HOMEWORKSTREATISESFILMOGRAPHYZAREGOTOabout myselfLINKS

戻る

康成サマニ思フワタクシゴトなんちゃってFILMOGRAPHYオススメ文芸読本

■竹内浩三■


 
竹内浩三略歴へ  ■作品集一覧へ  

TOP

つい一昨日、「竹内浩三」氏の存在を知りました。で、早速紹介したりして。
めっちゃ凄い人を知ってしまった!と思って、昨日急いで大学の図書館へ行って検索してみたのですが、全集は蔵書されていなくて、一冊だけ、『「戦争と平和」市民の記録2 「愚の旗―戦死やあわれ」』(家永三郎・小田切秀雄・鶴見俊輔監修 日本図書センター 1992年)という本が見つかりました。(早速借りたいところ、だったのですが、延滞しまくっているので借りられなかった。えへ)作家としての認知はまだ薄い印象で、というか、本当に、これからって時に戦乱に巻き込まれてしまった事を、本当に残念に思う、本当に、なんなんだろう。一個の才能を潰したとか、そんなレベルじゃなくて。上手くいえない。くやしい。

文章、というか、コトバがものすごいのです。で、謗りを恐れずに書いてしまうと、太宰治と宮沢賢治を足して2で割れるものならきっと「竹内浩三」。でもって、誤解を恐れずに書いてしまうと、太宰がもし竹内浩三を知っていれば、きっと好きになったかもしれない、と思いたくなるようなくらい、凄いのです。表現が上手いねぇと、しみじみ思えるタイプの作品って結構多いじゃないですか。でも竹内浩三の場合は、とにかくその文章がすごく力強くて魅力的。ただ、「あ」と書いてあったとしても、竹内浩三の文章の中ではその「あ」すら生きてくるというか。生命力、なんだろう。つき抜けた明るさがあって。太陽いっぱい浴びてすくすく細胞分裂した感受性が、細かい事も大きな事もガブガブ受け入れてる、感じで、気持ちいいのです。

「筑波日記」と呼ばれる、筑波での1年3ヶ月にわたる軍事訓練の間に書かれた日記には、愚痴や泣き言が書かれる事はなく、梅の花が咲いていたことなどが書いてあるのですが、それが偽善的であったりイロニカルであったりしない、そう感じられないところがすごいことだ、と思います。いくらでも、多分とても聡明な方なので、哲学的な方向に突っ走って自分を掘り下げていったりすることは出来た、と思のですが、そこに行かずにいたことが、すごいなぁと思います。そこに留まらなかったというか。頭の中では間違いなく思想が渦巻いていたことと思いますが、それを、敢えて(なのかはわかりませんが)表現していないことが、で、それが偽善的だったり皮肉っぽくないところがすごいよぉ、と思います。

と、いうか―――、私のこんなごちゃごちゃとちゃちな文章読んでいたらいけません(というか読んでもらえていないのかもな。やっぱり読んでください〜。読んでくださった方ありがとう〜)。一度、ほんとに読んでみてください。すごいですから。特に宮沢賢治ファンの方と太宰治ファンの方!(そういえば竹内浩三氏は宮沢賢治を愛読されていたそうです)小手先のテクニックや誤魔化しのない、天性の文章だと思います。

つけたし。竹内浩三氏の日記を読んでいるとき、ふと奈良美智さん(大好きな美術作家。えへ)を思い出しました。どこか、符合を感じるのです。(そういえば奈良さんも宮沢賢治好きだと仰っていたな)なので奈良さんファンの方にもめっちゃオススメです。オススメ、というか、読んでください!というかほんと、読んでください!もっともっともっとたくさんの人に読まれるべきだ。ほんとに。スバラシイので読んでください。

つけたしのつけたし。
 竹内浩三氏を考える時、切っても切り離せないのが「戦争」の影。なので敢えて避けたいと思われる方もいらっしゃるんじゃないかと思います。かくゆう私もそうで。実際に体験されてきた方に対して失礼なことかと思いますが、敢えて触れたくない部分であったりします。どういうことがあって、とかほとんどわからないのに、恐怖心だけがものすごくあって。その恐怖の裏返しが「鳥肌実」だったりするのですが。それはいいとして。小さい頃住んでいた家の割と近くに飛行場があったので、ひっきりなしに飛行機が飛んでいました。昼間は平気なのですが、夜になると飛行機の音が恐くて、「敵機来襲だ―」とか思って、どこで覚えたのか電気を消さないと標的にされてしまう、と思い、眠っていても起きて電気を消そうとしたり、カーテンを閉めようとしたり、電気にカバー掛けようとしたり。どうしても起きれなかった時は、よく寝言で「電気消さなきゃ・・・」とうなされ泣いていたそうです。そういえばよく夢の中で、各家庭の電気を消さなきゃ消さなきゃと奮闘する夢を見ていたような。小学一年生くらいのこと。それくらい、わけのわからない恐怖があったりするのですが、竹内浩三氏の文章を読んで、なんだか安心できたのです。竹内浩三氏のような人が戦争中にいたことに、竹内氏に限らず、戦争中も同じ人間が生きていたんだ、と思えて、安心しました。安心というか、人間を信頼していいんだというような、感じ。上手く言えなさ過ぎですね。戦争を知らない子供たち(もちろん私も含めですが)に是非是非読んでみてほしい、コトバたち。助長が過ぎました。とにかくオススメってことです。竹内浩三スバラシイ!

TOP

■竹内浩三略歴■
 1921年(大正10年)5月12日、伊勢市吹上町の大きな呉服商の長男として産まれる。幼くして母と死別。明倫小学校を経て、宇治山田中学校へ入学、勉強は全くしないが、成績は全体の3分の1以内にはいっている。幾何が得意であったが、運動会ではいつもビリ、人並外れた陽気さで、よく周囲の人を笑わせていたという。岩波文庫や新青年を愛読する。
 浩三の父は、浩三が芸術の道に進むことを反対していたが、父の死後、中学を終えるや上京して、日大芸術科映画科に入学する。
 1942年6月、故郷に住む友人らとともに同人誌「伊勢文学」を創刊。詩や小説を発表する。
 同年10月、浩三21歳の時、三重県久居の歩兵第三十三連隊に入隊、初年兵教育を受ける。翌年1943年9月20日、西筑波の
滑空部隊、のちの空挺部隊に転属になる。筑波での、1年3ヶ月の訓練の間、最初の3ヶ月を除き、日記を書きつづける。
 1944年12月、浩三の所属する空挺連隊はフィリピンに向けて出発する。12月19日に宇品を出航、フィリピンルソン島の西海岸にあるフェルナンド港に着く。
 激しい戦禍の中、島の山岳地帯を斜めに横断し、バギオに向かう。公報によれば、浩三は1945年4月9日バギオ北方の1052高地で戦死。遺骨は還らなかった。4月28日、バギオ北方のトリダート街道で、浩三らしき空挺部隊員を見た、という未確認情報もある。

滑空部隊とは、落下傘部隊のグライダー版、と言えるもので、極めて危険な任務であった。戻る

竹内浩三略歴を作成するにあたり、『「戦争と平和」市民の記録2 「愚の旗ー戦死やあわれ」』竹内浩三著(家永三郎・小田切秀雄・鶴見俊輔監修 日本図書センター 1992年5月)と「Spotting」(Vol.12 夏 2000 文芸社) を参考にさせて頂きました。

TOP

 

■竹内浩三作品集■
■著作集

■『愚の旗』竹内浩三著 中井利亮編 1956年(詩集)

■『竹内浩三全集』全二巻 小林察編 1984年 新評論

■『竹内浩三作品集』 小林察編 1989年

■『「戦争と平和」市民の記録2 「愚の旗ー戦死やあわれ」』竹内浩三著 家永三郎・小田切秀雄・鶴見俊輔監修 日本図書センター 1992年5月

■竹内浩三関連

■『兵士の詩―戦中詩人論』 桑島玄二著 理論社 1971年

■『純白の花負いて』 桑島玄二著 理論社 1978年

■『戦死ヤアワレ』 足立巻一著 1982年 新潮社
   ★足立氏の戦記。最終章で竹内浩三について書いている。

■『戦死ヤアワレーあるジャーナリストの墓標』 小林察編 新評論1982年 
   ★西川勉氏が取材した竹内浩三についての遺稿を、小林氏が編集。

■『恋人の眼やひょんと消ゆるや』 小林察著 新評社 1985年

■『竹内浩三をめぐる旅』 たかとう匡子 編集工房ノア 1994年

■『新・ちくま文学の森』2 鶴見俊輔他編 筑摩書房 1994年

■『新・ちくま文学の森』9 鶴見俊輔他編 筑摩書房 1995年

■参考

■「Spotting」(Vol.12 夏 2000)文芸社
   ★8ページにわたる竹内浩三の記事が掲載されています。浩三の魅力満載なのでオススメです。緒方秀美さんのお写真もステキです。バックナンバーは青山ブックセンター各店や紀伊国屋書店なんかで入手できるみたいなので、立ち読みだけでもしてみてください。深津絵里さんが表紙で、佐内正史さんの写真や是枝監督のインタビューなんかも載ってますよ。(注:別にこの雑誌の回し者じゃなくってよ。えへ)

 ■竹内浩三のHP

■「五月のように」・・・浩三のことを知りたい方はまずこのHPに!

TOP

戻る >TOP

HOMEWORKSTREATISESFILMOGRAPHYZAREGOTOabout myselfLINKS