唯物論

 

無神論

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.聖母から司祭へ

3.自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する

4.マリアの子と呼ぶことから生ずる危険

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教/173

      

それ故、恐らく、一人の神も、三人の神も存在しない、否、神は全然存在しないと考え始める。これが、現今流布している唯物論の源泉である。

 

 

真の基督教/339

 

これが見えない神に対する信仰の光であり、特に神がエーテルのような霊として考えられる時の光である。何故なら、そのとき人間は神をエーテルのように見、彼を物質的な宇宙に探し求め、そこに見出さないところから、自然が宇宙の神であると信ずるからである。これが現在流布している唯物論の源泉である。主は未だ嘗て父の御声を聞き、その御形を見た者はないと宣べ(ヨハネ5・37)また如何なる時にも神を見た者はなく、ただ父の懐に在す独子のみがこれを現し給うた(1・18)と述べ、神とともなる者が父を見た以外には何人も彼を見ない(6・46)と述べ、同様に何人も彼に由らなくては父に往くことが出来ない(14・6)更に、彼を見、且つ認める者が父を見且つ認める者であると述べ給うた。

 

救う信仰

 

 

真の基督教382

 

「悪しき者は何等信仰を持たない。」

 世界が神によって創造されたことを否定し、従って神を否定する者は凡て悪しき者である。何故なら彼らは無神論的唯物主義者であるから。彼らは悪しき者であるのは単に、自然的に善であるのみでなく、また霊的に善である善は凡て神から発するからである。それ故神を否定する者は己が善以外には何等の善をも欲しない。さて、人間の自己性は肉の欲念であり、そこから発するものは凡てそれが如何に自然的には善に見えるにしても、霊的には悪である。これらは理論的に邪悪であるが、実際的に邪悪な者は十誡の神的誡命を無視し、無法者のように生活する者である。彼らの多くは唇をもって神を告白するけれど、心ではこれを否定する。何故なら神と神の誡命とは一であり、これが十誡の十の誡命は「エホバ其処に在す」(民数記10・35、36。詩篇132・7、8)と呼ばれる理由であるからである。我々は今この問題を以下の如くに説明しよう。(1)悪は地獄のものであり、信仰は天界のものである故、悪しき者は信仰を持たない。(2)基督教国にあって主と聖言を斥ける者は、たとえ道徳的な生活を送り、信仰に就いて合理的に語り、教え、また書くにしても、何ら信仰を持たない。

 

2.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1988.8.31

 

 この唯物主義こそは、あなたたちの国に、不道徳、快楽の極端な追及、ぜいたくな生活、限度を知らない利己主義、どん欲、そして、小さな人や貧しい人々、最も除外されている人々のことを思いやらないという病気をもたらしたのです。

 

 

 

 

3.自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する

 

 

結婚愛419

 

これらのものから、また獣の間にもあるこれらに似たものから、自然を告白し、礼拝する者は自然を確認するが、他方その同じ証明から、神を告白し、礼拝する者は神的なものを確認する、なぜなら、霊的な人間はそれらのものの中に霊的なものを見、自然的な人間はそれらのものの中に自然的なものを見るからである。かくて人は各々そのあるがままに見ている。私自身については、こうした物は私にとり自然的なものに注いでいる霊的なものの、または自然界に注いでいる霊界の流入の証明となっており、それで霊界が主の神的知恵から自然界へ流入している証明となっている。また神的なものがその知恵から霊界を経て流れ入らない限り、あなた方は何らかの形の政治を、または何らかの民法を、または何らかの道徳的な徳を、または何らかの霊的な真理を、分析的に考えることが出来るか、否かを考察されよ。私について言うなら、私にはそれは出来なかったし、また出来もしないのである。実に私は今や二十五年間絶えずその流入を明白に認めているのである。それで私はそのことを、それを見ているから、主張するのである。

 

 

 

4.マリアの子と呼ぶことから生ずる危険

 

 

真の基督教94

 

「主をマリアの子と呼び、神の子と呼ばないことによって教会に入って来た大なる罪は、彼の神性の観念が失われ、それとともに彼について、聖言(みことば)の中に神の子として語られていることが凡て失われたということである。その後ユダヤ教主義、アリウス主義、ソツィニウス主義、カルビン主義が最初のうち続発し、遂には唯物主義が起り、それとともに彼はヨセフによりマリアの子であった、その霊魂は母から来た、それ故彼は神の子と呼ばれているが、実際はそうでないとの確信が起って来たのである。教職のみならず、平信徒も、マリアの子として考えられている主を単なる人間の子として考えていないかを反省されたい。」