですって? それぞれの神を信じているではありませんか」

 

主:「婦人よ、あの人たちには神々さえありません。あなたに、最も偉大な古の哲学者たちを思い起こさせたい。その人たちも異教徒でしたが、その生活は気高いものでした。人間は間違いをし易いので、その教えにもいろいろ試行錯誤はありましたが、生命と死という最大の奥義の前に、また正義と不正、徳と悪徳、英雄と裏切り者という考えの前に立たせられたその時、自分たちが取る態度によって、国と人民とにどのような災いが降りかかるかを考えたとき、巨人のような意志をもって不気味なタコの触手を取り払い、自由で正しいものとして、いかなる犠牲を払ってでも善いことを選んできました。この善こそ、神より他にないのです」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P202

 

 神を有せずに、この世を歩む人々にとって天との一致はありません。父であり友人である神のそばにいないなら、この世の広い砂漠にさまようだけでしょう。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P322

 

「だけど、父さんはみな本当ではないと言った」と第二の子が言い返す。

「父さんは、母さんの神様を信じていなかったから」

「父さんはサマリア人ではなかったのか」と、アルフェオのヤコボが聞く。

 

「よその国の人だった。母さんはサマリア人で、僕たちもそうだ。母さんは、僕たちも母さんのようになって欲しかったからね。だから天国のこと、楽園のことをいろいろ話してくれたけれど、あなたのように上手には話してくれなかった。僕は蛇と死ぬことが怖かった。母さんは、その蛇は悪魔だと言ったし、父さんは、死んだら何もかも終りだと言っていた。だから僕は、親が死んで悲しくて、もうよい子になろうと頑張っても仕方がないと思った。よい子だったら、母さん父さんは喜んだけど、今、よい子になっても喜ぶ人はだれもいない。でもそれは間違っていた。僕はよい子になって、この世の水に流されないように、神様の手から糸を離さないようにしよう」

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P93

 

求道者:「このようなかけがえのない機会は、この世の合理主義者たちのよくいう主観作用でしかないのでしょうか。わたしは、この啓示は客観的で現実のものと、心から信じています」

 

メルキゼデク:「子よ、この世の識者のいうことに心悩ましてはならない。彼らのほとんどは神なき利己主義者である。彼らがこれほどまで誤った考えをし、愚者を手引きする愚者と化しているのはこのためなのだ。神のお造りになられた世界はすべて、神の中に、神を通して存在するとはいえ、被造物そのものは神ではなく、神の一部でもない。だが、それは神の存在を離れては存在しえない。これは、被造物が客観的形をもたず、ただの主観にすぎないことを意味するものであろうか。断じて、そのようなことはない。事実、わが民の経験する神との出会い、霊的経験はみな、主観でも想像の所産でもなく、客観的で真実のものである。それは、疑いもなく、彼らがわたしと交わった所産なのだ」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P170

 

識別力が衰えるあまり、精巧な器材をもってしても生命の発祥に辿り着けず、全生命の本源としての神を信じる代わりに、生命の種子が隕石とともに落ちてきたと考え出す者がいる。これは、まったく不可能なことである。地球上の命なき物質が生命を生み出せないのであれば、同じ種類の物質でできた隕石がどうして生命を生めるだろうか。また、隕石の中の物質が地球の物質と違うのなら、環境がそれほど違うこの惑星上で、どうして隕石から生命が生じよう。神が存在するところ、生命も存在するというのが真実である。熱かろうが、凍っていようが、水の中には必ず生き物がいる。熱い鉱泉の中にも生物は存在する。これは神の創造的力が万物に及んでいることの結果である。神はあらゆる条件の下で生命をお造りになっている。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P269

 

詩篇記者はいみじくもこういった。「愚か者は、心の中で“神はいない”と言っている」。愚者はこういうことによって、神の不在を証明するより自分自身の霊的不在、神を知ることのできない無能を露呈する。彼が自分に納得のゆく理由を持ち出すなら、太陽の存在しないことを議論だけで証明しようとする虫けらにも等しい。

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1973.12.1

 

 淫猥な悪魔は何でも汚します。可哀想な子供たち・・・ どれほどそれに打たれて、その病気にかかっていることでしょう!

 神への反逆の精神が人類をそそのかしました。無神論がたくさんの人の心に入って、信仰と愛の光を残らず消してしまいました。

 聖書に描かれている赤い龍とはこれです。ああ、子供たち、聖書を読んでください。今はその実現の時です! 私の子供たちの中には、今やこのサタンの誤謬の犠牲者となった人が、どれほどいることでしょう。私の司祭のうちにさえ、もう信仰を持ってはいない人があります。それにも拘らず、私の教会の中に残っていますが、彼らは羊の衣をつけた真の狼で、数えきれないほど多くの霊魂を滅ぼしているのです!

 

 

 

聖母から司祭へ1979.11.28

 

 私は、あなたがたを通して働きたいのです。

 あなたがたによって、自分を世界に示したいのです。あなたがたを通して、私の光を人々の霊魂に与えたいのです。

(中略)

 あなたがたは、すべての兄弟を愛しなさい。なかでも、いまでは、もうまったく迷ってしまって、永遠の亡びの大きな危険にさらされている、ある兄弟たちを、私の心をもって愛しなさい。

 とくに愛する必要があるのは、神からいちばん遠ざかっている人です。罪人、無神論者、みんなからすてられた人たちです。また、迫害者と死刑執行人さえも愛してください。あなたがたは、愛のうちに、「おん父よ、かれらをおゆるしください。かれらは、何をしているかを知らないからです」といってください。

 憎むもの、殺すもの、暴力をふるうもの、悪をおこなうもの、神を侮辱するもの、つまづきを与えるものをみんなに代わって、あなたがたは、いつも愛し、「おん父よ、おゆるしください」と、言いなさい。

 だれもさからいえない、あなたがたの愛の力によって、救いの道につれもどされる、かれらのなかの、どれほど多くの兄弟たちに、あなたがたは、天国で会うことでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1986,5.8

 

 遠くわたしから離れた人や無神論者を愛しなさい。あなたたちを迫害し、拒絶する人にとってもあなたたちは愛でありなさい。

 すべての人、それは、言語や民族、宗教などの区別をのり越えたすべての人への愛です。

 こうしてはじめて、あなたたちひとりびとりは、わたしの母としてのたしかな慰めを与えるために、汚れなき心の鼓動となるでしょう。

 わたしのあわれみの道具となってください。今このときに生きている人類は、神のあわれみがどれほど必要なことでしょう。“あわれみ”それだけが人類すべてを新たにし、救うことができるのです。

 人類は、神を排斥するその頑固さゆえに病気です。この病気ゆえに人類は、神が救いに導こうとしてお示しになった道を、歩むことができないのです。

 人間の病気は、どんなに重いことか! それは、もう愛することができなくなったからです。

 世界は、今や大きな愛の砂漠となってしまいました。そのために憎しみや分裂、罪、度をこした利己主義、不潔、暴力、戦争などの雑草が生い繁っています。

 極度にまで達した堕落の深淵に迷い瀕死の状態にある人類を救い得るのは、神のおんあわれみの偉大な奇跡しかありません。

 最近、全世界が天の母であるわたしの汚れなき心に奉献されたのは、このために他なりません。

 とくに、あなたたち司祭が、わたしに奉献されるのは、母であるわたしのあわれみの道具となるためです。

 こうしてこそ、あなたたちは、命と聖徳、潔白と愛の、新しい芽を、あらゆる所に生えさせ得るでしょう。

 わたしは、あなたたちをわたしの協力者として、日々、新しい天と地を作ることができるようになります。

 天の母のその汚れなき心からあなたたちに与える満ち溢れる恵みとあわれみで、あなたたちは一番美しい実となるでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1988.12.8

 

 人間は、神のない文化の重荷に圧迫されています。

この神不在の文化こそ、人間本来の尊厳への思想を、ゆがめ衰えさせるものです。

 世界は、頑固に神を否定することのために、深い闇に包まれています。

 濃い闇は、すでに、すべてをくらますほどになったのです。

 それでこの時、汚れなき母は、あなたたちの安全な希望のしるしとなるのです。

 なぜなら、母としてのわたしの役割は、人々の霊魂に聖寵(みめぐみ)を、心に愛を、体に潔白を、人間に神の子としての偉大な尊厳を、世界に聖三位一体をほめ称える誉れをもたらすことにあるからです。

 

 

 

聖母から司祭へ1990.5.13

 

―サタンは、あなたたちのこの一世紀の出来事において、だれにも反対されなかった支配者となりました。その結果、神の否定、神の愛の法律の否定へと全人類をみちびいて、あらゆる所に分裂と憎しみ、不道徳と悪意をひろめました。こうして、いたる所に離婚と堕胎、不潔と同性愛を正当化させて、命をさまたげるあらゆる手段を利用させました。

 

 

 

聖母から司祭へ1996.4.6

 

 ―わたしの悲しみを慰めてください。あなたがたに願います。教会から遠く離れた全ての人々、無神論者、罪人、罪と悪の奴隷となった人、わたしとあなたがたの反逆者の巧みな奸計に魅惑されている人々を、わたしの汚れなき心の確かな避難所に連れてきてください。

 

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知1巻下P37

 

あなたの限りない愛をまだ知らない人と、無神論者の上にも、どうかその祝福がくだりますように。

 

 

 

 

5.しかも大半の者は自分は最高の存在を承認していると言う

 

天界の秘義6475

 

主が承認されていない所にも天界が在ると信じていた悪霊らの幾人かは、あたりをぶらついて、尋ねてみたが、その試みが徒労に帰した後で、帰って来た。更に以下のことが彼らに言われた、即ち、地獄の凡ての者は主に反抗したことを考えており、また彼らは人間的なものを超越しているものを一つとして主に帰してもいない、しかも大半の者は自分は最高の存在を承認していると言い、その存在によって父を意味してはいるものの、憎悪と復讐とに生き、他の者らの上に挙げられ、神として拝されようと絶えず欲し、このようにして自ら地獄を作っているのである。主を心から承認し、信じている者はそれとは非常に異なっている。このことからまた以下のことが明白である、主は凡ての者の中へ、天界を通して全般的にも、個別的にも、また御自身からも遍く流れ入られ、仁慈の善の在る所には、主はおられ、またその反対のものの在る所にも主はおられるが、しかしそれは彼らに生命を与え、彼らを可能な限り悪から引き出す方法以外の方法ではおられはしないのである。

 

 

6.世で神を否定する者は死後も神を否定する

 

神の摂理326(イ)

 

さらに世で神を否定する者は死後も神を否定し、かくて彼らは前述した記事に従って有機的に構成されるようになり(319)、世で得た有機体は永遠に存続する。

 

 

7.宗教は単純な一般大衆を拘束する物に過ぎず

 

神の摂理318(ハ)

 

「如何なる物でも確認されることが出来、誤謬は真理よりも容易に確認される」。 無神論者は神は宇宙の創造者ではなく、自然は自然自身を創造する、宗教は単純な一般大衆を拘束する物に過ぎず、人間は獣のようなものであって、獣のように死んで行くと確信しており、或る者は姦淫、密かな盗み、詐欺、奸計は許さるべきものであり、狡猾は理知であり、邪悪は知恵であると確信しているからには、確認出来ないものがあろうか。

 

 

8.自己理知の誇り

 

神の摂理233(ヘ)

 

善を汚すことは聖言では姦淫により示され、真理の誤謬化は淫行により示されている。

これらの汚辱と誤謬化とは悪にいる自然的な人間により行われ、また聖言の文字的な意義の外観を確認することによって示される理論により行われる。

凡ての悪の源泉である自己への愛は善を不善化し、真理を誤謬化するその巧妙さでは他の愛にまさり、これを善人であれ悪人であれ、凡ゆる人間が主から得ている合理性の濫用により行っている。それは巧妙な理論により悪を善のように、誤謬を真理のように見せかける。それは幾多の議論を提出して、自然はそれ自身を創造し、次に人間を創造し、各種の動植物を創造し、また自然はその内なる自己から発する流入により人間を生かして分析的にまた賢明に考えさせると証明することもできるのに、何が出来ないことがあろうか。

自己への愛はその好むものを何であれ極めて巧妙に証明するのは、虹色の光の一種の輝きで、その外の表面が作られているからである。この輝きでその外の表面が作られているからである。この輝きは知的な誇りであって、それはしまいには他の者にまさり、他の者を威圧することを誇る誇りとなり、それがその愛の特徴となっている。

 

 

9.蛙

 

天界の秘義7352

 

「川は蛙を這い出させるでしょう」。これは、これらの誤謬から幾多の理論が発生するであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『エジプトの川』の意義は誤謬であり(6693、7307番)、『蛙』の意義は(前の7351番のように)理論である。『蛙』が理論を意味していることは、彼らは水の中にいて、盛んに騒がしい音を立て、鳴き、また不潔な物の中にいるためである。単なる誤謬そのものから発した理論のいかようなものであるかを若干の例により説明しよう。凡ゆる物は神的なもの[]から発生しており、自然は神的なものが働く媒介的な手段であるのに、凡ゆる物を自然に帰して、殆ど何ごとも神的なものに帰しはしない人間は単なる誤謬そのものから論じるのである。人間は獣のようなものであって、単に考えることが出来るため、獣よりは完全であるに過ぎない、それで獣のように死んでしまうと信じ、かくして信仰に属した思考と愛に属した情愛とを通して人間が神的なものと連結していることを否定し、そこから人間の復活と永遠の生命を否定する者、こうした人間は単なる誤謬そのものから論じており、こうした人間は誤謬そのものから語っているのである。地獄は存在しないと信じている者も同様である。そしてまた人間の得る一切はこの世の生命の歓喜であり、それで人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬときは、全く死んでしまうのだから、と信じている者も同じである。一切の物は自分自身の才智に、また運にかかっていて、神の摂理には―その全般的なものを除いては―かかってはいないと信じている者は単なる誤謬そのものから論じているのである。また宗教は単純な者を拘束する以外には無用の長物であると信じている者もまた同じである。聖言は神的なものではないと信じる者らは特に誤謬そのものから論じているのである。約言すると、真理の神的なものを全く否定してしまう者らは誤謬そのものから論じるのである。

 

 

10.見えないものは信じない

 

天界の秘義6839

 

このことは聖言の文字の意義はその内意に関連していかようなものであるかを示しており、また文字の意義の内容は、単純な者から理解されるようにそれ自身を彼らに適応させているといった性質を持っていることを示しているのである。単純な者は単にそれが〔文字の意義が〕現れているように信じるのみであって、現れていないものは信じはしないのである、なぜなら彼らは事柄の内部へ入ることが出来ないからである、それで聖言がその文字の中でそうした性質を持っていなかったなら、それは受け入れられはしなかったであろう。感覚的な物の中にいて、世の事柄に心を奪われている者は決して内的なものを把握はしないのである。彼はその信じなくてはならない物を見ようと欲し、その見ない物は謂わば彼には無縁のものであり、それについて彼自身から考えている時は、それを否定に価した、または兎も角疑って見るに価した事柄として斥けてしまうのである。

 

 

 

 

11.彼らは悪魔そのもの

 

 

霊的な生命・神の聖言P29

 

 しかし人間は、用における歓喜からではなくて、支配することにおける歓喜から支配することを求める愛は全く悪魔的なものであることを考えなくてはならない、こうした人間は無神論者と呼ばれてもよいのである、なぜなら彼はその愛の中にいる限りその心の中では神の存在を信じはしないで、それと同程度に教会の凡ゆる事柄を嘲笑しており、神を承認する者をことごとく、特に主を承認する者たちを憎悪し、迫害しさえもするからである。こうした者の生命の歓喜そのものは悪を行うことであり、凡ゆる種類の邪悪な、破廉恥な行為を犯すことである。約言すると、彼らは悪魔そのものである。

 このことは人間は世に生きている間は知らない、しかし彼は霊界に入って来る時―彼は死後すぐさま霊界に入るのであるが―それがそうであることを知るであろう。地獄はこうした者で満ち満ちており、そこでは彼らは主権を得るどころか、奴隷状態に突き落とされるのである。

 更に彼らは天界の光の中で眺められると、彼らは支配を第一に置き、用を第二に置いたため、頭を下にし、足を上に向け、ひっくり返った形で現れるのであり、第一位にあるものは頭であり、第二位にあるものは足であり、頭であるものが愛されはするが、足であるものは軽蔑されるのである(黙示録講解951番)。

 

 

 

 

12.何物をも罪として認めない

 

 

神の愛と知恵350

 

この二つの理由から、自然は創造によりその中に植え付けられている力により可視的な世界を生み出すのであると信じている者は赦されている。しかし自然を確認することによって自分自身を無神論者とした者は、もし欲したなら、神的なものを確認することが出来たのである

から、赦されはしない。無知は確認された誤謬を実際赦しはするが、しかし除きはしない、何故ならこうした誤謬は悪と結合し、かくて地獄と結合するから。従って神的なものを自然から分離するほどに自然を確認した者は何物をも罪として認めない、何故なら罪は凡て神的なものに反しており、この神的なものを彼らは分離し、斥けているからである。精神で何物をも罪として認めない者は、死後霊となると、地獄につながれるため、そのほしいままにした邪悪に向って突進する。

 

 

 

 

13.自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する

 

 

結婚愛419

 

これらのものから、また獣の間にもあるこれらに似たものから、自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する、なぜなら、霊的な人間はそれらのものの中に霊的なものを見、自然的な人間はそれらのものの中に自然的なものを見るからである。かくて人は各々そのあるがままに見ている。私自身については、こうした物は私にとり自然的なものに注いでいる霊的なものの、または自然界に注いでいる霊界の流入の証明となっており、それで霊界が主の神的知恵から自然界へ流入している証明となっている。また神的なものがその知恵から霊界を経て流れ入らない限り、あなた方は何らかの形の政治を、または何らかの民法を、または何らかの道徳的な徳を、または何らかの霊的な真理を、分析的に考えることが出来るか、否かを考察されよ。私について言うなら、私にはそれは出来なかったし、また出来もしないのである。実に私は今や二十五年間絶えずその流入を明白に認めているのである。それで私はそのことを、それを見ているから、主張するのである。

 

 

 

 

14.己れに反抗する者を見て憎悪し、これに復讐することを、例えそれが殺人を意味するにしても切望する。同じ理由から、彼は姦淫、詐欺、或は秘かな窃盗、涜神、或は偽証を軽んずる。何人でもこれを軽んずる者はその心においては無神論者。人間は生来小規模の地獄

 

 

真の基督教612

 

 人間は生来凡ゆる種類の悪と欲念とに傾いており、可能な時は、これに惑溺する。何故なら、生来彼は他の者を支配し、その財産を所有することを貪り求めるからである。この二つの欲念は隣人への愛を破壊し、そのため彼は己れに反抗する者を見て憎悪し、これに復讐することを、例えそれが殺人を意味するにしても切望する。同じ理由から、彼は姦淫、詐欺、或は秘かな窃盗、涜神、或は偽証を軽んずる。何人でもこれを軽んずる者はその心においては無神論者である。かくの如きが生来の人間であり、それ故、人間は生来小規模の地獄である。さて人間は動物とは異なり、その内なる心の方面では、霊的に生まれ、天界に対して生まれている。しかし彼の自然的な即ち外なる人は、今述べたように、小規模の地獄であり、天界がその場所を占める以前に、地獄が除去されねばならないことが推論される。

 

 

 

 

15.神を否定して、天界と教会の物に反したことを自分の中に確認するに応じて、地獄の暗闇に入る

 

 

天界と地獄584

 

 これらの事から、人間は神を承認して、天界と教会の物を自分の中に確認するに応じて天界の光の中に入り、神を否定して、天界と教会の物に反したことを自分の中に確認するに応じて、地獄の暗闇に入ることが明らかにされたのである。

 

 

 

 

16.神の否定と、基督世界では、主の神性の否定とが、地獄を構成している

 

 

神の愛と知恵13

 

 神について正しい考えを持つことはいかに重要なことであるかは、神についての考えは宗教を持つ凡ての者の思考の最も深いものを構成するという真理により知ることが出来る、なぜなら宗教の凡ての物と礼拝の凡ての物とは神を目指しているから。そして神は宗教と礼拝との凡ての物の中に、全般的にもまた個別的にも存在されるゆえ、神について正当な考えを持たなくては天界と連なる(コミュニケイト)ことは出来ない。ここから霊界では各国人は神を人間として考えるに応じてその位置を定められるということが神いる、なぜならその考えの中にのみ主についての考えが在るからである。死後の人間の生命の状態はその確認した神の考えに順応することは、これと反対のことが、即ち、神の否定と、基督世界では、主の神性の否定とが、地獄を構成しているということから明らかである。

 

 

 

 

17.世で神を否定する者は死後も神を否定し

 

 

上記 神の摂理/326(イ)

 

 <神を承認することにより神の人間との結合と人間の神との結合が生まれ、神を否定することにより分離が生まれる>

 

 

 

 

18.発狂する

 

 

新エルサレムの教義51

 

それ自身においては否定である懐疑的な否定に留まっていて、自分は科学的なものにより説得されない限りは、信じはしないと言う者は決して信じはしない(2094、2832番)、

 

このように振舞う者は教会と天界に属した物については狂ってしまう(128―130番)、

 

 

 

遺稿 神学論文集P108

 

ベイエル博士に宛てたイマヌエル・スエデンボルグの第十番目の手紙から

 

霊界の霊たちの間には自然的な病気は在りませぬため、いかような病院も在りません、しかしそうしたものに代って霊的な発狂者の家が在り、その中に理論的に神を否定している者らがおり、他の家には現実に神を否定した者らがおります。世では白痴であった者らは、他生へ入って来ると、同様に愚物であり、白痴でありますが、彼らの外なるものが除かれ、その内なるものが開かれる時―このことはすべての者に起りますが―その際はその者らの資質とその者らの前の生活とに一致した理解が与えられます、なぜなら真実の発狂と狂気とは外なるもの、または自然的なものの中に宿ってはいますが、内なる、または霊的な人の中には宿っていないからです。

 

 

 

霊界日記2225

 

霊的な観念の中ではその事実は更に良く認めることが出来るのである、彼らは彼ら自身から論じ、考えはするものの、それでも彼らの一切のものは主の許しから、または譲歩から発しており、彼らは彼ら自身では何一つ決して学んではいない幼児よりも愚鈍で発狂しているのである。1748年〔60歳〕6月6日